Wikiwand AI

バッファロー・セイバーズ

ナショナルホッケーリーグのチーム From Wikipedia, the free encyclopedia

バッファロー・セイバーズ (英語: Buffalo Sabres) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローを本拠としているナショナルホッケーリーグ (NHL) 所属のプロアイスホッケーチームである。

概要
バッファロー・セイバーズ
Buffalo Sabres
カンファレンスイースタン・カンファレンス
ディビジョンアトランティック
創設年1970年
歴代チーム名バッファロー・セイバーズ
(1970 - )
ホームアリーナキーバンク・センター
ホームタウンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州バッファロー
バッファロー・セイバーズの位置(アメリカ合衆国内)
バッファロー・セイバーズ
チームカラーロイヤルブルー、ゴールド、白
     
メディア
オーナーテリー・ペグラ
GMジャルモ・ケカライネン
ヘッドコーチリンディ・ラフ
キャプテンラスマス・ダーリン
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (0回)
なし
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (3回)
1974-75・1979-80[§ 1]・1998-99
ディビジョン優勝 (7回)
1974-75・1979-80・1980-81・1996-97・2006-07・2009-10・2025-26
プレジデンツトロフィー (1回)
2006-07
閉じる

2024年時点のNHLで、プレーオフ進出[§ 2]およびプレーオフ1回戦突破から最も遠ざかっているチームであったが、2025-26シーズン、ついに15年ぶりにプレーオフ進出を果たした。

歴史

チーム創設から1980-1981シーズンまで

バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、AHLのバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の殿堂入り選手のセンター、ジルベール・ペロー (Gilbert Perreault) を獲得した[1]。ペローはこの年、新人ながら38ゴール34アシストを挙げてカルダー記念賞(最優秀新人賞)を受賞したが、チームは24勝39敗15分でイースタンディビジョン5位であった[1]。

ジルベール・ペロー

1971-72シーズンには、リック・マーティンをドラフトで獲得、シーズン終盤には、ピッツバーグ・ペンギンズからトレードでルネ・ロベールを獲得、ペロー、マルタン、ロベールのフランス系カナダ人選手で組んだフォワードラインは、ファンから同名の映画にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。チームは16勝43敗19分でイースタンディビジョン6位であった[1]。

1972-73シーズンには、ドラフトでディフェンスマンのジム・ショーンフェルド(Jim Schonfeld)を獲得、また大ベテランのティム・ホートン(Tim Horton)が加入してリーダーシップを発揮した[2]。チームは37勝27敗14分で創立から3シーズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、準々決勝で、この年スタンレー・カップ優勝のモントリオール・カナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]。

1973-74シーズンはペローが足の故障で8週間欠場、ゴーリーのロジャー・クロージャー(Roger Crozier)も膵炎でシーズン途中に離脱した。さらに2月20日のトロント・メープルリーフス戦を終えて、トロントからバッファローへ帰宅途中のホートンがセイバーズと契約した際にボーナスとして受け取ったデ・トマソ・パンテーラで事故を起こして亡くなった[2]。ホートンは、飲酒運転に加えて、鎮痛剤を利用していた。チームは主力選手が欠場する中、プレーオフを逃したものの32勝34敗12分で5位となった[1]。

1974-75のレギュラーシーズン、フレンチコネクションがそれぞれトップ10に入る得点をあげて、チーム全体では354得点をあげた。チームは49勝16敗15分で新設されたアダムズ・ディビジョンで1位となった。プレーオフではシカゴ・ブラックホークスを4勝1敗、カナディアンズを4勝2敗で破り、スタンレー・カップファイナルに進出した。フィラデルフィア・フライヤーズとのシリーズでは、アウェイで連敗した後、華氏90度の高温の中で行われたホームでの第3戦(濃霧の中で行われたため、後に「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。)で延長の末、初勝利をあげた。第4戦も勝利し、2勝2敗としたものの、スター・ゴーリーのバーニー・ペアレント (Bernie Parent) を擁するフライヤーズの前に2勝4敗で敗れた[1]。

当時のセイバーズは大型選手​​を揃え、初代ヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャーのパンチ・イムラック (Punch Imlach) のもと、堅実な守備のポジショニングを徹底したチーム作りを行い、そこにペローやラインメイトたちの爆発的な攻撃力が組み合わさっていたリーグ屈指の特別なチームであった。

1975-76シーズンには、46勝21敗13分でディビジョン2位となった。ペローが113ポイントをあげるなど、フレンチコネクションの3人はいずれも86ポイント以上を獲得した。1月4日に行われたソ連のクリリヤ・ソビエトフとのエキシビションゲーム(スーパシリーズ)では、他の3チームがソビエトフに敗れる中、唯一NHLチームで勝利をあげた。プレーオフでは、セントルイス・ブルースを3勝2敗で破った後、準々決勝でニューヨーク・アイランダーズと対戦、2連勝の後、4連敗して敗れた[1]。この年、加入したダニー・ゲア(Danny Gare)が50ゴールを挙げた。

1976-1977シーズン、48勝24敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦では、ミネソタ・ノーススターズを一蹴したが、2回戦でニューヨーク・アイランダーズに4連敗してシーズンを終えた[1]。

1977-78シーズン、44勝19敗17分でディビジョン2位となり、4シーズン連続で勝ち点100の大台に乗せた。プレーオフでは1回戦でニューヨーク・レンジャースを破った後、フライヤーズに1勝4敗で敗れた[1]。

1978-79シーズン、シーズン途中にゼネラルマネージャーのイムラックと、ヘッドコーチのマルセル・プロノヴォスト (Marcel Pronovost) が解任されたが、暫定ヘッドコーチ就任から7連勝し、36勝28敗16分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でペンギンズに敗れた[1]。

1979-80シーズン、前シーズンまでモントリオール・カナディアンズを率いて4年連続でスタンレー・カップファイナルを制覇していたスコッティ・ボウマンがヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーに就任した。ロベールはコロラド・ロッキーズ(後のニュージャージー・デビルス)にトレードされ、「フレンチ・コネクション」は解体された。この動きは功を奏し、チームは47勝17敗16分でアダムズ・ディビジョンで1位となり、プレーオフではバンクーバー・カナックスを3勝1敗、ブラックホークスを4連勝で破り、準決勝に進んだが、ニューヨーク・アイランダーズに2勝4敗で敗れた[1]。

1980-81シーズン、ボウマンがGMに専念することとなり、ロジャー・ニールソン(Roger Nielson)がヘッドコーチに就任、チームはペローが22試合で欠場する中、39勝20敗21分で2年連続ディビジョン1位となった。1981年3月11日にマルタンがロサンゼルス・キングスにトレードで放出された。プレーオフではカナックスに3連勝した後、ノーススターズに1勝4敗で敗れた[1]。

1981-1982シーズンより1995-1996シーズン

1981-1982シーズン、ニールソンがカナックスのヘッドコーチに就任したため、ボウマンがヘッドコーチに復帰した。チームは11月を12勝5敗7分で終えたが、デトロイト・レッドウィングスとのトレードの後、ボウマンの代わりにアシスタントコーチがヘッドコーチに昇格、3月半ばに再度ボウマンがヘッドコーチに就任した。チームが混乱する中、39勝26敗15分でディビジョン3位となり、プレーオフに進出したが、ボストン・ブルーインズに1勝3敗で敗れた[1]。

1982-83シーズン、38勝29敗13分でディビジョン3位となった。プレーオフではカナディアンズを3連勝で破った後、ブルーインズに3勝4敗で敗れた[1]。

1983-84シーズン、ドラフト全体5位でトム・バラッソ(Tom Barrasso)を獲得、彼はカルダー記念賞とベジーナ賞に選ばれた。チームは48勝25敗7分でディビジョン2位となったが、プレーオフではケベック・ノルディックスに3連敗で敗れた[1]。

1984-1985シーズン、ショーンフェルドがチームに復帰した。チームは38勝28敗14分でディビジョン3位となった。プレーオフ1回戦、ケベック・ノルディックスとの第5戦では残り9分で5-3とリードしていたが、立て続けに3点を失い敗れた[1]。

1986年3月7日のデビルス戦でペローが通算500ゴールを達成した。チームは37勝37敗6分で12年ぶりにプレーオフを逃した[1]。

1986-87シーズン、ペローが最初の14試合で9ゴールをあげた。11月24日、ペローが引退、5勝15敗3分となった12月2日、ボウマンGMが解任された。チームはNHLワーストの28勝44敗8分けで2年連続プレーオフを逃した[1]。

1987-88シーズン、ドラフト全体1位でピエール・タージョン(Pierre Turgeon)を獲得、タージオンはチーム6位となる42ポイントをあげた。またデイブ・アンドレイチャク (Dave Andreychuk)がチームトップの78ポイントをあげた。チームは37勝32敗11分で3年ぶりにプレーオフに進出、ブルーインズに2勝4敗で敗れてシーズンを終えた[1]。

1988-89シーズン序盤、トム・バラッソをトレードしてダレン・パッパ(Darren Puppa)を獲得した。1989年1月27日、パッパが腕を骨折したため、控えのジャック・クルーティエ(Jacques Cloutier)でシーズンを戦った。3月にワシントン・キャピタルズからクリント・マラチャック(Clint Malarchuk)をトレードで獲得したものの、3月22日のブルース戦でマラチャックはスケートのエッジで、頸静脈を6インチ切る大怪我をした。トレーナーとチームドクターの素早い救命措置でマラチャックは一命を取り止め[3]、翌日には退院した。チームは38勝38敗7分でディビジョン3位となり、プレーオフではブルーインズに敗れた[1]。

1980年代、セイバーズのスター選手にはペローのほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno, ディフェンスのフィル・ハウズリー (Phil Housley)、左ウイングのアンドレイチャクらがいた。しかし1980年代を通じて、たった2度しかプレーオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。

1989年には、ベルリンの壁の崩壊に続いて、旧ソビエト連邦の若手トップ選手がNHLへと流入したが、セイバーズは、前年のドラフトで全体89位で指名したアレクサンドル・モギルニー (Alexander Mogilny) と契約を結んだ。モギルニーは43ポイントを獲得[4]、タージョンがキャリア初の100ポイントを達成した。チームは45勝27敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦でカナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]。

1990年、ドラフト当日のトレードでウィニペグ・ジェッツからデール・ハワーチャック (Dale Hawerchuk) を獲得、彼はこのシーズン89ポイントをあげた。開幕から7試合で1勝もあげられなかったが、31勝30敗19分でディビジョン3位となりプレーオフに進出、1回戦でカナディアンズに敗れた[1]。

1991-92シーズンも開幕から2勝5敗1分とスロースタートであったが、10月25日にアイランダーズからセンターのパット・ラフォンテーヌをトレードで獲得した。11月16日にラフォンテーヌはあごを骨折し、チームを離脱したが、12月21日に復帰、57試合の出場で93ポイントをあげる活躍を見せた。チームは31勝37敗12分でディビジョン3位、プレーオフではブルーインズに3勝4敗で敗れた[1]。

1992-93シーズン、ラフォンテーヌとモギルニーがそれぞれ100ポイント以上をマーク、ラフォンテーヌはアメリカ生まれの選手としては最高の148ポイントをあげた[5]。モギルニーはウィニペグ・ジェッツのティーム・セラニと並ぶリーグトップタイの76ゴールをあげ、ラフォンテーヌは53ゴール、95アシストをあげた。その一方でチームは297失点を許し、38勝36敗10分でディビジョン4位となった。プレーオフでは1回戦で第1シードのブルーインズと対戦、4連勝で10シーズンぶりに1回戦を突破した。なお、ブルーインズとの第4戦の延長にブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を挙げたときのベテランラジオアナウンサー Rick Jeanneret の実況「メイが決めた!」("May Day!") はリーグの語り草になっている[6]。チームは2回戦でこの年スタンレー・カップ優勝のカナディアンズを相手に3試合で延長まで戦ったものの4連敗で敗退した[1]。

1993-94シーズン、11月19日にラフォンテーヌがひざの負傷でシーズン絶望となった。またゴーリーのグラント・フュア(Grant Fuhr)もひざの手術をすることになり、6週間以上欠場することとなった。控えゴーリーのドミニク・ハシェックがこのチャンスをものにして、ヴェジーナ賞に選ばれる活躍を見せた。デビルスとのプレーオフ第6戦でハシェックは70本のシュートを打たれたがシャットアウト、味方もマーティン・ブロデューアからゴールを奪えず、延長5分43秒にマイク・ハナンがあげたゴールで3勝3敗のタイに持ち込んだが、第7戦では敗れた[1]。

1994-95シーズン、NHLは4ヶ月ロックアウトが実施された。ハシェックはこの年もヴェジーナ賞を獲得した。ラフォンテーヌが22試合しか出場できなかったものの、チームは22勝19敗7分でプレーオフに進出、フィラデルフィア・フライヤーズに1回戦で敗れた[1]。

1995-1996シーズン、モギルニーをカナックスにトレードした。チームはこの年33勝42敗7分でノースイースト・ディビジョン5位でプレーオフを逃した。このシーズンで本拠地メモリアル・オーディトリアムに別れを告げた[1]。

1996-97シーズンより2004-05シーズン

1996年5月22日、シーモア・H・ノックス3世オーナーが亡くなった。シーズン序盤にラフォンテーヌが脳震盪でチームを離脱するも、ハシェックがヴェジーナ賞とハート記念賞を同時受賞する活躍を見せた。チームは40勝30敗12分でノースイースト・ディビジョン1位となった。プレーオフでハシェックは、スポーツライターのジム・ケリーともみ合い、出場停止処分を受けた。控えゴーリーのスティーブ・シールズ(Steve Shields)の活躍でオタワ・セネターズを4勝3敗で破り、2回戦に進んだが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。テッド・ノーランヘッドコーチは、ジャック・アダムス賞に選ばれたが解任された[1]。

1997-98シーズン、リンディ・ラフがヘッドコーチに就任した。ハシェックは、ヴェジーナ賞とハート記念賞に選ばれる活躍を見せた。チームは36勝29敗17分でディビジョン3位となった。この年、ハシェックは長野オリンピックにチェコ代表で出場した。プレーオフではフライヤーズを4勝1敗、カナディアンズを4連勝で破り、イースタン・カンファレンス決勝に進出したが、キャピタルズに2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、チームは売却された[1]。このシーズン、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーのマシュー・バーナビー (Matthew Barnaby)、左ウイングのミロスラフ・サタン (Miroslav Satan)、右ウイングのドナルド・オーデット (Donald Audette)、センターのマイケル・ペカ (Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮した。

1998-99シーズン、ハシェックは、3年連続、6年間で5度目となるヴェジーナ賞に選ばれた。チームは37勝28敗17分でディビジョン4位、プレーオフにイースタン第7シードで進出した。プレーオフ1回戦でディビジョン1位のセネターズを4連勝で破り、2回戦でブルーインズを4勝2敗で、カンファレンス決勝でトロント・メープルリーフスを4勝1敗で破った。ダラス・スターズとのスタンレー・カップファイナルでは、第1戦を延長の末、ジェイソン・ウーリーの決勝ゴールで3-2で勝利した。第2戦に敗れ、第3戦も地元で1-2と敗れた後、第4戦は2-1で勝利したが、第5戦は敗れて2勝3敗で迎えた第6戦、トリプルオーバータイムの末、ブレット・ハルに決勝点を許し、2勝4敗で敗れた。ただし、決勝ゴールの際ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズ(ゴールネット前のエリア)を犯しており、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていたため、スターズの勝利は物議を醸した[1]。その当時スターズの地元紙『ダラス・モーニング・ニュース』(Dallas Morning News) のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ (Keith Gave) ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈したほどであった。40ゴールを決めたサタンに加え、新たにピッツバーグ・ペンギンズからセンターのスチュ・バーンズ (Stu Barnes)、またキャピタルズからジョー・ジュノー (Joe Juneau) を獲得した。ミハル・グロセク (Michael Grosek) は自身最高のシーズン成績を収めた。

1999-2000シーズン、ハシェックが怪我のため35試合の出場にとどまり、新人のマーティン・ビロン (Martin Biron) が多くの試合に出場した。チームはカロライナ・ハリケーンズをわずか1ポイント差で上回り、プレーオフ出場を果たしたが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。

2000-01シーズン、ハシェックが怪我から復帰し、ヴェジーナ賞を獲得した。キャプテンのマイケル・ペカ (Michael Peca)が契約のこじれからホールドアウトを行った。チームはディビジョン2位でプレーオフに進出、プレーオフ1回戦でフライヤーズを4勝2敗で破った[1]。2回戦進出を決めた試合では8対1と完璧な勝利を収めたが、ペンギンズとの2回戦では地元で連敗した後、敵地ピッツバーグで連勝、ホームの第5戦も勝利して、シリーズ優勝まであと1勝となったが、第6戦、第7戦をいずれも落として敗れた[1]。第7戦ではダブルオーバータイム終盤、ダリウス・カスパライティス (Darius Kasparaitis) に決勝ゴールを許した。

2001-02シーズン開幕前には、ペカをニューヨーク・アイランダーズにトレードした[7]。またハシェックとの長期に渡る契約交渉も不調に終わって、セイバーズはハシェックをデトロイト・レッドウィングスにトレードした[8]。チームは6シーズンぶりにプレーオフ進出を逸した[1]。

2002年7月、チームオーナーで Adelphia Communications のCEOでもあるジョン・ライガス (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなど[9]、チームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、2003年1月には破産申請をし[10]、その後ニューヨーク州ロチェスター在住の富豪で、ニューヨーク州知事選候補者であったトム・ゴリサーノ (Tom Golisano) に9200万ドルで買収された[1]。

この後チームは混乱からの脱却を図り、ダニエル・ブリア (Daniel Briere)、デレク・ロイ (Derek Roy)、ロリー・フィッツパトリックら若手の登場・躍進も見られた。

2003-04シーズン、カルガリー・フレームスからクリス・ドュリューリー (ChrisDrury) を獲得した。チームはシーズン前半の不振から後半持ち直したものの、レベルの高いノースイースト・ディビジョン最下位に終わり、プレーオフ進出を逸した[1]。

2004-05シーズンはロックアウトによりNHLの試合開催が中止された[1]。

2005-06シーズン以降

2005-06シーズンはゴーリーライアン・ミラーや30ゴールをあげたフォワードクリス・ドュリューリーなどの活躍で、52勝24敗6延長戦負けというイースタン・カンファレンストップの好成績を残し、リンディ・ラフコーチは、ジャック・アダムス賞を受賞した[11]。プレーオフでは1回戦でフライヤーズを4勝2敗で下し、2回戦もオタワ・セネターズを4勝1敗で下した[1]。しかし、カロライナ・ハリケーンズとのカンファレンス決勝までの間に怪我人が増え、第6戦ではジェイ・マッキーも怪我人になった。第7戦は4対2で負けてシーズンが終わった。オフにフォワードのジャン・ピエール・デュモン (Jean-Pierre Dumont)、ディフェンスのマッキーらを放出し、ディフェンスにヤロスラブ・スパッチェク (Jaroslav Spacek) を加えた。

2006-07シーズン、セイバーズは新しいホームジャージ、アウェイジャージを採用し、チームロゴもそれまでのレッドアイバッファローから黄色・青を基調としたバッファローのロゴに変更され、チームカラーも変更された。チームは開幕から10連勝するなど、15勝1敗1延長戦負けというロケットスタートを切った。勝ち点113(53勝22敗7延長戦負け)でプレジデンツトロフィーを獲得、第1シードでプレーオフに進出し、ニューヨーク・アイランダーズを4勝1敗、ニューヨーク・レンジャースを4勝2敗で破ってカンファレンス決勝まで駒を進めたが、セネターズに敗れて2年連続でカンファレンス決勝で姿を消し、スタンレーカップファイナル進出を逃した。オフ、キャプテンを務めていたダニエル・ブリアがフライヤーズ、クリス・ドュリューリーがレンジャースに移籍した[1]。

2007-08シーズン、1月1日にピッツバーグ・ペンギンズと初のウィンタークラシック(スタジアムでの屋外試合)を開催した。中心選手2人を失ったチームは、39勝31敗12延長戦負けでシーズンを終えて、プレーオフを逃した[1]。

2008-09シーズン、ティム・コノリーと2年420万ドルで契約を延長した。また、フェニックス・コヨーテズからミカエル・テルクヴィスト (Mikael Tellqvist) を、ドミニク・ムーア (Dominic Moore) をトロント・メープルリーフスから獲得[12]、アレス・コタリック をエドモントン・オイラーズにトレードした。チームは41勝32敗9延長戦負けで、わずか2ポイント差でプレーオフを逃した[1]。

2009-10シーズン、ゴーリーのライアン・ミラーは、アメリカ代表としてバンクーバーオリンピックに出場し、決勝の延長に、シドニー・クロスビーにゴールを決められたものの銀メダルを獲得した[13]。この年チームは45勝27敗10延長戦負けで、ミラーがベジーナ賞に[14]、ディフェンスマンのタイラー・マイヤーズ (Tyler Myers)がカルダー記念賞に選ばれた[15]。プレーオフではボストン・ブルーインズに2勝4敗で敗れた[1]。

2010-11シーズン、2月に、チームキャプテンのクレイグ・リヴェイ (Craig Rivet) をウェーバーし[16]、彼はコロンバス・ブルージャケッツに入団した。2月23日、テリー・ペグラが1億8900万ドルでチームを買収したこと、チームをバッファローから移転させないことを発表した。この年、チームは43勝29敗10延長戦負けで、プレーオフに進出、プレーオフではミラーが2試合で完封する活躍を見せたが、3勝4敗で敗れた[1]。

2011-12シーズン、開幕前にジェイソン・ポミンビル (Jason Pominville) をキャプテンに指名した。ヨーロッパで開幕したこのシーズン、アナハイム・ダックスをヘルシンキで、ロサンゼルス・キングスをベルリンで破った。11月12日のボストン・ブルーインズ戦でゴーリーのミラーが脳震盪を起こし[17]、その後9試合に欠場、続く33試合でわずか9勝しかあげられなかった。3月には14勝1敗3延長戦負けと好成績をあげたが、チームは39勝32敗11延長戦負けで、3ポイント差でプレーオフを逃した[1]。

2012-13シーズン、開幕前の7月にデレック・ロイ (Derek Roy) とのトレードで、ダラス・スターズからスティーブ・オット (Steve Ott) を獲得した[18]。このシーズンからロックアウトで3ヶ月開幕が遅れて、48試合となったレギュラーシーズンでは、2月20日に16シーズンチームの指揮を執ったリンド・ラフヘッドコーチが解任され、ロン・ロルストン (Ron Rolston)が後任となった[19]。トレード期限に、ジョーダン・レオポルド (Jordan Leopold) をセントルイス・ブルースに、ロビン・レゲエ (Robyn Regehr) をロサンゼルス・キングスに、キャプテンのポミンビルをミネソタ・ワイルドに放出してドラフト指名権を獲得[20]、チームの再建に乗り出した。チームは4月に8勝したものの、21勝21敗6延長戦負けで、ノースイースト・ディビジョン最下位に終わった[1]。

2013-14シーズン、10月27日にトーマス・ヴァネック (Thomas Vanek)をニューヨーク・アイランダースにトレードした[21]。チームは最初の20試合で4勝15敗1延長戦負となり、11月13日にロルストンコーチは解任されて[22]、テッド・ノーラン (Ted Nolan) が後任となった。ホッケーの殿堂入りしているラフォンテーヌを球団社長に[23]、ティム・マレーをGMに迎えた。11勝25敗4延長戦負けで新年を迎えたチームは、1月にわずか4勝しかできず、ソチオリンピックによる中断を迎えた。ゴーリーのミラーとキャプテンのオットがセントルイス・ブルースにトレードされた[24]。シーズン最後の20試合で2勝に終わるなど、21勝51敗10延長戦負けでシーズンを終えた[1]。

2020-21シーズン以降

2020-21シーズンは2月17日の対ニュージャージー・デビルズ戦から3月29日の対フィラデルフィア・フライヤーズ戦まで、NHLワーストタイとなる18連敗[§ 3]を喫するなど、15勝34敗7延長戦負けの勝ち点37で東地区の最下位に沈み、プレーオフ進出を逃した。

2021-22シーズンは32勝39敗11延長戦負けで地区5位に終わり、11年連続でプレーオフに進出できず、NHLワースト記録を更新した。

2022-23シーズンは42勝33敗7延長戦負けで12年ぶりのレギュラーシーズン勝ち越しを果たしたが、12年連続でプレーオフに進出できなかった。

2023-24シーズンは39勝37敗6延長戦負けの地区6位でイースタンカンファレンスのワイルドカード争いでも6位となり、13年連続でプレーオフ進出を逃した。シーズン中の2024年4月2日にジェフ・スキナーがNHL史上初めて、プレーオフ出場経験が無いまま通算1,000試合出場を達成した[§ 4]。

2025-26シーズンを109ポイントでディビジョン首位の成績で終え、ついにプレーオフ進出を果たし、NHL記録となる14シーズンの不出場を終わらせた。[25]プレーオフでは、第1ラウンドでブルーインズを6戦で下し、第2ラウンドの対カナディアンズは第7戦でラスマス・ダリーンの同点ゴールで追いつくも、延長で惜しくも敗退した。[26]

チーム情報

シーズン別成績

年GPWLTOLGFGAPTS最終順位プレーオフ(相手チーム)
1970-7178243915-21729163イースト5位不参加
1971-7278164319-20328951イースト6位不参加
1972-7378372714-25721988イースト4位準々決勝敗退 (MTL)
1973-7478323412-24225076イースト5位不参加
1974-7580491615-354240113アダムス1位スタンレーカップ決勝敗退 (PHI)
1975-7680462113-339240105アダムス2位準々決勝敗退 (NYI)
1976-778048248-301220104アダムス2位準々決勝敗退 (NYI)
1977-7880441917-288215105アダムス2位準々決勝敗退 (PHI)
1978-7980362816-28026388アダムス2位予選敗退 (PIT)
1979-8080471716-318201110アダムス1位準決勝敗退 (NYI)
1980-8180392021-32725099アダムス1位準々決勝敗退 (MIN)
1981-8280392615-30727393アダムス3位地区準決勝敗退 (BOS)
1982-8380382913-31828589アダムス3位地区決勝敗退 (BOS)
1983-848048257-315257103アダムス2位地区準決勝敗退 (QUE)
1984-8580382814-29023790アダムス3位地区準決勝敗退 (QUE)
1985-868037376-29629180アダムス5位不参加
1986-878028448-28030864アダムス5位不参加
1987-8880373211-28330585アダムス3位地区準決勝敗退 (BOS)
1988-898038357-29129983アダムス3位地区準決勝敗退 (BOS)
1989-908045278-28624898アダムス2位地区準決勝敗退 (MTL)
1990-9180313019-29227881アダムス3位地区準決勝敗退 (MTL)
1991-9280313712-28929974アダムス3位地区準決勝敗退 (BOS)
1992-9384383610-33529786アダムス4位地区準決勝敗退 (MTL)
1993-948443329-28221895ノースイースト4位カンファレンス準々決勝敗退 (NJD)
1994-954822197-13011951ノースイースト4位カンファランス準決勝敗退 (PHI)
1995-968233427-24726273ノースイースト5位不参加
1996-9782403012-23720892ノースイースト1位カンファランス準決勝敗退(PHI)
1997-9882362917-21118789ノースイースト3位カンファランス決勝敗退(WSH)
1998-9982372817-20717591ノースイースト4位スタンレーカップ決勝敗退 (DAL)
1999-0082353211421320485ノースイースト3位カンファランス準々決勝敗退(PHI)
2000-018246305121818498ノースイースト2位カンファランス準決勝敗退 (PIT)
2001-0282353511121320082ノースイースト5位不参加
2002-0382273710819021972ノースイースト5位不参加
2003-048237347422022185ノースイースト5位不参加
2005-06825224-6276234110ノースイースト2位カンファランス決勝敗退 (CAL)
2006-07825322-7298238113ノースイースト1位
プレジデンツトロフィー
カンファランス決勝敗退 (OTW)
2007-08823931-1225123390ノースイースト4位不参加
2008-09824132-924222991ノースイースト3位不参加
2009-10824527-10231201100ノースイースト1位カンファランス準々決勝敗退 (BOS)
2010-11824329-1024022896ノースイースト3位カンファランス準々決勝敗退 (PHI)
2011-12823932-1121122389ノースイースト3位不参加
2012-13482121-611813948ノースイースト5位不参加
2013-14822151-1015024352アトランティック8位不参加
2014-15822351-815326954アトランティック8位不参加
2015-16823536-1119921581アトランティック7位不参加
2016-17823337-1219923178アトランティック8位不参加
2017-18822545-1219827862アトランティック8位不参加
2018-19823339-1022126876アトランティック6位不参加
2019-20693031-819321568アトランティック6位不参加
2020-21561534-713419637イースト8位不参加
2021-22823239-1122928775アトランティック5位不参加
2022-23824233-729329791アトランティック5位不参加
2023-24823937-624424384アトランティック6位不参加
2024-25823639-726528779アトランティック6位不参加
2025-26825023-9283240109アトランティック1位第2ラウンド敗退 (MTL)

“Buffalo Sabres Season-by-Season Record - Regular Season” (英語). NHL Records. 2026年5月26日閲覧。

ホッケーの殿堂

選手
ビルダー
  • ジョージ・イムラック, ヘッドコーチ/GM, 1970–78, 1984年推薦
  • スコッティ・ボウマン, ヘッドコーチ/GM, 1980–87, 1991年推薦
  • シーモア・H・ノックス3世, オーナー(チーム共同創設者), 1970–96, 1993年推薦
  • ロジャー・ニールソン, アシスタント/ヘッドコーチ, 1979–81, 2002年推薦
フォスター・ヒューイット・メモリアル賞(ブロードキャスター)
  • テッド・ダーリング, 1970–92, 1994年推薦
  • リック・ジャンヌレ, 1971–2016, 2012年推薦
  • ハリー・ニール, 2007–13, 2013年推薦
エルマー・ファーガソン・メモリアル賞(スポーツライター)
  • Charlie Barton (Buffalo Courier-Express), 1985年推薦
  • Dick Johnston (バッファロー・ニューズ), 1986年推薦
  • ジャック・ゲートクリフ (セントキャサリンズ・スタンダード), 1995年推薦
  • ジム・ケリー (バッファロー・ニューズ), 1981–2010, 2004年推薦

永久欠番

さらに見る 背番号, 選手名 ...
バッファロー・セイバーズ永久欠番
背番号 選手名 ポジション 所属 永久欠番となった年月日
2ティム・ホートンD1972–741996年1月15日
7リック・マーティン(英語版)LW1971–811995年11月15日
11ジルベール・ペローC1970–871990年10月17日
14ルネ・ロベール(英語版)RW1972–791995年11月15日
16パット・ラフォンテーヌC1991–972006年3月3日
18ダニー・ゲア(英語版)RW1974–812005年11月22日
30ライアン・ミラー(英語版)G2012-142023年1月19日
39ドミニク・ハシェックG1992–20012015年1月13日
閉じる
  • マーティン・ビロンが着用したのを最後に背番号00は、全NHLチームに許可されていない。
  • アレクサンドル・モギルニーが着用していた89番は永久欠番となっていないが、彼以降着用した選手はいない[27]
  • ウェイン・グレツキーの99番は、2000年2月6に全NHLチームの永久欠番に認定された。

注釈

  1. 1979-80シーズンは勝ち点110を獲得してレギュラーシーズンにてカンファレンス優勝となったが、プレーオフはカンファレンスファイナルで敗退している。
  2. プレーオフ進出に関しては、NFLのニューヨーク・ジェッツと並んで北米4大プロスポーツリーグで最も遠ざかっている。
  3. 連敗中の1敗目と18敗目は延長戦で、8敗目はシュートアウト戦で敗れているため、この連敗中に勝ち点3を取っている。
  4. NHL全体では通算397人目、2023-24シーズンでは15人目。但しスキナー以外の選手は全て通算1,000試合出場をするより前にプレーオフに出場経験がある。

脚注

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks