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シダミ

北日本各地におけるドングリの方言名 From Wikipedia, the free encyclopedia

シダミは、北日本各地におけるドングリ方言名。あるいはドングリを素材とした一連の食品群である。本項目では特に岩手県北上山地地方の事例を紹介する。

概要

北上高地の位置

岩手県北上山地は平地に乏しく、ヤマセ風を受ける地理的、気候的条件にあった。そのため地域の農業は水田稲作ではなく、アラキと呼ばれる焼き畑での雑穀栽培や木炭製造、牛産、馬産が中心だった[1]。住民は米や麦、あるいは雑穀など一つの作物を重点的に栽培せず、雑穀でもアワと数種類、そしてイモ類に大豆、野菜類など多種類の作物を同時に栽培することで、天候不順による畑作物の「全滅」を避けていた。そして食生活は自家栽培の雑穀に加え、山林から得られる採集物に依存していた。山菜類やキノコに加え、シダミと呼ばれるドングリは主食の雑穀を補うものとして重要な役割を果たしていた[2]

「シダミ」の栄養素

北上山地は落葉広葉樹林帯に属する。当地に自生する樹木で「ドングリ」をつける樹種は、ミズナラコナラカシワクヌギだが、そのうちで特に「ナラの実」つまりミズナラとコナラの実をシダミと呼び、カシワのドングリは「カシラギシタミ」と呼ばれていた[3]。そして「食品加工したナラの実」も同様に「シタミ」「シダミ」と呼ぶ[4]

いわゆる「ドングリ類」(加工前)の成分表は、以下の通りになる[5]

さらに見る 木の実の種類, カロリー ...
木の実の成分表(100gあたり%)
木の実の種類カロリー水分タンパク質脂質繊維灰分糖質タンニン
シラカシ常緑樹236cal40.71.82.01.11.752.74.5
アラカシ(常緑樹)235cal41.11.81.90.91.652.74.4
マテバシイ(常緑樹)236cal39.92.50.70.91.254.80.5
スダジイ(常緑樹)249cal36.62.30.50.71.058.90.1
イチイガシ(常緑樹)252cal37.91.62.10.81.256.71.2
コナラ(落葉樹)284cal28.12.91.71.21.964.24.8
ミズナラ(落葉樹)287cal26.24.61.11.42.164.66.7
クヌギ(落葉樹)202cal49.32.11.91.21.344.21.3
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100gあたりの栄養素が352calの精白米[6]と比しても遜色ないカロリーを有するドングリ類だが、人間には「渋味」と受け止められるタンニンをいずれも含んでいる。タンニンの少ないスダジイやマテバシイは生食も可能だが、落葉樹のドングリ類はタンニンの含有量が多い。いわゆる「シダミ」を食べられる状態にするには「アク抜き」処理を施さなければ食用にならない。

シダミの採集、処理、調理法

以下は、岩手県久慈市山根町で、1904年生まれの話者が語ったシダミの採集と処理、食法である[7]

採集

ドングリのことをシダミと呼ぶ。シダミには大きなミンナラ(ミズナラ)と小さなコンナラ(コナラ)の2種がある[8]。採集は、木の葉が落ち始める10月から始まり、木の葉が落ちつくした11月半ばが本格的になる。子どもも交え家族全員で山に入り、マダ(シナノキ)の樹皮縄で編んだコダシ(物入れ)を腰に下げてシダミを拾い、一杯になったら麻布の袋に集める。麻袋が一杯になったら4斗入りのに入れる。最終的に叺を背負って山を下りる。一人で一日3、4斗、シーズンを通じて各戸から2~4人が入山し、計3~5石のシダミを採集する。7、8人家族で、翌年秋までの食い扶持を確保するには、それだけは必要だった。昭和中期までは林道が整備されていなかったため、村落の近隣にはナラの大木が伐られずに点在していた。そのためシダミ拾いは容易だったという[8]

下茹で・乾燥

(参考画像)ウマガマ、あるいはトナガマと呼ばれる。家畜の餌を煮るための大釜だが、シダミの下処理、アク抜きにも用いられた。(岩手県遠野市遠野ふるさと村

シダミが2、3日分溜まったら、作業小屋のトナ釜(家畜の餌を煮るための大釜)で、シダミを軽く茹でる。この作業を「ゆぶく」という[8]。ゆぶいたシダミは囲炉裏の上の屋根裏空間「マゲ」に上げ、茅を編んだ敷物「タレ」の上に広げる。そして1階の炉で火を絶やさず焚き続けつつ、シダミを掻き回しながら完全に乾燥させる[9]

煮沸して乾燥させ、囲炉裏の火棚、あるいは屋根裏の空間に保管することで、シダミは下からの熱気や煙を浴びて常に乾燥、燻製状態に置かれることになる。岩手県九戸郡九戸村丸木橋、長興寺の事例では、この方法で30年は保管できるという[10]。岩手県内では古民家を解体した折、いつ頃採集された物かはわからないナラの実やトチの実が大量に発見される事例がある[11]。煮沸、乾燥させたうえで火棚にあげ常時煙をあてて保管する方は縄文時代からの伝統らしく、縄文遺跡からは中身が腐朽せずそのまま残ったトチの実が発見される事例がある[12]

煮沸によるアク抜き

乾燥保存したシダミは煮沸によってアク抜きする。アク抜きには直径60㎝はある大鍋を用いるので、その鍋を満たす量のシダミを桶に入れて屋根裏のタレから下ろし、搗いて殻を取る。水力利用のバッタリ(添水唐臼)で搗けば細かくなりすぎるので、足踏み式の唐臼で搗く。殻を取った状態を「白米になった」という[9]

アク抜きは早朝から一日がかりの仕事である。

  1. 8升炊き、1斗炊きの大鍋の中央に高さ30 cm、直径18 cmほどの円筒「シダミドウ」を立てる。シダミドウは、細長い木片を綴り合せたスダレを丸めたものである。立てたシダミドウの周囲にシダミを詰め、淡水を注ぎ、火にかける。
  2. 沸騰して煮汁にアクが出てきたら、シダミドウ内部に杓子を入れて煮汁を汲み出して排出し、新たな淡水を注ぐ。シダミを煮る大鍋は、重くて動かすのが容易ではない。だがシダミドウを立てることで、鍋の煮汁換えが簡単になるのである[13]
  3. 淡水で煮ては煮汁を換えることを4、5回繰り返す。この作業を昼頃まで続ける。同時進行で、木灰に水を注いで濾した「アク水」を作る。灰は何の木を焚いた灰でもかまわない。そのアク水を鍋に加える。
  4. アク水が沸騰したら汲み出し、今度は淡水を入れて煮る[13]。沸いたら水を汲んでは差す作業を夕刻まで繰り返し、汁がアクで濁らなくなれば食べられる状態になる。
  5. そのまま鍋に入れておき、食べる際は茶碗に盛り、黄粉をかけ塩味をつける。これを1日3度、茶碗2杯分食べる。一回炊けば家族全員、1週間は食べられた。
  6. あるいはシダミを蕎麦粉で練って丸めて茹で、「シダミモチ」を作る[13]

処理法は地域によって多少の差がある。

  • 岩泉町大川地区では採集したシダミを下茹でせず、生のままで屋根裏に上げて乾燥保存した。そのうえでバッタリ(添水唐臼)で搗いて殻を取り、一日ほど水に漬けた上、淡水と灰汁による煮沸でアクを抜いた[14]
  • 下閉伊郡山田町の事例では、唐臼で搗いて殻を外したシダミはあらかじめ3日間水漬けして、アクを溶かし出しておく。その上で鍋にドーを立て、淡水で3時間煮沸した上、さらにアク水を加えて煮る。アク水はシダミ2升につき4升の割合である。アク水に用いる灰はナラやハンノキを焚いたものが良く、マツスギなど針葉樹は良くないとされた[15]
  • 岩泉町安家地区の調査事例によれば、下茹でした上で乾燥保存したシダミを、朝から鍋にシダミドを立てて真水で4、5回水を替えて煮沸し、シダミが柔らかくなったらアク水で1時間煮る。アク水を汲み出したのちは淡水で煮ては煮汁を換えることを10数回繰り返し、夕食の時間まで煮続ける。食べる際は久慈市の事例同様、鍋から茶碗に盛り付けて黄粉をかけ、塩味を付けて食べる。この食べ方を「シダミコガケ」という[16]。またシダミの粒は喉を通りにくいので、雑穀の粥「オケエ」を添え、喉に流し込むように食べていた[16]

シダミコガケは腹持ちがそれほど良くないので、屋外での重労働の機会が少ない冬季の主食兼用として食べられた。岩泉町安家地区の事例では、8升炊きの大鍋で1度シダミを炊けば、8人家族でも3、4日分の主食となった。大鍋で大量にアク抜きしたシダミは傷みやすいが、冬季は寒気で劣化が抑えられる。その意味でも好都合だった[17]。アク抜きしたシダミは主食の補い以外に、を混ぜることで自家醸造のどぶろくの原料にもされていた[18]

シダミ類の中でコナラは美味で腹もて(腹持ち)がよく、カシワも味が良いとされていた。だがミズナラは味が多少劣るという[17]

水さらしによるアク抜き

水力を用いたシーソー式の唐臼、「添水唐臼」。岩手県では「バッタリ」と呼ばれる。写真はブラジルの物だが、原理、形状ともに岩手県の物とほとんど変わらない

岩泉町安家地区の事例。 水さらし法は、採集して間もない生の状態のシダミに用いられる[19]

  1. まず生の状態のシダミをバッタリ(添水唐臼)で搗いて殻を取り、粉砕する。水さらしでは、シダミを粒をなるべく細かくする必要がある。
  2. 何度もコロス()にかけて「シダミ粉」を得る。
  3. シダミ粉を麻袋に入れ、フネ(丸太をくり抜いて作った水槽)の水に漬けてよく揉む[19]
  4. やがて水にアクが溶け出し、フネの底にはハナ(澱粉)が溜まる。何度も水を替えて作業を繰り返し、水からアクの臭いがしなくなるまで1日3回、4日ほど繰り返す。
  5. 最終的にハナを乾燥させて保存する。シダミ1升から1食分のハナが採集できる[19]

食べる際はハナを水に溶いて鍋に入れ、加熱しながら練って火を通し、葛餅状の食品「シダミモチ」にする。包丁で食べやすい大きさに刻み、黄粉をかけて食す[19]。シダミモチはシダミコガケより上等な食品とされ、ハレの食品として、客人のもてなし料理にも供せられる[20]

水さらし法ではカシワの実がハナの入りが一番良く、味も良い。コナラのハナは白くて一番美しい。だがミズナラのハナはどうしてもアクが残り、味も劣るという[19]

ちなみに水さらし法による澱粉採集、シダミモチの製法は、西日本の「カシ豆腐」「かしの実こんにゃく」、朝鮮半島のドングリ食品「トトリムㇰ」とほぼ同じである。

岩手県以外のナラの実食文化

ミズナラ、コナラ、クヌギの実をアク抜きした上で食す食習慣は、北上山地以外にも存在する。

  • 北海道アイヌ民族はドングリを「ニセウ」と呼ぶ。ペロ(ミズナラ)の実は渋が多いがトゥンニ(カシワ)の実は甘みがあるので喜ばれ、灰汁で煮て渋抜きしたものをシト(団子)やラタㇱケㇷ゚(煮物)にして、魚油やイクラを付けて食べた[21]
  • 秋田県田沢湖町鎧畑では、殻を取った「シダミ」を灰汁で煮た上で流れ水に晒し、そのうえで布袋に入れ水中で揉みだす。沈殿物を乾燥保存し、もち米と搗きあわせ、「シダミモチ」を作る[22]
  • 福島県桧枝岐村番屋でも同様に「シダミ」を灰汁と煮た上で布袋に入れ、水中で揉みだして得た沈殿物を餅に搗き込み「シダミモチ」を作る。蕎麦粉と煉り合せて茹でたものは「シダミデッチ」という[22]
  • 石川県白峰村大杉谷では「ナラの実」を岩手県同様に、大鍋の中央に筒を立てた状態で灰汁で煮る。アクが抜けたナラの実を潰したものを「ナラコザラシ」と呼び、飯に混ぜて食す[22]
  • 岐阜県上宝村金木戸山吹ではオオナラ(ミズナラ)は不味いとして食用にはしなかったが、コナラは昭和27年(1952年)ころまで食用にしていた。真水で長時間煮た上で流水に晒し、アクを抜く。塩ゆでの小豆と練り混ぜたものをナラコウズケ、麦粉と練って炒めたものをナラモチという[22]
  • 奈良県大塔村篠原では、ナラの実を「ホソの実」と呼ぶ。ホソにはマボソ(コナラ)とミズボソ(ミズナラ)があり、マボソの方が味がよく、アク抜きも容易だった。採集したホソは乾燥して殻を取った後、1斗ごとに煮る。一日3、4時間煮た後に1、2日ほど水さらしする。その工程を1週間繰り返し、アクが抜けたら唐臼で製粉する。この「ホソの粉」に黄粉か砂糖を混ぜて食べる。あるいはホソの粉8割に種を抜いた干し柿を2割の割合で混ぜて搗き、「ホソモチ」を作る[23]

日本におけるナラの実の食文化の南限は、紀伊半島奥吉野地方である。近畿地方はすでに照葉樹林帯に入るため、「ドングリ食」はナラの実から「カシの実」になる。奈良県上北山村西原ではカシの実を搗いて製粉した上で水に晒してアクを抜き、「カシノコ」を作る。このカシノコを飯にかけるか、団子にして味噌汁に入れて食した[24]

朝鮮半島の例

朝鮮半島のドングリ食品「トトリムㇰ」。水さらしで得たドングリ澱粉を加熱して固める製法は「シダミモチ」同様である

李氏朝鮮の公式記録『朝鮮王朝実録』にはドングリに言及した記録が30か所以上もあり、ドングリの豊凶が庶民ばかりか為政者にとっても重要な関心事であったことが伺える[25]。朝鮮半島ではドングリ類はトトリと呼ばれ、水さらし法で得たデンプンを固めた食品トトリムㇰが存在する。一方で煮沸によるアク抜きも行われる。江原道旌善郡東面画岩三里の事例では、1950年までは日本の岩手県同様に大釜の中央に「ヨンスー」と呼ばれる筒を立てて水替えを行い、一日かけて煮込んでアクを抜いたドングリに豆の粉を加え、飯に混ぜて食べていた[26]。朝鮮半島の煮沸によるアク抜きでは灰汁は用いず、淡水のみで煮沸する[27]。なお朝鮮半島の伝統家屋「韓屋」の炊事の熱源はであり、暖房は床下に竈の煙を通して温めるオンドルである。そのためドングリの貯蔵法は日本の東北地方のように「囲炉裏の火棚の上で常に煙を当てて乾燥、燻製状態にする」保存方法ではなく、乾燥させ、に入れて冷暗所に置く方法である。全羅南道求禮郡馬山面黄田里の事例では、この方法で最高で5年間貯蔵できる。またあらかじめ粉砕して水晒して得たデンプンとして貯蔵する例もあり、この方法では最高で3年間である[28]。また、忠清北道永同郡龍化面の事例では、採集したドングリを叺に入れ川の流水に漬けておくと、翌年の春までは新鮮な状態を保てるという[29]

なお日本の落葉広葉樹のドングリ食で一番好まれるのはコナラだが、朝鮮半島(半島南部)ではトッカル(ナラガシワ)、サンスリ(クヌギ)、ソクソリ(コナラ)が食品として利用され、特にナラガシワのドングリが、「デンプンの質も、味も良い」として好まれる[30]。だがミズナラのドングリはほとんど使用されない[31]

トチの実との関係

トチの実とナラの実の「地位」

落葉広葉樹林帯の北上山地ではトチノキも自生し、現地ではシダミに加えてトチの実も採集される。安家村の事例では、皮を剝いたのち淡水で煮沸してからアク水で何度も茹でこぼし、最後に川の流水に1週間ほど晒してアクを抜く。食べる際はシダミ同様、黄粉をかけ塩味で食す。この食法を「トチコガケ」という[32]。だが北上山地ではトチの実は「不味いもの」「続けて食べれば腹を壊す」とされ、積極的には食されなかった。本州中部山地から東北地方南部、奥羽山脈にかけての山地でトチの実が重要視され、アク抜きしたトチの実を搗き込んだ「栃餅」が現在でも伝承されているのと対照的である[33]。だがトチの実は1本の大木から2石もの実が採れることから、「ケガツ(飢饉)に備えるため、トチの木の二、三本も無い家には嫁に行くな」と言い慣わされていた。北上山地では、シダミは日常食、トチの実は救荒食と見なされていた[33]

一方で、本州の中部地方の山村ではトチが重要視されていた。岐阜県白川村飯島地区では、かつての主食は焼き畑で栽培する雑穀だった。その補いとして多量の実をつけるトチは重要視され、トチの伐採は一切禁止されていた[34]。トチの実の採集には「公平性」が求められ、年末になれば各家の戸主が会合に出席し、くじ引きで「来年秋にトチ採集が許される山林の区域」を決める[35]。採集には「解禁日」があり、1回目の入山では各戸より1名以上の入山は許されないなど、厳重なしきたりがあった。採集されたトチの実は水さらしと灰との煮沸でアク抜きする。その上、アワ1合にアク抜きトチ1升で搗いた栃餅を日常の食事とした。当地では早朝から深夜まで1日7度の食事を摂ったが、ヒエ7割に米3割の飯に加えて栃餅が主食とされた[36]。貴重な米を5割も混ぜて搗いた栃餅は正月などハレ食に用いた[37]。白川村では「シバナラ」と呼ばれるコナラの実も採集して食用にされたが、シバナラの採集には明確な規則はなく、自由な採集が許されていた。乾燥して殻を取った上で、岩手県の「シダミ」同様に鍋に円筒を立て水を替えつつ煮沸してアクを抜き、乾燥、製粉して保存する。食べる際は蕎麦粉と共に練り「ナラの実団子」にする。だがナラの実は「不味いもの」とされ、その食習慣は太平洋戦争直前に消失していた[38]

アク抜き法の関連性

ドングリのアクの成分であるタンニンは水溶性であるため、原理的には淡水のみの煮沸でアクは抜けるはずである。実際に朝鮮半島では淡水のみの煮沸でドングリのアクを抜く。だが日本における煮沸法でのアク抜きでは途中で灰汁が加えられる。これは、縄文時代にはすでに技法が確立されていたトチの実のアク抜き法が応用されたもの、との説がある[39]。朝鮮半島にもトチノキが自生するが、現地にトチの実の食文化は存在しない[40]

シダミ食の歴史

古代

クヌギのドングリ。下部の白い部分が「へそ」。縄文遺跡から、この「へそ」がまとまって出土する例がある

縄文時代の遺跡から貯蔵ドングリが出土する例は、落葉広葉樹林帯の北海道ミズナラ)から亜熱帯気候沖縄県(オキナワウラジロガシ)まで47都道府県すべてで確認できる[41]。その利用法の詳細は不明だが、岩手県宮古市崎山貝塚から出土したドングリは殻が剥かれた状態だった。これはアク抜き煮沸前に搗いて殻を取ったシダミ同様の姿である[42]。また縄文時代草創期の福井県鳥浜貝塚、縄文早期の滋賀県粟津湖底遺跡、縄文前期の神奈川県小田原市羽根尾貝塚、青森県三内丸山遺跡、縄文中期の北海道石狩市紅葉山49号遺跡などから、ドングリ殻の底の部分「へそ」がまとまって出土している[43]。この「へそ」は、煮沸した上で乾燥保存したシダミを臼で搗き砕く作業で大量に生じるものであることから、何らかの目的でドングリを搗き砕く作業が縄文期の日本に存在したことが伺える。搗き砕く作業に不可欠な「臼」と「杵」の日本における普及は水田稲作が普及した弥生時代以降のこととされているが[44]、鳥浜貝塚、石狩紅葉山49号遺跡、宮城県栗原市山王囲遺跡などの縄文遺跡から「縦杵」と目される木製品が出土しており、ドングリを搗き砕く作業の存在を連想させる。だが現状、縄文時代の遺跡から明確に「臼」と断定できる木製遺物は発見されておらず、今後の研究が待たれる[45]

近世

現在の岩手県南部一関藩の藩医・建部清庵宝暦の飢饉に接した教訓から著した『民間備荒』には、以下の記述がある[3]

檞実 民間ニ云したみ。味渋、性大寒。虚人、老人(よハきひととしより)、小児(ことも)食ことなかれ。水を換浸し煮こと十四五度、渋味を陶去り、蒸極熟して米粉に和、糕として食ふ。飢を助くへし。又流水有る所にてハ。能煮、笊籬へ入れ、流水へ二三宿も浸しおけば、渋味も毒も能去といへり。解毒の法前のごとし

檞実はクヌギと思われるが、この記述から当時はクヌギの実もシダミと呼ばれた可能性がある[3]

現在の山形県米沢市をはじめとする置賜地方は、江戸時代に米沢藩の統治下にあった。名君として知られる上杉治憲天明の大飢饉の教訓から家老莅戸善政1802年に書かせた『 かてもの』は、当地で入手できる救荒食を解説した書籍である。その文中に

志だみ 水とりて煮事十四五度してよくむし米の粉にまじへ団子にし食う。ながれに二三宿ひたせば澁味も毒も去 但老人小児又は病人には食わせまじ

とある。

近代以前の農業技術では、熱帯性の植物であるを冷涼な東北地方で栽培するのは難しかった。だが石高制を念頭に置いた幕藩体制下では、気候に関わらず稲を作付けしたため、東北地方はたびたび冷害による大飢饉に見舞われた(東北凶作)。その渦中において、東北地方本来の植生である落葉広葉樹林で産するシダミは救荒食として重要な役割を果たしていた。

近代

山がちの北上山地は耕地に恵まれず、ヤマセ風による畑作物の不作も頻発する。それは明治以降になっても変わらなかった。近代以前の村落において自家栽培の畑作物のみで食いつなげるのは一年のうち6~9か月のみだったという。そのため野外での重労働の機会が多い春から秋にかけては腹持ちがよい畑作物の雑穀類を食し、屋内での軽作業が中心となる冬季はシダミコガケを主食とした。周囲から「旦那様」と称される裕福な山林地主の家でも白米のみの飯を食べるのは盆か正月くらいで、日常の食事では米・雑穀・大麦を混ぜて炊いた「三穀飯」を主食としている[46]

昭和10年ころの下閉伊郡大川村(現在の岩泉町大川地区)の平年の主食は以下のようなものだった[47]

昭和初期まで、大川地区では1日7回の食事を摂っていた。

  • アサナガレ(早朝の軽食)
  • ゴハン(朝食
  • タバコ(昼前の軽食)
  • オヒル(昼食
  • サンドキ(午後の軽食)
  • ヨメシ(夕食
  • ヤショク(夜食

そのうち中心となるゴハン、オヒル、ヨメシでは、雑穀飯に加えてシダミを食べるのが習慣である。これは一年を通じて変わらないが[48]、冬ほどシダミの割合が高くなる。

昭和9年の冷害における水稲の減収は、岩手県の北上川流域、北上盆地の水田地帯で50、60%。北上山地の山村では90%の減収を見ている。稗は反あたり7斗で平年の半分、アワは4斗で半作以下だった。水稲の極端な減収は天候不順に加え、いもち病の発生によるものである[49]。だが同年の岩泉町大川地区の主食は下記のような雑穀混合飯であり、平年の食生活とそれほどの差はなかった[50]

  • ヒエ2分・大麦2分・大根6分のかて飯
  • ナラの実3分・ヒエ2分・麦5分
  • 馬鈴薯5分・麦3分・ナラの実3分
  • 干葉[注釈 1]2分・馬鈴薯3分・麦5分

北上山地の山村では一種類の作物を重点的に栽培するのではなく、多数の作物を同時に栽培した。たとえ冷害を受けても被害の軽い作物に糧を求める「リスク分散」である。また、シダミや山菜はじめ山林の採集物を食生活に取り入れる工夫を平時から心がけていた。そのため昭和9年の飢饉の折でも、岩泉町安家では食い物に困ることも、娘の身売りも無かった。むしろ稲作地帯の困窮した農家の娘を引き取って育てた例があったという[51]

シダミは重要な食糧であったが故、村落の近隣にあるナラの木は伐採せず保護した。直径60 cm以上の大木からは、1シーズンで3から4石ものシダミが拾える。このような巨木は「セイロ」とも呼ばれ個人所有とされた。セイロを持つものは地域社会の富裕層であり、セイロを持たない者は不便な奥山まで赴いてシダミを拾わなければならない。その不便を省くため、セイロを持つ富家での雇われ仕事をこなした上、報酬としてセイロのシダミ拾いにあずかる社会慣習も存在した[52]

昭和初期には製材や炭焼き、養蚕などによる現金収入の機会も増え、食品類の購入も可能となった。だが太平洋戦争による食糧難で、シダミ食が一時的に復活することになる[4]

現代

令和初期の現在、北上地方でシダミは日常食としては食されていない。だがドングリのアク抜き法は「地域の伝統文化」として伝承されている。岩泉町の「道の駅」では、ドングリ粉を生地に練り込んだ「どんぐりラーメン」が供されている[53]。また、ドングリを生地に混ぜたパンやクッキーが地元企業によって製造、販売されている[54]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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