パトリシア・シュローダー

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前任者マイク・マクケヴィット
後任者ダイアナ・デゲッテ
パトリシア・シュローダー
Patricia Nell Scott Schroeder
アメリカ合衆国下院議員コロラド州第1選挙区英語版
任期
1973年1月3日  1997年1月3日
前任者マイク・マクケヴィット
後任者ダイアナ・デゲッテ
個人情報
生誕 (1940-07-30) 1940年7月30日
オレゴン州ポートランド
死没2023年3月13日(2023-03-13)(82歳没)
フロリダ州セレブレーション
政党 民主党
配偶者ジェームズ・シュローダー(1962年結婚)
子供2人
出身校ミネソタ大学 (B.A.)/ハーバード・ロー・スクール (J.D.)

パトリシア・シュローダー(英: Patricia Nell Scott Schroeder、1940年7月30日 - 2023年3月13日)は、アメリカ合衆国の女性政治家民主党)。1973年から1997年まで、コロラド州第1選挙区英語版から連続12期にわたりアメリカ合衆国下院議員を務めた[1]

1940年7月30日、オレゴン州ポートランドに生まれる。父親は航空保険業を営み、母親は教員であった[2]。高校卒業後、ミネソタ大学で歴史・哲学・政治学を専攻して学士号を取得し、1964年にハーバード・ロー・スクールで法務博士号(J.D.)を取得した[3]。 学生時代には15歳で航空操縦免許を取得し、学費を稼ぐために自ら航空サービスを行った経歴を持つ[4]

初期の職歴

1964年から1966年まで全米労働関係委員会英語版で弁護士として勤務。その後、プランド・ペアレントフッドの法務顧問やデンバー公立学校の教員を務めた[5]

政策と思想

1972年、民主党候補としてコロラド州第1選挙区から立候補し、翌1973年に初当選。以降、12期連続で再選され、1997年まで24年間在職した[6]。女性議員として初めて下院軍事委員会英語版に所属し、軍備削減、女性兵士の地位向上、社会保障政策の充実を主張した[7]。また、「子ども・青少年・家族特別委員会英語版」の委員長を務めた[8]

議会において女性の職場での平等、妊娠中および産後の女性の保護、ならびに育児・介護をめぐる休暇制度の整備を積極的に推進した。妊娠差別禁止法英語版家族・医療休暇法英語版などの立法過程に携わり、女性が出産や家庭の事情を理由に不当な扱いを受けないよう制度化を図った[9][10]。軍人家族法[注 1]の立法過程での、“You cannot have a strong defense if you have a weak family.”(家庭が弱ければ、強い防衛はありえない。)という発言は有名で、軍隊という男性中心の制度の中で、軍人の家族、女性・子どもの視点を導入することを強く訴えた[11][12]

また、医学研究において女性および人種的マイノリティの参加を義務付ける制度改革にも関心を示した。これは特定集団の「優遇」ではなく、長年にわたり臨床試験の大半が白人男性を被験者として行われていたことへの是正を目的としたものである。当時、女性は妊娠の可能性やホルモン周期を理由に研究対象から除外される傾向があり、その結果、薬効や副作用のデータが男性中心に偏る問題が生じていた。シュローダーはこの偏りを「女性の医学的不可視化」と批判し、より公平で包括的な研究体制を求めた。彼女の提言は、1993年に制定された「国立衛生研究所再活性化法(NIH Revitalization Act of 1993)」で、女性およびマイノリティの臨床試験参加を義務化する条項として制度化された[13][14]

彼女の立場はリベラル・フェミニズムに近く、「性別による平等な機会を確保し、制度や法律を変えることで女性の働き方と生活を改善する」という実践的フェミニズムの立場を取っていたと評価されている[15]

評価と論争

シュローダーは、女性の権利・軍縮・家族政策における積極的な姿勢から、当時の議会では「過激」「挑戦的」とも受け止められた[16]。1970年代から1980年代にかけて、女性議員は全下院の約3%に過ぎず、シュローダーはその中で最も長く在職した女性議員の一人であった[17]

彼女は議会内で「女性であり母親であること」が批判や偏見の対象とされた際、「I have a brain, I have a uterus, and they both work.」(私は脳を持っているし、子宮も持っている。そして両方とも働いている)と返答したとされ、この発言は当時の社会規範に挑戦する象徴的なものとなった[18]

また、忠誠の誓いの一節を引用して「The Pledge of Allegiance says “with liberty and justice for all.” What part of “all” don’t you understand?」(忠誠の誓いには『すべての人に自由と正義を』と書かれている。“すべて”のどの部分が分からないの?)と発言し、平等の理念を政治的レトリックで再定義した[19]

さらに、記者から「なぜ女性として政治に出るのか」と問われた際には、「What choice do I have?」(他に選択肢がある?)と答えた逸話が知られており、女性政治家の存在自体が例外視されていた時代における強い自負と皮肉を示していた[20]

晩年には、ドナルド・トランプの女性蔑視的発言をめぐり「The way Trump has treated women is just off the charts.」(トランプが女性を扱うやり方は完全に度を超えている)と明言し、現代の政治家に対しても一貫して批判的な姿勢を示した[21]

保守派からは「過激なリベラル」と評されることもあったが、女性史・議会史の文脈では「先駆的な改革派」として再評価されている。シュローダーは、コロラド州初の女性下院議員として、女性、家族、労働者の権利向上を重視した立法活動を展開した。長期在任中に多くの政策を通じて社会保障・家庭支援制度の拡充に寄与し、米国議会史における女性政治家の先駆的存在とされる[22][23]

大統領選挙出馬断念

1987年、パトリシア・シュローダーは翌年のアメリカ合衆国大統領選挙への出馬を検討していたが、選挙戦への準備が遅れたことや、候補者指名制度の閉鎖性などを理由に出馬を断念した[24]

アメリカの大統領選挙では候補者が長期にわたって各州を回り、資金集め・メディア露出・党内の支持工作などを行う必要がある。その過程で、政治家は有権者や支援者、そして家庭から「距離を置き」、スタッフとメディアに囲まれた“選挙マシーン”のような生活を強いられる[25][26]

こうした構造の中で、当時のアメリカでは女性が候補者として立候補すること自体が難しく、社会的にも「家庭を離れて全国を回る女性政治家」への理解が乏しかった。シュローダーは後年、自著で「大統領選に出るとなると、人間らしく生きることができなくなる」と回想しており[27]、その発言はアメリカにおける女性候補の制度的・文化的な壁を象徴するものとされている。

同年9月28日、コロラド州デンバーで行われた記者会見で撤退を表明し、「大統領候補指名制度があまりにも孤立的で、支えてくれた人々から距離を置くような選挙活動はしたくない」と語り、涙を拭いながら訴える姿が全米で報じられた[28]。後に日本の内閣総理大臣となる高市早苗は、その姿に感銘を受け、手紙を送ったという[29]。その後、高市は米国議会フェローとして派遣され、シュローダーの下で政策スタッフとして勤務した[30]。高市が日本の女性政治家としての道を歩むうえで、シュローダーは重要な精神的影響を与えた人物とされている[31]

退任後

死去

脚注

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