ソマリランドの歴史

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この記事ではソマリランドの歴史について解説する。

ソマリランドは1991年にソマリアから一方的な独立宣言を主張した国である。ソマリランド政府の見解では、ソマリランドは1960年に独立し、その後にソマリアと連合国家を形成していたが、1991年に連合を解消したとされている。ソマリランド政府が主張する領土は旧イギリス領ソマリランドそのものであるが、東部地域はプントランドなどと係争状態にある。

ダイムール英語版の洞窟に描かれている野生動物。

今日のソマリランドの地域には、約1万年前の新石器時代に人が住んでいた[1][2]。一方、言語学者は、現在のソマリ人が属するアフロ・アジア語族の最初の集団は、 新石器時代に、ナイル渓谷 [3]あるいは近東 [4]から今日のソマリランドに到達したと考えている。古代の羊飼いたちが牛やその他の家畜を飼育し、鮮やかな岩絵具で絵を描いた。これをドイアン文化(Doian)、ハルゲイサン文化(Hargeisan)と呼ぶ人もいる[5]。また、ソマリランドの遺跡には、紀元前4千年紀アフリカの角における最初の墓地と思われるものも発見されている[6]。北部のジャレロ遺跡から出土した石器もまた、1909年に、旧石器時代における東洋と西洋の考古学的普遍性を示す重要な遺物として特徴づけられた[7]

ソマリランドの首都ハルゲイサ郊外にあるラース・ゲール遺跡群の歴史は約5,000 年前に遡り、野生動物と装飾された牛の両方を描いた岩絵がある[8]ダンバリン北部地域では他の洞窟壁画も発見されており、これには馬に乗った狩人を描いた最も初期の知られているもののひとつが描かれている。この岩絵は独特のエチオピア・アラビア様式で、紀元前 1,000 年から 3,000 年のものとされている.[9][10]

さらに、ソマリランド東部のラス・コレーエル・アヨの町の間には、実在の動物や神話上の動物を描いた洞窟壁画が多数あるカリンヘガネ英語版がある。各絵画の下には碑文があり、それらを合わせると約 2,500 年前のものと推定されている[11][12]

紀元前26世紀にプント国からエジプトに黄金などが送られた。その後も紀元前15世紀頃までにわたってエジプトとの乳香没薬などの交易が行われている。このプント国の有力比定地の一つがソマリランドである(諸説ある)。

古代

サナーグ地域のメイトにある、イサック氏族の始祖とされるシェイク・イサーク英語版の墓

2世紀にローマ帝国がナバテア王国(現ヨルダン西部)を征服し、海賊行為を抑制するためにローマ海軍がアデン(現イエメン)に駐留するようになると、アラブ商人とソマリ商人はローマ帝国と協力し、紅海と地中海を結ぶ有利な通商におけるソマリ商人とアラブ商人の利益を守るために、アラビア半島の自由港湾都市[13]でのインド船の取引を禁止した[14]。しかし、インド商人たちは、ローマ帝国の干渉を受けなかったソマリア半島の港湾都市で貿易を続けた[15]

7世紀にアラビア半島イスラーム教が誕生した。ソマリランドには非アラブの地域としては比較的早期にイスラーム教が伝わった。ゼイラにある「2つのキブラモスク」(ゼイラのマスジトカ・ラバダ・キブラ英語版))は7世紀に建設されたと考えられている[16]:7

何世紀もの間、インド商人はセイロンモルッカ諸島からソマリやアラビアに大量のシナモンを運んだ。スパイスの産地は、アラブ商人とソマリ商人がローマやギリシア世界との交易において最も秘密にしていたと言われており、ローマ人やギリシア人はその産地がソマリア半島であると信じていた。[17]ソマリ商人とアラブ商人の協力により、北アフリカ、近東、ヨーロッパにおけるインドや中国のシナモンの価格が高騰し、スパイス貿易が利益を生むようになり、特にソマリ商人の手によって大量のシナモンが海路や陸路で輸送されるようになった[14]

中世/イスラーム王国とエチオピアとの関係

ソマリランド北西部の港町ゼイラにあるアダル・スルタン国時代のものとみられる遺跡

中世になると、様々なイスラーム王国がこの地に作られた[18]

13世紀の文献に記録があるイファト・スルタン国は、イスラーム教徒の国であり、元は今日のエチオピアにあたる場所に首都があったが、エチオピアに追われる形で首都を今日のソマリランド北西部にあるゼイラに移動した。

14世紀にゼイラを拠点とするアダル・スルタン国ができた。アダル・スルタン国はエチオピア皇帝アムダ・セヨン1世英語版(在位 1314–1344)の時代にエチオピアと大規模な戦闘をした[19]。その後もたびたびエチオピアから攻撃を受けていたが、1528年に退け、翌1529年から逆にアダルの将軍アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーが率いる軍がエチオピアに侵攻した。1543年にポルトガルの援軍を受けたエチオピア軍との戦いでアル=ガジーが戦死するまで、エチオピア北部を蹂躙した。アル=ガジーの死後はエチオピアの領土を失った。アダル・スルタン国は国力を大きく落としながらも1577年まで続いた。

一方、1538年、オスマン帝国の皇帝スレイマン1世は、インド洋に海軍を派遣した。遠征は約30年間続いた。皇帝がセリム2世に変わった後の1567年、副官であったエズデミル・パシャ英語版は、紅海西岸で今日のスーダンとエリトリア沿岸に当たる地域を征服した[20][21]。以後は形式的にオスマン帝国の一部となったが、実質的には氏族ごとによる自治の状態だった。

ソマリランド東部のエル・アフウェインの近くに廃墟となったイスラム都市マドゥナ英語版がある[22][23]。この遺跡にはミフラーブを持つ大きな長方形のモスクの跡があり、3メートルの壁が現存する。スウェーデン系ソマリ考古学者のサダ・ミレ英語版は、この遺跡を15~17世紀のものと推定している[24]

18世紀になると、氏族のまとまりがある程度確立した。このためこの時期の氏族集団が、イサックスルタン国英語版ハバル・ユーニススルタン国英語版ワルサンガリ・スルタン国英語版などと呼ばれることもある。ただしこれらの族長が中東で言うスルターンのような権力者であったか、その組織がスルターン国と呼ばれるほど確立されたものであったかどうかは不明である。また、ソマリ人の多くは遊牧民であり、移動生活をする者が多かったため、氏族である程度の居住範囲が決まっていたものの、今日的な意味での領土や国境があったわけではなく、氏族を超えた婚姻も行われていた。

近代/エジプトとイギリスの進出

1821年から1841年にかけてオスマン帝国領エジプトパシャであるムハンマド・アリーがこの地域に足場を築いた[25]

一方、19世紀になると、イギリスが国力を増して、世界各地に進出した。1825年にベルベラの港に入ろうとしたイギリスの船がソマリ人に襲われて複数の乗組員が殺された[26]。1827年にイギリスは数隻の軍艦をベルベラに派遣し、ソマリ人の部隊を降伏させ、イギリス国旗を掲げた船を安全に通行させることを約束させた。(イギリスによるベルベラ攻撃 (1827)英語版[27][28]

1839年にイギリスはベルベラやゼイラの対岸にあたるアデンを占領した。1840年、インド海軍のロバート・モレスビー大佐が「在インドイギリス政府代表」としてゼイラ総督とイギリスに貿易特権を与える条約を結んだ[29]

1869年にスエズ運河が開通し、紅海沿岸の重要性が増した。

1875年にエジプトがベルベラを占領。しかしイギリス人やイタリア人によるソマリランドの探検は続けられた[29]。一方、エジプトでは1879年からウラービー革命と呼ばれる騒動が発生し、途中から介入したイギリスが1883年からエジプトの統治をおこなった。

イギリスは1884年からソマリランドに住むソマリ人の各氏族と、各氏族を保護する条約を結んでいった。具体的にはガダブルシ英語版(1884)[30]ハバル・アワル(1884と1886)[30]イッサ(1885)[31]ワルサンガリ (1886) [32]:568などの氏族が相手だった(年代は文献で多少異なる)。

イギリス領ソマリランド

イギリス領ソマリランドの領域。今日のエチオピア領の一部も「予定地域」とされている。細字で書かれているのが氏族。ESA, GADABURSI, OGADENI, DOLBAHANTA, WARSANGERLIを除く氏族はイサック氏族の支族。

イギリスは1887年7月20日、ベルリン会議の調印国に対し、 イギリス領ソマリランドが保護領として成立したことを公式に通告した[33]

1888年には西のフランス領との境界が明確化された。東のイタリア領との境界は1894年に、南のエチオピアとの境界は1897年に協定を結んで明確化された[29]。なお、イギリス領ソマリランド東部に住む デュルバハンテ氏族は、イギリスとの協定を行っていなかったが、イギリスとイタリアとの協定でイギリス領ソマリランドに属するものとされた[34]

1896年、ソマリランドで野生動物の調査にベルベラから向かおうとする調査団

1901年頃からソマリ人のオガデン氏族英語版に属しデュルバハンテ氏族の母を持つサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンがイギリス軍と対立を始め、ソマリランド東部のタレーを拠点として一時期ソマリランド東部を占領した[35][36]第一次世界大戦が終わるとイギリスは反乱勢力を空爆するなどして1920年に鎮圧した[37]

1920年、イギリス政府は、ワルサンガリ氏族の族長がサイイド・ムハンマドの反乱に加担したとして、この族長をセーシェルに流刑にした。1928年に許され、最終的に族長に復帰した。

1920年、資金難となったイギリスの植民地政府は、民間投資を誘致するための公社を設立した。さらに1922年、ソマリ人に新たな税を課した。しかしブラオで新税に反対する武装蜂起が発生し、鎮圧のため集めたソマリ人部隊が命令を拒否したため、植民地政府の知事が交替した。新たな知事は徴税を諦めて民間投資を誘致しようとしたが、失敗して1926年には公社が解散した。1920年代末にはブラオで油田調査が行われたが、見つからなかった。農業や畜産業の振興にも失敗した。学校の設立も進められたが、ソマリ語での教育を目指したイギリス植民地政府とアラビア語での教育を主張した地元民とが折り合わずに進まなかった[38]

第二次世界大戦がはじまると、イタリアは1940年8月にソマリランドを一時的に占領したが、6か月後にイギリスに奪還された(ソマリランドの戦い[39]

ソマリランド独立への動き

学校教育が進まなかったこともあり、英領ソマリランドでは現地人の政治家が育たなかった。1947年に英領ソマリランド内で選ばれた氏族間のバランスを考慮した48人の評議員から成る評議会ができた。この評議会は実質的な権限を持たなかったが、イギリス人行政官と現地人との橋渡し役になった[40]

1949年11月、第二次世界大戦後のイタリア植民地の処遇がきめられ、イタリア領ソマリアは「国連総会による信託統治協定の採択から10年以内に独立国家として承認されなければならない」と定められた。イタリアのソマリア信託統治は1950年4月1日に正式に開始され、信託統治協定は1951年12月7日に公布された[41]

1955年、ニューヨークでエチオピアのソマリ人居住区ハウドの処遇について訴えるマイケル・マリアーノ英語版
1955年、ロンドンでハウドの処遇について訴えるイサック氏族の族長(右)と有力氏族ハバル・アワルの族長(左)

今日のエチオピアソマリ州北部に当たる地域ハウド英語版は、1935年にイタリア領となり、さらに1941年にイギリスの軍政下となった。この地域は将来的にソマリアが独立した際にソマリアの一部とする案もあったが、実際には1954年の条約でエチオピア領となった。[41] これはソマリ人の同意を得ずに進められたため、ソマリ人からロンドンのイギリス政府とニューヨーク国連本部に正式な陳情書が提出された。特にハバル・ジェロ氏族のカトリック教徒マイケル・マリアーノ英語版の抗議活動が知られる[40]

エチオピアへの領土の割譲が、ソマリランド独立運動のきっかけとなった。1956年イギリス政府は、将来的にイタリア信託統治領ソマリアとの統合の要望が出た場合には反対しない、という声明を発表した[40]

行政にソマリ人を登用する動きが加速され、1957年には政党制の導入が模索されたが、結局は氏族の代表者からなる24人の立法評議会となった[40]

1959年1月、イギリス政府は「ソマリランド評議会が望むなら、イタリア信託統治領ソマリアとのより緊密な関係を支援する」と発表した。2月、評議会ではイギリス政府が指名した17名に加えて、都市部ではラクダか家を所有している成年男子による選挙、地方は氏族の会合で選ばれた計12名が増員された。主にイサック氏族ハバル・ジェロ支族が支持するNUFが7議席、主にハバル・ジェロ以外のイサック氏族が支持するSNLが1議席、無所属が4議席を獲得した。ただしSNLは評議会の選挙枠が狭すぎるとして選挙のボイコットを発表していた。また、都市部の選挙も事実上は氏族からの選出だった[40]

1959年11月、評議会議員37名中の33名が選挙で選ばれることになった。また、閣僚の3名はイギリス政府の指名、4名は選挙された議員から選ばれることになった。選挙の結果、主にハバル・ジェロ以外のイサック氏族が支持するSNLが20議席、主に非イサック氏族(東部のデュルバハンテ、ワルサンガリ、西部のイッセ、ガタブルシ)が支持するUSPが12議席、主にイサック氏族ハバル・ジェロ支族が支持するNUFが1議席を獲得した。この他、非氏族の政党ソマリ青年同盟(SYL)からも立候補があり、NUFと連合を組んでいた。SYLとNUFの連合は総得票率が31%に上っていたにもかかわらず、小選挙区制の選挙ではこの連合の得票が分散したため、結果は前記の通りNUFの1議席にとどまった。閣僚の議員枠もSNLとUSPから任命された[40]

1959年12月、国連総会でイタリア信託統治領ソマリアの独立の時期が発表されたため、イギリス領ソマリランドでも南部との統合を速やかに実施したいという世論が高まった。イギリス領ソマリランド評議会は1960年4月、「我々の独立とソマリアの統一の日は1960年7月1日とする」という決議を採択した。イギリス政府もソマリランドとの良好な関係を維持するため、これに賛成した。ただし全てのソマリランド人が統合を望んだわけではなく、連邦制のような緩やかな連合を望む意見もあった[40]。イギリス領ソマリランドとイタリア信託統治領ソマリアの会合が、イタリア信託統治領ソマリアの首都モガディシュで行われ、連邦制ではなく統一国家、つまり内閣も議会も統合することがきめられた。イギリス政府は5月、BBCの放送をベルベラから続けることを条件に、ソマリア統合案を了承した[40]。ただし、12月に行われるはずの独立が7月に早まったことによって、法制度などの準備の時間が十分取れなかった[40]

現代

脚注

参考文献

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