オルダフハイ
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出自
『シラ・トージ』などのモンゴル年代記によると、オルダフハイは15世紀半ばのホルチン部領主ボルナイ王の息子とされる[3]。ボルナイが死去した後はその弟のウネ・ボラトが一時地位を継承し、マンドゥフイ・ハトゥンに求婚したが断られたとの逸話が年代記で特筆される[4]。その後、マンドゥフイはチンギス・カンの末裔であるバト・モンケと結婚し、これによってバト・モンケは1479年(諸説あり)に即位しダヤン・ハーンと称した[5]。それからほどなくオルダフハイもホルチン部領主の地位を継承し、ダヤン・ハーンとほぼ同時代人としてモンゴル年代記で言及されるようになる。
1488年(弘治元年)には、迤北の伯顔猛可王(ダヤン・ハーン)ととも明朝に使者を派遣した人物として「阿児脱歹(Urtutai)王・脱脱孛羅(Toqto'a bolad)王・知院脱羅干(Tölögen)王・阿里麻(Aliman)」という名が挙げられており[6]、この内「阿児脱歹王」こそオルダフハイ王を指すものと考えられている[3]。また、この記述によってオルダフハイ王が早い段階からダヤン・ハーンの有力な臣下であったことが窺える[3]。
右翼三トゥメンの討伐
いわゆる北元時代の前半(14世紀〜15世紀)、ハーンはサイト(sayid)と総称される有力貴族の傀儡となることが多かったが、ダヤン・ハーンはこのような情勢を打破すべくサイトとの抗争を始めていた。ダヤン・ハーンは手始めに義父でもあるイスマイル太師を討ち、西方のオイラトを退け、自らの息子のウルス・ボラトを「右翼三トゥメン(トゥメト・オルドス・ヨンシエブ)」支配のために派遣した。しかし、右翼三トゥメンはこのようなダヤン・ハーンの行動に反発し、ウルス・ボラトを殺害して反旗を翻した[7]。
これを受けてダヤン・ハーンは右翼討伐のため出陣したものの、ガハイ・エレスンの戦いでは敗戦を喫して退却を余儀なくされた。そこで、ダヤン・ハーンはオルダフハイ王率いるホルチン部とアバガ部を味方に引き入れ、1508年(正徳3年)にダラン・テリグンの戦いにて再度右翼に決戦を挑んだ。『蒙古源流』などのモンゴル年代記によると、この時オルダフハイ王とその息子のボルハイ王(Borqai ong)が先鋒として奮戦し、激戦の中でボルハイ王は戦死してしまったという[1][8]。ダヤン・ハーン軍は当初劣勢であったが、ダヤン・ハーンの軍旗を隠してウリヤンハンの軍旗を立てるという奇策を行い、誘導された敵軍をオルダフハイ王らが突き崩し、遂に勝利を収めたという[9]。
戦後、『アルタン・トプチ』のみが伝える記述によると、オルダフハイ王は右翼三トゥメンを完全に滅ぼし、ヨンシエブはホルチンに、オルドスはチャハルに、トゥメトはハルハに、それぞれ併合するよう提案したという[9]。しかしダヤン・ハーンはこれに従わず、右翼三トゥメンを存続させた上で自らの息子のバルス・ボラトに支配させた。これを受けてオルダフハイ王は「末裔は苦しんで死んだ」と述べて、自分の馬の頭を打ったという[9]。
子孫
清代に編纂された『欽定外藩回部王公表伝』巻40によると、ジョチ・カサルの十三世の孫であるオルドハイ・ブヤントゥ(Ordoqai buyantu/鄂爾図鼐布延図)[2]の息子がトシェート・ハーン(土謝図汗)を称し、その三人の息子はフルンボイル地方を拠点としてアル・モンゴル(阿魯蒙古)と呼ばれたとされる。その後、トシェート・ハーンの長男のドルジ(多爾済)の長男である車根がモーミンガン(茂明安)部長となり、後に清に降ったという[10]。
一方、オルドハイ・ノヤンにはトゥメイ・ジャヤグチ(Tümei ǰayaγči/図美尼雅哈斉)という弟がおり、17世紀前半にはトゥメイの子孫からアルホルチン旗、ゴルロス旗、ジャライト旗、ドルベト旗といった諸集団が生じ、オルドハイ・ノヤンの子孫を凌ぐ勢力を築いていた[2][11]。このため、オルドハイ・ノヤンの家系はどこかの時点で没落し、トゥメイ・ジャヤグチの子孫にホルチン部の主導権を奪われてしまっていたようである[11]。
また、カサル家の末裔が編纂した『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』にはオルドハイの12人の息子について列挙する箇所があり、その長子はマンクイ(Mangqui)という人物で、その孫の代に断絶してしまったと伝えられる[12]。この人物については、漢文史料で散見し最後はアルタン・ハーンと対立して没落したとみられる葬悔/満会/満恵王と同一人物ではないかとする説がある[12]。