テイントゥン (実業家)

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生誕 1937年3月26日
死没 2022年4月18日
バンコクタイ
職業 実業家
子供 3人
テイントゥン
生誕 1937年3月26日
死没 2022年4月18日
バンコクタイ
職業 実業家
子供 3人
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テイントゥンビルマ語: သိန်းထွန်英語: Thein Tun1937年3月26日 - 2022年4月18日)は、ミャンマーの実業家であり、企業グループ・ミャンマー・ゴールデン・スター・グループ(Myanmar Golden Star Group:MGS)の創設者である。ミャンマーにペプシコーラを紹介したことで知られる。また、2000年から2021年まで発行されていたミャンマー・タイムズのオーナーでもあった。

1937年3月26日、エーヤワディー地方域ミャウンミャ県英語版ワーケーマ郡区ワーケーマ英語版に、三男三女の次男として生まれる。元首相のウー・ヌと同郷である。父親は裕福な米商人だった[1]

1952年、ヤンゴンの私立学校に進学。兄弟で唯一の高校進学者だった。1954年に高校を卒業した後、大学に進学する経済的余裕がなかったので、電力供給委員会に就職した[1]

1961年、テイントゥンは、「黄金の勝利」を意味するアウンニュンスウェ社(Aung Nyunt Swe Co. )という輸出入会社を設立。仕事の関係で日本、香港、インド、タイなどに出張し、ビジネス上の人脈を築いた。しかし、1962年ビルマクーデターにより、ネ・ウィン率いるビルマ革命評議会が全権を掌握し、ビルマ式社会主義の下、民間資産の国有化が進むと、1965年にアウンニュンスウェ社も閉鎖された[1]

事業

テイントゥンはワーケーマに戻り、ゴマとピーナッツから食用油を生産する工場を建設し、のちに製品の輸送も行うようになった。1976年にはヤンゴンで外国企業の個人代理店として輸出入業に参入。過去に築いた人脈を生かして事業を拡大を図った。当時、このような代理店業を営む者は全国で200人程度しかおらず、この経験が後年の事業発展の礎となった[1]

1987年、病気治療のためにイギリスに滞在していた際、世界的株価大暴落であるブラックマンデーに遭遇。この際、テイントゥンは消費者向け製品を扱う企業のみが危機を回避できたと分析し、1989年、MGSを設立[1]。翌1990年、ペプシコーラと提携して合弁会社を設立し、ミャンマーで初めてペプシコーラの販売を開始した。この成功により、彼は「ペプシ・テイントゥン」と呼ばれるようになった[2]

しかし、アメリカ政府の対緬経済制裁強化の影響を受け、1997年にペプシコーラは撤退。その際、ペプシコーラは数百万米ドルのテイントゥンに残したが、テイントゥンはその金を独占したため、ペプシコーラは激怒し、2012年にミャンマーに再進出した際には、MGSをパートナーに選ばず、中国系企業グループと提携した[2]

その後、MGSはソフトドリンク、練乳、タバコの生産・販売、木材の加工・輸出などの分野に事業を拡大していき、さらに、トゥン商業銀行(Tun Commercial Bank)を設立、デンマークのビール会社カールスバーグの現地パートナーとなり、2014年にはミャンマー・タイムズのオーナーにもなった[2]

しかし、銀行は小規模で経営状態が思わしくなく、カールスバーグはカールスバーグ派とテイントゥン派の派閥抗争が激しく、同社に勤務していたテイントゥンの孫であるダニエル・トゥンが2020年に「度重なる重大な不正行為」を理由に副社長を解任される事態が生じた。さらに、ミャンマー・タイムズでは、子飼いの編集長を通してたびたび編集方針に介入したので、記者たちの反発を買った。2021年ミャンマークーデターの直後、同編集長は国軍の方針に従うように命じたため、記者たちは抗議の総辞職を行い、同年3月、休刊に追い込まれた[2]

晩年のテイントゥンは、仕事を息子たちに任せず、たびたび経営に介入しており、ミャンマーの実業界からは時代遅れと見なされていなのだという[2]

国軍との関係

国家法秩序回復評議会(SLORC、のちに国家平和発展評議会〈SPDC〉へ改組)体制下で商務大臣を務めたトゥンチー英語版と親しかったとされる[2]

死去

2022年4月18日、タイのバンコクで亡くなった[2]

家族

脚注

関連項目

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