バガスン
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バガスン(モンゴル語: Baγasun、生没年不詳)とは、16世紀前半のジャルート部の将。モンゴル中興の祖として著名なバト・モンケ(ダヤン・ハーン)に仕え、ダラン・テリグンの戦いなどの戦闘で武功を残し、ダヤン・ハーンの娘トロルト公主を娶ったことで知られる。
バガスン・ダルハン(モンゴル語: Baγasun darqan)、バガスン・タブヌン(モンゴル語: Baγasun tabunung)とも。
バガスンは史料上で「五オトク・ハルハのバガスン」もしくは「ジャルートのバガスン」と呼称される[1]。ハルハ・トゥメンは早くから左右翼に分かれており、この内右翼ハルハもしくは内ハルハと呼ばれる集団がジャルート部を含む「五つのオトク」で構成されており、「五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)」の名称を有していた。よって、バガスンはハルハ・トゥメンという大集団の中の、ジャルート・オトクという小集団を率いる将であった。
バガスンの事蹟については、ダラン・テリグンの戦いでの活躍が最も知られている。ダヤン・ハーンは「サイト(Sayid、「異姓貴族」とも意訳される)」と総称される、チンギス・カンの血を引かない領主の排除を進めており、その中で右翼三トゥメン(トゥメト・オルドス・ヨンシエブ)が叛旗を翻した。これを受けて、ダヤン・ハーンは自らに忠実な「左翼三トゥメン(チャハル、ウリヤンハン、ハルハ)」と、ホルチン部・アバガ部を率い、右翼三トゥメンとダラン・テリグンの地で決戦を挑んだ。この時、各種モンゴル年代記はホルチン部のオルダフハイ王とボルハイ父子、サイン・チャキジャ、ウリヤンハンのバヤハイ・バートル、五オトク・ハルハのバガスンら五人が先鋒として奮戦し、勝利に大きく貢献したことを特筆する[2][3]。
戦後、ダヤン・ハーンは論功行賞を行う中で先述の5人の先鋒を高く評価し、大ダルハンの称号、紅い勅書、黄金の印等を与えたという[1]。そして、5人の先鋒の中でも特にバガスンを選び、自らの唯一の娘トロルト公主を娶せた[1]。これによって、バガスンは「壻」を意味する「タブヌン(tabunung)」を称するようになった[1]。
また、『蒙古源流』によると、ダヤン・ハーンの晩年にウリヤンハン・トゥメンが背いたため、ダヤン・ハーンは自らチャハルとハルハの二つのトゥメンを率いてこれを討伐したという[4]。後に右翼三トゥメン(トゥメト・オルドス・ヨンシエブ)を率いた息子のバルス・ボラトも合流し、ハルハのジャルートのバガスン・ダルハン・タブヌン、チャハルのジョートのサイン・チャキジャの息子のエンケベイ・コンデレン・ハシハ、オルドスのハルハタンのバイチュフル・ダルハン、トゥメトのハンリンのアルジュライ・アハラフら4名が奮戦してウリヤンハン軍に勝利を収めたとされる[4]。しかし、他史料の記述からウリヤンハンの討伐が行われたのはダヤン・ハーンの没後、1524年〜1538年の間のことであり、この戦闘でのバガスンの活躍が史実に基づくものであるかは不明である[5]。
バガスンは基本的にモンゴル年代記でのみ言及される人物であるが、モンゴル史研究者の特木勒は漢文史料上に見える朶顔衛の「把児係」に比定する説を提唱している。特木勒は『明孝宗実録』で1504年(弘治17年)6月に「朶顔衛のアルキマルが小王子(ダヤン・ハーン)と通和し、小王子は一小女をアルキマルに与え姻戚関係を結ぼうとしている」との記述[6]があることに注目し、この「一小女」こそトロルト公主ではないかと推定する[7]。このアルキマルの孫に把児係なる人物がおり、『明世宗実録』によると「北虜小王子と連婚した」という[8][7]。以上の記録を踏まえ、特木勒は把児係こそが バガスンで、小王子(ダヤン・ハーン)はアルキマルと姻戚関係を結ぶため、その孫であるバガスンに「一小女=トロルト公主」を与えたのではないか、と論じている[9]。しかしその後、烏雲畢力格は朶顔衛がハルハに属したという事実は存在しないこと、Baγasunは人名というよりもむしろ「ベスト(besüd)の人物」と解釈すべきことを指摘し、特木勒の説は成り立たないと批判している[10]。
脚注
- 1 2 3 4 岡田 2004, pp. 234–237.
- ↑ 森川 2023, pp. 37–38.
- ↑ 岡田 2004, p. 234.
- 1 2 岡田 2010, p. 309.
- ↑ 岡田 2010, p. 315.
- ↑ 『明孝宗実録』弘治十七年六月辛巳(二十二日),「……於是引自虜中回者審之、皆能漢語一人云聞有議者欲内犯三人云、朶顔衛頭目阿児乞蛮領三百人往北虜通和、小王子与一小女寄養、似有誘引入寇之跡。各具掲帖以聞」
- 1 2 特木勒 2004, p. 56.
- ↑ 『明孝宗実録』嘉靖三年四月戊戌(四日),「給事中陳時明言、朶顔花当之子把児孫頃与北虜小王子連婚、京城東北一帯原無辺塞、所恃者嶺木岑蔚……」
- ↑ 特木勒 2004, p. 57.
- ↑ 烏雲畢力格 2021, pp. 46–47.
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 森川哲雄『15世紀ー18世紀モンゴル史論考』中国書店、2023年
- 吉田順一『アルタン・ハーン伝訳注』風間書房、1998年
- 特木勒「十六世紀後半葉的朶顔衛」『内蒙古大学学報 : 人文・社会科学版』36、2004年
- 烏雲畢力格Oyunbilig『青冊金鬘:蒙古部族与文化史研究』上海古籍出版社、2021年
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