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ダヴィド・ジノラ

フランスのサッカー選手 From Wikipedia, the free encyclopedia

ダヴィド・ジノラ(David Ginola, 1967年1月25日 - )は、フランス・ガッサン出身の元プロサッカー選手、解説者、俳優、タレント。元フランス代表。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。

本名 David Désiré Marc Ginola
愛称 Le Magnifique(西: El Magnifico)
ラテン文字 David Ginola
概要 ダヴィド・ジノラ, 名前 ...
ダヴィド・ジノラ
ジノラ(2014年)
名前
本名 David Désiré Marc Ginola
愛称 Le Magnifique(西: El Magnifico)
ラテン文字 David Ginola
基本情報
国籍 フランスの旗 フランス
生年月日 (1967-01-25) 1967年1月25日(59歳)
出身地 ガッサン
身長 186 cm
体重 80 kg
選手情報
ポジション MF / FW
利き足 右足
ユース
0000-1984 フランスの旗 ニース
1984-1985 フランスの旗 トゥーロン
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1985-1988 フランスの旗 トゥーロン 81 (4)
1988-1990 フランスの旗 RCパリ 59 (8)
1990-1992 フランスの旗 スタッド・ブレスト 50 (14)
1992-1995 フランスの旗 パリ・サンジェルマン 115 (33)
1995-1997 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド 58 (6)
1997-2000 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー 100 (13)
2000-2002 イングランドの旗 アストン・ヴィラ 32 (3)
2002 イングランドの旗 エヴァートン 5 (0)
通算 500 (81)
代表歴2
1987-1988  フランス U-21 9 (5)
1990-1995  フランス 17 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。2025年11月15日現在。
2. 2025年11月15日現在。
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経歴

キャリア初期

郵便局で働く母親と造船所で働く父親のもと、ヴァール県のサント=マクシム(フランス語版)で育った[1]。幼少期はオランダのレジェンドであるヨハン・クライフに憧れ、ニースの下部組織に入団。しかし1984年、16歳のときに「フィジカル面に問題がある」として、上のカテゴリに昇格することができず、ニースを退団した[1][2]。

その後、トゥーロンのトライアウトを受け、クリスティアン・ダルジェ(フランス語版)に素質を見出されて下部組織に入団[2]。入団当初、周りの選手と比べて体格が劣っていたが、入団から1年で約15 cmも身長が伸び[2]、リザーヴチームのメンバーとしてディヴィジオン・トゥルワ(フランス語版)の試合に出場し始めた。

クラブ

1985-86シーズンの半ばにダルジェが指揮を執るトップチームに昇格し、1985年11月30日、リーグ第22節のメス戦に途中出場し、18歳でトップチームデビューの機会が与えられた[3]。第24節のジロンダン・ボルドー戦では初めて先発で起用された。シーズン後半、クラブは残留争いの最中にあったが、ジノラはレギュラーポジションを掴んでいた[2]。クラブは16位でシーズンを終え、最終節で残留を決めた。

1986-87シーズン、ジノラは開幕から主力としてプレイし、リーグ戦34試合に出場[4]。1987-88シーズン、ロラン・クルビ(フランス語版)によって左サイドにポジションを移し、クラブのスター選手へと成長した[2]。クラブはリーグ戦を過去最高成績となる5位で終え、セトとのクープ・ドゥ・フランス4回戦2ndレグでプロ初ゴールを記録した[5]。

1988年夏、RCパリに移籍。後にパリ・サンジェルマンで監督となるルイス・フェルナンデスらとともにプレイした[1]。クラブは下位に低迷したが、ストラスブールとの得失点差で辛うじて降格を免れた。シーズン終了後にオーナーのジャン=リュック・ラガルデール(フランス語版)はクラブを手放し、スポンサーを失ったクラブは主力選手の売却を余儀なくされた。1989-90シーズン、主力選手が去り、ジノラを中心とする若手主体で構成された新チームは、新監督にヘンリク・カスペルチャクを迎え、ディヴィジオン・アン残留を目標に戦ったが、プレイオフに回る18位のニースに勝ち点1の差で及ばず、降格圏の19位でリーグ戦を終えた[6]。一方、クープ・ドゥ・フランスではジロンダン・ボルドーやオリンピック・マルセイユといった強豪を破り決勝に進出。モンプリエとの決勝戦はスコアレスで延長戦となり、2点を奪われた後にジノラが1点を返したが、反撃は及ばず準優勝となった[7]。

1990-91、スタッド・ブレストに移籍し、リーグ戦33試合に出場し6ゴールの活躍をみせた[8]。ブレストはリーグを11位で終えたが、財政赤字の問題を解決できなかったため、ディヴィジオン・ドゥへの降格処分となった[9]。クラブは崩壊状態となり、1991年のギャンガン戦では、激怒したサポーターがピッチ内に乱入したため、ジノラが彼らに冷静になるよう呼びかける事態となった。クラブは破産し、選手たちはフリーエージェントとなった[10]。複数のクラブがジノラの獲得に動き、マルセイユもそのひとつであったが、ジノラはパリ・サンジェルマンを選択した[1]。マルセイユからは、後にイングランドでプレイしていた際にもオファーを受けることになる[11]。12月17日、パリ・サンジェルマンでのデビュー戦は、そのマルセイユが対戦相手であった[1]。

1993年3月2日、UEFAカップ準々決勝1stレグでレアル・マドリードと対戦。アウェイでゴールを挙げたが試合は1-3で敗れた[12]。3月18日、3点差以上での勝利が求められた2ndレグで、ダニエル・ブラヴォのパスからハーフヴォレーでゴールを挙げ、さらにヴァウドの得点をアシストし[1][13]、4-1(2戦合計5-4)での逆転勝利に貢献した[1]。6月12日、クープ・ドゥ・フランス決勝のナント戦でゴールを挙げ、3-0で勝利[14]。自身初のタイトルを獲得した[1]。

1993-94シーズン、リーグ戦全38試合に先発出場し、自身キャリアハイでクラブ内でも最多となる13ゴールを挙げる活躍もあり[15]、ディヴィジオン・アンを制した。また、UEFAカップウィナーズカップでも準決勝まで進出し、これらの活躍からディヴィジオン・アンのシーズン最優秀選手に選出された[16]。1994-95シーズンには、新監督のルイス・フェルナンデスからキャプテンに指名された[1]。自身初のUEFAチャンピオンズリーグに臨んだが、準決勝でイタリアのミランに敗れた。国内ではクープ・ドゥ・フランスとクープ・ドゥ・ラ・リーグの2冠を達成したが、監督との関係が悪化したため、パリから離れることを決意した[1]。

1995年夏、自身のアイドルであるクライフが監督を務めるスペインのバルセロナへの移籍に近づいていた。しかし、これはボスマン判決より数か月前のことであった。ジノラは「ストイチコフとハジが退団するのを待たなければいけなかった。PSGも焦っていたし、クライフも2人を移籍させることができず、バルセロナへの移籍は叶わなかった。これを受け入れるのは困難だった」と述べている[1]。7月に、バルセロナほどの資金力はないが、野心的なクラブであるイングランドのニューカッスル・ユナイテッドに380万ユーロで移籍した[17]。パリ・サンジェルマンに在籍した3年半で、リーグ戦を1度、カップ戦を3度制し、公式戦158試合に出場し、44ゴール23アシストを記録した[18]。

8月、プレミアリーグ月間最優秀選手に選出された。ケヴィン・キーガンの指揮のもと、移籍後すぐにプレミアリーグの主要選手のひとりとなり、イングランドで活躍していた先人で、マンチェスター・ユナイテッドの「キング」であるエリック・カントナからフランス人スター選手の座を奪い取った。ジノラの活躍もあり、ニューカッスルはシーズン終盤までリーグの首位の座にあったが、最終的に失速し、マンチェスター・ユナイテッドに次ぐ2位に終わった。また、バルセロナから改めてオファーがあったが、キーガンはジノラを手放さなかった。

1996年7月、ニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで開催された「SOS子供の村」を支援するチャリティマッチで、世界選抜チームの一員としてブラジル代表と対戦した[19]。1997年1月にキーガンが監督を辞任。後任に就いたケニー・ダルグリッシュとは馬が合わず、イタリアのインテル・ミラノへの移籍が噂された。クラブは前シーズンに続いてリーグ2位に終わった。

1997年7月、トッテナム・ホットスパーに移籍。移籍金は300万ユーロ[17]。この古豪クラブでも主力として活躍し、1998年12月には、自身2度目のリーグ月間最優秀選手に選出され、1998-99シーズンのFWA年間最優秀選手賞とPFA年間最優秀選手賞を同時に受賞し[1][20]、クラブはフットボールリーグカップで優勝[21]。1990年のバロンドールの候補者リストにも名を連ねた[22]。

2000年7月、監督のジョージ・グラハムとの関係が悪化し、アストン・ヴィラに移籍。移籍金は450万ユーロ[17]。2001年にUEFAインタートトカップを制したが、2002年1月に相手選手を殴って退場処分となり、さらに第4審判に異議を唱えたことで、2試合の出場停止と22,000ポンドの罰金処分を受けるなど、これまでのような活躍はできなかった。

2002年2月にエヴァートンにフリーで移籍[17]。5月11日、リーグ最終節のアーセナル戦を最後に現役を引退した[1]。

代表

1987年、U-21代表としてトゥーロン国際大会に出場。チームのプレイメイカーとして活躍し、優勝に貢献[2]。自身は大会最優秀選手に選出された[1][23]。1988年にも同大会に出場し、4試合で5ゴールを挙げ、フランスの2連覇に貢献した[24]。

1990年、ミシェル・プラティニによってA代表に召集され、11月17日、UEFA EURO '92予選のアルバニア戦でA代表初キャップ[25]。

1992年8月、代表監督にジェラール・ウリエが就任し、ブラジルとの親善試合で約1年9か月ぶりに代表に復帰。その後はFIFAワールドカップ予選でコンスタントに召集された。

1993年10月13日、同予選のイスラエル戦では1ゴール1アシストの活躍をみせたが、チームは試合終了間際に3点目を奪われ2-3で敗戦[26]。11月17日、ブルガリア戦では69分から出場し、1-1でアディショナルタイムを迎え、このまま引き分ければフランスは本大会出場が決まるという状況で、ジノラが上げた長いクロスが相手に拾われ、カウンターから失点を喫し敗戦した[1]。ウリエは敗戦の責任をジノラに押しつけ、「チームに対する犯罪だ」と非難した[27]。マスメディアもジノラを批判的に報じたため、フランスのサポーターから嫌われる存在となってしまった[28]。

代表監督がエメ・ジャケに代わり、コンスタントに召集されるものの、絶対的なレギュラーには至らない状況も変わらなかった。1994年にはキリンカップサッカーで来日し、日本戦でゴールを挙げた[1]。

UEFA EURO '96予選の大一番となったルーマニア戦の数日前に太ももを負傷し、この試合を欠場。ジノラはイングランドで開催される本大会に向けて代表復帰を望んでおり、ニューカッスルでの活躍からジノラの復帰を支持するサポーターも多くいたが[1]、本大会のメンバーには選出されず、その後も代表に召集されることはなかった。

現役引退後

ロンドンの王立演劇学校で演技を学んだ[29]。その後、2004年に公開されたジェイド・カーメン監督の映画『Mr Firecul』で初主演を果たし、コリン・ティーグ(英語版)監督の戦争映画『ラストフロント -1944英米連合軍マーケット・ガーデン作戦-』にも出演[1]。また、2003年のアニメ映画『ファインディング・ニモ』では、エビのジャックの声を担当した[1][29]。

サッカーのトレーニングに特化したテレビチャネル『Foot School TV』では管理者を務めた[30]。

2008年には、アメリカのTVドラマ『ザ・ヤング・アンド・ザ・レストレス』の1エピソードにも出演した[1]。

2011年2月から3月にかけて、TF1の『Danse avec les stars』の第1シーズンに、ダンサーのシルヴィア・ノタルジャコモとのペアで出場し、3位となった。

2013年には、イギリスのラジオ局・Talksportで、水曜日の朝に放送されるサッカー番組のパーソナリティを務めた[31]。

2013年11月から2016年5月にかけて、Canal+のコンサルタントを務め、イングランドのサッカー番組『Match of ze Day』の司会を担当した[1][32][33]。

2015年1月16日、5月に実施される予定のFIFA会長選挙への立候補を正式に表明した[34]。アイルランドのスポーツ賭博サイトパディ・パワーの支援を受けており、『スポーツ・イラストレイテッド』によれば、同社から約25万ポンドを受け取ったとされる[35]。しかし、5つの国内連盟の支持を得られなかったため、2週間後に立候補を撤回した[1]。

2016年5月、フランスで開催されたUEFA EUROの試合後の番組の司会としてM6に採用された。10月には『La France a un incroyable talent』の第11シーズンの司会を務めることで合意した[1][36]。それ以降、ジノラは多くのプライムタイム番組で司会を務め、チャネルの看板的な存在となった。しかし、2020年に『La France a un incroyable talent』の司会を降板することとなった。M6の幹部はジノラの金銭的要求が「高額過ぎる」と説明した[37]。

2017年、記念番組『40 ans du Puy du Fou : Les animateurs font le spectacle』に出演し、「勝利の印」で剣闘士を演じた。12月には、レキップ・チャネル(フランス語版)で第62回バロンドール授賞式の司会を務めた[38]。この司会に指名されたことについて、ジノラは「この名誉ある授賞式で司会を務めることを大変誇りに思います。1999年、トッテナムでプレイしていた頃、私はバロンドールの候補者に選ばれるという栄誉にあずかりました。サッカー選手にとって、この賞は究極の栄誉であり、優れた選手をさらに卓越した選手へと押し上げるものです」とコメントした[39]。

2018年7月から8月にかけての5週間、エリック・アントワーヌ(フランス語版)とともにプライムタイムのオーディション番組『Audition secrète』の司会を務めた。9月からはM6で、フランス人の視点で伝説的な都市を紹介する番組『French in the City』の司会を務めたが、視聴率が振るわず、短期間で打ち切りとなった。また、同局の『100 % foot』でも司会を務めた。2月3日には前年に続き、グラン・パレで開催された第63回バロンドール授賞式で司会を務めた[40]。

2024年4月から6月にかけて、Canal+の新しいサッカー解説者を発掘するオーディション番組『Au micro !』に審査員として出演した[41]。

個人成績

クラブ

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1985-86トゥーロンDiv. アン140-00140
1986-87340-10350
1987-88334-31365
1988-89RCパリ297-21318
1989-90301-61362
1990-91ブレスト336-31367
1991-92Div. ドゥ178--178
PSG11Div. アン153-21174
1992-93346-62408
1993-943813-334116
1994-95281130203311
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
1995-96ニューカッスル14プレミアリーグ3454020405
1996-972412020281
1997-98トッテナム3463231409
1998-993038163447
1999-003642121406
2000-01アストン・ヴィラ2730010283
2001-025020-70
エヴァートン2450-2070
通算フランスDiv. アン 2885130281031961
フランスDiv. ドゥ 178-00178
イングランドプレミアリーグ 1952221418523431
総通算 500812444615570100
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代表

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フランス代表国際Aマッチ
年出場得点
199010
199100
199220
199341
199461
199541
通算173
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ゴール

タイトル

クラブ

パリ・サンジェルマン
トッテナム・ホットスパー
アストン・ヴィラ

代表

U-21フランス代表

個人

脚注

外部リンク

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