ドレパナ沖の海戦

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場所ドレパナ英語版(現在のトラーパニ
北緯38度00分36秒 東経12度30分18秒 / 北緯38.01000度 東経12.50500度 / 38.01000; 12.50500座標: 北緯38度00分36秒 東経12度30分18秒 / 北緯38.01000度 東経12.50500度 / 38.01000; 12.50500
結果 カルタゴ艦隊の勝利
ドレパナ沖の海戦
第一次ポエニ戦争
紀元前249年
場所ドレパナ英語版(現在のトラーパニ
北緯38度00分36秒 東経12度30分18秒 / 北緯38.01000度 東経12.50500度 / 38.01000; 12.50500座標: 北緯38度00分36秒 東経12度30分18秒 / 北緯38.01000度 東経12.50500度 / 38.01000; 12.50500
結果 カルタゴ艦隊の勝利
衝突した勢力
カルタゴ 共和制ローマ
指揮官
アドヘルバル英語版 プブリウス・クラウディウス・プルケル
戦力
100隻から130隻の軍艦 120隻から200隻の軍艦
被害者数
不明 93隻の軍艦が捕獲され、一部の軍艦(数は不明)が沈没
2万人の乗組員を戦死あるいは捕虜により喪失

ドレパナ沖の海戦(ドレパナおきのかいせん)は、第一次ポエニ戦争中の紀元前249年シチリア西部のドレパナ英語版(現在のトラーパニ)沖において、アドヘルバル英語版が指揮するカルタゴ艦隊とプブリウス・クラウディウス・プルケルが指揮するローマ艦隊の間で起こった海戦である。

ローマは紀元前250年に起こったパノルムスの戦いで勝利を得た余勢を駆ってシチリアにおけるカルタゴの重要な拠点であったリリュバエウム(現在のマルサーラ)に攻め込み、この都市を封鎖した。ローマ軍を指揮していた紀元前249年の執政官[注 1]であるプルケルは、都市の封鎖を継続しつつ近隣の港湾都市のドレパナに駐留するカルタゴ艦隊への攻撃を決断した。

ローマ艦隊は奇襲を確実なものにするため夜間に出航したが、暗闇と乗組員の訓練不足のためにドレパナに着く頃には戦列が間伸びしていた。カルタゴ艦隊の指揮官のアドヘルバルはローマ艦隊の接近の報告を受けると素早く艦隊を洋上へ脱出させ、外洋側からローマ艦隊に接近すると反撃に転じた。激しい戦いが一日中続いたが、海岸を背にしていたローマ艦隊は次第に追い詰められ、戦場からの離脱に成功した30隻の軍艦を除き艦隊が壊滅する結果に終わった。これはこの戦争中にカルタゴが挙げた最大の海戦における勝利であった。

カルタゴはローマ艦隊をシチリアから排除することに成功したものの、財政負担を減らすためにカルタゴの艦隊の規模も縮小させたため、シチリアの戦況は以前と同様に再び膠着状態となった。ローマが失われた艦隊の大規模な再建に乗り出したのはドレパナ沖での敗戦から7年後のことである。

第一次ポエニ戦争[注 2]のほぼすべての点における主要な情報源は紀元前167年に人質としてローマに送られたギリシア人の歴史家のポリュビオス(紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)による著作である[2][3]。ポリュビオスの著作の中にはすでに失われている戦術書などもあるが[4]、今日において知られている著作は、戦争終結からおよそ1世紀後にあたる紀元前146年以降に書かれた『歴史』である[3][5]。ポリュビオスの著作は概ね客観的であり、カルタゴとローマのそれぞれの視点からほぼ中立であると考えられている[6][7]

カルタゴのほとんどの文書記録はその首都であったカルタゴとともに紀元前146年に失われたため、ポリュビオスの第一次ポエニ戦争に関する記述は今日では失われているいくつかのギリシア語ラテン語の情報源に基づいている[8]。ポリュビオスは分析的な視点を持つ歴史家であり、可能な限り著作内で触れている出来事の関与者に自ら聞き取りを行った[9][10]。40巻からなる『歴史』のうち、第一次ポエニ戦争について扱っているのは最初の1巻だけである[11]。ポリュビオスの記述の正確性については19世紀末以降多くの議論がなされてきたが、現代におけるほぼ一致した見解は、大抵において記述を額面通りに受け入れることが可能というものであり、現代の情報源におけるこの戦争に関する詳細は、ほぼすべてポリュビオスの記述に対する解釈に基づいている[11][12][13]。現代の歴史家であるアンドリュー・カリーは、「ポリュビオスは極めて信頼性が高いことが分かる」と評価しており[14]、一方でクレイグ・B・チャンピオン英語版は、「驚くほど広い見識を持ち、精力的で洞察力のある歴史家」と評している[15]

後世に著されたこの戦争に関する歴史書は他にも存在するが、それらは断片的、あるいは要約的なものであり[2][16]、通常は海上での軍事行動よりも陸上での軍事行動の方をより詳細に扱っている[17]。また、現代の歴史家は大抵においてディオドロスカッシウス・ディオなどのポリュビオス以外の著作も参照しているが、古典学者のエイドリアン・ゴールズワーシーは、「ポリュビオスの記述は他のどの記述とも見解が異なっている場合、通常は優先されるべきものである」と述べている[10][注 3]。その他のこの戦争に関する情報源としては、碑文、考古学的証拠、そしてオリュンピアス英語版三段櫂船の復元船)のような復元による経験的証拠などがある[19]

背景

シチリアにおける軍事的動向

第一次ポエニ戦争の開戦直前の紀元前264年時点における地中海西部の勢力図:ローマは赤、カルタゴは灰色、シュラクサイは緑で示されている

紀元前264年にカルタゴとローマの関係は戦争段階に発展し、第一次ポエニ戦争が始まった[20]。当時のカルタゴは地中海西部で確固とした地位を築いていた海洋国家であり、一方のローマはアルノ川以南のイタリア本土を統一したばかりであった[21]。戦争の直接的な原因はシチリアの北東端に位置するメッセネ(現在のメッシーナ)の支配権を巡る争いであったが[22]、古典学者のリチャード・マイルズ英語版は、カルタゴのシチリアに対する所有者であるかのような振る舞いとイタリア南部が支配下に入った後のローマの拡張主義的な態度が交錯し、双方の勢力は意図的というよりも偶発的に戦争に陥ったと指摘している[23]

ポリュビオスによれば、ローマは戦争の目標に関してアグリゲントゥム(現在のアグリジェント)を陥落させた紀元前261年までにカルタゴ人をシチリアから完全に追放する方針を固めていた。その結果、戦争はローマがカルタゴから決定的な勝利を収めることでこの目標を達成しようとする闘争へと発展した[24]。一方のカルタゴはローマと戦うにあたって敵の疲弊を待つという伝統的な政策を採用し、戦いで奪われた一部あるいは全部の支配地を将来的にローマから取り戻し、互いに満足のいく講和条約を結ぶことで折り合いをつけたいと考えていた[25]。紀元前261年になるとローマは大規模な艦隊を建造し、その後の数年間に起こったいくつかの海戦でカルタゴ艦隊を打ち破ることに成功した[26]。さらに陸上でも主要都市のアグリゲントゥムやパノルムス(現在のパレルモ)を含むシチリアの大部分を徐々に支配下に収めていった[27]

軍艦

第一次ポエニ戦争の間、ローマとカルタゴが用いていた標準的な軍艦は五段櫂船Quinquereme)であった[17]。この五段櫂船はガレー船の一種であり、全長は約45メートル、喫水面における幅は約5メートル、排水量は約100トン、そして甲板は海面から約3メートルの高さにあった。ガレー船に関する現代の専門家であるジョン・コーツ英語版は、7ノット(時速13キロメートル)の速度を長時間維持できたと推測している[28]。現代に製作されたガレー船のレプリカであるオリュンピアス英語版は8.5ノット(時速15.7キロメートル)の速度を達成し、4ノット(時速7.4キロメートル)の速度で何時間にもわたり巡航した[17]

ギリシアの三段櫂船の3つの異なると漕ぎ手の位置を示した図

軍艦はカタフラクト、すなわち完全に甲板によって覆われている「防護型」の船として建造され、海兵(船に配属されている兵士)やカタパルトを効率的に運搬することができる構造になっていた[29][30]。また、船体には漕ぎ手を収容する独立した「漕ぎ手の箱」が別に据え付けられており、これらの構造によって船体の強度や積載量が増し、漕ぎ手の環境も改善された[31]。五段櫂船におけると漕ぎ手の配置については、3本の櫂を上下に並べ、上の2本に2人ずつ、一番下の1本に1人の合計5人1組の形で配置されていたというのが一般的に受け入れられている説である。これをガレー船の両舷で28列並べていたため、櫂の数は合計で168本あった[32]

第一次ポエニ戦争以前のローマはほとんど海軍を用いた経験がなく、それまで海軍が必要となった数少ない機会には大抵においてラテン人ギリシア人の同盟市から提供される小規模な海軍の戦隊に頼っていた[33][34][35]。ローマは紀元前261年末に艦隊の建造に着手し、捕獲に成功したカルタゴの五段櫂船を自らの船の設計図として利用した[36][37][38]。当時のローマ人は船大工としては未熟だったため、カルタゴの船よりも重い模造船を建造したが、これらの船はカルタゴの船よりも速度が遅く、操縦性でも劣っていた[39]。ローマとカルタゴはポエニ戦争期を通じて五段櫂船を軍艦の主力として用いていたが、時には六段櫂船(片舷6人1組)、四段櫂船(片舷4人1組)、あるいは三段櫂船(片舷3人1組)を用いていた例も史料の中に見られる。また、五段櫂船はポリュビオスが「軍艦」全般を指す略語として用いるほど非常にありふれたタイプの軍艦でもあった[40]。一隻の五段櫂船には20人の甲板乗組員と士官、そして280人の漕ぎ手の合計300人が乗船していた[41]。これに加えて通常では定員40人の海兵も乗船していたが[42]、戦闘が差し迫っていると考えられる状況下では120人まで増員される場合があった[43][44]

コルウスと呼ばれるローマの軍艦に備え付けられていた移乗攻撃用の器具

漕ぎ手たちを一つの集団として機能させることは言うまでもなく、戦闘でより複雑な機動作戦を実行するためには長く多大な労力を要する訓練が必要だった[45]。また、船を効果的に操るには漕ぎ手のうち少なくとも半数が何らかの経験を積んでいる必要があった[29]。その結果、当初ローマ艦隊は経験豊富なカルタゴ艦隊に対し不利な状況に立たされていた。しかし、ローマ艦隊はカルタゴ艦隊に対抗するため、コルウス(ラテン語でカラスを意味する)と呼ばれる幅1.2メートル、長さ11メートルの架橋を導入した。コルウスには自由端の下側に大きく重量のある釘が取り付けられ、敵船の甲板に突き刺して固定できるように設計されていた[43]。これによって海兵として行動するローマ軍団兵はそれまでの伝統的な戦術であった衝角を用いた体当たり攻撃ではなく移乗攻撃によって敵船を捕獲できるようになった。すべての軍艦には幅60センチメートルの青銅製の刃を3枚組み合わせた最大で重さ270キログラムになる衝角が喫水線に装備されており、これらの衝角はガレー船の船首に隙間なく取り付けることができるようにすべてロストワックス製法によって一つずつ作られ、青銅製の大釘で固定されていた[46][47][48]

ポエニ戦争に先立つ1世紀の間、海兵の乗船は次第に一般的になり、体当たり攻撃は減少していたが、これは当時採用されるようになった大きく重い船が体当たり攻撃に必要な速度と操縦性に欠け、同時により頑丈な構造となったことから体当たり攻撃が成功した場合においてもその効果に乏しくなったためであった。ローマ艦隊のコルウスへの適応はこのような傾向の延長線上にあり、操船技術における当初の不利を補うものでもあった。その一方で船首の重量が増加したことから船の操縦性を損なうことにもなり、荒れた海況ではコルウスは役に立たなくなった[46][49][50]。紀元前255年にはヘルマエウム岬の海戦での勝利後に北アフリカから帰還途上にあったローマ艦隊がシチリア沖で嵐に遭遇したことで壊滅的な打撃を受け、総数464隻の船舶のうち384隻が沈没し[注 4]、10万人に及ぶ兵士が失われた[51][52]。この時、コルウスの存在が異常なまでにローマの船舶の航行を困難にさせていた可能性があり、この大惨事以降、コルウスが使用されたという記録はない[53]

戦いの序章

ローマ艦隊はコルウスを活用したことが主な要因となり、大規模な海戦となったミュライ沖の海戦(紀元前260年)、スルキ沖の海戦(紀元前258年)、エクノモス岬の海戦(紀元前256年)、およびヘルマエウム岬の海戦(紀元前255年)で勝利を重ねた[54]。その後、ローマ軍はカルタゴがシチリアに送り込んだ戦象を恐れたために紀元前252年から紀元前251年にかけてカルタゴ軍との戦闘を避けていた[55][56]。そして紀元前250年にはカルタゴ軍が戦象を活用してローマに奪われていたパノムルス(現在のパレルモ)の奪還を試みたものの、戦闘に敗れて逆に戦象の大半を失った。この結果、ローマ軍はシチリアの平原地帯において自由に作戦行動を展開できるようになった[57]

パノルムスでの勝利に後押しされたローマ軍は、その後シチリアにおけるカルタゴの重要な拠点であったリリュバエウム(現在のマルサーラ)に向かった。紀元前250年の執政官[注 1]であるガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスに率いられた大軍が都市を包囲し、紀元前255年に嵐で艦隊が壊滅してから新たに建造された200隻の軍艦で港を封鎖した[59][60]。封鎖が始まってから間もなくカルタゴの50隻の五段櫂船がシチリアから西へ15キロメートルから40キロメートル沖合に位置するアエガテス諸島に集結した。そして強い西風が吹くとローマ艦隊が反応する前にリリュバエウムへ素早く入港し、浅瀬を嫌った敵艦隊が追跡しなかったこともあり、増援部隊(古代の史料では4千人あるいは1万人[61])と大量の物資を陸揚げすることができた。その後、包囲下では役に立たない騎兵隊を船内に撤収させ、夜間に出港することでローマ艦隊の追撃をかわしつつカルタゴの支配下にあるドレパナ英語版(現在のトラーパニ)に向かった[62]

ローマ軍はリリュバエウムに通じる陸路を土や木材で作った防壁と野営地で封鎖した。一方で港湾への入口も大量の木製の防鎖で塞ごうと何度も試みたものの、これは荒れた海況のためにうまくいかなかった[63]。カルタゴ軍の守備隊への物資補給は封鎖突破船の活動によって維持された。これらの船舶は軽量で機動性に優れた五段櫂船であり、航行が難しい航路の潮流や浅瀬を熟知している訓練を積んだ乗組員と水先案内人が乗船していた。これらの封鎖突破船を率いていたのはロードス人ハンニバル英語版と呼ばれる人物が指揮していたガレー船であり、ハンニバルは自船とその乗組員の優越性を誇示しながらローマ艦隊を挑発した。しかしながら、ハンニバルとその精巧なガレー船は最終的にローマ艦隊によって捕らえられた[64]

ドレパナ沖の海戦の前にプルケルが聖なる鶏を海へ投げ捨てさせる様子を描いたイラスト(作者不明、1880年頃)

リリュバエウムに対する封鎖が続くなか、ローマ艦隊に不足していた漕ぎ手を充当するために1万人の兵員が新たにイタリア本土から派遣された。この時、紀元前249年の執政官の1人としてリリュバエウムのローマ軍を指揮していたプブリウス・クラウディウス・プルケルは、この1万人の増援によって十分にリスクを軽減できると判断し、軍議における支持を得てシチリアの西岸のリリュバエウムから北へ25キロメートルに位置するドレパナでカルタゴ艦隊を攻撃する決断を下した。ローマ艦隊は発見を避けて奇襲を確実なものにするため、月の出ていない夜に出航した[65][66]。ローマ軍には軍事作戦の成否を神聖なの行動で占うという伝統があった。早朝に餌を与え、熱心に食べれば吉兆、拒めば不吉とされた[67][68]。ドレパナへ向かう途上でこの厳粛な儀式が行われたが、鶏は船の揺れに慣れていなかったためか餌を食べようとしなかった。激怒したプルケルは「食べないのなら飲ませろ!」と叫んで鶏を海に投げ捨てるように命じた[69][70]。ただし、ポリュビオスはこのエピソードについて言及しておらず、現代の学者の中にはこの話の真実性を疑っている者もいる[71][72]。例えばティモシー・ワイズマン英語版は、これに関連するエピソード全体が(プルケルも属していた)クラウディウス氏族の評判を落とそうと考えていた敵対的な年代記編者によって創作されたものだと考えている[73]

戦闘

ローマ艦隊は夜が明ける頃までにドレパナに接近していたが、問題も抱えていた。暗闇の中では隊列を維持することが困難であり、さらに1万人に及ぶ新しい漕ぎ手たちが既存の乗組員との訓練や実戦経験を欠いていたために余計に事態が悪化した。その結果、朝になる頃にはローマ艦隊は長く無秩序な列に広がっていた。この時プルケルの軍艦は恐らく後衛の離脱を防ぐために後方に位置していた[65][66]。カルタゴ艦隊の司令官のアドヘルバル英語版は完全に不意を突かれる形で見張り番からローマ艦隊の接近の報告を受けたが、自軍の艦隊は出航する準備が整っており、直ちに都市の守備隊を海兵として乗船させ、自らが搭乗する軍艦に従って出航するように命じた[72]。ローマ艦隊は120隻以上の軍艦を擁していたが、一部の史料ではさらに多い200隻を擁していたとされている。一方のカルタゴ艦隊は100隻から130隻の軍艦を擁していた。両艦隊のすべての軍艦には定員に達する海兵が乗船していた[74][75]

戦闘における双方の艦隊の行動を示した地図。青がローマ艦隊、緑がカルタゴ艦隊を示している。最初に長く間伸びしたローマ艦隊がドレパナの港に接近したが、これを察知したカルタゴ艦隊は市街地と2つの小島の間を抜けて外洋側からローマ艦隊に接近し、外洋を背にした有利な状況で戦闘を開始した。ローマ艦隊は逃げ場のない不利な状況での戦闘を強いられ、最終的にカルタゴ艦隊によって打ち破られた。

ローマ艦隊の中で前方に進んでいた軍艦は港湾の入口に到達し、その場所を封鎖する態勢を整えようとしていた。しかし、プルケルは奇襲に失敗したことを悟ると艦隊に後退を命じ、戦闘陣形を整えることに集中するように指示した。しかしながらこの命令の伝達には時間がかかり、さらに一部の軍艦がこれに応じて進路を変えようとしたためにまだ前進を続けていた他の軍艦と衝突を起こすという事態になった。ローマ艦隊の操船技術は極めて拙劣であり、複数の軍艦が互いに衝突したり味方の軍艦の櫂を切断したりした[72]。一方でアドヘルバルの艦隊は混乱したローマ艦隊の前衛を迂回して西へ進路を取り、市街地と2つの小島の間を抜けて外洋に到達した。ここでカルタゴ艦隊は機動の余地を得て南へ進み、ローマ艦隊と平行するように戦列を敷いた。そして後方にいたプルケルの旗艦の南側に5隻の軍艦を配置し、海岸線に向かって斜線陣を敷くことでローマ艦隊全体をリリュバエウムに向かう退路から遮断した[72]

ローマ艦隊は西に船首を向ける形で一列に並び、後方を海岸線に向けることで側方からの包囲を防いでいた。しかし、カルタゴ艦隊が攻撃を開始するとローマ艦隊の陣形の弱点が明らかとなった。カルタゴの軍艦は軽量で機動性に優れ、乗組員はローマ艦隊と比べて経験豊富で船同士の連携にも慣れていた。また、ローマの軍艦は正面からの攻撃の抑止力になっていたコルウスをすでに欠いていた。一方のカルタゴの軍艦は数の上では恐らく劣っていたものの、個々の軍艦が混戦の中で劣勢に立たされた場合でも櫂の操作を反転させることで後方へ退くことができるという有利な点があった。さらに、その状況下でローマの軍艦が追撃を試みたとしても軍艦の両側面を無防備に晒してしまう危険性があった。海岸を背にしていたローマ艦隊にはそのような行動の選択肢はなく、その結果として互いの軍艦を守るために緊密な陣形を保とうとした。激しい戦いは一日中続き、ローマ艦隊の海兵として従軍していた軍団兵の質の高さと緊密な陣形によってローマの軍艦は敵艦の海兵による移乗攻撃を防いでいた。しかし、カルタゴ艦隊は巧みにローマ艦隊を翻弄し、無防備となった敵艦を次々と衝角で狙い撃ちにして着実に優位を拡大していった。そしてついにローマ艦隊の統制は崩壊し、一部の軍艦は意図的に船体を座礁させることで乗組員を脱出させることができたものの、戦場を離脱することができた30隻の軍艦を除き(プルケルも離脱には成功した)艦隊は壊滅する結果となった[76][77][78]

この海戦はローマ艦隊の完敗に終わり、ローマの軍艦のうち93隻が捕獲され、沈没した軍艦の数は不明なものの2万人の乗組員が戦死したか捕虜となった[79][80]。これはカルタゴがこの戦争中に挙げた最大の海戦における勝利であった[81]

戦闘後の経過

脚注

参考文献

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