ゴージャス・ジョージ・ジュニア
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ゴージャス・ジョージ・ジュニア | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム |
ゴージャス・ジョージ・ジュニア ゲイロード・ジョージ ディック・マーシャル ジョージ・ワグナー |
| 本名 |
チャールズ・リチャード・フェルプス(出生名)[1][2] ジョージ・リチャード・ワグナー(改名後)[3] |
| ニックネーム | Toast of the Coast[2] |
| 身長 | 186cm[4] |
| 体重 | 104kg(全盛時)[4] |
| 誕生日 | 1937年8月2日[1] |
| 死亡日 | 2012年5月12日(74歳没)[1] |
| 出身地 |
レンビル郡オリビア[2] |
| トレーナー | マイク・デビアス[5] |
| デビュー | 1960年[5] |
| 引退 | 1980年[5] |
ゴージャス・ジョージ・ジュニア(Gorgeous George Jr. 、本名:Charles Richard Phelps / George Richard Wagner、1937年8月2日 - 2012年5月12日[1])は、アメリカ合衆国のプロレスラーおよびプロレスのマネージャー。ミネソタ州オリビア出身[2]。
1950年代に一世を風靡した伝説的レスラーのゴージャス・ジョージにあやかり、実際には血縁関係がないにもかかわらずジョージの「息子」を自称してジョージ・ジュニアを名乗り、本家と同様に金髪のショーマン派ヒールとして活動した[1]。
このリングネームの使用を巡ってジョージの未亡人から訴訟を起こされたことがあるが、その後は法的にも本名を本家と同じく「ジョージ・ワグナー」に変更した[1][3]。
プロレス界に入る以前はセメントブロック工場で肉体労働に就きながら "Dick Phelps & the Echo Men" なるロックンロール・バンドを結成し、移動遊園地ではレスリングやボクシングのアスレチック・ショーにも出演していたという[1]。
アイアン・マイク・デビアスのトレーニングを受けてデビューした後、1963年にゴージャス・ジョージが死去してからは、ゴージャス・ジョージ・ジュニア(Gorgeous George Jr. )としての活動を本格的に開始[1]。ブロンドの髪に派手なローブ、執事や侍女を従えての入場シーンなど、本家のギミックを模倣したエゴイスト系のヒールとなって活躍するが、遺族からの抗議もあって一部の地区ではディック・マーシャル(Dick Marshall)またはゲイロード・ジョージ(Gaylord George)などと名乗っていたこともある[1]。
オクラホマのトライステート地区ではベビーフェイスとしてジャック・ブリスコやヘイスタック・カルホーンなど人気選手のパートナーを務め[1]、1967年5月8日にブリスコとのコンビでジ・アサシンズ(トム・レネスト&ジョディ・ハミルトン)からNWA USタッグ王座を奪取[6]。トーゴー・シクマ&シャチ横内の日本人チームともタイトルを争った[6]。
その後はヒールに戻り、テキサス州アマリロのウエスタン・ステーツ地区ではリッキー・ロメロと抗争を繰り広げ、ドリー・ファンク・シニア、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのファミリーとも対戦[7]。1969年6月8日には同タイプのバディ・コルトと組んで、オクラホマでも因縁のあった横内&ミスター・イトーを破り、NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を獲得している[8]。
1969年9月、横内のブッキングにより、コルトと共に国際プロレスの『ロイヤル・シリーズ』に参戦[9]。11月開幕の『IWA世界タッグ挑戦シリーズ』にもコルトとの金髪コンビで継続参戦して、シーク&エミールのエルマンソー・ブラザーズなどのタッグチームを相手に、豊登&サンダー杉山が保持していたIWA世界タッグ王座への挑戦権を争った[10]。シングルマッチでは豊登とストロング小林に敗退するも、マイティ井上と藤井三吉からは勝利を収めた[11]。
アマリロのテリトリーを離れた後、1972年より長年の主戦場となるアラバマのガルフ・コースト地区に進出。2月25日にNWAアラバマ・ヘビー級王座[12]、2月29日にモービル市ヘビー級王座[13]、6月7日にNWAガルフ・コースト・ヘビー級王座をそれぞれ獲得している[14]。同地区ではリップ・タイラーやエディ・サリバンとも共闘した[15]。
1973年、フロリダ地区でボビー・シェーンと金髪コンビを結成し、2月13日にNWAフロリダ・タッグ王座を獲得[16]。ジョージア地区にも揃って参戦して、11月6日にティム・ウッズ&ミスター・レスリング2号からNWAメイコン・タッグ王座を奪取[17]。12月21日にはロバート・フラー&ボブ・アームストロングを破りNWAジョージア・タッグ王座も獲得した[18]。
シェーンが航空事故で死去してからは、再びシングルプレイヤーとなって古巣のガルフ・コースト地区やテネシーのミッドアメリカ地区で活動。ガルフ・コーストでは1975年10月14日にケン・ルーカスを下してモービル市ヘビー級王座に返り咲き[13]、翌1976年5月14日にはルーカスと組んでロン・バス&ダッチ・バスからNWAガルフ・コースト・タッグ王座を奪取した[19]。
テネシーではポークチョップ・キャッシュをパートナーに、1977年2月7日にリッキー・ギブソン&ビル・ダンディーを下してNWA南部タッグ王座を獲得している[20]。1979年から1980年初頭にかけては、デニス・コンドリーやボビー・イートンとNWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を争った[21]。同時期、弁才を活かしてヒールのプレイング・マネージャーも務めており、テネシーとアラバマの両テリトリーで担当していたモンゴリアン・ストンパーのマネージャーとして国際プロレスへの再来日も予定されていた[4]。
1980年3月から5月にかけてはプエルトリコのWWCに参戦し、3月22日にルーク・グラハムと組んでカルロス・コロン&エリック・フローリッチからWWC北米タッグ王座を奪取[22]。これが最後のタイトル戴冠となった[3]。
以降は現役を引退して、ジョージア地区でプロフェッサー・タナカ、キラー・カーン、イワン・コロフなどのヒールのマネージャーを担当した。カーンはジョージ・ジュニアについて「喋りが抜群に上手かった。ルックスもユニークで、いつも光り物を身につけていた。キラキラの服を着た文字通りゴージャスな白人とモンゴルの怪人という組み合わせは、ファンの目を引いたはずである。それもあってか、俺はジョージア地区でも最初から扱いは良かった」と自著で記している[23]。
レスリング業界を離れてトラック運転手に転じてからも、主戦場だったテネシーやアラバマで開催される同窓会イベントには頻繁に参加していた[1]。2012年5月12日、腎臓癌のため居住地のナッシュビルにて死去[1]。74歳没[5]。