ニーベルングの指環
リヒャルト・ワーグナー作曲のオペラ
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『ニーベルングの指環』(ニーベルングのゆびわ、ドイツ語: "Der Ring des Nibelungen")は、リヒャルト・ワーグナーの創作した楽劇。ワーグナーが1848年から1874年にかけて、約26年の歳月を経て完成された。副題は「舞台祝祭典劇(ein Bühnenfestspiel)」。4作の上演には約15時間を要し、通常4日間をかけて上演される。
4日間の内訳は以下の通り[注 1]
- 序夜 『ラインの黄金』(Das Rheingold):2時間40分
- 第1日 『ワルキューレ』(Die Walküre):3時間50分
- 第2日 『ジークフリート』(Siegfried):4時間
- 第3日 『神々の黄昏』(Götterdämmerung):4時間30分
当初は北欧神話の英雄であるシグルズの物語をモチーフとした『ジークフリートの死』を着想するが、主人公の出生や生い立ちの語りが長いと言う欠点から、その前史的な内容の『若きジークフリート』を構想する。そしてこれのさらに前史的な内容である「ラインの黄金」「ワルキューレ」も構想され、現在の四部作となった。
歌劇において初めて頭韻が効果的に使用された。また、特定の人物や概念などを示すライトモチーフ(示導動機)を採用することによって、四部作全体の構造的なまとまりを実現している[1]。
初演
部分世界初演
作曲にあまりにも時間がかかりすぎていたため、ワーグナーの支援者であったバイエルン王国の国王ルートヴィヒ2世は出来たものから上演するよう催促した。ワーグナーにしてみれば非常に不本意なことであったが、経済的な問題もあり、仕方なく『ラインの黄金』と『ワルキューレ』の先行上演を了承した。『ラインの黄金』は1869年9月22日に、『ワルキューレ』は1870年6月26日にいずれもミュンヘン宮廷歌劇場で、フランツ・ヴュルナーの指揮によって初演された。
全曲世界初演
1876年8月13日、第1回バイロイト音楽祭にて。ハンス・リヒター指揮。ルートヴィヒ2世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世、またフランツ・リスト、アントン・ブルックナー、ピョートル・チャイコフスキーらの音楽家などの観衆を集めて上演された。『ジークフリート』と『神々の黄昏』はこの時が初演となる。
「ミュンヘンでの舞台より見栄えが悪かった」という論評もあり、舞台評や収支の面で俗に言う「こけた作品」となってしまい、ワーグナー自身鬱になり、音楽祭自体もしばらく開かれなかった。
日本での部分初演
『ラインの黄金』が1969年に若杉弘指揮、二期会メンバーにより[2]、『ワルキューレ』が1967年に大阪で開催されたバイロイト・ワーグナー・フェスティバルにてトーマス・シッパーズ指揮NHK交響楽団、ジェス・トーマス、アニャ・シリヤなどにより[3]、『ジークフリート』が1983年に二期会メンバーにより[4]、『神々の黄昏』は後述の朝比奈隆指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団などにより行われた。
日本での全曲初演
前述の『神々の黄昏』初演を含む1984年から1987年にかけて1年1作ペースで行われた朝比奈隆指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団などによるオール日本人キャストによる演奏会形式での上演を初演と見なすか、1987年に来日公演を行ったヘスス・ロペス=コボス指揮・ベルリン・ドイツ・オペラによる上演[5]を初演と見なすか、2通りの見方があるが、基本的には連続して演奏された後者を日本初演扱いにすることが多い。
その後も日本で『指環』が上演される時はだいたい4年がかりで完結させることが多い。
成立過程
ワーグナーは「ニーベルングの指環」の構想から台本の執筆、そして作曲を、1848年から1874年にかけて不規則かつ複雑な順序で行なっている。この四部作の発生そして実現は、ロマン主義と産業の飛躍的発展という二つの合流点・歴史的変化にあった。
構想以前 (~1847)
サラセン女
ワーグナーはパリ時代にフリードリヒ・ゲオルク・フォン・ラウマー(1781~1873, ドイツの歴史学者)による、中世最後のドイツ王朝であるシュタウフェン家について述べられた「ホーエンシュタウフェン朝の歴史」に触発されたことから、1841年冬から42年春にかけて、フリードリヒ2世の息子マンフレートの運命を描いた5幕の歴史劇「サラセン女 (Die Sarazenin)」の草案を創作する[注 2]。フリードリヒ2世とサラセン女性の間に生まれた主人公のファーティマは、「マンフレートを愛さなければ奇蹟が起こるだろう」という予言がなされていた。ファーティマは熱狂的な予言者となってマンフレートの前に現れ、彼を立て続けに勝利へ導いた。しかし、マンフレートはファーティマへの愛に目覚めるとと、ファーティマは幼馴染に刺殺される。遺体の前に立ち尽くしたマンフレートは、自分から幸運が永遠にさったことを痛感する。[6]劇的な効果も十分であるようにワーグナー自身も思ったようだが、実現に至ることはなかった。そしてのちにフリードリヒ1世を題材とした歴史劇を構想することとなる。
北欧神話・ギリシア悲劇
ドレスデン時代のワーグナーは「『ゲルマン神話』そして『ギリシア悲劇』との出会い」という、後の彼の創作活動に大きな意味を持つこととなる2つの経験があった。
ワーグナーは若い頃に、伯父のアードルフやジリッヒ得業士に指導されており、古代ギリシアへの興味を抱いたが、学業によって中断を余儀なくされた。ワーグナーのパリ時代、古典文献学や古代ゲルマン研究を得意としていたザムーエル・レールス(Samuel Lehrs)は彼に歌合戦伝説やローエングリンをはじめとするドイツの古い伝説について教えており、それ以来ワーグナーはこの分野の研究に没頭していた。レールスと話している際にワーグナーは「ギリシアの作家たちの原典を研究してみたい」と口にしたこともあったそうだ[7]。
1843年の7月にワーグナーはヤーコプ・グリムによる「ドイツ神話[8]」第1巻を読む。1847年7月に湯治のために訪れたテプリッツでは散歩の時は必ずこの本を持ち歩いていたそうだ。最初はこの本の内容そして構成は不明瞭であるものとしか感じられなかったと述べているが、「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」の作曲を邪魔する程、虜になってしまった。ワーグナーは自伝で以下のように述べている。
「そこから私の精神状態に与えられた影響は完全な再生という言葉でしか呼びようのないものなのである。初々しい電撃的な認識に接した初めての喜びによっている子供達を、私たちが、驚きと感動を持って見守るのと同じように、その時私の視線は、奇蹟によって1つの世界が認識できたことの喜びに輝いていたのだが、この世界は私が、母親に抱かれた胎児のように、それまでただ予感のうちに朧げに自覚していたにすぎなかったものでもある。」[9]
1843年10月、ワーグナーはオストラ大路に面した広い住居に移った。この住居での生活をより良いものにしたのは、ブライトコプフ・ウント・ヘルツェル製のグランドピアノ、ペーター・フォン・コルネーリウス(1783~1867, ドイツロマン派の画家)による「ニーベルンゲン物語」の絵、そして古典学・古代ドイツ学・歴史学研究のために買い漁った蔵書たち、などであった[7]。当時買うことのできなかった文献は、ザクセン国立図書館から借りていた。図書館長であり博識な顧問官ヨハン・ゲオルク・テオドール・グレッセ博士(1814~1856, ドイツの文学史家)から色々と助言をもらっており、グリムの書籍に以前感銘を受けたワーグナーは、北欧神話の原典にまで手を伸ばすようになった。彼は「エッダ」「ニフルンガ=サガ」「ヴィルキナ=サガ」「ヘイムスクリングラ」といった文献を読んだ。パウル・ヘルマンによれば、ワーグナーは翻訳書を傍に置きながら原典を理解できるほどの古ノルド語の能力を持っていた[10]という。ワーグナーの自伝にも、流暢ではないものの可能な程度に北欧の言語や古代文学に親しんでいたと記されている。
フリードリヒ1世・アレクサンダー大王
1846年10月31日に、ワーグナーは「ローエングリン」の作曲途中に、歌劇「(赤髭帝)[注 3]フリードリヒ1世 (Friedrich I)」の構想を書き留める。(創作の具体的な年月は不明だが、ワーグナーは1878年4月1日に妻のコジマ・リストに歴史劇「アレクサンダー大王」のスケッチを創作したと明かしている。[11]第1幕はクレイトスの殺害、第2幕はアジアからの帰行の決心、第3幕はアレクサンダー大王の死、という構成であった。ワーグナーは、ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(1808~1884, ドイツの文筆家)の著作「アレクサンダー大王物語とヘレニズム」から知識を得ていたそうだ。)[7]
アイスキュロス
1847年4月、借金に苦しんでいたワーグナーは、郊外にある、フランス式の古い庭園がついたマルコリーニ宮に移住する。ここでは「ローエングリン」のオーケストラスケッチの作成に励んだ。そして、ワーグナーはヨハン・グスタフ・ドロイゼン(1808~1884, ドイツの文筆家)の翻訳による「アイスキュロス作品集」(1832年刊行)を熟読する。特に悲劇三部作「オレステイア」に熱中する。[12]フリードリヒ・ニーチェはのちに以下のように記している。
アイスキュロスとワーグナーの間には、あらゆる時間概念の本質は相対的であることを殆ど誰にでも思わせずにはおかない親近性と類似性がある。ある物事の間に共通点がみられる時、時間というものはこれらのつながりを我々の眼に捉え難くする一片の雲に過ぎないかのように思えさえするのである。[7]
近年の研究によると、ワーグナーとアイスキュロスの親近性は、形式の模倣や引き継ぎというものではなく、古代そのものを継承する内的なものである。また、アイスキュロスという実例が、ワーグナーが北欧・ゲルマン神話の断片から独自のドラマを作り上げるのを可能にしたとまで言われている[7]。ワーグナーは、アイスキュロス以外にもアリストファネスやプラトンに親しんだ。ワーグナーに会ったヨハネス・ノルトマン(1820~, オーストリアの詩人)によると、ワーグナーのギリシア劇作家の理解は専門の教授を遥かに凌ぐものであったという。[13]
1847年夏に「ローエングリン」のスケッチを完成させる。
革命 (1848~49)
ワーグナーの熱心な古典文学・ゲルマン古代研究といったものの構想が大作へと発展するには、「革命[注 4]」という一種の強力な衝動が必要であったのだ。この衝動によって世界を支配する「ニーベルングの財宝」にドラマの中心的役割を与え、権力の奪い合いを引き起こすドラマが構築された。ワーグナーの革命への傾倒の背景として、パリを訪れた際に読み耽ったプルードンのプルードンの無産思想や無政府主義者ミハイル・バクーニン、社会主義に傾倒した友人のレッケルなどの影響が少なからず認められる。
1848年2月にフランス・パリで2月革命が勃発する。ワーグナーはこの頃政治とは全くの無縁であった。1848年3月にザクセン国王フリードリヒ・アウグスト(2世)がリベラルな内閣を任命し、憲法改正を行なった。これによって帝室費が削減され、宮廷劇場の補助に影響が出ることをワーグナーは恐れた。そしてワーグナーは、40ページにも及ぶ「ドイツ国民劇場の組織」[注 5]と題した構想を作成し、内閣に直接提出した。しかし、これを読んだ鑑定人たちは否定的な判断を下して葬った。(1850年9月18日にテオドール・ウーリヒに宛てた手紙で、その時亡命者であったワーグナーは、自分が現実的な改革を志していたことを証明するために、この構想を出版するか否かを考えていたようだ。)
1848年4月28日に「ローエングリン」の総譜を完成させる。しかし、この歌劇ががドレスデン宮廷歌劇場で上演できる見通しはなく、当時「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」の総譜の自費出版をしていたこともあり、経済的な苦境にあった。
ワーグナーは宮廷劇場の改革プランから始まって、あからさまに政治の領域に触れていくようになる。1848年5月にワーグナーはウィーンの革命家たちに対して「ウィーンの人々に送るザクセン王国からの挨拶」と題した以下のような詩を捧げた。[14]
君たちは自由のあり方を見抜いた、自由は中途半端なやり方では得られまい…
この詩は「アルゲマイネ・エステライヒッシェ・ツァイトゥング(Allgemeine Esterahische Zeitung)」紙に掲載された。また、「ドレースデナー・アンツァイガー (Dresdner Anzeiger)」紙にワーグナーの書いた「共和政志向の運動は王政に対していかなる関係を持つのであろうか?」と題した記事も掲載された。ワーグナーは上院の廃止と国民軍の設置を要求し、現代社会を支配する金銭という悪魔的な概念そして所有と産業の打破のための「大いなる人類革命(総合芸術たるドラマ)」の必要性を訴えた。そしてキリストの教えが成就されるべき経済的な理想について、ある公園で開催された愛国協会の例会で数千人の民衆を前にして以下のように主張した。[7]
「諸君はここに共産主義の教えを嗅ぎ取るのであろうか?最も卑劣な物質である金銭への、醜く破廉恥な奴属からの人類の不可欠の救済を、最も無意味な共産主義の教えの遂行と同一視するほどに諸君は愚かでろうか?それとも腹黒いのであろうか?神から授かった人間の権利を認識せよ!そうでないと諸君はやがて、ひどい恥辱を受けた自然が勢いを得て粗暴な戦いを始め、共産主義がその戦いの荒々しい凱旋となる日を体験することとなるかもしれない。そして共産主義の原則が存続することが不可能であり、それによる支配が非常に短いものであるにせよ、我々の文明の二千年の成果を根絶するには十分であろう。諸君は僕が脅迫を行っていると考えるのか?そうでない。僕は警告しているのである!」
ワーグナーの友人カール・アウグスト・レッケル (1814~1876)の発行する週刊誌「フォルクスブレッター」に、ワーグナーは「ドイツとその君主たち (1848年10月15日)」「人間と現社会 (1849年2月10日)」「革命 (1849年4月8日)」の3つの記事を投稿した。[15][7]
レッケルの自宅でワーグナーは、ロシアの革命家ミハイル・バクーニン[注 6]と知り合う。ワーグナーはバクーニンの徒であるなどと称されることもしばしばあるが、芸術を通じて人間社会を形成していこうとするワーグナーと、あらゆる文化制度は破壊を免れないとするバクーニンの間には深刻な意見の対立があったようだ。1849年9月19日にスイスのケーニヒシュタインでバクーニンは、「ワーグナーは空想家である」と述べている。
ウィーベルンゲン - 伝説による世界史
「(赤髭帝)フリードリヒ1世」[注 7]のスケッチに再び取り掛かり始めたワーグナーは、この物語と「ニーベルンゲン物語」の素材の同質性を発見することとなる。ワーグナーは、ルードルフシュタットの歴史学教授ゲットリンクの「ニーベルンゲンとギベリン派[16]」という書籍で論じられる「ギベリン派とニーベルンゲンの根源は同一で内的な関連があり、ニーベルンゲンは"世界の財宝を独占して全ヨーロッパの支配権を握ろうとする王族の名"に他ならない」という説に感銘を受ける。
1848年夏[注 8]に仕上げた論文「ウィーベルンゲン、伝説による世界史[17]」において、ホーエンシュタウフェン朝の歴史をニーベルンゲン族の伝説から導出することを試みた。フリードリヒ1世を輩出したホーエンシュタウフェン家は一時、西南ドイツのヴァイプリンゲンを領有していたためにヴァイプリンゲン一族と呼ばれた。そして、12,13世紀の神聖ローマ皇帝はホーエンシュタウフェン家から輩出されていたため、教皇を指示するギベリン派はヴァイプリンゲン一族と言えよう。また、ドイツ語のWはイタリア語のGに置き換えられたことから、法皇党(Guelfi)と対皇帝党(Ghibellini)の対立は、ドイツにおけるヴェルフェン家とウィーベルンゲン家との対立を意味する。ワーグナーは以上のように空想を働かせ、歴史上のウィーベルンゲン一族は伝説上のニーベルンゲン一族であり、ジークフリートとフリードリヒー世が同じ系統に属する英雄であると述べた。これは、ワーグナーが皇帝権を手中に収めた後に没落するフリードリヒと、指環の獲得によって殺されたジークフリートの生涯を重ね合わせたためであると考えられている。当時ワーグナーは特に英雄ジークフリートに惹かれており、彼にドイツ民族の理想的な姿を見出していた。フリードリヒ1世はワーグナーにとって、ジークフリートの歴史的復活であるかのように思われた。ワーグナーは国家統一を目指すドイツ国民にとってフリードリヒー世の方が親しみやすいと考え、彼を題材とした「(赤ひげ帝)フリードリヒ1世」のスケッチをさらに進めるが、歴史的な題材のみでは理想的なドラマの創造には至らなかった。断念の理由として本人は、歴史はその膨大な状況の描写からドラマの表現形式を破壊しうるということを理由として挙げている。この論文は筋の通らない大胆な設定であるが、フリードリヒ1世を題材とする歴史劇に見切りをつけ、ニーベルングを題材とした歌劇への本格的な方向転換の将来への布石として解釈するのが定説である。
ジークフリートの死の構想
フリードリヒ1世を題材とすることを断念し、ジークフリートが題材として選ばれた。ワーグナーは「ニーベルンゲン神話」という草案を作り、この草案の最終部分が「ジークフリートの死」に発展することとなった。また、ジークフリートを題材とする歌劇の創作の決断を促したのは、「ローエングリン」の上演が何の説明もなく再びお蔵入りになってしまったという事情であった。ワーグナーは自伝で以下のように述べている。
自分の「ローエングリン」の素晴らしい上演によって劇場との和解を試みようとする最後の希望を捨てたことによって、私は劇場そして劇場と関わり合おうとする一切の試みに対して、とにかく徹底的に背を向けた。今こそ私は長年抱いてきた「ジークフリートの死 (Siegfrieds Tod)」の計画の仕上げにかかった。[9]
1848年10月20日にワーグナーは「ジークフリートの死」の散文稿を書き上げる。同年11月11日から28日までを韻文稿の仕上げに費やした。同年12月の初めには、グスタフ・キーツ、ハンス・フォン・ビューロー、ゴットフリート・ゼンパー[注 9](1803~1879, ドイツの建築家)、カール・リッター(1830~1891, エストニア出身の作曲家でワーグナーの母の親友)らを招待して、ワーグナー本人による朗読が行われた。朗読に続けて、ワーグナーは戯曲と音楽の問題 -管弦楽が劇的な表現に関与して意味を持つことや言葉が舞台においてもっと支配的でなければならないことなど- について議論した。当時すでに音楽の新規的な作曲技法が明確にワーグナーの脳裏に浮かんでいたというのは非常に興味深い事件である。[7]
ナザレのイエス
この時期、ワーグナーは新約聖書に読み耽っていた。彼は「未来の理想的舞台」のためのプランとして、イエスの自己犠牲を描いた「ナザレのイエス」を構想する。草案[18]は50ページ以上に及ぶ。第1幕は反乱を企むユダとバラバに対して愛の教えを説くイエスを描き、第2幕ではガラリアの海辺での説教、第3幕ではエルサレムへの入城、第4幕では最後の晩餐とゲッセマネの園の場、第5幕ではビラトの邸宅の前での裁判、最後には処刑場から戻ったマリアとヨハネがイエスの生涯の完結と未来の教会建設の希望について語られて幕を閉じる。また、アルトゥール・ドレーフス[注 10](1865~1935, ドイツの哲学者)は、イエスを題材とした歌劇の中ではワーグナーのものが最も成功しているであろうといっても過言ではないとの見解を示している。また、この戯曲で取り上げられるイエスの「死による救済」の思想はルートヴィヒ・フォイエルバッハの影響が見受けられると指摘されることもある[注 11]。ミハイル・バクーニンは「ナザレのイエス」に対して全く興味を持たず、「その話は勘弁してくれ」「イエスを駄目男として表現してくれ」などとワーグナーに頼んだそうだ。
ドレスデン五月蜂起
1849年4月3日、ザクセン国王アウグスト2世は憲法に従わずに両院を解散させ、政府の特別委員会によって国会の活動を停止させた。ドレスデンでは革命的象動が頻発するようになる。そして、ワーグナーは1849年5月に勃発したいわゆるドレスデン5月蜂起に参加する。この市民暴動は、ザクセン国王アウグスト2世が反動的な政府に促され、プロイセンの軍事援助によって国民の自由主義的風潮を抑圧する処置をとったために起こった。(1849年5月9日にザクセン軍とプロイセン軍によって鎮圧されたことで終わりを迎えた。)
ワーグナーは城前広場とエルベ橋に設置されたザクセン軍の兵士たちに、「諸君は我々と共に外国の軍隊に抵抗するか?」と題したビラを自ら印刷して配った。[注 12]5月5日から6日には、聖十字教会の塔で夜を過ごした。ワーグナーはプロイセンの狙撃兵からの尖頭弾から身を守りながら、そこに居合わせた牧師や教授らと、哲学やキリスト教の世界観について活発な議論を交わした。早朝にはザクセンのエルツゲビルゲ山から叛乱の援軍が到着するのを目撃した。[注 13]ワーグナーはその夜について以下のように書いている。[9][7]
こうして私は、恐ろしい轟音をたてる塔の鐘のそばにいて、塔の壁にプロイセンの銃弾が絶えず跳ね返る音を聞きながら、生涯で最も風変わりな夜を過ごした。
アキレス
5月6日の短い休戦を利用して、ワーグナーはバリケードを潜り抜けて遠方の住居へ帰って行った。その帰路でワーグナーは、アキレスを題材とした劇のプランを練っていた。[注 14]内容は、幼馴染のパトロクロスの死を嘆くアキレスに母テーティスが現れ、友人の復讐を諦めれば不死の生命を授けることを申し出るが、アキレスは人間の努力という使命を放棄する代償として与えられる不死を軽蔑し、テーティスは頭を下げてアキレスが神々よりも偉大であることを認める、というものであった。ワーグナーは人間と神々について以下のように述べている。[19][7]
人間は神を完全にしたものである。永遠の神々は元素であり、それが初めて人間を作るのである。創造は人間の内に完結する。アキレスは元素であるテーティスよりも高く、より完結している。
スイスへの亡命
ワーグナーはドレスデンを脱出し、ケムニッツで義兄ハインリヒ・ヴォルフラム(1800~1874, ワーグナーの姉クラーラの夫で1828年に結婚した)に匿ってもらい、秘密裏に馬車でアルテンブルクまで運んでもらう。ドレスデン時代に集めた蔵書はハインリヒ・ブロックハウスが1846年に貸した500ターラーの担保として保管した。[20]1849年5月13日にフランツ・リストの助けを借りてワイマールへ到着、世話をしてもらう。[注 15]5月16日にはドレスデンでワーグナーの逮捕状が出され、19日にはそれが「ドレスデン新報(Dresdener Anzeiger)」に掲載される。ワーグナーは19日に妻ミンナから送られてきた手紙でこのことを知る。この逮捕状にはワーグナーの外見の特徴として「年齢はおよそ37~38歳, 中背, 茶色の髪, 眼鏡をかけている」と書かれていたそうだ。ワーグナーはリストの助けで、「ベルリンのヴェルダー教授」という名でマクダーラに身を隠す。5月22日にはミンナもそこに到着する。ミンナはワーグナーに対して、なぜ自分の現在の地位を重んじずに他人の甘言に乗せられて不穏の行動を取ったのかと問いただす。ミンナには彼が無思慮な人間に見えていたようだ。ワーグナーはドレスデン時代に性格や教養の点から、ミンナとの結婚生活が終わりに近づいていることを感じ取っていたが、その時ミンナが自分のことを全然理解していないということを深く知ったのであった。5月23日には徒歩で6時間ほどかけてイェーナに向かい、24日から二人は別行動を取る[注 16]。二人の心の断絶は以後癒えることはなかった。
1849年5月27日、ワーグナーは馬車でルードルシュタット、ザールフェルト、コーブルク[注 17]、リヒテンフェルス、ニュルンベルクを経て、スイスとの国境付近に位置するボーデン湖畔リンダウに向かった。イェーナのヴィートマン(Widmann)という教授がワーグナーに旅券を提供してくれたおかげで、偽名でドイツの国境を通過することに成功したのだ。28日には汽船でボーデン湖の南側に位置するロールシャハに向かう。5月29日にオーバーシュトラース[注 18]からチューリヒに到着する。
1849年5月29日の夜、1833年にヴュルツブルクで親交を結んでいた音楽家アレクサンダー・ミュラー(Alexander Müller)を訪ねる。実に16年ぶりの再会であった。彼はワーグナーを受け入れ、スイス政府の州書記官ヤーコプ・ズルツァー(Jakob Sulzer)とフランツ・ハーゲンブーフ(Franz Hagenbuch)に引き合わせた。[7]そしてワーグナーは、持ち歩いていた「ジークフリートの死」の草稿を朗読する。
1849年5月31日(?)[注 19]、ワーグナーは突然活力を感じたこと、そしてズルツァーとハーゲンブーフの世話でスイスの旅券を手に入れたことで、チューリヒを出発する。朝のうちにバーゼルに到着し、午後にはシュトラースブルクに到着して馬車でパリに向かった。パリに到着したのは6月2日の朝だった。ワーグナーは7年前に失意のままパリを去ったが、その時の印象を未だ引きずっており、友人たちとの再会も気が重かった。パリでの生活は惨めであったようで、あまり仕事に励むことはできなかったようだ。この時ワーグナーは、ピエール・ジョセフ・プルードン(1809~1865, フランスの社会主義者・無政府主義者)の「財産論」、そしてアルフォンス・ド・ラマルティーヌの「ジロンド党史(Historie des Girondins)」に読み耽っており、少なからず慰めを受けたと語っている。
1849年6月8日にワーグナーは当時蔓延していたコレラを避けて、郊外のリュイユ(Rueil)に滞在し、7月6日にリストから受け取った旅費3000フランでチューリヒに戻る。
芸術と革命
チューリヒに戻ったワーグナーは、1849年7月末から論文「芸術と革命[注 20][21][22]」を執筆し、ライプツィヒの出版者オットー・ヴィーガントに提供する。この著作でギリシア悲劇と革命についてワーグナーは以下のように述べた。
ギリシア悲劇の衰退と軌を一にして、ドラマは個々バラバラの構成要素に分解した。だが復古などではなく、革命[注 21]こそがかの崇高な芸術作品を私たちに再び与えることができる。[23]
1849年9月の初めにワーグナーはチューリヒを出発して、ボーデン湖畔のロルシャハに移り、妻ミンナと愛犬ペープス(Peps)、鸚鵡パーポ(Papo)、そしてミンナの妹[注 22]ナターリエに会う。当時ワーグナーはリストやミンナからパリでオペラ作家として成功するのを督促されていたようだ。9月17日にワーグナー一行はチューリヒ郊外のホッティンゲン(Hottingen)のツェルトヴェク(Zeltweg)に住居をかまえた。
ワーグナーは以前から哲学にも没頭しており、青春時代にはシェリングの「超越的観念論の体系」やヘーゲルの「歴史哲学」などを読み耽っていた。ワーグナーがドレスデンから脱出した際、偶然出会ったドイツ人のカトリックの聖職者メッツドルフ(Metzdorff)がフォイエルバッハを「近代で唯一真正な哲学者」と評したことから、ワーグナーはチューリヒに着いてすぐにフォイエルバッハの「死と不死についての考察」を取り寄せた。友人アレクサンドル・ミュラーの弟子ヴィルヘルム・バウムガルトナー(Wilhelm Baumgartner)が本を運んできてくれたのだ。その本の中では、真の不死を崇高な行為や精神を宿した芸術作品にしか認めないという論が展開され、これはワーグナーへの励ましへとなったのであった[7]。自伝では、フォイエルバッハが「権威主義的な思考への抑圧からの個人の解放をもたらす代表者」として映ったと述べている。[24]
未来の芸術作品
1849年11月4日に論文「未来の芸術作品[注 23][25]」を完成させ、新しい芸術思想の追求に励んだ。論文内でワーグナーは以下のように述べている。
全なる人間に備わる3つの主要な芸術能力、つまり舞踊(Tanzkunst)・音楽(Tonkunst)・詩(Dichtkunst)の"三姉妹"は三位一体的な表現であるドラマとして結実した。[23]
しかし、この人間的な3つの芸術の形態は、エゴイズムによって離れ離れになっており、これからの芸術はこのエゴイズムを克服して、孤立からの救済そして再結合して未来の芸術とならなければならないと述べている[24]。 これは1850年9月ごろにルートヴィヒ・フォイエルバッハに献呈された。ワーグナーはフォイエルバッハに送った手紙で以下のように書いている。[26][7][24]
他ならぬあなたにしか私はこの労作を捧げることができません。これによって私は、あなたの財産をあなたにお返ししたのです。ただ、先生の財産であるのみならず、芸術家の財産となった限りでは、私が先生に対してどう振る舞ったらいいのか、迷っている次第です。つまり先生が哲学者として与えたものを芸術家の手から再び受け取る気持ちがおありかどうかです。いづれにしても私の心を元気づけてくれたことに対する感謝の気持ちを表したいという衝動と深い責任感とが、私の迷いを凌駕したのです。
鍛冶屋ヴィーラント
ワーグナーは「鍛冶屋ヴィーラント(Wieland der Schmied)[注 24][注 25][注 26]」伝説を題材とした3幕の劇を新しく構想し、その散文稿を1850年1月に仕上げた。ヴィーラントに関する物語は、古代北欧歌謡集エッダなどに収録されているが、ワーグナーはカール・ジムロック(Karl Zimrock)の翻訳でこの物語を知った。結局は後に未完となるが、論文「未来の芸術作品」の末尾にその概要が以下のように述べられている。
ある日、ヴィーラント(Wieland)は湖へ行くと、美しい白鳥の乙女シュヴァンヒルデ(Schwanhilde)が水浴びをしており、一目惚れしてしまう。二人は結婚し、シュヴァンヒルデは愛の証として魔法の指輪を与える。この指輪には空を飛べる力があったが、ヴィーラントはシュヴァンヒルデが空を飛んで故郷である幸福の島に帰りたいと語るのを聞いたことから、その指輪がシュヴァンヒルデの手に渡らないよう願う。鍛冶屋であるヴィーラントはその指輪を模倣した指輪を多く作り、どれが本物かわからなくした。しかしヴィーラントが留守の間、シュヴァンヒルデは指輪を探し出し、飛んでいってしまった。その頃、ナイディング(Neiding)という王がいた。ナイディングは、ヴィーラントが王の領地で採れた鉱石を使っていると言いがかりをつけて、彼を拘束した。ナイディングは自身の宮殿でヴィーラントにさまざまなものを作らせた。そしてヴィーラントが逃げ出さないように、彼の腱を切って歩けないようにした。すると、ヴィーラントは翼を作って空中に飛び上がる。そして上からナイディングを撃ち殺し、シュヴァンヒルデを探しに行く。幸福の島に着いたヴィーラントは、シュヴァンヒルデと再び結ばれる。
「鍛冶屋ヴィーラント」の草稿はフランスの台本作者ジャン=ニコラ・ギュスターヴ・ヴァエズ(1812~1862)がフランス語の韻文へとなおす手筈となった。ちょうどその時、エストニア・ナルヴァの商人の未亡人でカール・リッターの母であるユーリエ・リッター夫人[注 27]がワーグナーの苦境を耳にし、500ターラーを彼に送ったのだ。この二つの出来事がパリへ赴く決断を後押しした。
構想の拡大 (1850~52)
1850年2月1日に、オペラ上演のチャンスを求めて、パリへ到着する。ワーグナーがズルツァーに送った手紙を見るに、ジャコモ・マイヤベーアらが成功するパリは自分には場違いであると感じていたそうだ[7]。
ジェシイ・テイラー
1850年3月初めに、ユーリエ・リッター夫人の友人でドレスデン時代に出会ったジェシイ・テイラー[27]が彼女の住むボルドーを訪ねるようワーグナーに誘いを送る。彼女はドレスデンで「タンホイザー」を観て以来、ワーグナーの芸術に心酔していたのだ。リッター夫人はジェシイを誘い、リッター夫人が年500ターラー、ジェシイが年2500フランの年金をワーグナーに渡そうという考えも出たほどだった。[注 28]
ワーグナーは3月14日にパリからボルドーへ向けて出発し、最終的にボルドーに3週間滞在した。ワーグナーはジェシイに向けて「ジークフリートの死」と「鍛冶屋ヴィーラント」を朗読した。彼女は感激して傾聴したが、「鍛冶屋ヴィーラント」の方がより優れていると述べた。ワーグナーはボルドーへの訪問で自己の使命と自負心を取り戻した。彼はジェシイに自分の霊感のままに生き、創作して、外界に惑わされることなく目標に向かいたいと打ち明けると、彼女は喜んでその運命をともにしたいと仄めかす。ワーグナーはパリに戻り、ミンナに離別の決心を伝えると、彼女は「不実な裏切り者め!」と憤慨し、パリへ向かう。しかしワーグナーはジュネーヴに逃亡したため、出会うことはなかった。ワーグナーはジュネーヴ郊外ヴィルヌーヴのホテル「バイロン」に滞在し、マルセーユでジェシイと落ち合い、マルタ島を経由した後ギリシアに行くという逃亡のプランを練る。これを聞いたジェシイは同行する旨を明らかにした。ワーグナーが出発しようとしたその時、ジェシイから「夫がワーグナーを射殺すると言って脅迫し、同行しないことを決心した」という内容の手紙を受け取って驚愕し、急いでボルドーを訪ねる。しかしジェシイの家はもぬけの殻であった。これからどうしようと躊躇っていると、警察に呼び出され、出頭すると旅券の提示を求められる。(ジェシイの夫はワーグナーとの面会を拒絶するために警察を利用したのだった。) しかしワーグナーは旅券を持っておらず、2日以内にボルドーから去るように命じられる。そしてジェシイに1通の手紙を書いて(届かずじまいであった)ボルドーを去る。
ヴィルヌーヴに戻ったワーグナーは、1850年5月22日にカール・リッターとユーリエ・リッター夫人と共に37歳の誕生日を祝う。そしてリッターから「以後ワーグナーから受け取る手紙は全て読まずに火の中に投げる」というジェシイから手紙を受け取るのであった。[7] 革命がドレスデン時代の楽長生活からワーグナーを引き剥がしたように、ボルドーでの一連の体験はパリオペラ界での華々しい成功という幻からワーグナーを解放したのであった。ヴィルヌーヴでワーグナーは「ジークフリートの死」の刊行の付随する序文を書き、この作品に音楽をつけて仕上げることを諦めようと考えていたのだった。
ローエングリンの初演
ワーグナーはパリ滞在中にリストに「ローエングリン」を初演して欲しいとの手紙を送っていたが、ついにワイマール宮廷劇場でリストの指揮によって1850年8月28日に実現する。ちょうどその日はゲーテの生誕101周年であった。しかし亡命の身にあったワーグナーは初演に赴くことはできなかった。初演の日、ワーグナーはスイスのリギ山にミンナに登り、ルツェルンのホテル「白鳥 (Zum Schwan)」に宿泊する。リギ山では、ブロッケン現象が起き、ワーグナーは縁起がいいと喜んだ。
代わりにローエングリンの初演に赴いたカール・リッターは、音楽的な面ではリストの尽力もあり成功であったが、劇的な面では失敗であるとワーグナーに報告した。ハンブルクの小音楽新報の記事では初演の評価について以下のように述べられた。(1850年9月15日)[24]
ワーグナーは音楽ではなく、騒音を提供しているにすぎない。その騒音たるやものすごいものであり、舞台の上でこの地獄の轟音に不足しているものといえば、大砲の音くらいだろう。
一方、フランスの詩人ゲラルド・ネルヴァル[注 29](1808~1855)は、雑誌「プレス(Presse)」で以下のように述べている。[24]
我々は舞台が、芸術の中心点に、いや、芸術の祭壇になるのを見るのである。そこでは詩と音楽とが緊密に結びついている。
リストはその頃「ジークフリートの死」の上演を期待していたのだ。その旨を伝えられたワーグナーはリストに宛てて以下のように書いている。[7]
私は英雄の役に未だ我々の舞台が見たことのないような演技者を要求する。しかし、彼らをどこから連れて来るというのか?
これに対して1850年7月20日付の手紙でリストは以下のように書いている。
君は絶好調だから、彼らを地面から生やすようにでもしてくれると思っている。
音楽におけるユダヤ性
1850年8月上旬には、「新音楽時報(Neue Zeitschrift für Musik)」に掲載されていた「ヘブライ的芸術嗜好(Hebräischer Kunstgeschmack)」という表現に触発され、論文「音楽におけるユダヤ性[28][29][30]」を執筆し、K.Freigedankeという偽名で9月3日と9月6日の2回に分けて新音楽時報に掲載される[注 30]。ワーグナーとしては最初のユダヤ人を攻撃する論文である。パリでオペラ作家として成功するという気持ちを抱いていたワーグナーは、当時オペラ界の頂点にいたマイヤーベーアを批判して対立者とすることで自分の道を歩む決心をしたかったようだ。しかし、レールスやノイマン、ハイネ、レヴィなど現実ではユダヤ人と関係を持っていたこと、そしてワーグナー自身の出生の疑惑について検討すべき点があるのも事実である。
ジークフリートの死の作曲
1850年8月12日、ワーグナーは冒頭のノルンの情景と、ジークフリートとブリュンヒルデの告別の場面の冒頭のスケッチ[31]をした。8月16日付のリストに宛てた手紙には「ジークフリートの死」の音楽に没頭していると告げているのだが、スケッチは「ブリュンヒルデを忘れまい!(Brünnhildes zu gedenken!)[32]」で終わっており、その後再開していない。理由としては、ブリュンヒルデを歌える歌手がいそうにないと痛感したこと、物語の経緯を語る部分が大半を占めていたこと、北欧のサガの様式を見せてはいるものの神話という壮大な背景を欠いていたことなどが挙げられる。
1850年9月14日付のパリの友人エルンスト・ベネディクト・キーツに宛てた手紙では、「ジークフリートの死」にまだ音楽をつけることを考えると、普通の劇場でそれを上演してもらうのは考えておらず、実現するのに1万ターラーという金がかかる大胆なプランを考えており、それは自分の劇場を建てて最適な歌手を呼び寄せ、自分の作品に興味がある人を全員無料で呼び寄せるというものであった。また、9月20日付のウーリヒに宛てた手紙では以下のように書いている。[7]
これで、私は相当狂っていると君には見えるだろう?そうかもしれない。しかし、ともかくこれを達成するということが私の一生の希望であるということは、はっきり言っておこう…
ワーグナーの述べる大胆なプランは打ち明けがたい空想であったようだが、11月25日付のリストに宛てた手紙では以下のように綴っている。[7]
私の芸術プランをついに採り上げ、それに着手しようとしていることを、生涯における最も決定的な瞬間の一つであるとみなしている。私はこれまでの全生涯を清算し、全てのもやもやを意識化し、必然的に浮かんできた省察をそれ自体の力で片付けねばならなかった。
オペラとドラマ
1850年の冬から51年の1月にかけて、ワーグナーはオペラの本質に関する長編論文「オペラとドラマ[33]」を執筆する。51年の1月10日に草稿が、2月11日に決定稿が完成される。この論文は1852年にライプツィヒのウェーバー書店で3巻に分けて出版された。
若きジークフリートの構想
1851年の春、ワーグナーはグリムの「恐れを習いに旅に出た若者[注 31]」というメルヘンを題材とした「ジークフリートの死」の前史的な内容である「若きジークフリート(Des junge Siegfried)」を構想する。1851年5月10日にワーグナーはウーリヒに宛てた手紙で以下のように述べている[7]。
この若者が誰であろうか、宝を手にし、ブリュンヒルデを起こした若きジークフリートその人であることに気づいたその時の私の驚愕を思ってほしい。
我が友への告知
1851年5月24日から6月1日まで散文稿を書き上げ、6月3日から24日の3週間で韻文の台本を完成させた。この頃、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社で「三篇[注 32]の歌劇台本」を出版することとなり、ワーグナーは「我が友への告知[注 33]」と題した自伝風の前書きを執筆した。リストへ宛てた手紙を見るに、タイトルの「告知」は自分が神に選ばれた人間などではないという告白を意味し、自分が今まで無意識の本能に導かれてきたこと、自分が今ロマンティック歌劇から神話劇に転じようとしていることなどが述べられている。
四部作の構想
1851年9月15日、ワーグナーはアルビスブルン冷水療養所で冷水療法を開始する。完全な健康状態でジークフリートの創作に取りかかろうとしていたようだ。
1851年10月12日、ワーグナーはウーリヒに宛てた手紙で、以下のように四部作という着想について初めて言及した。
さらに大きな計画が「ジークフリート」について浮かんだ。 3幕の序劇を伴った三篇の劇だ。 もしもドイツにある全ての劇場が崩壊したとしたら、私は新しい劇場をライン川のほとりに建て、人々を呼び集めて、全部を1週間のうちに上演する。
ワーグナーは「ジークフリートの死」そして「若きジークフリート」に続いて、さらに前史的な内容となる「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を構想する。11月には最初の散文スケッチに取り組む。 1851年11月20日、ワーグナーは10ページ以上もの長さの手紙をリストに送っている。そこには、1848年の最初の構想から四部作への着想に至るまでのプランの発展を記し、それは打算的な着想ではなくて、題材の本質と内容とが必然的に帰着を自分に強いたと弁明した。この手紙に対してリストはこんな返事を送っている。(1851年12月1日付)[7]
とにかく手を付けたまえ。そして君の作品にがむしゃらにかかりたまえ。昔、セビリアの大聖堂が建てられた時、教会の参事会が棟梁に課したのと同じ指図しか今の君の作品に課すことはできないが、彼らはいったのだ、参事会は馬鹿げていると、こんな途方もないことを試みるなんてと後世が必ずいうに違いない寺院を建てなさい、と。それにもかかわらず、大聖堂は建っているのだ!
1851年の冬は仕事が捗らなかったようだが、1852年3月には「ラインの黄金」の散文稿を構想を書き留める。5月・6月はチューリヒベルクの下宿リンダークネヒトに滞在し、「ワルキューレ」の散文稿と韻文の台本を完成させる。 1851年の秋、ワーグナーは「ラインの黄金」を起稿し、「若きジークフリート」そして「ジークフリートの死」の仕上げに取り掛かる。10月14日、ワーグナーは本作についてウーリヒに宛てた手紙で以下のように述べている。
私の主たる心労は「ニーベルンゲン」の台本である。これは関わり合うや否やその度に私を高く、力強く高めてくれる唯一のものである。後世を思うことは嫌なことであるが、私の詩が胸の中から世に出るたびに、そのような空虚な妄想に必ず私は襲われる。この作品は私の能力と所有の全てであり、全てを含んでいるのだ。[7]
1851年12月下旬、マリーアフェルトに住む友人フランソワ及びエリーザ・ヴィレ夫妻の自宅で完成した台本を朗読する。1852年2月半ばには、ボウル・オー・ラックで4夜にわたる四部作の朗読会を行う。
1852年2月に、のちのワーグナーの生活において大きな意味を持つこととなるヴェーゼンドンク夫妻と知り合う。
1852年3月からは「ラインの黄金」の台本スケッチを開始し、6月1日から7月1日までに「ワルキューレ」の台本スケッチを終える。「ラインの黄金」の台本スケッチはその後に本格化し、11月に完成する。この11月と12月には、「若きジークフリート」と「ジークフリートの死」にも手を加えている。
ラ・スペツィア (1853~54)
台本が完成し終えた1853年の初頭、ワーグナーはリストに以下のように述べている。
私の新しい台本に注意してほしい。そこにあるのは世界の始原と没落である!
当時気分は全く優れていなかった。しかし、ワーグナーは全てを音楽に作れるという内なる期待を持っており、彼の胸の内ですでに音楽は完全に出来上がっていた。ワーグナーには気分をがらりと変えるための刺激が必要であった。ワーグナーはその刺激として、どうしてもローエングリンが聴きたいと主張した。ヴァイマルで聴くという手段も考えたが、亡命の身にあったためリストに止められてしまった。(1853年2月11月付) そうして1853年2月22日、ワーグナーはチューリヒ音楽協会の理事会に、5月に自身の歌劇から何曲か集めて金銭的な利益をなしに演奏会を開くことを提案し、実現する。第3回の演奏会はワーグナーの40歳の誕生日(5月22日)でもあった。これをきっかけにワーグナーはチューリヒに自身の劇場を建設することさえ心に描いていた。6月10日付の手紙で、ドレスデンのフェルディナント・ハイネに宛てて以下のように書いている。[7]
…そして、将来ここに未曾有の事柄を実現する希望を私にに与えてくれた。必ずや、ここで「ニーベルンゲン」も上演しよう…
1853年7月2日、ワーグナーはリストと念願の再会を果たす。リストはこの時、抱擁の末にほとんど窒息しそうになったと、カロリーネ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ベルレブルク侯爵夫人に伝えている。リストはワーグナーと8日間を共に過ごした。ワーグナーはこの際、お互いに伝えたいことを嵐のようにやりとりしたと、オットー・ヴェーゼンドンク(1815~1896, ドイツの実業家)に報告している。ワーグナーはリストに「ニーベルンゲン」を朗読して聞かせ、エッダの「フンディング殺しのヘルギの歌」に声を合わせたりした。また、「ニーベルンゲン」の上演についても熱心に話した。しかしリストは「自分はワーグナーの役に立つような劇場は知らず、彼には思い通りの劇場・歌手・オーケストラつまりは全てを必要とするのである」と述べた。
めでたい出来事が立て続けに起こったワーグナーにとって、作曲の邪魔をするものなどは何もないように思えた。しかし、「台本に音楽をつける」のではなく「壮大なドラマに音楽による有機的な統一を賦与する」ということが必要で、その主題は極めて多岐で精密な音楽と心理的な関係を形成するものでなければならなかった。つまり、作曲において細部に全体を、全体に細部を見なければないという課題と、技術的な困難さを抱えていたのである。[34] 彼はオットー・ヴェーゼンドンクに宛てて、過去から断絶し、あらゆる妥協から抜け出して初々しい生活を探し求めようという気持ちが革命の時以来繰り返し現れていることを告げた。するとヴェーゼンドンクは、ワーグナーに将来ベルリンでのタンホイザーの上演の利益を抵当にしての貸付の形でイタリア旅行の費用を用立てた。
サン・モリッツへの旅行
イタリア旅行の前にサン・モリッツへ湯治旅行に出かけた。そして2つの忘れ難い自然の印象を受けることとなる。1つ目は、ユーリエル峠[注 34]の風景である。ワーグナーはここにフリッカとヴォータンの姿を妄想し、以下のように綴った。
全てが沈黙しているそこでは、成長や精製とは無関係にその場を支配している存在に考えが及ぶのである。[7]
そして2つ目は、ロゼック氷河[注 35]の風景である。その情景は神々しいこの世のものではないような印象を与え、インスピレーションとなった。「ラインの黄金」第2場冒頭の情景(山の高みのひらけたあたり Freie Gegend auf Bergeshöhen)、そして「ジークフリート」でジークフリートが歌う「魅力的な高山の清らかな寂寥(Selige Öde auf wonniger Höh')」である。
イタリアへの旅行
1853年8月24日、イタリアへ向けて出発し、トリノやジェノーヴァを訪れる。そして、本作の創作に決定的な影響を与える体験をする地, ラ・スペツィアに滞在する。9月5日、発熱と不眠で過ごした夜が明け、散歩に出掛けては午後には疲れ切って宿に帰った時、固いソファーの上で眠りにつこうとしていた。その時のことを自伝で以下のように綴っている。[9][7]
それ(眠り)は訪れてこなかった。その代わりに私は一種の夢遊病のような感覚に陥り、突然、自分が強い水の流れの中に身を沈めているような感じに襲われた。やがてその水音は変ホ長調の和音の音楽的な響きとなって現れ、それは連続する分散和音の形をとって波打っていた。そしてこの分散和音は旋律のフィギュレーションともなって運動性を強めていったが、しかしその変ホ長調の三和音の純粋さは決して失われず、しかも、それが連続していることで、私が身を沈めていたところの元素である水に無限の意味を付与しようとしているように思えた。大波が今こそ、私を躍りこえるかのように感じたその瞬間、強い驚きと共に私は半睡状態から目覚めた。即座に私は、自分がこれまでの胸の中に抱いてきたが、まだ一度も正確に見出しえなかった「ラインの黄金」のオーケストラの序奏を着想したことに気づいた。それとともに、私がどんな情況にあるかということもすぐにわかった。生の潮は外からではなく、私の内面からこそ流れ注ぐべきだったのである…
また、のちにワーグナーはアッリーゴ・ボーイトに対して次のように書いている。(1871年)
眠られぬ身をラ・スペツィアの旅館に横たえていた私に「ラインの黄金」の音楽の啓示が与えられたのだ。この並外れて大きな作品の音楽を仕上げるべく、私はすぐさま陰気な故郷に引き返した。この作品の運命こそ何にもまして私をドイツに結びつけるものであった。
ワーグナーは急行列車でジェノーヴァに帰る。その後10月の初めにはバーゼルでリストとヴィトゲンシュタイン侯爵夫人、そしてふたりの15歳の娘マリーに会う。そして彼らと共にパリへ旅行し、そこでは初めてコジマに対面する。
ラインの黄金・ワルキューレの作曲スケッチ
1853年11月1日、チューリヒのツェルトヴェーク通りに面した仕事部屋で、「ラインの黄金」の作曲スケッチを開始した。ワーグナーは1854年1月14日までの約9週間という短い時間で、速記法を用いて驚くほど正確に「ラインの黄金」の作曲を完了した。
1854年はワーグナーは定期的な収入源はなく、金銭的な問題に苦しんでおり、夏にはそれが最高潮に達した。ワーグナーは「ラインの黄金」の総譜の浄書を中断し、絶望的な気分からの解放を求めて、6月28日から「ワルキューレ」第1幕の作曲スケッチを始め、9月1日に完了する。この非常に重要な幕は中断を除けば約1ヶ月の短い時間で書き留められたことになる。ワーグナーはその音楽がすでに心の中に息づいていたのである。金銭的・人間的な危機の中、9月4日に「ワルキューレ」第2幕の作曲スケッチが開始する。この第2幕は、絶望によってヴォータンが権力を断念し作品全体に重要な転換がもたらされる場面である。
1854年10月(日付不明)には「トリスタンとイゾルデ」が構想される。1854年11月18日には「ワルキューレ」第2幕のスケッチが2ヶ月半を費やして完成する。そして、11月20日に第3幕のスケッチを開始し、5週間という短い期間で12月27日に完成する。
ショーペンハウアー (1854)
ある日、ゲオルク・ヘルヴェークがワーグナーの仕事部屋にアルトゥール・ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を持ち込む。この作品はワーグナーの関心を掻き立て、ショーペンハウアーの音楽に関する蓋し千古の卓説は彼を不意打ちにした。そして驚いたことに、意志の否定こそが現世の絆を断ち切る唯一の救いであるとされていた。そしてヘルヴェークは、「現象世界が無であることの洞察こそはそもそも悲劇的な世界観であり、それはすべての優れた詩人、すべての優れた人間に直感的に潜んでいるものだ」と述べた。[7]そしてワーグナーは1854年12月16日付のリストへ宛てた手紙で以下のように綴っている。
そうしたわけで、ようやく私は自分のヴォータンを理解し、ショックを受けて、ショーペンハウアーの作品をより詳しく研究することにした。
ワーグナーはショーペンハウアーに熱中していった。彼はカール・リッターとロベルト・フォン・ホルンシュタイン(1833~1890, ドイツの作曲家)をショーペンハウアーの住むフランクフルトに派遣し、ビューローには直ちにショーペンハウアーの著作を集めるよう命じた。そして革命の同胞であり、ヴァルトハイムの監獄にいるアウグスト・レッケルに、「意志と表象としての世界」を贈呈した。また、チューリヒ湖上の山荘マリーアフェルトに住まうヴィレ家を訪ねた際、エリーザ・ヴィレ夫人はワーグナーのショーペンハウアーに対する並外れた理解力の速さに驚いたという。 ワーグナーはショーペンハウアーをチューリヒに招こうとしていたが、ショーペンハウアーは以下のように愚痴っている。[注 36]
文学愛好家の一グループが、真面目に言ってよこしている、彼らの好奇心を満足させるために12月にチューリヒへ来いというのだ!丁寧に優しく手短に返事しておいた。手紙による論争には加われない、ましてや旅行はできないと。するとリヒャルト・ワーグナーの著書が送られてきた。それは出回っていないもので、友人たちだけのために印刷され、極上の厚い紙を使い、小綺麗に製本されていた。題は「ニーベルングの指環」といい、いずれ彼が作曲するつもりの4曲続きのオペラである。おそらく真に未来の芸術作品だろう。非常に夢幻的なもののように思われるが、今はまだ序幕(ラインの黄金)しか読んでなく、続けていくつもりだ。手紙は同封されておらず、「敬意と感謝の念から」と書き込みがあるだけだ。
ショーペンハウアーは贈られた本にいくつも線を引いてケチをつけたものの、友人(フランソワ・ヴィレ博士)には以下のように伝えている。
友人のワーグナー氏に本を送ってくださったことに感謝を伝えてください。しかし彼は、音楽は壁の釘にかけておくべきです。彼には詩人としての才能があります!私ショーペンハウアーは、ロッシーニとモーツァルトに忠誠を誓い続けることにします![注 37]
しかしワーグナーはショーペンハウアーがその後何の返事もよこさなかったことが忘れられなかったようで、以下のように愚痴っている。[35]
ヴォータンにおけるように、意志の挫折、それも自らの喜びのために一つの世界を創造するほどの意志が、慈悲の介入なしに、誇り高き本性の力によって表現されているような文学を他に私は知らない。私がショーペンハウアーの哲学を知る以前に、このことを発見していたことにきっと彼は腹を立てたのだろうと私は確信している。
ロンドン (1855)
1855年2月26日、ワーグナーはチューリヒを出発し、パリを経由してロンドンに向かった。ワーグナーはロンドンで8回のフィルハーモニーの演奏会の指揮を任されていたのだ。7回目の演奏会にはヴィクトリア女王の夫君アルバート公が訪れ、タンホイザーの序曲のアンコールを希望された。この時期に「ワルキューレ」第2幕の第1場・第2場の作曲スケッチの初稿が書き上げられた。
ワーグナーはこのロンドン滞在で、アードルフ・ホルツマン(1810~1870, ドイツのゲルマニスト・学者)の「インド伝説集[注 38]」を読み耽ったことをマティルデ・ヴェーゼンドンク宛の手紙(4月30日付)に以下のように伝えている。
どれも全て美しい話であるが、サヴィトリの話は特に神々しい… 古い東方の高貴な人間性の純粋な啓示を前にして、我々の教養がなんと恥じ入ってることでしょう![36]
ロンドン滞在中にワーグナーは、プロスペル・サントン[注 39]とその友人リューデルス、リストの弟子であったカール・クリントヴォルト、フェルディナント・ブレーガー[注 40](1815~1891, ドイツの作曲家)、そして当時政治的亡命者であったマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク[注 41]などと関わりを持つ。
ワーグナーはズルツァーに宛てた手紙(1855年5月10~12日)でも述べているように、ロンドンでの滞在での創作は捗らず、収穫も非常に乏しいものであった。
7月中旬にはミンナと共に療養地ゼーリスベルクを訪れるが、悪天候だったこともあり、8月15日にチューリヒに戻って「ワルキューレ」第2幕の第3場の総譜の執筆を開始する。しかし冬には顔面丹毒を患ったことで「ワルキューレ」の仕事はなかなかうまく捗らなかった。しかし1856年3月には「ワルキューレ」を完成させる。[注 42]
1856年4月26日、ワーグナーは友人たちを招いて「ワルキューレ」第1幕のピアノ伴奏を披露し、ジークムントとフンディングの役を自ら歌った。オットー・ヴェーゼンドンクは深い感動を覚えたことを手紙で伝えている。
「ワルキューレ」が完了した後、本作の作曲は半年間の休みを迎えることとなった。[注 43]
1856年6月5日、ワーグナーは「ジークフリート」をするにあたって、丹毒から回復しようと、
1856年6月22日付のフランツ・ミュラーに宛てた手紙では、「ジークフリートの死」のフィナーレに大規模な合唱を付加すること、「若きジークフリート」と「ジークフリートの死」の2作にはかなりの変更が加わるであろうこと、タイトルを単に「ジークフリート」と「神々の黄昏」に変更することなどが述べられている。この時ワーグナーは「神々の黄昏」のフィナーレを作詞し直そうとしていた。
源流
「ニーベルングの指環」の物語は、エッダやサガをはじめとする北欧神話とゲルマン英雄伝説「ニーベルンゲンの歌」を軸としてワーグナーが独自に再構築したものである。ワーグナーがこれらの神話や伝説を渉猟し題材としたのは、それらに人間の真なる内容価値を見出したためであった。
ワーグナーは古代北欧詩の精神を維持しようなどとは考えておらず、「ドイツ的」な目標を目指していた。実際に理想的な北欧詩の擁護者たちからはこれに対しての非難がなされたりした。ワーグナーは北欧神話の奇怪で異様な神々と英雄の名前にばかり気を取られていた自分の模倣者たちを馬鹿にさえしていた。ワーグナーにとってドイツ化の作業は、自分のうちに秘めた人間的な価値を広げる手段に過ぎなかったのである。ワーグナーはルートヴィヒ2世との往復書簡で、以下のように述べている。
私の精神、私の魂のうちには最終にして最高の世界的栄光が生きていました。ドイツ太古の宇宙トネリコ、あの驚嘆すべきノルンたちの樹が私の内面から力強く枝を伸ばし、葉を茂らせて、およそ感じやすい人々全ての心に届き、覆うようになるはずでした。[37]
ドイツ神話
「ドイツ神話」は1835年に発刊されたヤーコプ・グリムによる著作である。ワーグナーは1843年7月に「ドイツ神話」の第1巻を読んだ。その内容は、北欧のサガ、ギリシアとローマのテキスト、中世の騎士物語と叙事詩、アラブの旅人の見聞記、ゲルマンとフィン=ウゴル族の民間伝承を集大成したものである[38]。グリムは1000年も前に消え失せたドイツの神話の姿を明らかにするという見込みのない試みに成功したのである。
本作のテクストには「ドイツ神話」からの以下のような引用も見受けられる。
Nun ward ich so alt wie Höhl' und Wald und hab' nicht sowas gesehn! (さてわしは洞窟や森と同じほどに年を経ているが、こんなことは見たことがない!)
以上のミーメの叫びはヘッセン地方のヴィヒテル(一寸法師)の寓話からほとんど一語も違ず取られたものである。
ギリシア悲劇
本作は「四部作」との呼称があるが、古代ギリシアにおける四部作とは、酒神ディオニュソスの祭典の演劇競技で上演される4つの作品のことを指した。その祭典は古代ギリシアのアテネで開かれ、行列や饗宴そして演劇の上演が行われた。紀元前5世紀には、この祭典で詩人たちは、悲劇を3作品、サテュロス劇[注 44]を1作品出すことが義務付けられていた。
本作(舞台祝祭典劇)の構想の背景には、ドレスデン時代から興味を持っていたギリシア悲劇があった。ワーグナーにとって本作は、統一途上にあった当時のドイツにおける、ギリシア悲劇の再生であった。本作の物語の大筋は、「エッダ」「ヴォルスンガ・サガ」等の古代ゲルマンの伝説を伝えている北欧の書物だが、ギリシアの古代文明の素地が窺える。[39]
友人であるゴットフリート・ケラーは、1855(?)年2月21日付のヘルマン・ヘットナー(1821-1880, ドイツの文学史家)に宛てた手紙でワーグナーと本作について以下のように述べている。
彼は確かに詩人です。彼の「ニーベルンゲン」三部作はそのテキストに民族の根源的な詩の宝を蔵しているからです。
またケラーは4月16日付の手紙でも以下のように述べている。
彼は才能があり、また善良な人間です。彼の「ニーベルンゲン」三部作を読む機会があるなら、それはぜひおやりなさい。そこに1つの力強い、原ドイツ的な文学が、しかも古代悲劇の精神によって消化されて吹き渡っていることに気づくでしょう。[40]
理論
ワーグナーがチューリヒ亡命時代に約2年間の間に書き上げられた「芸術と革命」「未来の芸術作品」「オペラとドラマ」「友人たちへの伝言」という一連の論文は、内なる革命的な芸術理念つまりは未来のドラマの実現に向けた痕跡であり、その実現の試みがまさに本作である。
未来の芸術作品
オペラとドラマ
長編論文「オペラとドラマ(Oper und Drama)[33]」1850年の冬から執筆が開始され、51年の1月10日に草稿が、2月11日に決定稿が完成された。原稿の段階では、タイトルは「オペラの本質(Das Wesen der Oper)」そして副題として「元オペラ作曲家が論ず(von einem ehemaligen Opernkomponisten)」と添えられていた。改題は自身の芸術的理想がオペラによって実現できないといった意識の否定などではなく、当初は従来のオペラの批判として構想していた本論文が、オペラを超越した未来のドラマの提唱へと展開していくことを示す。
ワーグナーはこの論文で以下のように述べている。
音楽は分娩し、詩人は受精する。音楽は女である。女の本性は愛である。だがこの愛は受胎するものであり、受胎において惜しみなく我が身を捧げる。[23]
のちに(1879年)、ワーグナーはコジマにこの論文について以下のように打ち明けている。[41]
これは癖のある本である。これを書いていた時には非常に興奮していたが、何しろ芸術史上に先例のないのであるし、私は実際に誰も見ていなかった目標に向かっていたのだから。
友人たちへの伝言
内容
3部作、舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』は序夜『ラインの黄金』、第1日『ワルキューレ』、第2日『ジークフリート』、第3日『神々の黄昏(たそがれ)』から成立している。
本作品は、並外れたスケールと領域の作品である。指揮者のペース配分にも依存するが、全体の演奏時間は約15時間ほどであり、4夜に渡って演奏される。最も短い『ラインの黄金』でも約2時間半ほどで、最も長い『神々の黄昏』では最長4時間半(休憩を除く)ほど続く。さらに、第1・第2ヴァイオリン各16、ヴィオラ、チェロ各12など、108名による大管弦楽団の編成によって演奏される。
物語のスケールと領域は叙事詩である。全世界の支配を可能とする魔法の指輪をめぐる、神、英雄、神話上のいくつかの生物の戦いの物語で神々の黄昏、天空の城ヴァルハラの炎上、地上のラインの洪水まで、ドラマと陰謀は、ヴォータンの支配する天上の神々の世界で、地上の人間界の世界で、地下のニーベルング族の住むニーベルハイムで、3世代にわたって続き、最後に神々の世界の灰から真の愛がよみがえる。
本作品の音楽は、重厚で雄大な感触があり、サイクルが進むに連れて複雑になっていく。
序夜「ラインの黄金」 Das Rheingold
- 第1場 - ライン川の水底。3人のラインの乙女が泳いでいると、そこにニーベルング族のアルベリヒが現れる。ラインの黄金が世界を支配する力を持ち、愛を断念したものがそれを手にすることができると聞いた彼は、それを強奪する。
- 第2場 - ヴォータンはフライアを報酬にして、巨人族に居城ヴァルハラを建設させる。城は完成したものの、フライアは巨人族に身を捧げることを拒否する。ローゲはラインの黄金を身代とすることを提案し、ヴォータンとともに地下のニーベルング族の国へ向かう。
- 第3場 - アルベリヒがラインの黄金で作られた指環の力でニーベルング族を支配している。ローゲは策略と弁舌でアルベリヒを捕縛する。
- 第4場 - 地上に引き立てられたアルベリヒから、ヴォータンは自由の代償としてラインの黄金を奪取する。アルベリヒは指環に死の呪いをかける。エルダが現れ警告を発するが、ヴォータンは聞き入れない。指環を手に入れた巨人たちは、財宝を巡って争いを起こしファーフナーがファゾルトを殺してしまう。神々は呪いに恐れおののくが、一転して虹の橋を渡りヴァルハラに入場する。剣の動機が高らかに奏され英雄の登場を暗示する一方、ラインからは黄金を奪われた乙女の嘆きが聞こえる。
第1夜「ワルキューレ」Die Walküre
- 第1幕 - 嵐の夜、フンディングの館にジークムントがあらわれる。彼とフンディングの妻ジークリンデはお互いに惹かれあう。やがてフンディングが帰宅し、フンディングが一族の敵であること、ジークリンデが生き別れの双子の妹であることを知る。
- 第2幕 - 荒涼たる岩山。ワルキューレの長姉ブリュンヒルデとヴォータンがいる。そこへ結婚を守護する女神でヴォータンの妻フリッカが現れる。フリッカは、妻を奪われたフンディングの復讐と婚姻の神聖を守るためとして、ヴォータンにジークムントの死を求め、ヴォータンはやむなく承諾する。ブリュンヒルデはヴォータンからジークムントがフンディングによって殺害されること、そしてそれを見殺しにすべきことを告げられる。ブリュンヒルデは兄妹を守ろうとするが、ジークムントはフンディングの槍に貫かれてしまう。
- 第3幕 - ヴォータンの怒りを逃れ、ブリュンヒルデはヴァルハラに駆け込み、妹たちに助けを求める。ブリュンヒルデはジークリンデが身ごもっていることを告げ、胎内の子をジークフリートと名付ける。そこへヴォータンが現れ、ブリュンヒルデの神性を奪うことを宣告する。荒涼たる岩山にヴォータンはブリュンヒルデを連れて行き、ブリュンヒルデがそこで眠りにつき、誰であれ彼女の眠りを最初に覚ました男のものとなることを宣告する。ブリュンヒルデは己の運命におびえ、許しを請うがヴォータンは聞き入れない。ただし恐れを知らない英雄だけが越えられる炎でブリュンヒルデの周りを覆うことを約束する。親子は抱きしめあい、永遠の別れを告げる。ブリュンヒルデは岩山の頂に眠り、ローゲの炎がその周りに燃え上がる[42]。
第2夜「ジークフリート」Siegfried
- 第1幕 - ジークフリートの育ての親であるミーメはジークフリートによって指環を手に入れようとたくらむ。ジークフリートは自らの出生の秘密を知り、折れたる剣ノートゥングを鍛えなおす。
- 第2幕 - 恐れを知らぬジークフリートは、竜に化身したファーフナーを倒し、その返り血により小鳥の言葉が分かるようになる。小鳥の教えにより、指環を手に入れ、陰謀をめぐらしていたミーメを倒し、さらには岩山に花嫁ブリュンヒルデが眠っていることを知る。
- 第3幕 - 荒涼たる岩山の麓。ジークフリートは道をさえぎる「さすらい人」(ヴォータン)の槍を砕き、炎を乗り越え、ついにブリュンヒルデを接吻により目覚めさせる。2人は永遠の愛を誓い合う。
第3夜「神々の黄昏」Götterdämmerung
陰謀で記憶を失ったジークフリートは、ブリュンヒルデと愛を誓ったことを忘れる。ブリュンヒルデは復讐を誓い、ジークフリートを死に至らしめる。指環を手に入れたブリュンヒルデは、ラインの娘たちに指環を返し、ヴァルハラは炎上崩壊する。
登場人物
登場人物一覧
(R:ラインの黄金、W:ワルキューレ、S:ジークフリート、G:神々の黄昏)

ヴェルグンデ Wellgunde (R, G) / ソプラノ
ラインの乙女(Rheintöchter)。ライン川の底に眠る黄金を守る三姉妹の一人。
ヴォークリンデ Woglinde (R, G) / ソプラノ
ラインの乙女(Rheintöchter)。ライン川の底に眠る黄金を守る三姉妹の一人。
フロスヒルデ Floßhilde (R, G) / アルト
ラインの乙女(Rheintöchter)。ライン川の底に眠る黄金を守る三姉妹の一人。
アルベリヒ Alberich (R, S, G) / バリトン
ニーベルング族の長。ライン川底の黄金を盗み出す。ラインの黄金から指環を作り出し、これを所持するものに死を与えよという呪いをかける。ヴォータンに指環を奪われたために、神々への復讐を誓って人間女性との間にハーゲンを産ませる。
ヴォータン Wotan (R, W, S) / バス=バリトン
神々の長。正妻はフリッカ。ゲルマン・北欧神話ではオーディン(Odin)にあたり、主神とみなされている。世界支配を狙っており、ラインの指環に大きな関心を持っていた。その欲望の実現のために人間女性とエルダとの間に子供を儲ける。人間女性との間に双子のジークムントとジークリンデを儲け、自分の血の通った英雄の創造を目論む。これはジークムントとジークリンデの間に生まれたジークフリートによって実現する。予知能力と知恵を持つエルダとの間には9人のワルキューレを儲けさせた。ヴォータンは肩に二羽のカラスを止めさせており、フギン(思考の意)とムニン(記憶の意)という名前だった。愛馬は8本足のスレイプニル、武器として魔槍グングニルを使った。ヴォータンはかつてこの槍の柄に、ルーンの契約の篠々を刻みつけた。この槍の威力によってローゲを手懐けた。ヴォータンの身体的特徴の一つとして挙げられるのは、片目であるということである。彼は叡智を求めて、世界を支えるトネリコの大木の根本に位置する知恵の泉を訪れ、その泉の水を飲む代償として片目を失った(フリッカを妻に獲得するために片目を失ったとする説もある)。
フリッカ Fricka (R, W) / メゾ・ソプラノ
ヴォータンの正妻。「結婚」の女神。フライアの姉。
フライア Freia (R) / ソプラノ
フロー Froh (R) / テノール
幸福の神。ヴァルハラ入城の際に虹の橋をかける。
ファーゾルト Fasolt (R) / バス
地上のリーゼンハイムに住む巨人。ヴァルハラを建てた代償としてフライアを連れ去る。財宝の奪い合いで、弟ファーフナーに撲殺される。
ファーフナー Fafner (R, S) / バス
地上のリーゼンハイムに住む巨人。ファーゾルトの弟。兄ファーゾルトを撲殺してから、巨竜へと姿を変え、ニーベルングの財宝や指環を持って森の洞窟に籠る。英雄ジークフリートによって殺害される。
ローゲ Loge (R) / テノール
狡猾な半神で火を司る。ヴォータンに入れ知恵しており、友情の誓いを交わしている。ローゲはヴォータンの槍の威力によって手懐けられていたが、彼は自由を得ようと刻まれた秘文に噛み付いて傷めようとするが、ヴォータンは彼を呪縛し、ブリュンヒルデの岩山をめぐる炎の環にした。北欧神話のロキに当たる。本作では世界を焼き尽くすのはローゲの役割だが、北欧神話ではムスペルヘイムの火の巨人スルトの役割である。世界を焼き尽くされるのは第3夜「神々の黄昏」の最後であるが、ローゲは焼き尽くす構想を「ラインの黄金」で述べている。
エルダ Erda (R, S) / アルト
知恵の女神、地母神。ヴォータンの妻で、ブリュンヒルデを含む9人のワルキューレを儲けた。
ニーベルング族の小人たち (R) / 黙役
ジークムント Siegmund (W) / テノール
ヴェルズング族。ジークフリートの父。ヴォータンが人間界に変装して訪れ、ヴェルゼと名乗り、人間女性との間に儲けた男子である(しかしある戦いのおりにヴェルゼは姿を消してしまった)。ヴォータンは自分の血が通った人間の英雄の想像という構想があったが、ジークムントは彼が真から期待する英雄ではない。
ジークリンデ Sieglinde (W) / ソプラノ
ジークムントの双子の妹。ジークフリートの母。フンディングの妻であった。ヴォータンが人間界に変装して訪れ、ヴェルゼと名乗り、人間女性との間に儲けた女子である。神話では父親から無理やりフンディングと結婚させられたことになっているが、本作では山賊にさらわれてフンディングに贈り物として提供され、結婚したことになっている。
フンディング Hunding (W) / バス
ヴェルズング族と敵対する一族(ナイディング族)の男。ジークリンデの夫であった。
ブリュンヒルデ Brünnhilde (W, S, G) / ソプラノ
ヴォータンとエルダの娘で死を迎えた英雄をヴァルハラに導くワルキューレの一人で、ヴォータンが最愛とする。ジークフリートの妻になる。父ヴォータンから送られたグラーネ(Grane)が愛馬である。
ヴァルトラウテ Waltraute (W, G) / メゾ・ソプラノ
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
ゲルヒルデ Gerhilde (W) / ソプラノ
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
オルトリンデ Ortlinde (W) / ソプラノ
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
シュヴェルトライテ Schwertleite (W) / アルト
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
ヘルムヴィーゲ Helmwige (W) / ソプラノ
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
ジークルーネ Siegrune (W) / メゾ・ソプラノ
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
グリムゲルデ Grimgerde (W) / アルト
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
ロスヴァイセ Roßweiße (W) / メゾ・ソプラノ
ワルキューレの一人。エルダとヴォータンの間に生まれた。
ミーメ Mime (R, S) / テノール
ニーベルング族。アルベリヒの弟。ジークフリートの養父であるが、ジークフリートが巨竜ファーフナーを殺害した際に手に入れた指環を取り上げようとして殺害されてしまう。
ジークフリート Siegfried (S, G) / テノール
ジークムントとジークリンデの間に生まれた無垢な英雄。ジークフリートという名前は、ブリュンヒルデがジークリンデを逃がす際に、彼女の胎内の子供に対して、勝利を受け取るという意味合いでつけられた。竜(ファーフナー)の血を浴びたことで不死身となるが、その際背中には一枚の葉が付いていたため、その部分だけ血を浴びることができず、唯一の急所となる。ハーゲンに急所を刺されて殺害されてしまう。
森の小鳥 Waldvogel (S) / ソプラノ
鳥の言葉でジークフリートに助言する。
さすらい人 Wanderer (S) / バス=バリトン
第1のノルン Die Erste Norn (G) / アルト
運命を司る女神ノルン(Nornen)の一人。エルダの娘。過去を司る。
第2のノルン Die Zweite Norn (G) / メゾ・ソプラノ
運命を司る女神ノルン(Nornen)の一人。エルダの娘。現在を司る。
第3のノルン Die Dritte Norn (G) / ソプラノ
運命を司る女神ノルン(Nornen)の一人。エルダの娘。未来を司る。
グンター Gunther (G) / バリトン
ギービヒ家の当主。
グートルーネ Gutrune (G) / ソプラノ
グンターの妹。ジークフリートと偽りの結婚をする。
ハーゲン Hagen (G) / バス
アルベリヒの子。グンターの異父兄弟。
ギービヒ家の家臣たち (G) / テノールとバス
ギービヒ家の女性たち (G) / ソプラノ
登場する勢力・種族
神々
天上の領域(北欧神話でいうアースガルズ)に住まう。本作ではヴォータン(神々の長), フリッカ(結婚の女神), フライア(若さの女神), フロー(喜びの神), ドンナー(雷神), ローゲ(炎の半神)が登場する。エルダ(大地の女神)も登場するが地底に住まう。
ワルキューレ
ヴォータンとエルダの間に生まれた9人(ブリュンヒルデ, ヘルムヴィーゲ, ゲルヒルデ, オルトリンデ, ロスヴァイセ, グリムゲルデ, シュヴェルトライテ, ジークルーネ, ヴァルトラウテ)の戦乙女。
巨人族
地上リーゼンハイムに住まう。本作には兄弟ファーゾルトとファーフナーが登場する。
ニーベルング族
地底ニーベルハイム(Nibelheim)に住まうドワーフの一族。武具や財宝の製造といった鍛治に優れている。本作ではニーベルング族としてアルベリヒとミーメが登場する。


人間の諸種族[1]
- ヴェルズング族/Völsungen:ヴォータンと人間女性の間に生まれたジークムントとジークリンデを始めとする一族。
- ナイディング族/Neidingen:ヴェルズング族の敵の一族。Neidは嫉みを意味する。本作ではナイディング族としてフンディングが登場する。
- ヘーゲル族/Hegeling:「ワルキューレ」(第3幕第1場)で言及される一族。ジントルト(Sintolt)という人物がヘルムヴィーゲによってヴァルハラに運ばれた。イルミング族のヴィッティヒという人物と敵同士出会ったことが言及される。
- イルミング族/Irming:「ワルキューレ」(第3幕第1場)で言及される一族。ヴィッティヒ(Wittig)という人物がオルトリンデの痩せ馬に乗せてヴァルハラに運ばれた。ヘーゲル族のジントルトという人物と敵同士出会ったことが言及される。
- ギービフング族/Gibichungen:グリームヒルトとギービヒの間に生まれたグンターとグートルーネからなる一族で、ライン川中流を支配している。
自然的存在
ラインの娘たち(水), ローゲ(炎), エルダ(大地), 森の小鳥などの存在は、「損なわれない本質[43][44]」「善悪・罪の彼岸にある無垢性[43][45]」の象徴と解釈されている。これらの自然的存在は権力に根ざす存在(ヴォータン, アルベリヒ, ハーゲンなど)と対照的である。
楽器編成
全4部を通じて共通であり、完全な4管編成である。
フルート3、ピッコロ、オーボエ3、イングリッシュホルン、クラリネット3、バス・クラリネット、ファゴット3(ところによって出ない音域にコントラファゴットを使用)、ホルン8(うち4はワーグナーチューバに持ち替え)、トランペット3、バストランペット、トロンボーン3、コントラバストロンボーン、コントラバスチューバ、ティンパニ2人、打楽器奏者3人(シンバル、中太鼓、鉄琴、トライアングル、ハンマーなど)、ハープ6、弦5部(16型で第1ヴァイオリン16、第2ヴァイオリン16、ヴィオラ12、チェロ12、コントラバス8)、総計108名。更に鉄床12などのバンダなどが加わる。
音楽
以下の場面の音楽は演奏効果が高く、しばしばコンサートでもとりあげられる。
- ヴァルハラ城への神々の入城(『ラインの黄金』フィナーレ)
- 『ワルキューレ』第3幕の前奏曲(ワルキューレの騎行)
- ヴォータンの告別と魔の炎の音楽(『ワルキューレ』第3幕フィナーレ)※
- 森のささやき(ジークフリート第2幕2場)
- 夜明けとジークフリートのラインへの旅(『神々の黄昏』第1幕への間奏曲)
- ジークフリートの葬送行進曲(『神々の黄昏』第3幕3場への間奏曲)
- ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲(『神々の黄昏』第3幕フィナーレ)※
※印は管弦楽だけでなく、通常歌手の独唱を伴う。ただし場合によっては管楽器などにパートを置き換えて、管弦楽のみで演奏することもある。 また『ワルキューレ』第1幕は、3人の歌手で上演可能なこともあり、演奏会形式でよくとりあげられる。
管弦楽編曲版はいくつかあり、ロヴロ・フォン・マタチッチは1967年に自身の編曲による「神々の黄昏 組曲」をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と録音したほか、NHK交響楽団との定期公演でも取り上げた。ジョージ・セルは1968年に50分程に編曲した「ニーベルングの指環・ハイライト」をクリーヴランド管弦楽団と録音。ヘンク・デ・フリーヘル(Henk de Vlieger)による管弦楽編曲版「オーケストラル・アドヴェンチャー」(1992年エド・デ・ワールト指揮・オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団で初演)は、次の14曲を60分程度に抜粋・編曲している。
- 前奏曲(『ラインの黄金』第1場)
- ラインの黄金(『ラインの黄金』第1場)
- ニーベルハイム(『ラインの黄金』第2場)
- ヴァルハラ城への神々の入城(『ラインの黄金』第4場)
- ワルキューレの騎行(『ワルキューレ』第3幕)
- 魔の炎の音楽(『ワルキューレ』第3幕)
- 森の囁き(『ジークフリート』第2幕)
- 英雄ジークフリート(『ジークフリート』第2幕)
- ブリュンヒルデの目覚め(『ジークフリート』第3幕)
- ジークフリートとブリュンヒルデ(『神々の黄昏』序幕)
- ジークフリートのラインへの旅(『神々の黄昏』序幕)
- ジークフリートの死(『神々の黄昏』第2幕)
- ジークフリートの葬送行進曲(『神々の黄昏』第3幕)
- ブリュンヒルデの自己犠牲(『神々の黄昏』第3幕)
ワールトが2009年にNHK交響楽団を指揮した際には『ラインの黄金』の4曲をカット、「ブリュンヒルデの自己犠牲」にソプラノ・ソロを加える指揮者自身によるアレンジを行っている。
関連作品
音楽
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- 『ニーベルンゲン行進曲』(ゴットフリート・ゾンターク作曲)
- 『バイロイトの思い出(Souvenirs de Bayreuth)』(ピアノ連弾曲)(フォーレ、メサジェ共作)