1960年6月26日の独立式典でソマリア国旗に敬礼するソマリランド国の首相イブラヒム・エガル
イギリス領ソマリランドは1960 年 6 月 26 日に独立し、7月1日にイタリア信託統治領ソマリア と統合するまでの5日間、国際的に承認された独立国として存在した。ソマリランド国はアメリカを含む35か国から承認された[ 42] 。
たった5日間の独立ではあるが、今日のソマリランド政府はソマリランド独立の法的根拠として、このソマリランド国の存在をしばしば述べている[ 43] :168 。例えば2022年、ソマリランド大統領のムセ・ビヒ・アブディ はヘリテージ財団 での講演の中で、1960年7月1日のソマリア成立はあくまでもソマリランド国と旧イタリア信託統治領ソマリアとの連合であり、現在は旧イタリア領側の不誠実のため連合から脱退した状態である(つまり昔に戻っただけだ)と述べている[ 44] 。
これ以外にも、「アフリカの国境は旧植民地の国境を元にしなければならない」という理論でソマリランド独立の正当性が主張される場合もある[ 45] 。
なお、ソマリランドは英語、ソマリアはイタリア語で共に「ソマリ人の地」を意味する。つまり、イタリア領はイギリスではItalian Somalilandと呼ばれ、逆にイギリス領はイタリアでSomalia britannicaと呼ばれた。
1960年7月1日、ソマリランド国とイタリア信託統治領ソマリア は計画通りに統合してソマリア共和国となった[ 46] [ 47] 。初代大統領はソマリ青年同盟 (SYL)所属でハウィエ 氏族のアデン・アブドラ・ウスマン 、初代首相はマジェルテーン 氏族の アブディラシッド・アリー・シェルマルケ となった。旧イギリス領ソマリランド出身者としては、イサック 氏族のイブラヒム・エガル が務めた国防大臣が最高位だった[ 40] :113 。
1961年7月、ソマリア憲法の信任が問われた国民投票が行われた。しかし、新憲法はイタリア政府の案を元にしていたため、北部出身者は不満を持ち、旧イギリス領ソマリランド評議会の与党だったSNLはボイコットを呼びかけた。その結果、北部では推定有権者数60万人の内の10万人しか投票せず、投票者の過半数は反対票を投じた。しかしソマリア全体では150万票が投じられ、反対はわずか10万票という圧倒的多数で採択された[ 40] :113 。
1961年12月、旧イギリス領ソマリランドでクーデターが発生し、北部の主要都市を一時的に制圧したが、間もなく鎮圧された[ 40] :113 。
1964年の総選挙でソマリ青年同盟(SYL)が勝利した。野党当選者から21人が与党SYLに所属を変えた[ 40] :115 。大統領には継続してハウィエ氏族のアデン・アブドラ・ウスマンが指名された。首相はアブディリザク・ハジ・フセイン に変わったが、前任者と同じマジェルテーン氏族だった。アブディリザク首相は国政改革に意欲的で、閣僚に旧イギリス領ソマリランド出身者を増やした[ 40] :115 。
一方、旧イギリス領ソマリランド出身で前内閣に入っていたイサック 氏族のイブラヒム・エガル は、閣僚に入らなかったが、前首相のアブディラシッド・アリー・シェルマルケと懇意になって1966年10月に旧イギリス領ソマリランド与党だったSNLを脱退してSYL党員となった[ 40] :115 。
1967年6月、アブディラシッドが大統領となり、旧イギリス領ソマリランド出身でイサック 氏族のイブラヒム・エガル が首相に指名された。SYLは1969年の選挙でも勝利を収め、大統領と首相が継続して就任した。
1969年10月、アブディラシッド大統領が護衛に殺され、直後に陸軍将校だったモハメド・シアド・バーレ がクーデター を起こして政権を掌握した[ 49] 。首相のイブラヒム・エガルらは検挙され、幽閉された[ 40] :118 。
バーレ大統領は1974年にエチオピア で政変が起きると、エチオピアのソマリ人居住地域の反政府組織をひそかに支援し、非公式に軍隊も派遣した。1977年になるとソマリア国軍の大部隊をエチオピアに派遣した(オガデン戦争 )。エチオピア、ソマリア両国共に軍備が不足していたが、当初はソマリア側の勝利が続いた。しかしエチオピアはソビエト連邦 の支援を得ることに成功し、1978年にハラール で勝利して以後はソマリアに連勝した[ 40] :122 。
バーレ大統領はオガデン戦争の一環として、エチオピアに住むソマリ人のオガデン氏族を軍事支援した。しかしオガデン氏族は旧イギリス領ソマリランドに住むイサック氏族にも戦闘をしかけたため、イサック氏族はバーレ大統領の政策を批判した。これに対してすでに独裁者となっていたバーレ大統領は、イサック氏族を露骨に弾圧した[ 40] :122 。
1981年4月、イギリスとサウジアラビアに住むイサック氏族がロンドンで会合を開き、反政府組織ソマリ国民運動 (SNM)を設立した。SNMはやがてソマリランド独立の母体となる。ただし、当時のSNMは「ソマリランドの独立」を標榜しておらず、あくまでも反独裁大統領の組織だった[ 40] :124 。
一方、旧イギリス領ソマリランドの首都ハルゲイサでは、医療設備改善を目的に帰国したディアスポラ グループが政府の腐敗と人権侵害に批判的だったため、1981年からメンバーが次々に検挙されて拷問などが行われた。それに反対した学生などによる暴動が発生し、それに兵士が発砲して5人が死亡、200人以上が逮捕され、14人が20年以上の刑を受けた。ただし国際NGOなどの抗議を受けて8年後に釈放された[ 40] :125 。
1980年代のSNMの戦闘員
ソマリア政府はこの頃からタベレ(tabeleh)と呼ばれる責任制度を導入し、ソマリア北部の約20世帯ごとに政府寄りの人物をリーダーに指名して、メンバーの反政府活動や旅行などを政府に報告させた[ 40] :125 。また、イサック氏族の近隣に住むデュルバハンテ 氏族やガダブルシ氏族に武装をさせてイサック氏族との対立をけしかけた。さらに閣僚だったイサック氏族のウマル・アルテ・ガリブ などを虚偽の理由で逮捕した。1982年、旧イギリス領ソマリランドの反政府組織SNMはエチオピアに拠点を移した。また、イエメンはSNM寄りの民兵を軍事支援して、SNMは1983年に政治犯を収容していたマンデラ刑務所 (英語版 ) の囚人を解放させた。それに対してバーレ大統領はマンデラから半径50キロメートルの範囲を無差別爆撃した。政府による家畜の没収や交易への妨害なども行われた[ 40] :127 。
1988年のソマリアによるブラオ爆撃を防いだ記念として、爆撃に使われたMiG-17 を模して作られた記念碑
1988年になると、エチオピア、ソマリア両国で、政権を揺るがすほどの反政府運動が行われた。そこでエチオピアとソマリア両国政府は、互いの反政府組織支援を止める協定を結んだ。そのためSNMはエチオピアの拠点を追われ解散の危機に追い込まれた。1988年5月、起死回生を狙ったSNMは旧イギリス領ソマリランドの領域に侵入してブラオとハルゲイサを短期間制圧した[ 40] :127 [ 50] [ 51] 。ソマリア政府はSNM支配地域を無差別爆撃し、犠牲者の数は5千~6万人(諸説あり)に上った。これは現在のソマリランドではイサック虐殺 (英語版 ) と呼ばれている。40万人の住民がエチオピアのハートシェイク (英語版 ) に[ 52] [ 53] 、さらに40万人が国内に避難した[ 54] [ 55] 。このため、イサック氏族の多くが反政府的になり、SNMの支持率が上がった[ 40] :128 。
1990年、東部に住む非イサックであるデュルバハンテ 氏族の最有力の長老である ガラド・アブディカニ・ガラド・ジャマ が、デュルバハンテ氏族もSNMに参加させて欲しいと申し入れたが、それまでデュルバハンテ氏族はバーレ大統領に近い氏族としてむしろイサック氏族の攻撃に積極的だったこともあり、SNM側に断られた[ 40] :131 。ただし停戦には合意した[ 40] :132 。一方、SNMは西部に住むガダブルシ氏族とも、1991年2月に会合して停戦で合意した[ 40] :132 。
ソマリランド独立宣言の文書と各氏族代表者の署名。1991年5月5日付。
1991年4月、ボラマ で、SNM (イサック 氏族)、デュルバハンテ 氏族、ガダブルシ氏族、ワルサンゲリ氏族、イッセ 氏族が会合し、ソマリアとは無関係な独立行政を確立する決議をした[ 40] :133 。各氏族長老の署名は5月5日、宣言は5月18日であり、これがソマリランド独立宣言とされる。この会議で、今後2年間はSNMがソマリランドを暫定統治することになり、SNM議長のアブドゥラフマン・アフメド・アリ・トゥール が大統領に就任した[ 40] :134 。
ただしデュルバハンテ氏族は、ソマリランド独立問題で議論が2分しており、ボラマの会合には独立賛成派のみが参加していた[ 40] :134 。また、ソマリランドの再独立時点で、SNMが圧倒的に軍事的優位を持っていたため、非イサック氏族はそれに従わざるを得なかった、とする分析もある[ 56] 。
なお、現在のソマリランド政府は5月18日を「独立記念日」ではなく「主権回復の日」としており、独立記念日はかつてソマリランド国が独立した(1960年)6月26日とされている[ 57] 。
この時のSNMには大きく2つの派閥があり、1つは大統領派で主に事務部門、もう一つは「赤い旗」(ソマリ語でCalan Cas)と呼ばれた軍事部門だった。なお「赤い旗」は彼らの反対派からの呼称であったとする資料もある[ 58] 。「赤い旗」のリーダー格は大佐のイブラヒム・アブディラヒ・デガウェインだった。デガウェインは「赤い旗」の管理下にあったベルベラ港の利権を維持しようとした[ 56] 。
1992年2月、ソマリランド政府は民兵の武装解除を進めた。これに反発する民兵がブラオ で反乱し、1週間で300人が死亡する戦闘となった[ 40] :134 。その数週間後、政府はソマリランド内の重要な貿易港である ベルベラ 港を国営化しようとした。それに対してベルベラを拠点とするイサック氏族の支族ハバル・アワル の支族イッサ・ムサ (英語版 ) は反対した。ソマリランド大統領は政府軍として同じハバル・アワルの支族サード・ムサ (英語版 ) を中心とする部隊を派遣しようとしたが、サード・ムサは拒絶した。そこでトゥール大統領は自分の出身であるハバル・ヨーニス (英語版 ) 氏族を中心とする部隊を派遣して、戦闘が断続的に半年間継続した。最終的には反大統領のイッサ・ムサ氏族が勝利し、大統領側は重要な収入源を失った[ 40] :135 。
これを受けて首都でソマリランド与党と野党の話し合いが行われ、その場ではベルベラ港を政府の管理下に置くことで合意が得られたが、イッサ・ムサ氏族の長老は自分たちの氏族だけが不利な扱いを受けているとして拒絶した。1992年9月、ベルベラで非イサックのガダブルシ氏族が調停役となって、ハルゲイサ 空港、ゼイラ 港などの施設も公平に政府管轄するとの条件で和平が成立した[ 40] :136 。この時は捕虜や保障の問題などが解決していなかったが、1992年11月にシェイク (英語版 ) の和平会議で解決した。ただし一連の騒動で政府の権威は大きく失墜した[ 40] :136 。
2代目大統領に選出されたエガル(花輪をした男)と前大統領トゥール(中央右)
1992年末、権力の掌握を諦めたトゥール大統領は、ソマリランドの長老会議(グルティ)に調停を依頼した。その結果、長老会議が主体でボラマ の町で、後に国民和解のための大会議 と呼ばれる会議が開催された。会議には代表団150人、関係者700~1000人が集まった[ 40] :138 。結果、氏族の長老で構成された長老院 (通称は引き続きグルティ)が設立されることとなった。また、選挙で議員を選ぶ衆議院も設けられることになった(実際の衆議院の設立は2005年)。グルティの委員は氏族単位で割り振られることとなり、イサック氏族が90議席、ダロッド氏族が30議席、ガダブルシとイッセ氏族が合わせて30議席を得ることとなった。なお、このグルティは投票よりも話し合いを重視したものであり、会議は4カ月も続き、有力参加者の一人は「投票は争いを生む。話し合いを選ぼう」と呼び掛けたという。時には「議長が体調を崩した」として投票を取りやめ、話し合いの時間を延長したこともあった[ 40] :139 。
選ばれたグルティは1993年5月にイブラヒム・エガル を任期2年で大統領に指名した。エガルが選ばれたのは、エガルがSNMなどの組織と無関係で中立的な立場だったからだと言われている[ 59] :446 。一方で、SNM軍事部門の「赤い旗」が強く推したからとする分析もある[ 56] 。
この後しばらく、ソマリランドの長老院(グルティ)は首都ハルゲイサではなく、ボラマで行われた。まだ衆議院が設立されていなかったため、行政の中心はハルゲイサ、立法の中心はボラマという体制が続いた。また、グルティはだんだんと政府寄りの組織と見られるようになった[ 59] :448
「国民和解のための大会議」で直ちにソマリランドが平和になったわけではなかった。前大統領が属する有力氏族の一つハバル・ヨーニス (英語版 ) は、大統領職を得られなかったため、他の役職も辞退した。イサック氏族にはいくつか有力な支族があったが、歴史的に栄えた氏族と、現時点で栄えている氏族が一致しておらず、さらに当時は氏族の所属人口を示す統計もなかったため、最大派閥を自任していたハバル・ヨーニスは自分たちの権利が不当に削られているとして不満を持った。ハバル・ヨーニス氏族に属する前大統領は、ソマリアの首都モガディシュを訪れて統一ソマリアへの参加を表明しすらした[ 40] :140 。
1993年、エガル大統領はベルベラ港湾管理局を設立し、大統領府の直轄とした。これにより、SNM軍事部門などに資金が流れることを防いだ[ 56] 。一方、エガル大統領は自分が属するハバル・アワル氏族が支配するベルベラ港の関税を引き下げ、その見返りとしてハバル・アワルの実業家から多額の融資を受けた。エガル大統領はこの資金を使ってSNMの武装解除を進めると共に、政府の運用資金とした[ 59] :448 。さらに1994年後半、前大統領が発注していたソマリランド・シリング 紙幣が入荷し、それを現大統領のエガルが政府に有利な条件で流通させたため、国民は政権への不信を募らせた。特にハバル・ヨーニス氏族から反発された[ 59] :448 。ハバル・ヨーニス氏族の多数の族長は、ソマリアとの再連合を望むと表明した[ 56] 。
ソマリランドの首都ハルゲイサの空港を地盤としていたハバル・ヨーニス氏族は、乗客から勝手に利用料を徴収した。1994年10月には兵力を使ってハルゲイサ空港を占拠した。政府はハバル・ヨーニス氏族の地盤であるブラオの交易所を押さえようとしたため、こちらでも戦闘となった。これらの争いで、ブラオからは8万5千人、ハルゲイサからは20万人が避難したともいわれる(これほどではなかったという説もある)。さらに、アウダル地域のゼイラ港とジブチとの交易所についても地元氏族の民兵と政府との間で戦闘が発生した。これらの地域では民兵同士の争いも頻発した。しかしエガル大統領は氏族の力を借りずに政府による問題解決にこだわったため、講和は難航した[ 40] :143 。
1994年11月、ソマリランド政府がハルゲイサ空港を武力で占領したため、戦闘が発生した。この戦闘には非難が集まり、まずスウェーデン のイェーテボリ で、1995年4月にはイギリスのロンドンで講和会議が開催された。会議の資金はソマリランドディアスポラ が提供した[ 40] :144 。
1995年、エガル大統領は任期満了を迎えたが、戦闘が続く国内は選挙を行える状態ではなかったため、議会は18カ月の任期延長を決めた。野党はこれを批判した[ 40] :146 。もっとも、国内での戦闘の頻発は必ずしもエガル大統領に指導力が無いことを意味するものではなく、むしろ氏族との小規模な戦闘を通じて政府権力を強めていったとする研究者もいる[ 60] :77 。
1995年10月、エチオピア のアディスアベバ でも講和会議が行われ、「ソマリランド和平委員会」が設立されて、政府と反政府の橋渡しを務めた[ 40] :145 。ソマリランド内の氏族の対立はなかなか無くならなかったが、1996年9月にベール (英語版 ) でソマリランドの代表氏族であるハバル・ユーニスとハバル・ジェロの紛争終結に関する合意が成立した[ 40] :151 。
一方で、エガル大統領も 長老院 に働きかけて、1996年10月に首都ハルゲイサで和平会議を開催した[ 59] :449 。この会議にハバル・ジェロ氏族を呼ぶことは失敗したが、ハバル・ユーニス氏族を参加させることに成功した[ 40] :151 。この会議は成功し、以後は氏族のコントロールは長老会議よりも政府が請け負うこととなった[ 59] :449 。また、これまで国際機関のいくつかがボラマにあったが、エガル大統領は首都ハルゲイサに移転させた。これにより、ボラマの経済力は減退した[ 59] :450 。
1997年、ソマリランドで暫定憲法が制定され、長老院 の任期を6年にすることなどが定められた。(ただし長老院改選は期限が来るたびに延長され、2024年時点において1回も行われていない。)
1998年7月、ソマリランドの東隣でプントランド の設立が宣言された。プントランドはソマリランドが領有を宣言しているワルサンガリ氏族やデュルバハンテ氏族の居住地域も領域に含まれると宣言したため、ソマリランドとは潜在的な紛争状態となった。
1999年、ソマリランド政府は東部のサナーグ地域 とスール地域 に行政と警察の拠点を作ろうとして、東隣りのプントランド と紛争の危機となったが、この時はエガル大統領、プントランド大統領共に争いの発生を望まず、話し合いで決着させてこれらの地域の帰属については曖昧なまま残された[ 43] :167 。
1999年11月、エガル大統領がボラマを訪問した際、元ソマリランド大統領候補だった人物が地元住民の集団を率いてソマリランド独立反対を表明した。これはここ数年でソマリランド独立反対が公式に表明された事件だった[ 43] :167 。
2000年1月、ソマリランドのベルベラ 港がエチオピアと海外との交易に使われることになり、ベルベラからエチオピアに続く道の整備が始まった[ 61] 。2000年頃からエチオピアに飢饉が発生し、10万トンの食糧がソマリランドのベルベラ港経由でエチオピアに送られた。これによりエチオピアによるソマリランド承認が期待されたが、実際には実現しなかった。これは、エチオピア政府がソマリランド独立がソマリアの不安定さを助長すると懸念したからとする分析もある[ 43] :170 。
2000年以降、ソマリランド政府は地方政府が直接税金を取ることに制限をかけた。これにより地方政府は中央政府への依存を高めた[ 59] :450 。
1999年3月から、ソマリアの和平を目指した会議が、ジブチ の大統領の斡旋を元に政府間開発機構 (IGAD)の主催でジブチで行われていた。2000年4月、この一環でジブチの代表団がソマリランドを訪問したが、ソマリランド政府は入国を拒否。その報復として、ジブチ政府は在ジブチのソマリランド代表を国外追放処分にした[ 62] 。2000年8月、ジブチで再度ソマリア和平会議が開催され、アブディカシム・サラ・ハッサン を暫定大統領とした「ソマリア暫定国民政府」が設立されたが、ソマリランドは参加しなかった。アブディカシムは旧イギリス領ソマリランド出身でデュルバハンテ 氏族の アリ・カリフ・ガライド を首相に、イサック氏族のイスマイル・マフムド・フレ (英語版 ) を外相に任命した[ 43] :168 。この時はソマリランド以外でも、ソマリアの首都モガディシュを拠点に持つ主要な軍閥のいくつかが暫定国民政府には参加しなかった。
2001年、イギリス政府はソマリランド憲法の国民投票に関して、EUがこれを歓迎すべきだとする声明を出すべきだと提案した。しかし、特にイタリアが強く反対し、実現しなかった[ 43] :171 。
2001年5月、ソマリランド政府は、エチオピアがソマリランドのパスポートを受け入れ、定期的な航空便も運行していると発表した[ 61] 。
2001年5月31日、ソマリランドで、ソマリランド独立を明示したソマリランド憲法採択の国民投票が行われた。ソマリランド政府は6月5日に97%の信任で可決されたと発表した。エガル大統領は「ソマリランド国民の85%はソマリランドからの分離独立を支持した」と主張した。ただしソマリランド独立に反対する人々はこの国民投票をボイコットしており、実際の独立賛成派は70%程度だったとする分析もある[ 43] :165 。また、形式的には政府は氏族とは関係ない個人の投票で運営されることとなったが、実質的には投票は依然として氏族の意向を強く反映していた[ 63] :10 。一方で、憲法採択(と2002年の普通選挙の実施)により、ソマリランドの政治が長老政治から民主政治に移行したとする分析もある[ 56] 。
2001年7月、ソマリランド衆議院議員36名がエガル大統領の汚職を告発し、大統領の解任を要求したが、成功しなかった[ 43] :166 。
2002年、初めての直接選挙 となる地方議会選挙が行われた[ 45] 。
2002年にエドナ・アダン・イスマイル が設立した産科病院
エガル大統領は在任中の2002年5月に死去し、副大統領のダヒル・リヤレ・カヒン が大統領代行となった。カヒンは2003年の大統領選に挑んで当選した。これは、ソマリランドで初めての直接選挙 による大統領選挙となった[ 45] 。この大統領選挙は外国からも自由で公正な選挙だったとして評価されている[ 59] :452 。就任当初はカヒンがソマリランドの主体氏族イサックの出身ではないことから、不安定化の要因になるとの懸念もあった[ 43] :175 。しかし後年ではイサック氏族以外の者でもソマリランドの大統領になれることを証明したとしてむしろプラスに評価されている。ただし、カヒンはソマリア独裁大統領だったバーレの元で国家安全保障局の高官を務めており、元同僚を顧問や部下として登用したため、非難が集まった。また、大統領夫妻を批判する記事を掲載した新聞記者を「政府に対する虚偽報道」を理由に逮捕するなど、強硬な政策を取った[ 59] :453 。
2002年の時点で、ソマリランドの国家予算の70%は軍と警察の人件費に当てられていると言われている。ただしこれはソマリランド独立の際の民兵の再雇用という一面もあり、これを減らすと深刻な治安悪化の原因になっていたとする分析もある[ 43] :162 。
2003年12月、デュルバハンテ氏族の支族同士が戦闘状態となり、プントランド政府は仲介を口実にソマリランド南東部にあるデュルバハンテ氏族の都市ラス・アノド を軍事占領した。
2005年に下院議員選挙が行われた。下院議員選挙としては初めての直接選挙となった[ 45] 。主要氏族であるイサック氏族の議員の割合が増加し、相対的に東部のデュルバハンテ氏族やワルサンガリ氏族の割合が減少した。この選挙は一般には自由で公平であると評価されているが、一部で買収や不正行為もあったと言われている[ 63] :10 。
2007年9月、プントランド政府内の権力争いがあり、デュルバハンテ氏族の閣僚を支持する軍閥がソマリランド軍を名乗ってラス・アノド を軍事占領し、翌10月にソマリランド本軍が進駐した。これにより、2023年までラス・アノドはソマリランドの支配下となった。
2008年、カヒン大統領は大統領選挙を延期した[ 63] :11 。これはカヒン大統領が権力に固執した結果だとする説もある[ 45] 。
2008年12月、ソマリア沖の海賊 に対して、ソマリランドは沿岸警備隊を使った対策が進んでいるのに対し、東のプントランド はむしろ海賊の拠点になっていると報じられている[ 64] 。
2009年10月、ソマリランド南東部に住むデュルバハンテ氏族が軍閥「SSC」を結成してソマリランドに反乱した。しかし氏族内部での対立などもあり、2011年にSSCは崩壊した。
2014年、首都ハルゲイサの両替商。インフレのため大量の紙幣が準備されている。
2010年6月、直接選挙による2回目の大統領選が行われ、アフメッド・シランヨ が当選した[ 45] 。この時の有権者登録は107万人分行われたが、より信頼性が高いとされる2016年の登録では87万人にとどまっており、かなりの数の不正登録が行われた可能性が指摘されている[ 45] 。
2012年1月、デュルバハンテ氏族は新たな軍閥チャツモ国 を設立した。当初は2012年の設立が確実となったソマリア連邦 への加盟を目指していたが、チャツモ国の首都とされたラス・アノドの占領もできず、軍事部門のみが各地を放浪した上で2017年10月にソマリランドへの再統合が宣言された。
2012年3月、ソマリランド政府は平和的なデモ隊を解散させるためにテロ対策警察部隊を使用した[ 63] :10 。
2012年時点の世界銀行 の推定では、ソマリランドの一人当たりのGDPは348ドルであり、世界で4番目に貧しい国であった。(2021年には775ドルまで上がっている[ 65] 。)また、労働の約70パーセントが牧畜とその流通に関係していた。海外に暮らすソマリランドディアスポラ100万人から年間5億ドルが送金されていた[ 42] 。
2015年、シランヨ大統領は当初の任期を迎えたが、有権者登録に時間がかかっていることを理由に9か月延長されることとなり、最終的には2年間延長された[ 45] 。
2016年5月、アラブ首長国連邦 の港湾運営会社DPワールド が、ソマリランドのベルベラ 港に巨大な投資をすると表明した。これはソマリランドの利益にとどまらず、海を持たない隣国エチオピア がジブチ 以外の経路で輸出ができるようになるという意味もある。ソマリア政府は、ソマリア政府の許可なく話を進めているとして反対を表明した[ 66] 。
2017年9月、英BBCは、ソマリランドではインフレが進み、現金決済は少額を含めて電子決済 が一般的になったと報じた。ある商店では電子決済が2年前の5%から40%以上に急増した[ 67] 。
2017年12月、ムセ・ビヒ・アブディ が第5代ソマリランド大統領に選出された[ 45] 。この選挙は不正を防止するためサハラ以南では初となる虹彩認識 が採用され、かなり高い割合の有権者に対して実施された[ 45] 。
2018年1月、ソマリランド軍はラス・アノド の東でプントランド軍の基地があるトゥカラク を戦闘の上、占領した[ 68] 。
2018年1月、ソマリランド議会は女性の人権に関わる法律を可決した。この法律で、女性に性被害を与えた男性に厳罰を科すことなどが定められた[ 69] 。
2020年、中華民国(台湾)総統の蔡英文 と会談するソマリランド外務大臣
2020年9月、ソマリランド政府は中華民国 (台湾)に駐在員事務所を開設して国交を結んだ。台湾は国連加盟国ではないものの、国連加盟国の数か国から国家承認されている。これにより、ソマリランドは他国から初めて正式に承認されたことになった[ 70] 。ただし2024年時点で台湾以外にソマリランドを承認している国は無い。
2021年、衆議院選挙に投票する女性
2021年5月、ソマリランドで2回目となる衆議院選挙が実施された。
2021年10月、ソマリランド政府は、エリガボ に住んでいた2400人など、ソマリランド国籍を持たない7000人以上の住民を国外追放処分とした[ 71] 。
2022年8月、ソマリランド軍はスール地域 でプントランド軍最大の基地があるボアメ を占領。プントランド軍は反撃せずに撤退した。これにより、スール地域のほとんどの町はソマリランドの支配下となった[ 72] 。
2023年2月、ソマリランド南東部のスール地域の都市ラス・アノド でデュルバハンテ氏族の大規模な反乱が発生。ソマリランド国内外に28万人が避難した[ 73] 。反乱勢力はSSCチャツモ国 を自称しており、2023年10月にソマリア連邦政府はSSCチャツモ国を承認したと報じられている[ 74] 。
2024年1月、ソマリランドとエチオピアの間で覚書が取り交わされた。この内容は非公開だが、両国首脳から、ソマリランド海岸のエチオピア海軍への貸与、エチオピアによるソマリランドの国家承認などが含まれている可能性が示唆されている。米国、トルコ、エジプトなどは改めて、ここがソマリア連邦政府の主権地域だと表明した[ 75] 。
2024年11月、選挙によってアブディラフマン・モハメド・アブドゥラヒ が当選し政権交代が起こった。同年12月12日 大統領に就任した。