ジョージ・エンソル
From Wikipedia, the free encyclopedia
1842年アイルランド生まれ。ケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジ卒。イギリス教会宣教会の宣教師養成学校で学び、最初のCMS日本派遣宣教師に任命される[1][2]。
1868年7月に英国を出発し、中国・寧波に滞在し、先輩宣教師から指導を受け、1869年1月23日、長崎に来日する[3][4]。当初、長崎・大徳寺を居とするが、1869年11月には東山手居留地五番の米国聖公会のチャニング・ウィリアムズ宣教師館を譲り受けた[4][5]。
長崎では英学稽古所を開き、英語を教えながら伝道する[6]。エンソルは日本で最初のプロテスタント教会である英国聖公会会堂でチャニング・ウィリアムズ(初代)、グイド・フルベッキ(2代目)の後任として3代目チャプレンを務め、彼らから礼拝を引き継ぐ[7]。長崎では「妖僧エンソル」と呼ばれた。1869年11月に日本で最初の信者二川一騰に洗礼を授け、同月、松本喜一郎にも洗礼を授けた[4]。1870年(明治3年)2月には、長崎で信州人の中沢金吾、と肥前人の仁村守三(後に日本基督公会の最初の執事になる)に洗礼を授けた[4]。禁教化の中、キリスト教徒となった二川一騰は、1870年3月に長崎で捕らわれると、同年5月8日まで入牢した[4]。
グイド・フルベッキの日本語教師であった肥後藩一向宗の僧侶、清水宮内(一道)は、フルベッキから聖書をもらってキリスト教の教えを受け、1868年(明治元年)夏にフルベッキから受洗したが、1869年(明治2年)3月20日にフルベッキが大学南校への奉職により上京するため長崎を発つと、エンソルの日本語教師兼召使になったという。しかし、清水は長崎で逮捕され、3年余りの獄中生活を送ることとなった。この時、エンソルやフルベッキらの明治新政府への抗議や尽力によって清水は釈放されている。清水は後の1883年(明治16年)には、東京麹町教会の一員として活動した[8][4]。
1870年12月には、エンソルは一空の名で「神道弁謬」を著した[4]。
しかし、健康を害したことから、1872年(明治5年)5月に長崎を出帆して英国に帰国する[3]。エンソルの後任はヘンダーソン・バーンサイド牧師[1]。エンソルは長崎に3年半滞在したが[3]、前述の二川、仁村らに加え、小林六郎、宮本健蔵など十名がエンソルから洗礼を受け、これが長崎聖三一教会の基礎となった[2]。
帰国後のエンソルは、時にはCMSの連絡主事として英国各地の教会を廻って日本伝道の実状を語り、また永く英国教会の牧師として忠実に牧会の務めを果たした[3]。
1909年(明治42年)には、宣教師になった娘と共に再来日し、東京で伝道をする。英国に一時帰国するために舟に乗っている時、1911年(明治44年)7月13日ジブラルタル海峡付近で病死する。
脚注
- 1 2 『長崎Webマガジン』長崎ハイカラ女子教育の歴史
- 1 2 長崎バプテスト教会 長崎聖三一教会原爆被害報告書 一、教会の沿革
- 1 2 3 4 木村信一「C・M・Sの日本開教伝道」『桃山学院大学キリスト教論集』第3号、桃山学院大学経済学部、1967年5月30日、29-62頁、ISSN 0286973X。
- 1 2 3 4 5 6 7 『立教大学研究報告 (29) 人文科学』64頁-65頁,立教大学,1971-06
- ↑ 大江 満「宗教的植民地化の断章 : 在日英米聖公会主教管轄権問題」『立教学院史研究』第6巻、立教学院史資料センター、2009年3月、11-38頁。
- ↑ 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(3)」『学術研究紀要』第12巻、鹿屋体育大学、1994年9月、79-91頁。
- ↑ 木村信一「我国最初のプロテスタント教会について」『桃山学院大学キリスト教論集』第6号、桃山学院大学総合研究所、1970年3月30日、59-74頁、ISSN 0286973X、NAID 110000215470。
- ↑ 一般社団法人 長崎親善協会 『僧侶(Buddhist priest)とフルベッキ その2』 2016年12月2日,長崎フルベッキ研究会レポート
|
参考文献
- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年
- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年
- 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社
- 鈴木範久監修『日本キリスト教人名大辞典』教文館、2020年