タキン・バテインティン
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1914年、タニンダーリ地方域タヴォイ(現ダウェイ)生まれ。父親は中国系の零細商人、母親はビルマ族だった[1]。
幼い頃から知的好奇心旺盛で、チャールズ・ディケンズ、ウォルター・スコット、バイロン、ジョージ・バーナード・ショー、ヴィクトル・ユーゴー、マーク・トウェイン、ジャック・ロンドンなどを英語で読んでいたのだという[1]。
1931年に高校を卒業し、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)に進学したが、学費が払えず、中退を余儀なくされた。バテインティンはこの時初めて植民地支配の不公平性と金貸しの権威に対する疑問を感じたと語っている[1]。
ビルマ共産党(CPB)入党
その後、バテインティンはタキン党に入党してタキン・バテインティンとなった。1939年には暴動扇動の罪により、6ヶ月間投獄されている。同年にCPBが結成された数年後、バテインティンはCPBにも入党。バテインティンはナガニ図書クラブを利用してマルクス主義文献を読み漁り、既にマルクス・レーニン主義に馴染んでいたと語っている[1]。
1940年8月、タキン・アウンサンらが中国共産党との接触を図るべく中国に渡った後、日本の憲兵に捕らえられ、日本と協力してビルマ独立を目指すことになった。しかし、バテインティンらはこれを裏切り行為と見なし、抗日闘争の準備のため地下に潜伏。1944年1月には実質消滅状態にあったCPBを再建した[2]。
1945年3月27日、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日武装蜂起した際には、CPBもAFPFLの一員としてこれに加わり、バテインティンは地元タヴォイの第5軍管区の政治委員を務めた[2]。
反乱
1945年5月、日本軍が撤退してイギリス支配が回復したが、独立交渉の過程でCPBは分裂し、さらにAFPFLからも追放された。そんな中、1947年1月、バテインティンは大英帝国共産党会議にCPB代表として出席し、イギリス諜報機関の監視下でヨーロッパ各地を巡った[2]。
1948年2月には、コルカタで開催されたインド共産党第2回大会にCPB代表団の1人として参加。この際、同時に開催された青年会議と合わせて、この場で東南アジア全域における共産主義蜂起のマスタープランが策定され、2つの会議に出席したCPBの理論的支柱・ハメンドラナス・ゴシャルが、『ビルマの現在の政治状況とわれわれの課題について(ゴシャル論文)』を書き、「農村から都市部を包囲する」共産主義者の反乱を促したという説が、かつてミャンマー研究者の間で広く流布していた[2]。
しかし、1985年にバーティル・リントナーからインタビューを受けたバテインティンはこの説を否定している[2]。
そんなのはナンセンスだ...私たちはオブザーバーとしてそこにいたが、武装闘争の問題は議論すらされなかった。もちろん、フィリピン、マラヤ、ベトナムの姉妹政党の代表者もいた。オーストラリア共産党事務総長ランス・シャーキーと、ソ連から来たオルガ同志という女性もいた。しかし、武装闘争に訴えるという決定は私たち自身のものであり、コルカタでのあれこれの会議とはなんの関係もない。 — タキン・バテインティン
同年3月28日、首相のウー・ヌはCPB幹部の一斉検挙に踏み切った。バテインティン含むCPB幹部たちは4月末までに全員ヤンゴンを脱出し、5月にタウングー近郊の小さな村に集まり、「農村から都市を包囲する」武装闘争路線の方針が採択、軍事部門のビルマ人民解放軍(People's Liberation Army of Burma)を結成し、長く続く武装闘争に入った[3]。
中国亡命
初期の反乱でCPBはペグー・ヨマの農村部に拠点を築き、バテインティンは副議長に就任した。しかし、1951年ピンマナで開催された会合で、ウー・ヌ政府と組んでシャン州を侵略していた中国国民党(KMT、〈泰緬孤軍〉)を攻略する「平和連合政府」の方針が可決されると、これに反発したバテインティンらは中国に軍事支援を求めるべく、中国ヘの亡命を図った[4][5]。
私は1952年に中部地域を離れた...私は北へ旅を続けたが、一行がカタ近郊のエーヤワディ川を渡るまでにはほぼ1年かかった。国軍の3個大隊が私たちの行く手を阻もうとしていたのだ。私は背骨の痛みにも苦しんでいた。最終的に、象に乗って、1953年にカチン州ナルンの東から、少数の仲間とともに雲南省に渡った。 — タキン・バテインティン
計143人のCPB幹部が中国へ亡命したが、期待した軍事支援は得られず、彼らは四川省や北京で政治教育を受けた。バテインティンには中国のパスポートを与えられ、モスクワで開催された共産党大会に出席したり、1963年にはハノイを訪問し、ホー・チ・ミンと会談した[4]。
同年、ネ・ウィンが各武装勢力に和平交渉を呼びかけると、CPBもこれに応じ、中国亡命組からもバテインティンら29人が会議に参加したた。和平交渉は決裂したが、交渉の途中でバテインティンらはヤンゴンを抜け出してペグー・ヨマの党本部に赴き、無線送信機やその他の援助物資を持ち込んだ。これにより、1950年初頭から途切れていた中国亡命組とペグー・ヨマとの間の連絡手段が整った。会議終了後、バテインティンともう1人の幹部は四川省に戻ったが、その他27人はペグー・ヨマに赴き、「中国帰還組」として国内の事実上の党指導者層となった[6]
議長就任
中国に帰国後、バテインティンは、「指導者5人組」という新指導部を発足させ、中緬国境沿いのビルマ北東部に「解放区」を設置し、中国の支援を得てビルマ中央部に進攻し、ペグー・ヨマの北京帰還組と合流するという計画を立てた[7]。長い準備期間の後、1968年1月、3つのCPBの部隊がシャン州北部モンコーに侵入し、8月までにシャン州北東部に3,000平方kmの地域を支配下に収め、「北東軍区」(North-East Command)を設置。北東軍区は「解放区」とも呼ばれ、中国の支援を受けて大きく発展した[8]。
1975年3月、ペグー・ヨマに潜伏していたCPB議長タキン・ジンが戦死し、バテインティンが新議長に就任した[9]。しかし、1976年に毛沢東が死去して鄧小平が実権を握ると、中国からCPBへの支援は縮小し、党勢が傾き始めた[10]。