アイヌ
樺太から北海道周辺に独自文化を築いた先住民族
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アイヌ(アイヌ語: aynu、アィヌ、ロシア語: Айны)は、北海道を中心として、歴史的には樺太、千島列島および本州北部にも居住してきた民族である[2]。独自の言語であるアイヌ語と、口承文芸、信仰、儀礼、衣服、工芸などからなる文化を形成してきた。

アイヌ文化は、北海道の縄文文化、続縄文文化、擦文文化からの文化的連続性を基層としつつ、オホーツク文化を担った北方集団や、本州の和人との交流を通じて形成されたと考えられている[3][4]。遺伝学的研究によれば、現在のアイヌ集団は、縄文人に関連する集団との強い遺伝的連続性を持つ一方、本土日本人に関連する集団および北東アジア系集団からの遺伝的影響も受けている[5][6]。
2008年、衆参両院は「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全会一致で採択した[7]。2019年施行の「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(アイヌ施策推進法)は、アイヌを「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族」と位置づけている[8]。2020年には、アイヌ文化の復興・発展の拠点として、北海道白老町に国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴空間(ウポポイ)が開設された。
概要

アイヌは、北海道、樺太、千島列島を中心とする北方地域において、狩猟、漁撈、採集、農耕および交易を組み合わせて生活してきた。北海道内の各地域のほか、樺太、千島列島などにも、それぞれ異なる方言や文化的特徴を持つ集団が存在した。
アイヌ社会は外部から孤立していたのではなく、和人、ニヴフ、ウリチ、イテリメンなど周辺の人々との交易関係を形成していた。毛皮、干し魚、昆布、鷹の羽などを供給し、米、酒、鉄器、漆器、木綿などを入手した。樺太を経由してアムール川下流域の物産をもたらした交易は、一般に山丹交易と呼ばれる[9]。
固有の文字体系は伝統的には用いられず、歴史、神話、生活知識などは口承によって継承された。代表的な口承文芸には、英雄叙事詩のユーカラ、神謡のカムイユカㇻ、散文説話のウエペケレなどがある[10]。
近代以降の同化政策や社会変化によって、アイヌ語や伝統文化の世代間継承は大きく損なわれた。一方、20世紀後半以降は、アイヌ自身による言語、口承文芸、舞踊、儀礼、工芸などの継承・復興活動が進められている[11]。
日本では民族別の国勢調査が実施されていないため、アイヌの正確な人口は不明である。北海道が2023年に実施した生活実態調査では、調査対象として5,322世帯、11,450人が把握されたが、この数字は日本国内のアイヌの総人口を示すものではない[1]。
呼称
アイヌ



「アイヌ」はアイヌ語で「人」または「人間」を意味する。神や霊的存在を表す「カムイ」に対する、人間を表す語として用いられ、民族の自称ともなった[11]。
アイヌ語では、地域や集団を表す名称も用いられた。北海道東部の集団をメナシクㇽ、西部の集団をシュムクㇽなどと呼ぶ例があるが、名称や範囲は時代と地域によって異なる[13]。
ウェンペ
アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞はアイヌと呼ばず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[14]。
ウタリ
ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間である[15]が、長年の差別[注 1]の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、1961年から2006年にかけ、行政機関の用語としても使用されていた。1930年(昭和5年)に設立されたアイヌ民族の団体組織である北海道アイヌ協会も、同時期の1961年から2009年まで「北海道ウタリ協会」に改称していた。
外部からの呼ばれ方
大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる[21])」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。 その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。
アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原和郎ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された[22]。
蝦夷
日本の古代史料に見える「蝦夷(えみし)」と、中世以降に北海道・樺太などの住民を指して用いられた「蝦夷(えぞ)」は、同じ表記であっても、時代や文脈によって対象が異なる。
古代東北地方の蝦夷と後世のアイヌとの関係については、文化的・人的連続性を指摘する説がある一方、両者をそのまま同一の民族集団とみなすことはできず、研究上も区別して扱われる[23]。中世以降、「蝦夷」は北海道・樺太の住民を指す語として用いられ、それらの地域は蝦夷地と呼ばれた。
| 集団名 | 北海道アイヌ | 樺太アイヌ | 千島アイヌ |
|---|---|---|---|
| スラブ人(ロシア) | エソ | エソ | クリル |
| 和人<近世> | エゾ(蝦夷)、アイノ | オクエゾ(奥蝦夷)、キタエゾ(北蝦夷) | クルミシ? |
| 和人<近現代> | アイヌ | アイヌ | アイヌ |
| 漢人<中近世> | クイなど | ||
| 漢人<近代> | クエなど | ||
| ギリヤーク(樺太) | クギ | ||
| ギリヤーク(黒竜江下流域) | クウィ | ||
| 満州・ツングース(ロシア沿海地方・黒竜江流域) | コィェ、クィェ | ||
| カムチャダール(カムチャッカ半島) | クシ | ||
蝦夷の用語に関して喜田貞吉は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だった[24]のではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「クリル」と呼ばれた。したがって千島列島のロシア語名はクリル諸島である。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという。高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く[25]。平安初期の「弘仁私記」の序文には、蝦夷に「カイ」とルビをふっている。平安末期の「伊呂波字類抄」にも、カイの条に「蝦夷」とある[26]。秋田藩の藩士であった人見蕉雨によって1798年(寛政10年)頃に著された『黒甜瑣語』には、蝦夷(夷は大と弓の上下の合字になっている)のルビを「かい」としている。そこでは「ダケカンバと思える植物をタッチラと唱える」という記述からも、これがアイヌの事を指している事がわかる[27]。明治政府は開拓使の設置に伴い蝦夷地の名称の変更を検討した際1869年(明治2年)蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した[28]。明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改めた「北海道」とすることを決定。明治2年8月15日太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被稱 十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出候事」と周知された。松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している[28]。青森県の伝承を集めた中道等の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている[29]。
歴史


先史文化からアイヌ文化へ
本州の大部分で農耕を中心とする弥生文化が広がった後も、北海道では狩猟・漁撈・採集を中心とする続縄文文化が営まれた。7世紀頃からは、鉄器、農耕、本州式のかまどなどを取り入れた擦文文化が成立した[30]。
オホーツク文化は、5世紀頃から北海道のオホーツク海沿岸、樺太、千島列島にかけて展開した。国立歴史民俗博物館は、北海道、南樺太および千島列島に広がった主要段階を5世紀から9世紀頃としている[31]。一方、オホーツク海南岸地域における地方的展開や後続段階を含め、5世紀から13世紀頃まで展開した文化として扱う研究もある[32]。
北海道東部では、擦文文化とオホーツク文化の要素を併せ持つトビニタイ文化が成立した。11世紀から12世紀頃のトビニタイ土器には、器形や文様意匠に擦文文化の特徴が、貼付文などの文様要素にオホーツク文化の特徴がみられ、両文化の融合が表れている[31]。こうした接触と融合を通じて、オホーツク文化の文化的・人的要素が後のアイヌ文化の形成に取り込まれたと考えられている[33]。
擦文文化からアイヌ文化への移行は、11世紀頃に北海道日本海側で始まり、13世紀頃までに北海道の広い範囲へ及んだとされる[34]。土器生産の衰退、鉄鍋や漆器の普及、竪穴建物から平地建物のチセへの移行、交易活動の拡大などが、その指標とされる[3][35]。
ただし、「アイヌ文化期」という考古学上の時代区分は、それ以前の住民との断絶や、別の民族集団への全面的な交替を意味するものではない。2025年、日本人類学会、日本考古学協会、日本文化人類学会は、文化名の違いを民族集団の交替と同一視する議論を否定し、北海道における文化的・歴史的な連続性を指摘する共同声明を発表した[36]。
中世
13世紀頃までに、北海道方面から樺太へ進出した集団は、現地のニヴフの祖先集団などと交易する一方、対立することもあった。中国の元代史料に「骨嵬」と記された集団は、一般にアイヌ、またはその祖先集団に比定されている[37]。
13世紀後半には、骨嵬とモンゴル帝国との間で軍事的衝突が生じた。1308年頃、骨嵬側が元への毛皮の貢納を受け入れ、長期にわたる衝突が終結したとされる[37]。
北海道南部では12世紀以降、和人の定住が進んだ。1457年には、アイヌの首長コシャマインを中心とする勢力と道南の和人勢力との間でコシャマインの戦いが起きた。
事件から約190年後の1646年に成立した松前氏の家伝『新羅之記録』は、武田信広がコシャマイン父子を討ったと伝えている。武田信広とその子孫は、のちに蠣崎氏を称して道南で勢力を拡大した[38]。
近世
蠣崎氏を前身とする松前藩は、江戸幕府からアイヌとの交易に関する独占的な権限を認められた。アイヌは、鮭、ニシン、毛皮、昆布、鷹の羽などを供給し、米、酒、鉄器、漆器、木綿などを得た[39]。
松前藩は当初、交易拠点である商場を家臣に知行として与える商場知行制をとった。18世紀以降、商人が運上金を納めて商場や漁場の経営を請け負う場所請負制が一般化した[40]。
場所請負制の下では、商人が漁場経営を拡大し、アイヌを労働力として動員した。地域によっては、交易条件の悪化、長期間の強制的な労働、暴力的な管理などによって、アイヌの生活が大きく損なわれた[41]。
1669年には、日高地方の首長シャクシャインを中心とするアイヌ勢力と松前藩との間でシャクシャインの戦いが起きた。1789年には、国後島・目梨地方でクナシリ・メナシの戦いが起きた[42]。
18世紀末以降、ロシアの南下に対応して東蝦夷地を直轄化した江戸幕府は、アイヌに対して同化方針をとり、耳飾り、入れ墨、熊祭りなどを禁じ、人名、髪形、衣食住を和人風に改めることを奨励した。こうした改俗は当初、強制を伴って進められたが、反発を招くおそれから、のちには消極的になったとされる[43]。
近代

1869年、明治政府は蝦夷地を北海道と改称し、開拓使を設置した。北海道への和人移住が進み、土地、森林、河川などが国家制度の下に編入された。アイヌが伝統的に利用してきた土地や資源も国有地や私有地として再編され、狩猟・漁撈は法令によって制限された[41]。
明治初期には、女性の入れ墨や耳飾りなどの慣習が禁止された[44]。また、死者が出た際にその家を焼却する習俗であるチセウフイカについても、1871年に開拓使が禁止した[45]。
1899年、政府は北海道旧土人保護法を制定した。同法は、農業によって生計を立てるアイヌ世帯への土地給与、農具・種子の支給、困窮者への医療・救済、児童教育などを定めた[46]。給与地については、譲渡や質権・抵当権などの設定が制限され、北海道庁長官による管理の対象とされた[47]。
教育については、アイヌが集住する地域に国費で「旧土人小学校」が設けられ、独立した学校を設置できない地域では、近隣の小学校に児童の教育が委託された[48]。こうした教育や生活改善政策は、アイヌ語や伝統的な衣服、住居、信仰などの急速な和人化を伴った。一方、土地や資本の不足、教育上の不利、社会的差別などは解消されず、アイヌ集落の困窮が残ったとされる[49]。
1875年の樺太・千島交換条約により、樺太はロシア領、千島列島は日本領となった。樺太アイヌの一部は北海道へ移住し、北千島のアイヌの多くは1884年に色丹島へ移住させられた[50]。
第二次世界大戦後
1945年、ソビエト連邦が南樺太と千島列島を占領した。現地の日本国籍者の多くは戦後に北海道などへ引き揚げ、樺太・千島のアイヌ共同体も大きく分散した。
戦後、アイヌの民族団体は、生活改善、文化復興、教育機会の拡大、先住民族としての権利回復などを求める運動を行った。1980年代以降は、国際連合の先住民作業部会などにも代表者が参加し、国際的な先住民族運動との連携を強めた[51]。
1997年、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)が施行され、同時に北海道旧土人保護法が廃止された。
2007年、国際連合総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択された。翌2008年6月6日、衆参両院は「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全会一致で採択した。決議は国連宣言に言及するとともに、同年7月に北海道洞爺湖サミットが開催されることも踏まえ、政府にアイヌを先住民族として認めるよう求めた[7]。
翌2008年(平成20年)には、日本の衆・参両院の本会議において、日本政府に対し「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された[52]。日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ施策推進法)」を制定し、法律として初めて「先住民族」と明記された[53][54]。罰則はないがアイヌ民族への差別が禁止された[55]。
2009年には「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が報告書を公表し、アイヌを先住民族として認識した上で、文化、教育、生活、産業、国民理解などを含む総合的な政策を進めるよう提言した[56]。その後、政府にアイヌ政策推進会議が設置された。
2019年にはアイヌ施策推進法が施行された。同法は、アイヌが先住民族であることを法律上初めて明記し、国や地方公共団体の責務、文化振興、地域振興、差別の禁止などを定めている[8]。
文化

文字や絵を持たなかったことから、アイヌ以外の民族が残したアイヌ絵や残された遺産などが学術資料となる[57]。
生業と食文化
アイヌの伝統的な生業は、河川や海での漁撈、山野での狩猟・採集を中心とし、地域によってはアワ、ヒエ、キビなどの農耕も行われた。アイヌ文化の成立後に農耕が全面的に消滅したわけではなく、近世前半まで比較的盛んに行われた地域もあった[58]。
海岸部では海漁や海獣猟、河川流域では鮭漁、内陸部では鹿や熊の狩猟など、利用される資源は地域の自然環境によって異なった。生業は食料の獲得だけでなく、交易品の生産とも密接に結びついていた[59]。
鮭は重要な食料であるとともに、交易品でもあった。熊、鹿、海獣なども食料、衣服、交易品として利用された。自然資源の利用には、地域共同体の慣習や、カムイに対する儀礼が伴った[60]。
アイヌ料理では、魚、獣肉、山菜、木の実、雑穀などが利用された。肉や魚、野草などを煮込んだ汁物はオハウ、穀物や球根などから作る団子状の食品はシトなどと呼ばれる[61]。
社会と信仰


伝統的な集落はコタンと呼ばれ、一般に複数の家族によって構成された。各コタンには首長や長老が存在したが、アイヌ全体を統一する恒常的な中央権力が存在したわけではない。
集落間では交易、婚姻、儀礼などを通じた関係が結ばれた一方、漁場や狩猟地などをめぐって対立することもあった[62]。河川の漁場、狩猟地、植物採集地などの利用には、コタンや家系間の慣習的な権利関係が存在した[63]。
アイヌの伝統的な信仰では、動物、植物、火、水、風、生活道具、疫病など、さまざまな存在や現象に霊的な力があると考えられ、それらはカムイと呼ばれた[11]。
人間はカムイから食料や生活資源を受け取り、祈り、酒、イナウなどを通じて感謝や敬意を示すとされた[64]。熊は重要なカムイの一つとされ、飼育した子熊を儀礼によってカムイの世界へ送り返すイオマンテが行われた。ただし、儀礼の内容や熊に対する観念は地域によって異なる[65]。
近代以降は、仏教、神道、ロシア正教、聖公会などの影響も受けており、現代のアイヌの宗教的立場は多様である。
- キリスト教
北千島(新知郡・占守郡)に住む千島アイヌはロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になったが、国力の乏しい当時の日本にとって生活物資の補給は大変困難であり、開拓使の官吏が北千島の住民を説得し色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。色丹島に移住した千島アイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[66]。
また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった[67]」と記述している。
建築



伝統的な家屋はチセと呼ばれる。木の骨組みに、茅、笹、樹皮などを葺いた平地建物で、中央付近に炉が設けられた。擦文文化期の竪穴建物から、アイヌ文化期のチセへの移行には、本州の平地建物と北方文化の双方の影響が指摘されている[68][69]。
家の周囲には、食料や道具を保管する高床倉庫のプー、便所のアシンル、熊を飼育する檻のヘペレセッなどが設けられた[70]。
また、丘陵や河川沿いには、壕や崖によって区画されたチャシが造られた。チャシの用途には、防御施設、祭祀場、交易・監視拠点など複数の可能性が指摘されている[71]。
衣装


衣服は総称してアミㇷ゚と呼ばれる。オヒョウやシナノキの樹皮繊維から織った衣服はアットゥシと呼ばれる。
和人との交易によって木綿が普及すると、木綿布を切り抜いて縫い付けるアップリケや刺繍による装飾が発達した。ルウンペ、カパㇻミㇷ゚、チヂリなど、地域ごとに異なる衣服様式がある[72]。
木彫、編物、ござ、刀装具、祭具などの工芸も発達した。衣服や工芸品の文様には、渦巻、棘状、括弧状などの形が組み合わされる[11]。
口承文芸
アイヌの口承文芸には、カムイが一人称で物語るカムイユカㇻ、英雄の物語を語るユーカラ、散文説話のウエペケレなどがある[73]。
知里幸恵が編訳した『アイヌ神謡集』は、知里の没後の1923年に刊行された[74]。金田一京助、知里真志保、久保寺逸彦らも、アイヌ語と口承文芸の記録・研究を行った。
歌はウポポ、踊りはリㇺセなどと呼ばれる。楽器には、口琴のムックリや弦楽器のトンコリがある[75]。
アイヌ古式舞踊は、地域ごとに伝承される歌と踊りの総称であり、1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年にユネスコの無形文化遺産代表一覧表に記載された[76]。
現代の継承と創造
近代以降の同化政策と社会変化によって、アイヌ語や伝統文化を家庭や地域社会の中で継承する環境は大きく損なわれた。一方、20世紀後半以降は、民族団体、保存会、文化施設、語学教室などを通じて、アイヌ語、口承文芸、舞踊、工芸などの継承・復興活動が行われている[77]。
アイヌ民族文化財団は、アイヌ語教育、口承文芸の記録・伝承、工芸技術の研修、古式舞踊、文化交流、研究助成などの事業を実施している[77]。継承活動には、家庭や地域で連続的に伝えられてきた知識・技術だけでなく、過去の録音、写真、文献、博物館資料などから学び直し、復元する取り組みも含まれる[78]。
現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている[79]。
古式舞踊

祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リㇺセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録[80]。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。
言語



アイヌ語は、他の言語との系統関係が証明されていない孤立した言語である。日本語とは系統的に異なり、語彙や文法構造も大きく異なる[11]。
アイヌ語は、複数の要素を一語の中に組み込む抱合的な性質を持つ。動詞には主語や目的語を表す要素が付加され、一つの語が日本語の文に相当する情報を含む場合がある[82]。
北海道、樺太、千島列島の各地に地域的な変種が存在した。北海道内にも複数の地域方言があり、樺太方言や千島方言との間には語彙、音韻、文法上の違いがあった[82]。
伝統的には固有の文字体系を使用せず、近代以降はローマ字や片仮名によって記録されてきた。現代のアイヌ語表記では、通常の片仮名に加えて、ㇰ、ㇱ、ㇷ゚、ㇻなどの小書き片仮名が用いられる。
LeeとHasegawaは、1950年代に記録された19のアイヌ語変種をベイズ系統地理学的に分析し、それらの共通祖先が約1300年前に北海道北部から拡散した可能性を提示した[81]。ただし、同研究には千島アイヌ語の資料が含まれておらず、著者らは資料の追加によって分岐年代や拡散経路の推定が変わり得るとしている[81]。
明治以降の日本語教育や社会的同化により、アイヌ語の母語話者は大幅に減少した。2009年、ユネスコはアイヌ語を「極めて深刻な危機」にある言語に分類した[83]。
現在は、地域の教室、大学、博物館、ラジオ講座、辞書・教材の刊行などを通じて、アイヌ語の学習と復興が進められている。アイヌ民族文化財団は、アイヌ語教室、指導者育成、弁論大会、音声資料の保存などの事業を行っている[84]。
人口と生活実態




アイヌは北海道各地のほか、移住によって関東地方を含む日本各地に居住している。樺太や千島列島に居住していた人々の子孫も、日本国内およびロシアに存在する。
ロシア連邦における調査で、2018年時点でロシア国内におけるアイヌ民族は、「カムチャツカ地方における105人」と報告されている[85]。
2023年の北海道アイヌ生活実態調査では、5,322世帯、11,450人が調査対象として把握された。前回の2017年調査と比較すると、対象者数は1,668人減少した[1]。ただし、この減少には死亡、転居、調査対象の把握方法、民族的出自を明らかにしない選択など、複数の要因が関係すると考えられ、民族人口そのものの減少率とはみなせない。
同調査では、高校卒業者の大学・短期大学への進学率は24.7%で、アイヌ居住市町村全体の51.5%との間に26.8ポイントの差があった。生活保護率は人口1,000人当たり41.0人で、アイヌ居住市町村全体の31.6人の約1.3倍であった[86]。ただし、進学率に関する市町村の回答率は低く、結果の解釈には注意が必要である。
北海道の生活実態調査は、地域社会や市町村を通じて対象者を把握する方式であり、調査への協力を希望しない人、北海道外に居住する人、アイヌとしての出自を公にしていない人などは必ずしも含まれない。また、日本の国勢調査では民族を調査項目としていないため、日本国内のアイヌ人口を正確に把握することはできない[87]。
2000年以前の調査
江戸時代、アイヌの人口は記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した(江戸時代の日本の人口統計#蝦夷地・松前藩(福山藩/館藩)・アイヌの人口変遷)。
1756年に弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対して、平民化政策という同化政策を行った。
1809年に弘前藩では最後となる二度目の同化政策を推進した。以降も「東奥沿海日誌」で居住する彼らの子孫たちが、地域にとけ込んでいた[88]。
1855年2月7日調印の日露和親条約で、樺太(サハリン)は日露両国民雑居の地とされ帰属未解決のままにされた[89]。
1875年5月17日の樺太千島交換条約後、日露和親条約で不確定だった千島列島を日本領で樺太はロシア領と確定した[89]。困難な生活物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが開拓使によって説得の上色丹島へ移住させられた(『千島巡航日記』)。
1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領側に居住していた[90]。
1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島・北方領土を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された[注 2]。残存したアイヌとその子女は、2018年にロシア政府が「ロシアの先住民」と認定す方針へ転換するまでは、「日本人とその子孫」として扱われた[91][85]。
1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[92]。
第二次世界大戦後の日露におけるアイヌ
日本

2009年から2014年にアイヌ研究者らによって、北海道内の五つの地域でアイヌ民族社会調査が行われた。調査を受けた264人の中で、「自分の先祖に和人の血は入っていない」との認識を示したのは一人だけだった。調査対象者の約半数は、アイヌ民族であることを普段は意識していないと答えた[93]。2016年に日本政府は日本国内の先住民として認識しているのはアイヌのみであるとしている一方で[94]、国連人種差別撤廃委員会は、アイヌ民族以外に琉球民族も先住民だとし、日本政府とは異なる見解を示している[95]。2006年(平成18年)の北海道の調査によれば、アイヌの人々に、「かつて差別を受けたことがあるか」という問いに、「はい」と答えた人が16.8 %、「別の誰かが受けたことを知っている」と答えた人が、19.8 %であった。このうち、「直近7年間に自分が差別を受けた」という人は2 %程度である[41]。2013年(平成25年)の調査でもアイヌの人々に対して、「現在は差別や偏見がなく平等であると思うか」聞いたところ、「平等であると思う」とする者の割合が50.4 %(「平等であると思う」25.3 % + 「どちらかというと平等であると思う」25.1 %)、「平等ではないと思う」とする者の割合が33.5 %(「どちらかというと平等ではないと思う」24.3 % + 「平等ではないと思う」9.2 %)、「わからない」と答えた者の割合が16.1 %ととの結果であった[96]。
しかし、2016年(平成28年)の法務省の調査では、「家族・親族・友人・知人が差別を受けている」と回答した人が51 %であり、また、同調査で、アイヌの人々に対する差別や偏見の有無について日本国民全体を対象にアンケートをしたところ、国民全体の18 %のみが「あると思う」、51 %が「ないと思う」と答えている。それに対し、アイヌの人々は72 %が「あると思う」、19 %が「ないと思う」と答えている[97]。菊地千夏は、2019年にアイヌとして生活する者が周囲から差別的に扱われる順番として、第一に義務教育課程でアイヌ文化を扱った授業を受けた時、第二に婚姻・結婚、次に就職など社会に出た場合、「義務教育時代に受けた差別は(アイヌには)普遍的な経験になっている」、と主張をしている[98]。ただし、2009年から2014年調査当時60代、70代の人たちの中には、過去にあからさまな差別を受けた経験者がいた一方で、その後の世代は経験は少なくなっている。さらに60代や70代世代の孫の世代になると、自身にアイヌ民族の血筋があることを「かっこいい」というような、肯定的に感じる意識が出てきている[93]。
2020年に内閣府は「アイヌ政策に関する世論調査」を行った(郵送によるもの。対象は、全国18歳以上の日本国籍を有する者 3,000人。有効回収数 1,767人。回収率58.9 %。)が、そのなかで日本国内でのアイヌに関する周知度を測るために「アイヌについて知っている事項」という質問群も用意したところ、その回答結果は、まず「アイヌが存在していると知っている」と回答した割合が93.6 %で、そう回答した人々に対して問うた「何を知っているか」に関する質問群については次のような回答結果を得た。「アイヌが先住民族」91.2 %、「アイヌの人々が独自の伝統的文化を形成してきたこと」83.2 %、であった。一方で「中世以降アイヌと和人の間に交流や争いがあった」44.1 %、「明治以降アイヌが独自の文化を制限され貧しい暮らしを余儀なくされた」46.3 %、「アイヌのなかで文化の復興保存活動をしている」46.5 %と負の歴史などでは過半数を割る結果であった[99]。
明治以降は和人との結婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少している。大和民族との結婚が増えている理由として、1984年に西浦宏巳は1980年代前半に二風谷のアイヌ調査を行った際には、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと主張している[100]。アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力した。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれたため、自らはアイヌ民族ではないが、幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたと語っている[101]。
2008年、日本の衆・参両院の本会議において政府に対し「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が成立したが、この後ネット上では現代日本におけるアイヌ民族の存在そのものを否定するような言説が出回ったという。2019年、アイヌ施策推進法の衆院国土交通審議会における法案審議の過程で内閣官房からは、「アイヌ民族などもういない」といった発言はヘイトスピーチにあたるという答弁がなされている。2024年11月、札幌市の公共施設でかつてのアイヌの人々を見下すかのような表現とともに、旧土人保護法の救済目的を強調しアイヌが優遇されていたかのような内容や、アイヌ民族の先住民族性にも疑問を投げかけるパネル展が開催され、ヘイトデマと抗議する人々が抗議活動を行う事態となった。さらにほぼ同様な内容で2025年9月には札幌駅につながる公共の地下通路でパネルが展示され、抗議団体と「アイヌの史実を学ぶ会」と名乗る主催者側がにらみ合い、警察が出動する事態となった。保守系団体の日本会議の北海道本部が主催者側団体を後援しているという。2025年12月、日本人類学会、日本考古学協会、日本文化人類学会は、「近代国家の統治後も独自の文化とアイデンティティを持って居住している民族が先住民族」とする見地から、アイヌ民族の先住性と独自性は明白とする声明を発表した。2026年、抗議を受けて、市長は市はアイヌの先住性は否定したり旧土人保護法を至れりつくせりのものとすることは札幌市の認識と異なるとしたが、差別判断は難しくパネル展を拒む理由はないとした。3月、パネル展はそれまでとは一部表現が微妙に変わっていた内容で開催されている。その後、市長は対策を検討する意向を示し、2026年6月、市は公共施設利用の判断基準のガイドラインを作るために専門部会を設置した[55]。
ロシア
「日本人」認定時代
ロシア連邦はカムチャツカ地方の先住民族として認めているのはコリャク、イテリメンなど6民族だけであり、旧ソ連時代を含め、アイヌ民族に関しては「日本人」だとして先住民とは認めてこなかった[91]。ソ連の侵略時に千島に居住していたアイヌ民族は、戦後にソ連によってサハリンやカムチャツカ半島への移住をさせられている[91]。旧ソ連は戦後、サハリン(樺太)や千島列島のアイヌ民族を日本人としたことで戦前に出生していたアイヌ民族の出生証明書はなく、アイヌ民族であることを示す証拠も残らなかった[91]。2008年5月に先住民族認定を求め、初のロシア国内にアイヌ民族団体が設立されている。カムチャツカ地方の団体「アイヌ」の代表となったアレクセイ・ナカムラは、2002年のロシアの人口調査で民族欄に「アイヌ」と初めて書いた際に、「国の登録項目にアイヌ民族はない」と却下されている[91]。2018年12月のウラジーミル・プーチン大統領への報告時点でロシア国内のアイヌ民族について、ソ連時代に移住させられたため「カムチャツカ地方に105人しかいない」と説明されている[85]。日本側にはアイヌ民族が住んでいた地域は、歴史的にも日本固有の領土だとする考え方もある[102]。
「ロシアの先住民」認定以後
2018年12月、ロシアは方針転換し、プーチン大統領がカムチャツカ地方の「北方領土を含む千島列島」(ロシア名:クリール諸島)などに現存するアイヌ民族をロシアの先住民族として認める考えを示した[103]。北海道新聞はロシアの方針転換の背景として、上記の日本側のアイヌを理由とする北方領土に関する主張をけん制する狙いがあると報道した[104]。
遺伝的起源



アイヌは本土日本人との形質的な違いや習慣・アイヌ語など独自性が多く、その遺伝的起源について研究者の関心を集めてきた[106]。2000年以降はDNA研究が進歩し、遺伝子情報による系統研究が行われているが、それらの成果によりアイヌは縄文人・オホーツク人・本土日本人を祖先集団にもつ、複雑な形成過程をたどったとする説が有力視されている[注 3][107]。
安達 登は「アイヌの北海道、東北、関東の先史時代人3集団は、ハプログループN9bとM7aを共有していた。北海道と東北日本ではN9bの頻度が極めて高く(それぞれ64.8%、59.2%)、東日本ではかなりの高頻度でM7aが見られた(33.3%)」
「具体的なハプログループの割合は、北海道縄文人・続縄文人ではN9b1(55.5%)、N9b*(9.3%)、D4h2(16.7%)、G1b(11.1%)、M7a*(5.5%)、M7a2(1.9%)、東北縄文時代人はN9b1(18.5%)、N9b2(14.8%)、N9b*(25.9%)、D4h2(3.7%)、D4b2(3.7%)、M7a*(7.4%)、M7a2(25.9%)と、円グラフで示されている。( * は分類されないサブタイプ) 「N9bは縄文時代の直接子孫によってアムール川の下流域を中心とする地域からもたらされた可能性が高い。N9bは北海道に留まることなく高頻度東北日本にの見られる。N9bの分岐年代は、少なくとも6000年前には本州に侵入していた。このことは北方系の細石刃群の波及と関連する可能性が高い。」「M7aは現在の現琉球列島で23.3%と高頻度。現代日本人では、南から北へ頻度が低下。M7aは南方から日本列島にもたらされたことを示唆している。」と記している[108]。

増田隆一は、「オホーツク文化は、約5世紀から12世紀頃にオホーツク海岸南部の沿岸地域(サハリン南部から東部、千島列島)で主に狩猟・漁労を生業として繁栄した文化である。一方、北海道の内陸部や南部では、本州の影響を受けながらも稲作が導入されなかった続縄文文化が発達した。北海道には起源が異なる二つの系列の文化が異所的に発達した」とし、オホーツク人の古人骨の分析として、「オホーツク人古人骨のミトコンドリアDNAハプログループは、A(8.1%)、B(2.7%)、C3(5.4%)、G1(24.3%)、M7(5.4%)、N9(10.8%)、Y(43.2%)であった。集団遺伝学的特徴はハプログループYが高頻度。」「海外の研究では、ウリチ、ニヴフ、ネギタールなどアムール川下流域の現代集団でも、ハプログループYが高頻度。特にニブフはハプログループYが非常に高い。」「安達 登の研究では北海道縄文人・続縄文人はハプログループYが検出されていない。宝来聰の研究ではアイヌのハプログループYの頻度は20%」と記してる。
また、耳垢遺伝子について、「オホーツク人の乾型対立耳あか遺伝子の頻度は84%。北海道縄文人は48%、続縄文人は59%。アイヌは76%。この結果、母系遺伝するmtDNAの遺伝子の流れは、佐藤丈寛が示したものと矛盾しない」としている。(増田隆一 『遺伝子的特徴から見たオホーツク人――大陸と北海道の間の交流』 北海道大学総合博物館研究報告 第6号 北海道大学総合博物館 2013年 p103~107)
さらに 安達 登は「北海道縄文前期・続縄文すべての時代にN9b、D4H2、M7aがみられた。しかし,G1b、Z1aは続縄文時代にしか観察されなかった。考古学的に北海道において縄文時代終末期~続縄文時代になると、若いイヌを解体したことを示す証拠が急に出現しだす。類似の事例は続縄文時代並行期のサハリンにおいてもみられ、イヌを食料としたことを示す証拠と考えられている。一般に、狩猟のために重要な役割を果たすイヌは狩猟民の間では大切に扱われるが、それを食用に供するという大きな変化は、単に文化や習慣の移入だけでは説明が難しい。ハプログループの変遷と考古学的知見を併せ考えると、縄文時代終末期〜続縄文時代に、北海道在来集団とは遺伝的背景が異なる人類集団が、ユーラシア大陸北東部から北海道に渡来してきた可能性があるものと考えられる。」と記している。(安達登 『学術的研究で明らかにする関東地方縄文時代人の人類学的・考古学的実像 』KAKEN 2011年度実施実績報告書 研究機関 山梨大学 )
篠田謙一は、図7-5北海道のミトコンドリアDNAハプログループの変遷で、「縄文~続縄文= N9b(65%)、M7a(7%)、G1b(11%)、D4h2(17%)、Z1a2(1.4%) オホーツク文化:Y(43%)、B(3%)、N9b(11%)、A(8%)、C(5%)、M7a(6%)、G1b(24%) 近世アイヌ= Y(31%)、F(2%)、B(1%)、N9b(19%)、N9a(1%)、A(9%)、C(4%)、M7b.c(3%)、M7a(4%)、G(8%)、D(14%)、Z(1%)、その他(3%)現代アイヌ=Y(19%)、F(2%)、B(2%)、N9b(8%)、A(4%)、M7b.c(4%)、M7a(16%)、G(25%)、D(18%)、その他(2%)とグラフ化している。これらを踏まえ「縄文時代になかったハプログループYがオホーツク文化人によってもたらされ、両者の混合によってアイヌが誕生した様子が見て取れると思います。」「混合が進んだと考えられる続縄文人から擦文時代の人骨はほとんど出土していない」と述べている。(篠田謙一 新版 『日本人になった祖先たち』 NHA出版 2019年 第4刷 p208~209)
この中では、近代アイヌ、現代アイヌともに様々な母親由来のmtDNAが見られる。オホーツクの母親由来のY系、縄文・続縄文・擦文の母親由来のM7系、G系、N9系、D系などもあるが、それぞれの出自が異なる。アイヌは出自の異なる人たちの集まりということは記されていない。父親・母親の間に生まれた女子も男子も、母親のミトコンドリアを受け継ぐこと、つまり仮に父がYで母がN9bのとき、生まれた男子・女子はN9b。父がN9bで母がYのとき生まれた男子・女子は、Yとなることなどは記されていない。
DNAハプログループの出現頻度の特徴として、縄文人由来とされるN9b(8%)とM7a(16%)を含めほとんどが本土日本人・沖縄集団と共通するものであるが[注 4]、いっぽうで本土日本人・沖縄集団ではほとんど確認できず北アジア集団によく見られるY(19%)とG(25%)が高頻度で現れることを挙げた[109][107]。そのうえで北海道縄文人・オホーツク人・近世アイヌのミトコンドリアDNAハプログループ出現頻度との比較により、この特徴はアイヌはオホーツク沿海州地域先住民と共通するハプログループをもつ北海道縄文人を基層集団とし、オホーツク人の2集団の混血によって近世アイヌ集団が形成され、近世以降には本土日本人とも混血したと推測している[注 5][107]。また近世アイヌのミトコンドリアDNAハプログループ出現頻度は地域差が大きい事も確認されており、北海道アイヌ・樺太アイヌ・千島アイヌのアイヌ3集団の形成も統一的ではない可能性を示唆するとしている[110]。
また篠田は、上記の結果はY染色体ハプログループの研究とも矛盾していないとしている。縄文人に由来すると考えられているD2とCは、現代日本人のなかでもアイヌ・沖縄集団に高頻度で出現する[注 6][注 7][111]。
ティモシー・ジナムら(2012年、2015年)は、日本列島を含む現代東アジア30集団の主成分分析を行い、ヤマト人・アイヌ人・オキナワ人がグループを形成し、近縁な集団にその他の東アジア集団がまとまるという結果を発表した。日本列島集団間の比較では、アイヌ人が最も東アジア集団から遠くオキナワ人が続いているが、斎藤成也は遠い集団ほど縄文人要素を強く持つと推測している[105]。
神澤秀明ら(2016年)は、三貫地縄文人と現代日本列島の3集団・北方中国集団の核ゲノムSNPの比較を行い、本土日本人と沖縄集団は比較的近い一方で、アイヌは三貫地縄文人と北方中国人集団の要素をそれぞれ共有していたと発表した。また三貫地縄文人と共通するDNAデータの割合は、アイヌが68%あまりともっとも高く、沖縄集団・本土集団・北方中国集団の順で続いていた。この論文の責任著者の斎藤は、現代アイヌは縄文人を基層集団として北方集団と混血したと推測し、二重構造モデルを補完する結果だとしている[112]。
神澤秀明ら(2019年)は、船泊遺跡縄文人の核ゲノム解析の論文を発表。その中でF23と呼ばれる縄文人の遺伝子を現代日本列島3集団が引き継いだ割合について、本土日本人13%・沖縄集団27%・アイヌ66%とした。また現代アイヌのゲノムからF23のゲノムを差し引いた残りのゲノムについて、カムチャツカ半島の先住民と最も近いとし、アイヌの祖先集団を縄文人と北東アジア人とする従来説と矛盾しないと結論付けている[113]。
覚張隆史ら(2020年)は、伊川津縄文人の核ゲノム解析の論文を発表。その中でIK002と呼ばれる縄文人は南ルートで日本列島にやってきた集団で、その遺伝子を最も多く受け継ぐ現代人はアイヌ(79.3%)としたうえで、この結果は二重構造モデルを支持すると結論付けている[114]。
佐藤丈寛ら(2021年)は、900年前のオホーツク人の核ゲノム解析の論文を発表。その結果から現代アイヌの形成過程について、まず縄文人69%・オホーツク人31%の割合で混血が行われ、さらにその集団71%に対して本土日本人29%の割合で混血が行われたとする想定が最も矛盾が少ないとしている[115]。
研究史
アイヌの研究は、日本人起源論争と関連して早くから注目されていた。1820年代にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、石器時代にアイヌの祖先集団が日本列島全体に住んでいたと推測したうえで、のちに大陸から新しい人種が日本列島に移入し、アイヌは北海道に追いやられたとする「アイヌ説」を唱えた[116][117]。この説は小金井良精も支持するが、アイヌの系統については「人種の孤島」と表現して態度を保留した[118][117]。いっぽうで1877年にエドワード・モースは、旧石器人(縄文人)がアイヌが所持していない土器を用いたことから、旧石器人をアイヌとは別の先住民とする「プレアイヌ説」を唱えた[116][117]。坪井正五郎もこれに続き、この先住民をイヌイット系集団で、アイヌ文学に登場するコロポックルとする「コロポックル説」を唱えた。小金井と坪井の議論は「アイヌ・コロポックル論争」と呼ばれる[116][119]。
アイヌの頭蓋骨を調査したジョージ・バスクは、1867年にアイヌを白人系人種とする説を発表。この他に、旧ソ連の人類学者はオーストラリア系人種、あるいはアジア系人種とする研究が続いた[118]。エルヴィン・ベルツは、日本人の「三段階移住仮説」を提唱し、最も早く移住した集団をコーカソイド系人種でアイヌの祖先集団とした。またベルツは、1911年にアイヌと沖縄集団を同祖とする「アイヌ・沖縄同祖論」を発表している[116][117]。東アジア一帯を踏襲調査した鳥居龍蔵は、『有史以前乃日本』(1918年)で、コーカソイドとモンゴロイドの混血であるアイヌが先に日本列島に到来した後、弥生土器を使う蒙古的な「固有日本人」に九州のインドネシアンが混血した民族がやってきたことで北方に追われたものとし[120]、「固有日本人説」は国内で多くの賛同を得た[121]。
清野謙次は、従来の国内アイヌの研究が文化面に偏っていることを批判し、人骨に着目。その研究結果から1926年に、アイヌと本土日本人を石器時代人を基層集団として近隣集団と混血したとする「混血説」を提唱した[122]。いっぽうで昭和に入ると児玉作左衛門も多数の人骨調査を行い、「白人起源説」を主張。古畑種基も現代アイヌの血液型や指紋の研究からこれに追従した[118]。
1960年代になると、新たな研究手法が取られるようになる。尾本惠市は血中たんぱく質を利用した遺伝学的分析をおこない、アイヌは本土人・中国人に最も近く、ついでアメリカ先住民・アボリジニ・ポリネシア人と続くが、白人やバンツー族とはきわめて遠いとした[106][118]。自然人類学者の埴原和郎は歯に関する研究を行い、モンゴロイド系とした[106]。これに追従する研究者には山口敏・百々幸雄・石田肇・オッセンバーグ・ピトロセウスキー・コジンツェフらがおり、これらの研究によりアイヌとコーカソイドとの近縁性は否定され、アイヌは日本人を始めとするアジア諸集団に近いと考えられるようになった[118][106]。
埴原は1982年、アイヌ語と日本語は縄文語を共通祖先に持つと主張していた哲学者の梅原猛と[123]、対談『アイヌは原日本人か』を出版。1991年にはアイヌを縄文人(古モンゴロイド)の直系子孫とする「二重構造モデル」を発表。その後、山口敏(1999年)の頭蓋骨の研究、百々幸雄の頭蓋小変異・顔面扁平度、松村博文、埴原和郎と埴原恒彦の歯の研究で縄文人とアイヌの近縁性が明らかになった[106]。その後山口と百々は、北海道縄文人から続縄文人、擦文人を経てアイヌへの人骨形質が連続して変化していく様子を明らかにし、アイヌを縄文人の子孫とするシナリオが有力視されるようになった[106]。
1980年代後半からは、人類学でDNA研究が活発に行われるようになった。特に1987年に発表された「新人のアフリカ起源説」により、従来の定説であった「多地域進化説」[注 8]が否定され、わずか20万年のあいだに現代人の直接の祖先である新人が世界中に拡散したと考えられるようになったことは人類学に大きな影響を与えた。しかし日本でこうした研究が受け入れられるようになったのは、2000年に旧石器捏造事件が発覚したのちである[124]。
議論
他文化との関連

近年遺伝子(DNA)解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになっている。また、アイヌは、ニヴフをはじめアムール川流域に住むウリチ/山丹人との関連も強く示唆されている[125][126][127][128]。擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている[127][128])の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
日露における先住民族の権利運動
1950年代のアメリカ合衆国で先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でもアイヌの権利回復運動が行われた[41]。
日本政府は1995年3月、内閣官房長官の私的諮問機関としてウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会を設置し、同懇談会は翌1996年4月、官房長官に報告書を提出した。報告書では、「アイヌの人々の先住性」について、「少なくとも中世末期以降の歴史の中でみると、学問的にみても、アイヌの人々は当時の『和人』との関係において日本列島北部周辺、とりわけ我が国固有の領土である北海道に先住していたことは否定できないと考えられる」とした。更に、「アイヌの人々には、民族としての帰属意識が脈々と流れており、民族的な誇りや尊厳のもとに、個々人として、あるいは団体を構成し、アイヌ語や伝統文化の保持、継承、研究に努力している人々も多い」状況にかんがみれば、「我が国におけるアイヌの人々は引き続き民族としての独自性を保っているとみるべきであり、近い将来においてもそれが失われると見通すことはできない」とした[129]。
1997年、アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを先住民族と認定されなかった[41]。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された[130][131][132]。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業[133]をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ[134]に基づき実施している。その際には、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。
2008年5月12日に鈴木宗男が国会に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。」と答弁しているが、「先住民族」であるかどうかについては、「『先住民族』に関する国際的に確立した定義がないこともあり、アイヌの人々が『先住民族』かどうか結論を下せる状況にはない」とした[135]。6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた[136]。一方で、『菊と刀』などの著作で知られる文化人類学者ルースベネディクトは、その著作の中で繰り返し、アイヌを日本の先住民族(indigenous group)と書いている[137]。
2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請」が行われた[138]。
2007年9月の先住民族の権利に関する国際連合宣言及び2008年6月の「アイヌ民族を先住民族とすることを求める(国会)決議」を受けて、内閣官房長官の下に「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が設置され、アイヌ政策の新たな理念及び具体的な政策の在り方について総合的な検討が行われた。2009年7月に取りまとめられた同懇談会の報告書では、まず、1996年の「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書」について、「アイヌの人々の先住性を認めたが、これは事実の確認にとどまり、新たな政策とは結びつけられていなかった」と評価した。その上で、先住民族の定義について、「国際的に様々な議論があり、定義そのものも先住民族自身が定めるべきであるという議論もあるが、国としての政策展開との関係において必要な限りで定義を試みる」として、「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である」とし、「アイヌの人々は日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であると考えることができる」と結論付けた。更に、「今後のアイヌ政策は、アイヌの人々が先住民族であるという認識に基づいて展開していくことが必要である」とした[139]。
2019年4月19日、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律が成立し、同月26日公布された。同法1条の目的規定において「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌの文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、民族象徴共生空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含み、以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の作成及び内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」と規定され、法制上アイヌの人々が北海道の先住民族であることを明記した。
同法に基づき、国有林野におけるアイヌにおける儀式の実施その他アイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取について共同使用権の取得に関する規定、内水面さけ採捕事業についての漁業法及び水産資源保護法上の許可の配慮規定などが設けられるにいたった。
2018年12月、ロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した[140]。
札幌市議会議員によるアイヌ民族否定
2014年8月に東区選出の札幌市議会議員で自由民主党所属の金子快之[注 9]がTwitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところ」とアイヌ民族は今は存在しないとする書き込みを行っていたことが判明[142][143]、アイヌの団体などから批判され、自民党の市議会会派から除名された後、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議[144]をうけた。金子は、北海道アイヌ協会がアイヌ民族の認定を行っていることに対し「アイヌ民族であることを法的に証明する手段は現状存在しない」とし、アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定しており、出自がアイヌでなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌとしての優遇措置を受けられる、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在しているなどといったことを主張、アイヌの文化や歴史自体を否定するものではないとしつつも、利権の問題にはこれまでも議会で指摘してきたし今後も取り組んでいくと述べた[145]。しかし一方で除名処分に際し「『アイヌ民族は先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない[146]。その後の金子は辞職を拒否して保守系無所属の市議となり、2015年の札幌市議選では東区選挙区から再選を目指したものの落選した[147]。
墓地の盗掘と遺骨返還
北海道や千島、樺太の開発と学術調査が本格化した明治以降、国内外の民族学者や考古学者らが、アイヌを含む北方先住民族の墓地を盗掘して、遺骨を乱雑に扱ったり、国外に持ち出したりした例があった。北海道大学では1995年に「北大人骨事件」が発覚。北大は学内で保管するアイヌの遺骨(16人分)を、日本政府のガイドラインに沿って子孫ら祭祀継承者へ渡す「アイヌ遺骨等返還室」を2015年4月に設置した[148]。またドイツの学術団体「ベルリン人類学・民族学・先史学協会」(BGAEU)は2017年7月31日、ドイツ人旅行者のゲオルク・シュレジンガーが1879年に札幌市内のアイヌ墓地から持ち出したアイヌの遺骨1体を、在ベルリン日本大使館で北海道アイヌ協会へ返還した。この遺骨は8月2日に北海道大学のアイヌ納骨堂に納められた後、同月4日に慰霊祭(イチャルパ)で供養される予定である[149]。
画像
主な博物館・文化施設
- 国立アイヌ民族博物館(北海道白老町)
- 平取町立二風谷アイヌ文化博物館(北海道平取町)
- 北海道博物館(北海道札幌市)
- 阿寒湖アイヌシアターイコㇿ(北海道釧路市)
- 川村カ子トアイヌ記念館(北海道旭川市)
- 新ひだか町アイヌ民俗資料館(北海道新ひだか町)
- 知里幸恵 銀のしずく記念館(北海道登別市)
主な団体
- 北海道アイヌ協会
- アイヌ民族文化財団
- 札幌アイヌ協会
- 関東ウタリ会
- ラポロアイヌネイション
関連作品
「Category:アイヌを題材とした作品」も参照。



映像作品
劇
小説
- 鶴田知也『コシャマイン記』(1936年)第3回芥川龍之介賞受賞
- 武田泰淳『森と湖のまつり』(1955 - 1958年) - アイヌ民族のアイデンティティーを主題とし、1958年に内田吐夢監督により映画化された[160]。
- 石森延男『コタンの口笛』(1957年) - コタンに暮らす中学生姉弟の成長物語で、未明文学賞、産経児童出版文化賞を受賞した[161]
- 佐藤さとる『だれも知らない小さな国』(1959年) - アイヌの伝承に由来する小人をモデルとした「コロボックル」が登場する[162]。続編を含め『コロボックル物語』シリーズを形成。
- 安藤美紀夫『ポイヤウンベ物語』(1966年)サンケイ児童出版文化賞[163]、第4回国際アンデルセン賞国内賞受賞[164]。ユーカラの再構成作品[165]。
- 前川康男『魔神の海』(1969年)日本児童文学者協会賞受賞
- 船戸与一『蝦夷地別件』(1995年) - 1995年『このミステリーがすごい! '96年版』第3位、同年『週刊文春ミステリーベスト10』第7位、1996年第14回日本冒険小説協会大賞(国内部門)。
- 川越宗一『熱源』(2019年) - 第162回直木三十五賞受賞
漫画
- 手塚治虫『シュマリ』(小学館『ビッグコミック』 1974年 - 1976年) - 明治初期の北海道を舞台にした漫画作品[166]。主人公の名前がアイヌ由来[167]。
- 石坂啓『ハルコロ』(潮出版社1992年、1993年) - 本多勝一の『アイヌ民族』を原作とし、アイヌ女性の半生を描いた漫画作品[168]。2021年刊行の岩波現代文庫版では中川裕が解説を書いている[169]。
- 吉元ますめ『くまみこ』(KADOKAWA『月刊コミックフラッパー』 2013年 - 2024年) - クマを奉る神社に巫女として仕える中学生の少女まちと、人間の言葉を話すヒグマのナツの交流を描く。
- 野田サトル『ゴールデンカムイ』(集英社『週刊ヤングジャンプ』 2015年 - 2022年) - 明治末期の北海道や樺太を舞台にした漫画作品。アニメ化・実写映画&ドラマ化もされている。
- ひきの真二(まんが)・三条和都(ストーリー)・知里幸恵銀のしずく記念館(監修)『知里幸恵とアイヌ』 (小学館版学習まんが人物館) (2017年)[170]
曲
音声資料
音声資料として最古の物は、1902‐1903年頃のロシア人文化人類学者ブロニスワフ・ピウスツキによる蝋菅録音であるとされる。アイヌ口承文芸などのまとまった資料としては、1930年代のアイヌ文化研究者久保寺逸彦によるものが存在する[171]。