ニコラウス2世 (ローマ教皇)
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1058年当初、トゥスクルムのトゥスクラーニ家などの貴族の支持を受けたベネディクトゥス10世が教皇に選出された。しかし、一部の枢機卿は買収があったとして選挙の不当性を主張し、ローマから追放された。イルデブラント(後のグレゴリウス7世)は、ベネディクトゥス10世への対抗を表明してジェラールへの支持集めに走った。
1058年、反ベネディクトクス10世派の枢機卿らはシエナでジェラールを対立教皇ニコラウス2世として擁立した。
ニコラウス2世はローマへ進行する途上のストリで会議を開き、ベネディクトゥス10世の廃位と破門を宣言した。その後、ニコラウス2世の支持者がローマを制圧、ベネディクトゥス10世は逃亡し、これをもって彼の教皇位は事実上失われたとされている。
ニコラウス2世はノルマン人の援助を得て、ベネディクトゥス10世やその支持者への報復戦争を進めた。1059年初のカンパーニャの戦いでは完全な勝利を得られなかったが、同年パレストリーナ、トゥスクルム、ヌメンタヌムを占領し、秋にはベネディクトゥス10世の籠っていたガレリアを奪取、ここに至ってこの対立教皇は降伏し、教皇位を放棄した。
ノルマン人との関係
ニコラウス2世は自らの地位を確保するため、早くからノルマン人と関係を持った。また、キリスト教徒の手でムスリムを破り、シチリア首長国を奪回するという彼自身の野望のために、ノルマン人は完璧な軍事力だとみていた[2]。この頃のノルマン人は南イタリアに強力な国家を建設しており、1059年後半にはメルフィにおいて、ニコラウス2世、イルデブラント、フンベルトゥス枢機卿、モンテ・カッシーノのデジデリウス大修道院長らがロベルト・イル・グイスカルドにアプーリア、カラブリア、シチリアの公爵位を、リッカルド・ドレンゴットにカプア公国を、教会の擁護の誓約と引き換えに厳かに与えた。
8世紀ごろに作成されたとされる偽書のコンスタンティヌスの寄進状は、東西ローマ帝国からの教皇庁の独立を運命づけるものであった。その最初の成果が、ガレリア獲得におけるノルマン人の援助と、教皇庁のローマ貴族による支配からの脱却であった。