パウロ・フットレ
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
|
1992年、コパデルレイ優勝時のフットレ | ||||||
| 名前 | ||||||
| 本名 |
パウロ・ジョルジュ・ドス・サントス・フットレ Paulo Jorge dos Santos Futre | |||||
| ラテン文字 | Paulo Futre | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
| |||||
| 生年月日 | 1966年2月28日(60歳) | |||||
| 出身地 | モンティジョ | |||||
| 身長 | 175cm | |||||
| 体重 | 72kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW / MF | |||||
| ユース | ||||||
| 1974-1975 |
| |||||
| 1975-1983 |
| |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1983-1984 |
| 21 | (3) | |||
| 1984-1987 |
| 81 | (25) | |||
| 1987-1993 |
| 163 | (38) | |||
| 1993 |
| 11 | (3) | |||
| 1993 |
| 8 | (2) | |||
| 1993-1995 |
| 13 | (5) | |||
| 1995-1996 |
| 1 | (0) | |||
| 1996-1997 |
| 9 | (0) | |||
| 1997-1998 |
| 10 | (0) | |||
| 1998 |
| 13 | (3) | |||
| 通算 | 320 | (79) | ||||
| 代表歴2 | ||||||
| 1983-1995 |
| 41 | (6) | |||
|
1. 国内リーグ戦に限る。 2. 2017年6月29日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
パウロ・ジョルジュ・ドス・サントス・フットレ(ポルトガル語: Paulo Jorge dos Santos Futre, 1966年2月28日 - )は、ポルトガル・モンティージョ出身の元サッカー選手。ポジションはFW(ウイング[1])、MF(攻撃的MF)。鋭いドリブルを武器とした[2][3] 。左利きだが、両足が使え、優れたパスを供給するチャンスメーカーとしても知られ、甘いマスクで女性ファンの人気も集めた[4]。
1983年、スポルティングCPの下部組織を経て、17歳で1部リーグにデビュー、すぐにポルトガル代表にも選出された[4]。ポルトガル代表では、1983年9月22日のフィンランド戦でデビュー[4]。41試合で6ゴールを記録、1986 FIFAワールドカップにも出場し、1995年まで代表でプレーした。
1984年にFCポルトへ移籍、鋭いドリブルをみせるなど能力を発揮し、1984-85、1985-86シーズンのリーグ連覇、1986-87シーズンのチャンピオンズカップでは、準決勝のディナモ・キエフ戦1stレグでゴールを決め[5]、決勝進出に貢献、決勝でバイエルン・ミュンヘンを2-1と破り優勝を果たした[6]。1987年のUEFA欧州最優秀選手賞の投票では、ルート・フリットに次ぐ2位に選出された[7]。本人は受賞を確信していたが、フリット106票、フットレは91票、シルヴィオ・ベルルスコーニが自分のチームのフリットに受賞させるため、票を買収するなどの不正を行ったのではないかという報道もあり、論争や非難が起きた[4]。
1987-88シーズンからはアトレティコ・マドリードへ移籍。ここではキャプテンを務めた。1987-88シーズン終了後、ASローマへの移籍で個人合意したものの、クラブ間合意に至らず、移籍は破談となった[4]。1990-91シーズンにコパ・デル・レイを制し、1991-92の同大会決勝のレアル・マドリード戦ではゴールを決め、優勝に貢献[8]、また、同シーズンのリーガ得点王になったマノロ・サンチェスに沢山のアシストを決めた[9]。しかし、この頃、度重なる悪質なファールを受けてきたことから、膝の調子が思わしくない状態となりつつあり、1992-93シーズン途中にベンフィカへ移籍[4]。ファンから熱狂的な歓迎を受けた[4]。タッサ・デ・ポルトガル決勝のボアヴィスタ戦で2ゴールを決め[10]、同大会の優勝をもたらした。
1993-94シーズン、マルセイユに移籍するも、怪我に悩まされただけでなく、ドラガン・ストイコビッチとのポジション争いもあった[4]。更にシーズン中に前年度の八百長問題が発覚したことで、ボクシッチ、デサイーらの主力選手たちがチームを去る中、フットレにはACミランが獲得に興味を示していたが、レッジャーナに移籍、移籍後初出場のクレモネーゼ戦で決勝ゴールを決め、チーム史上セリエAでの初勝利を呼び込むも、その試合でラフプレーを受け負傷し、シーズンを終えた[11][12]。翌1994-95シーズンも怪我で多くの試合を欠場し、12試合で4得点に終わった。また、チームはセリエBへの降格が決定した[4]。
1994-95シーズン終了後すぐにACミランに移籍、プレシーズンのアジアツアーからチームに帯同し、清水エスパルス戦で移籍後初ゴールを決めるなどの活躍を見せた。しかし、加入から6週間後、右膝を負傷して手術を受け、1995-96シーズンをほぼ棒に振った[4]。チームは優勝を果たすも、セリエA最終節のクレモネーゼ戦に出場[13]。この試合では、ボールを受けるごとにファンからは暖かい拍手を送られた[4]。
1996年にウェストハムに移籍したが、10番以外の番号でのプレーを拒否した[14]、怪我もあって9試合のみの出場に終わる。アトレティコ・マドリードへの復帰を経て、1998年にカルロス・レシャックが監督を務めていた、横浜フリューゲルスに加入[1]、レディアコフらと攻撃陣をリードした[15]。Jリーグデビュー2戦目の5月5日のサンフレッチェ広島戦で初ゴールを決め[16]、5月9日のアビスパ福岡戦、再開後の7月25日のコンサドーレ札幌戦と3試合連続ゴールを決めたが、セカンドステージ9月26日のベルマーレ平塚戦の後、9月28日にレシャックが成績不振で監督を退任すると、以降出場することはなく[17]、32歳で引退した。Jリーグでは13試合3ゴールに終わった[16]。
エピソード
2014年11月、ポルトガルの新聞『レコルト』においてアトレティコ・マドリード時代に八百長を当時のアトレティコ会長ヘスス・ヒルより持ち掛けられたことを告白した[18]。
個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ポルトガル | リーグ戦 | リーグ杯 | ポルトガル杯 | 期間通算 | |||||||
| 1983-84 | スポルティングCP | リーガ | 21 | 3 | |||||||
| 1984-85 | ポルト | 30 | 6 | ||||||||
| 1985-86 | 26 | 7 | |||||||||
| 1986-87 | 25 | 12 | |||||||||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1987-88 | A・マドリード | プリメーラ | 35 | 8 | 3 | 1 | |||||
| 1988-89 | 28 | 5 | 7 | 0 | |||||||
| 1989-90 | 26 | 10 | 2 | 0 | |||||||
| 1990-91 | 26 | 3 | 6 | 1 | |||||||
| 1991-92 | 31 | 6 | 6 | 5 | |||||||
| 1992-93 | 16 | 5 | 2 | 0 | |||||||
| ポルトガル | リーグ戦 | リーグ杯 | ポルトガル杯 | 期間通算 | |||||||
| 1993 | ベンフィカ | リーガ | 11 | 3 | 2 | 2 | |||||
| フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
| 1993 | マルセイユ | アン | 8 | 2 | |||||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1993-94 | レッジャーナ | セリエA | 1 | 1 | |||||||
| 1994-95 | 12 | 4 | |||||||||
| 1995-96 | ミラン | 1 | 0 | ||||||||
| イングランド | リーグ戦 | FLカップ | FAカップ | 期間通算 | |||||||
| 1996-97 | ウェストハム | プレミア | 9 | 0 | |||||||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1997-98 | A・マドリード | プリメーラ | 10 | 0 | 0 | 0 | |||||
| 日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1998 | 横浜F | 31 | J | 13 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 16 | 3 |
| 通算 | ポルトガル | リーガ | 113 | 31 | |||||||
| スペイン | プリメーラ | 172 | 37 | ||||||||
| フランス | アン | 8 | 2 | ||||||||
| イタリア | セリエA | 14 | 5 | ||||||||
| イングランド | プレミア | 9 | 0 | ||||||||
| 日本 | J | 13 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 16 | 3 | ||
| 総通算 | 329 | 78 | |||||||||
代表での成績
- 出典[19]
| ポルトガル代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1983 | 1 | 0 |
| 1984 | 4 | 0 |
| 1985 | 4 | 1 |
| 1986 | 4 | 0 |
| 1987 | 2 | 0 |
| 1988 | 1 | 0 |
| 1989 | 4 | 1 |
| 1990 | 1 | 0 |
| 1991 | 8 | 2 |
| 1992 | 3 | 0 |
| 1993 | 8 | 2 |
| 1994 | 0 | 0 |
| 1995 | 1 | 0 |
| 通算 | 41 | 6 |
代表での得点
| # | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | 結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1983年3月26日 | ポルトガル、リスボン | 2-3 | 親善試合 | |
| 2 | 1983年3月26日 | スイス、ヌーシャテル | 2-1 | 1990 FIFAワールドカップ・予選 | |
| 3 | 1983年3月26日 | ギリシャ、アテネ | 3-2 | UEFA EURO '92予選 | |
| 4 | 1983年3月26日 | マルタ、タ・アーリ | 1-0 | UEFA EURO '92予選 | |
| 5 | 1983年3月26日 | ポルトガル、リスボン | 5-0 | 1994 FIFAワールドカップ・予選 | |
| 6 | 1983年3月26日 | ポルトガル、リスボン | 3-0 | 1994 FIFAワールドカップ・予選 | |
個人タイトル
- ポルトガル年間最優秀選手賞:2回 (1986, 1987)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 99位 (ワールドサッカー誌選出 1999)