チュニスの戦い
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チュニスの戦い(チュニスのたたかい、英語: Battle of Tunis)は、第一次ポエニ戦争中の紀元前255年に北アフリカのチュニス近郊において、クサンティッポスが率いるカルタゴ軍とマルクス・アティリウス・レグルスが率いるローマ軍の間で起こった戦闘である。
紀元前264年にシチリアを舞台として始まった第一次ポエニ戦争は数年のうちに膠着状態に陥り、その結果として戦争の焦点は海域へと移っていった。紀元前261年に独自の海軍を創設したローマはいくつかの海戦で勝利を収めたが、依然として膠着状態にあった戦況を打開するために北アフリカの現在のチュニジアに位置していたカルタゴ本土への侵攻を計画した。その後、シチリア沖のエクノモス岬の戦いで勝利したローマ軍はボン岬半島のアスピス(現在のケリビア)付近に上陸し、艦隊の大部分はシチリアへ引き返したものの、15,000人の歩兵と500騎の騎兵が執政官のレグルスとともに残り、越冬しつつアフリカでの戦役を継続することになった。
春に援軍が到着する前にカルタゴに打撃を与えようとしたレグルスはカルタゴから南東へ60キロメートルに位置するアディス(現在のウティナ)へ進軍し、アディスの戦いでカルタゴ軍を撃破した。その後も進軍を続けたローマ軍は首都のカルタゴからわずか16キロメートルに位置するチュニスを占領し、カルタゴの周辺地域を荒らし回った。避難民がカルタゴ市内に殺到し、その状況に絶望したカルタゴは和平を申し入れたが、レグルスの提示した和平の条件が極めて過酷なものであったため、カルタゴは戦争の続行を決意した。そして自らの軍隊の訓練と指揮権をスパルタ出身の傭兵軍の指揮官のクサンティッポスに委ねた。
紀元前255年に入るとクサンティッポスは騎兵と戦象を主力とする軍隊を率いて歩兵を中心としていたローマ軍と対峙した。チュニスの近郊で両軍が衝突すると数的に劣勢であったローマ軍の騎兵は早々に一掃され、戦象に対する有効な対抗手段もなかったため、最終的にカルタゴ軍の騎兵と戦象、そして歩兵のファランクスの部隊がローマ軍を包囲してこれを殲滅した。ローマ軍の戦死者は13,000人に上り、レグルスを含む500人が捕虜となり、カルタゴ軍の包囲を免れた2,000人のみがアスピスへ退却することに成功した。この戦闘の結果、ローマ軍はアフリカからの撤退を余儀なくされ、戦争は再び長期戦の様相となった。第一次ポエニ戦争はさらに14年にわたって続き、最終的にローマの勝利によって決着したが、その時に結ばれた講和条約でカルタゴに提示された和平の条件は以前にレグルスがアフリカで提示した条件よりも寛大なものであった。

第一次ポエニ戦争[注 1]のほぼすべての点における主要な情報源は紀元前167年に人質としてローマに送られたギリシア人の歴史家のポリュビオス(紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)による著作である[2][3]。ポリュビオスの著作の中にはすでに失われている戦術書などもあるが[4]、今日において知られている著作は、戦争終結からおよそ1世紀後にあたる紀元前146年以降に書かれた『歴史』である[3][5]。ポリュビオスの著作は概ね客観的であり、カルタゴとローマのそれぞれの視点からほぼ中立であると考えられている[6][7]。
カルタゴのほとんどの文書記録はその首都であったカルタゴとともに紀元前146年に失われたため、ポリュビオスの第一次ポエニ戦争に関する記述は今日では失われているいくつかのギリシア語とラテン語の情報源に基づいている[8]。ポリュビオスは分析的な視点を持つ歴史家であり、可能な限り著作内で触れている出来事の関与者に自ら聞き取りを行った[9][10]。40巻からなる『歴史』のうち、第一次ポエニ戦争について扱っているのは最初の1巻だけである[11]。ポリュビオスの記述の正確性については19世紀末以降多くの議論がなされてきたが、現代におけるほぼ一致した見解は、大抵において記述を額面通りに受け入れることが可能というものであり、現代の情報源におけるこの戦争に関する詳細は、ほぼすべてポリュビオスの記述に対する解釈に基づいている[11][12][13]。現代の歴史家であるアンドリュー・カリーは、「ポリュビオスは極めて信頼性が高いことが分かる」と評価しており[14]、一方でクレイグ・B・チャンピオンは、「驚くほど広い見識を持ち、精力的で洞察力のある歴史家」と評している[15]。
後世に著されたこの戦争に関する歴史書は他にも存在するが、それらは断片的、あるいは要約的なものであり[2][16]、通常は海上での軍事行動よりも陸上での軍事行動の方をより詳細に扱っている[17]。また、現代の歴史家は大抵においてディオドロスやカッシウス・ディオなどのポリュビオス以外の著作も参照しているが、古典学者のエイドリアン・ゴールズワーシーは、「ポリュビオスの記述は他のどの記述とも見解が異なっている場合、通常は優先されるべきものである」と述べている[10][注 2]。その他のこの戦争に関する情報源としては、碑文、考古学的証拠、そしてオリュンピアス(三段櫂船の復元船)のような復元による経験的証拠などがある[19]。
背景

紀元前264年にカルタゴとローマの関係は戦争段階に発展し、第一次ポエニ戦争が始まった[20]。当時のカルタゴは地中海西部で確固とした地位を築いていた海洋国家であり、一方のローマはアルノ川以南のイタリア本土を統一したばかりであった[21]。戦争の直接的な原因はシチリアの北東端に位置するメッセネ(現在のメッシーナ)の支配権をめぐる争いであったが[22]、古典学者のリチャード・マイルズは、カルタゴのシチリアに対する所有者であるかのような振る舞いとイタリア南部が支配下に入った後のローマの拡張主義的な態度が交錯し、双方の勢力は意図的というよりも偶発的に戦争に陥ったと指摘している[23]。
ポリュビオスによれば、ローマは戦争の目標に関してアグリゲントゥム(現在のアグリジェント)を陥落させた紀元前261年までにカルタゴ人をシチリアから完全に追放する方針を固めていた。その結果、戦争はローマがカルタゴから決定的な勝利を収めることでこの目標を達成しようとする闘争へと発展した[24]。一方のカルタゴはローマと戦うにあたって敵の疲弊を待つという伝統的な方針を採用し、戦いで奪われた一部あるいは全部の支配地を将来的にローマから取り戻し、互いに満足のいく講和条約を結ぶことで折り合いをつけたいと考えていた[25]。
ローマは本質的に陸上を拠り所とする国家であり、陸軍を活用することによってシチリアの支配地を拡大させていったが、カルタゴが強固に要塞化された町や都市を守ることに専念するようになったため、戦争は次第に膠着状態となっていった。これらのカルタゴが保持していた町や都市はそのほとんどが海岸沿いにあり、そのためローマの優れた陸軍による妨害を阻みつつ海側から軍の支援や補給を受けることが可能であった[26][27]。
このような状況が要因となって戦争の焦点は海域へと移っていったが、それまでローマは海軍を用いた経験がほとんどなく、過去に海軍の必要性を認識した数少ない機会には大抵においてラテン人かギリシア人の同盟市(ソキイ)から提供される小規模な海軍の戦隊に頼っていた[28][29][30]。しかし、ローマは捕獲に成功したカルタゴの五段櫂船を自らの船の設計図として利用することで紀元前261年末に自らの艦隊の建造に乗り出した[31][32]。その後、ローマは大規模な海戦となったミュライ沖の海戦(紀元前260年)とスルキ沖の海戦(紀元前258年)で勝利を収めたものの、シチリアの戦況が依然として膠着状態となっていることに苛立ちを募らせるようになった。その結果、ローマは北アフリカのカルタゴの中核地帯に侵攻し、チュニスの近くに位置する首都のカルタゴを脅かす計画を立てるに至った[33]。また、当時のローマとカルタゴはともに制海権の確立を決意しており、海軍の維持と規模の増強に莫大な資金と人的資源を投入していた[34][35]。

紀元前256年の初頭に330隻の軍艦と数の不明な輸送船からなるローマ艦隊がローマの外港であるオスティアを出航した。艦隊はその年の執政官のマルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスの両名によって指揮されていた[36][注 3]。その後、艦隊はシチリアで停泊し、現地に駐留していたローマ軍の中からおよそ26,000人の軍団兵を海兵として選抜し、艦隊に乗船させた[38][39][40]。ローマ艦隊の意図を察知したカルタゴはその時点で使用可能であった350隻に及ぶ軍艦をシチリアの南岸沖に集結させ、大ハンノ[注 4]とハミルカルの指揮の下でローマ艦隊を迎え撃った。双方の艦隊はエクノモス岬沖で衝突したが、両軍合わせておよそ680隻の軍艦と290,000人に及ぶ乗組員が参加したこの海戦は、参戦した戦闘要員の数の上では史上最大の海戦だった可能性がある[42][43][44]。カルタゴ艦隊は戦闘で先に主導権を握り、自らの優れた操船技術が自軍を優位に導くだろうと期待を抱いたが[45][46]、戦闘は長時間に及んだ混戦の末にカルタゴ艦隊が敗北するという結果に終わった。沈没で失った軍艦はローマ側が24隻だったのに対しカルタゴ側は30隻に達し、さらに64隻のカルタゴの軍艦がローマ側に捕獲された[47][48][49]。
ローマ軍のアフリカ上陸

1: ローマ軍の上陸とアスピスの占領
2: アディスの戦いでローマ軍が勝利
3: ローマ軍のチュニス占領
紀元前255年
4: クサンティッポスに率いられた大規模な軍隊がカルタゴから出発
5: チュニスの戦いでローマ軍が敗北
6: ローマ軍のアスピスへの退却とアフリカからの撤退
この海戦の結果、紀元前256年の夏にレグルスとロングスに率いられたローマ軍がボン岬半島のアスピス(現在のケリビア)付近に上陸し、26,000人の軍団兵と90,000人に及ぶ漕ぎ手とその他の乗組員の食糧を確保するため、カルタゴの農村地帯で略奪を始めた[50][51]。そして20,000人の奴隷と膨大な数の家畜を手に入れ、短期間の包囲戦の末にアスピスを陥落させた[52]。しかしながら、恐らく100,000人を超える人員を越冬させるだけの物資を確保することが困難であったことから、ローマの元老院は艦隊と軍隊の大部分をロングスの指揮下でシチリアへ帰還させるように命じた[51]。一方でレグルスの下にはアフリカで越冬する15,000人の歩兵と500騎の騎兵、そして40隻の船が残された[53][54][55]。レグルスは経験豊富な軍司令官であり、紀元前267年にも執政官を務め、その任期中にサレンティニ人に対する勝利を収めたことで凱旋式の栄誉を与えられていた[56][注 5]。
レグルスは自軍に対し、春に援軍が来るまでの間にカルタゴ軍を弱体化させることを求めた。執政官には大きな裁量権があり、レグルスは襲撃に加えてカルタゴに反抗的な地域を煽り、反乱を起こさせることでこれを達成できると見込んでいた[51]。レグルスは比較的小規模な部隊で内陸部を攻撃する手段を選び[58]、カルタゴから南東へ60キロメートルに位置するアディス(現在のウティナ)へ進軍してこの都市を包囲した[59]。これに対しカルタゴは軍司令官のハミルカルを5,000人の歩兵と500騎の騎兵とともにシチリアから呼び戻した。そしてローマ軍とほぼ同じ規模を持ち、強力な騎兵隊と戦象を擁する部隊をハミルカル、ハスドルバル[注 6]、およびボスタルの3人の軍司令官の下に集結させた[60][61]。
カルタゴ軍はアディス近郊の丘に陣地を築き[60]、一方のローマ軍は夜間に行軍して夜明けとともに2方向から敵陣へ奇襲攻撃を仕掛けた。そして混乱した戦いの末にローマ軍がカルタゴ軍を打ち破り、カルタゴ軍は逃走した。この戦闘におけるカルタゴ軍の損害の規模は不明だが、戦象と騎兵に関してはわずかな損害しかなかったと推測されている[62]。その後ローマ軍は進軍を続け、カルタゴからわずか16キロメートルの距離に位置するチュニスを含む多くの町を占領した[63][64]。そしてチュニスを拠点としてローマ軍がカルタゴの隣接地域を襲撃し、地域内を荒廃させた[64]。さらに、アフリカのカルタゴの支配地に居住する多くの人々がこの機会に乗じて反乱を起こした。カルタゴの町はレグルスや反乱軍から逃れてきた避難民で溢れかえり、飢餓が発生する事態となった。ほとんどの古代の史料によれば、この状況に絶望したカルタゴ人たちは和平を申し入れた[64][65][66]。しかし、ポリュビオスはレグルスが後任者の到着によって任務を終える前に自分が戦争を終結させたという栄誉を手にしたいと望んだため、自ら交渉を持ちかけたと述べており、この点で他の史料とは異なる見解を示している。いずれにせよ、完全な勝利を目前にしていたレグルスは過酷な条件をカルタゴに突きつけた。具体的にはシチリア、サルディニア、およびコルシカをローマに割譲すること、ローマが支出した戦費をすべて負担すること、毎年ローマに貢納金を支払うこと、ローマの許可なく宣戦布告や講和をしてはならないこと、海軍を軍艦1隻のみに制限すること、ただし、ローマ側の要求に応じて50隻の大型の軍艦を提供することというものだった。カルタゴ人はこれらの条件を全く受け入れられないと判断し、戦争の続行を決意した[64][67][注 7]。
軍隊の構成

ほとんどの男性のローマ市民は兵役に就く義務があり、主に歩兵として従軍したが、少数のより裕福な市民は騎兵として従軍した。伝統的にローマは毎年1個あたり4,200人[注 8]の歩兵と300人の騎兵からなる軍団を2個編成していた。一部の少数の歩兵は投槍で武装した散兵として従軍し、残りは重装歩兵として鎧、大型の盾、そして刺突用の短剣を装備していた。軍団は3つの隊列に分けられ、最前列は2本の投槍を携え、第2、第3の隊列は代わりに突槍を携えていた。また、軍団に属する小部隊も個々の軍団兵も比較的散開した陣形で戦っていた。軍隊は通常、ローマ軍団と同盟市から提供される類似した規模と装備を持つ軍団を組み合わせる形で編成された[70]。
アフリカに留まった15,000人のローマ軍の歩兵がどのような構成からなっていたのかは明らかではないが、現代の学者であるジョン・レーゼンビーは、2個のローマ軍団と2個の同盟市の軍団からなる敵軍よりわずかに兵力で劣る4個の軍団で構成されていたのではないかと推測している[71]。また、この時レグルスはカルタゴに対して反抗的な町や都市から全く兵士を募ろうとしなかった。このような態度はアフリカでカルタゴと戦う軍隊を率いた経験のある他の軍司令官たちとは異なっており、その理由も分かっていない。特に騎兵に関しては馬の輸送が困難であったことからわずか500騎しかおらず、レーゼンビーはとりわけこの騎兵の不足を補わなかったことについては不可解であると述べている[72][73][74]。
一方のカルタゴ市民は都市に直接的な脅威が及んだ場合にのみ軍に加わった。そのカルタゴの市民兵は長い突槍で武装し、鎧で十分に身を固めた重装歩兵として戦っていた。しかし、カルタゴ市民の重装歩兵は十分には訓練されておらず、規律にも欠けているという評判でよく知られていた[75]。その一方でカルタゴは軍隊を編成する際にほとんどの場合において外国人を採用した。これらの外国人兵士の多くは北アフリカ出身者であり、大きな盾、兜、短剣、および長い突槍を装備した密集隊形の歩兵、投槍を装備した軽装歩兵の散兵、槍を携えた密集隊形の突撃騎兵(重装騎兵としても知られる)、そして接近戦を避け遠距離から投槍を投げる軽装騎兵の散兵といったいくつかの種類の戦闘要員を供給した[76][77]。ヒスパニアとガリアからは数は少ないながらも経験豊富な歩兵が供給されていた。これらの歩兵は鎧を装着していなかったが、猛烈な突撃を見せる一方で戦闘が長引くと離脱するという評判があった[76][78][注 9]。リュビア人の歩兵とカルタゴの市民兵の大部分はファランクスの名で知られる密集した陣形で戦い、通常は2列か3列の隊列を組んでいた[77]。専門の投石兵はバレアレス諸島から頻繁に集められていたが、この時のアフリカの戦役に参加していたのかどうかは明らかではない[76][79]。また、当時の北アフリカの森林にはアフリカ原産のマルミミゾウが生息しており、カルタゴ人はこれらの象を頻繁に戦象として活用していた[78][80][注 10]。
カルタゴ軍の訓練

カルタゴ人は地中海の全域で兵士を募っていたが、ちょうどこの時期にギリシアから来た大規模な傭兵の一団がカルタゴに到着した[82][83]。その中にはスパルタ出身の傭兵軍の指揮官であるクサンティッポスがいた[74]。ポリュビオスはクサンティッポスがスパルタ軍の訓練法や軍隊の布陣と機動作戦について熟知していたと述べている。クサンティッポスはカルタゴ軍の兵士たちに好印象を与えただけでなく、カルタゴ軍における最も強力な戦力は騎兵と戦象であり、これらを最大限に活かすためには平坦な開けた地形で戦う必要があることをカルタゴの元老院に納得させることができた。レーゼンビーは、紀元前270年代にエピロス王のピュロスがスパルタを攻撃した際にクサンティッポスが戦象との戦いを経験していたのではないかと推測している[84]。クサンティッポスは冬の間、軍の訓練を任されていたが、作戦の指揮権は当初はカルタゴの軍司令官たちからなる委員会が保持していた。しかし、決戦が迫りつつある中でクサンティッポスの指揮官としての手腕が明らかとなってきたことから、最終的にクサンティッポスに軍の指揮の全権が委ねられた。ただし、この決定が最初からカルタゴの元老院と軍司令官たちによって行われたのか、それとも多くのカルタゴ市民を含む兵士たちの要望によって元老院と軍司令官たちにこの決定が押し付けられたのかは分かっていない[85][86]。
戦闘
年を越した紀元前255年にクサンティッポスは歩兵12,000人、騎兵4,000騎、そして戦象100頭からなる軍隊(歩兵の中にはシチリアからの熟練兵5,000人と多くのカルタゴの市民兵が含まれていた)を率いてカルタゴを出発し[87]、ローマ軍に近い周囲の開けた平原地帯で陣地を築いた。この時のカルタゴ軍の陣地の正確な場所は分かっていないものの、チュニスの近郊だったと推定されている。一方でおよそ15,000人の歩兵と500騎の騎兵からなっていたローマ軍はカルタゴ軍を迎え撃つために進軍し、敵軍からおよそ2キロメートル離れた場所で陣を敷いた。そして翌朝になると両軍は戦闘態勢を整えた[88][89]。

クサンティッポスはカルタゴの市民兵を陣形の中央に配置し、その両側にシチリアの熟練兵と新規の傭兵軍の歩兵を置き、さらにその外側に騎兵を均等に分けて配置した。そして中央の歩兵の前方に戦象を一列に展開した[90][91]。一方のローマ軍は通常よりも大幅に密集した陣形を取り、中央に軍団兵の歩兵を配置した。ポリュビオスはこれを戦象に対する効果的な戦術と評価したが、同時にこの陣形は歩兵の正面の幅を狭め、側面からの攻撃を受けやすくしていたと指摘している。軽装歩兵の散兵は軍団の前方に置かれ、500騎の騎兵は両翼に分かれて配置された[59][92]。レグルスは密集した歩兵で敵の戦象部隊を突破し、中央のカルタゴ軍のファランクスを撃破することで両翼からの攻撃を心配する必要が生じる前に戦いを決着させようとしていたとみられている[93]。
戦闘はカルタゴ軍の騎兵と戦象による攻撃で幕を開けたが、数の上で圧倒的に劣勢だったローマ軍の騎兵は早々に一掃された。その一方でローマ軍の軍団兵は戦象を威嚇しようと叫び声を上げ、剣の柄を盾に打ちつけながら前進した[94]。ローマ軍の左翼側の一部が戦象の列に食い込み、カルタゴ軍の右翼側の歩兵部隊に突入した。突入を受けた歩兵部隊は打ち破られて自軍の陣地へ逃げていったが、突入したローマ軍はこれを追撃した[90]。このローマ軍の一部は恐らくラテン人の同盟市の兵士で構成されていた。しかし、残りのローマ軍の歩兵部隊は戦象との戦いに苦戦した。戦象たちはローマ軍が上げる騒音に怯むことなく突進し、多くの敵兵を死傷させ、戦場に大規模な混乱をもたらした。少なくとも一部のローマの軍団兵は戦象の列を突破し、カルタゴ軍のファランクスを攻撃したが、戦列が乱れすぎていたために効果的に戦うことができず、ファランクスは堅固に持ちこたえた。さらにカルタゴ軍の一部の騎兵が追撃から戻り、ローマ軍の後方と側面に対して攻撃と陽動を始めた。その結果ローマ軍は全方位に対する戦いを強いられ、その前進の勢いは完全に止まった[94][95]。
それでもなお、ローマ軍は恐らく兵士たちが互いに狭い距離で密集する隊形を取っていたことが一因となってしばらく持ちこたえていたものの、戦象たちは依然として敵軍の戦列を暴れ回り、カルタゴ軍の騎兵は敵軍の後方と側面に投射物を浴びせかけることでローマ軍をその場に釘付けにしていた。そしてこの状況を見たクサンティッポスは自軍のファランクスに対し攻撃に出るように命じた。その結果、ローマ兵の大半はまともに抵抗ができないほど狭い空間に押し込められて殲滅された。レグルスと少数の部隊は包囲網を突破して脱出したものの、追撃を受け、まもなくレグルスと500人の生き残りは降伏を余儀なくされた。ローマ軍の戦死者は合計でおよそ13,000人に上った。一方のカルタゴ軍は敗走した右翼部隊から800人の戦死者を出したが、残りの損害については不明である[59][96][97]。ローマ軍のうちカルタゴ軍の右翼部隊を破って敵軍の陣地に向かっていた2,000人が生き残り、戦場を離脱してアスピスへ退却した[74]。この戦いは第一次ポエニ戦争における主要な陸上の戦闘でカルタゴが挙げた唯一の勝利であった[89]。
