シャーザン・ホト遺跡
From Wikipedia, the free encyclopedia
|
Shaazan-khoto | |
| 所在地 |
|
|---|---|
| 座標 | 北緯45度43分00秒 東経103度34分40秒 / 北緯45.71667度 東経103.57778度 |
シャーザン・ホト遺跡(Shaazan-khoto)は、モンゴル国南部、ウブルハンガイ県バヤンゴル郡の東南部に位置するモンゴル帝国(大元ウルス)期から北元時代にかけて用いられたと推定される都市遺跡である。モンゴル語で「シャーザン」は陶磁器、「ホト」は城・都市を意味し、この遺跡から多くの陶磁器の破片が発見されたことに由来する名称である。
オゴデイ・グユク・モンケら歴代皇帝が用いた冬営地の一つで、「カラコルム首都圏」を構成する「スメトゥ(Šumetu)の行宮」「オンギのオルド」に相当するものと考えられている。
遺跡は、東にオンギ川、西にウラーン=ホショー゠トルゴイ(Ulaan-Khoshuu-Tolgoi)山とゴルバン=トルゴイ(Gur ban- Tolgoi)山が位置する河岸段丘上の平地に立地し、海抜は1420mである[1]。遺跡東側にはオンギ川が増水した際の痕跡があり、遺跡東北部の一部分は水流によって破壊されている[2]。なお、遺跡から南約20kmには前近代に用いられた東西モンゴルを結ぶ幹線道路が存在し、そこから別れ出て遺跡付近を通る道はウランバートル方面とカラコルム地域を結ぶ主要幹線であった[2]。
遺跡の発掘調査はペルレーによって1950年代後半より始められ、ペルレーは表面調査と簡単な測量を行った結果、元代の遺跡と推定した[2]。続いてマイダルはこの遺跡をオゴデイの「オンギのオルド(宮殿)」として紹介し、1996年・1998年に行われたモンゴル科学アカデミー歴史研究所と日本の森安孝夫・松田孝一を中心とするグループの合同調査でも、やはり「オンギのオルド」の可能性が高いと結論づけられている[3]。
白石典之は1997年・1998年に現地調査を実施し、遺跡全体の測量図と、建物ごとの詳細名遺物の出土状況記録を作成した上で、カラコルムと並行して用いられていた施設であったと総括する。
遺跡の構造
現存する遺跡の規模は南北600m×東西320mであるが、上述のとおり東側に河川の増水による破壊の痕跡があり、東西の長さは320m以上であったと推定される[4]。遺跡には「T」の字形をした道路がみられ、白石典之はT字道路で区切られた三つの区画を、それぞれ「北区」「西区」「東区」と呼称している[4]。
北区
北区の中央には土塁で囲まれた2つの大型建物があり、西側土塁は60✕60m、東側士塁は南北90✕東西70m の規模である[4]。東側の中心には一辺25m、高さ1.2mの基壇があり、その頂上にはカコウ岩製の礎石が2つ残る[4]。また大量の陶磁器類とレンガ、緑釉瓦が出土している[4]。カラコルムなどでは緑釉瓦の使用は宮殿,寺院、皇族・高位高官クラスの住居にのみ用いられていたため、大型建物は宮殿クラスの居館跡と推定される[4]。
西区・東区
いずれも南北・東西道に面して建物が並び、その裏には中庭状の空間が存在する[5]。西区では中庭状の空間の更に西側にも建物が並ぶが、東区は河川の増水によって流されたためか空間の東側に建物跡は残っていない[5]。また、建物群の南端から南北道を南に延長した所に、集落の南門とみられる1辺25mの大型基壇が見つかっている[5]。
出土品
これまでの調査により、以下のような貴重な遺物が確認されている。
- 陶磁器:定窯系白磁・黒釉・龍泉窯系・鈞窯系・紅緑彩陶器・黒釉瓶・磁州窯系と多くの陶磁器があり、遺跡の名称の由来となっている[6]。また、14世紀中頃に生産が盛んとなる青花(染付)も少量ながら出土する[7]。
- 銅銭:、開元通宝(621年初鋳)・祥符通宝(1008年初鋳)・天聖元宝(1023年初鋳)・至和元宝(1054年初鋳)・熙寧元宝(1068年初鋳)・元祐通宝(1086年初鋳)・元符通宝(1098年初鋳)・政和通宝(1111年初鋳)といった、唐・北宋銭が出土している[8]。
- その他:鉄製車軸受け、鉄、青銅容器口縁片などが出土している[8]。
総じて、カラコルム遺跡での出土物と類似するものが多く、カラコルムに並行して運用されていたと考えられる[9]。