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ベッシー・スミス

アメリカのブルース歌手 (1894-1937) From Wikipedia, the free encyclopedia

ベッシー・スミス(英語: Bessie Smith 1894年4月15日 [注 1]- 1937年9月26日)はジャズ・エイジに広く名声を博したアフリカ系アメリカ人のブルース歌手であった。「ブルースの女帝(Empress of the Blues)」の異名を取り、それ以前は「ブルースの女王(Queen of the Blues)」とも呼ばれたベッシー・スミスは、1930年代に最も人気のあった女性ブルース歌手であった。1989年にロックの殿堂入りを果たし、スミスはしばしば彼女の生きた時代における最も偉大な歌手の1人とみなされ、彼女と同時代人であったブルース歌手はもちろんのこと、ジャズ歌手に対しても多大な影響を及ぼした[1]。

出生名 ベッシー・スミス
Bessie Smith
別名 ブルースの女帝
概要 ベッシー・スミスBessie Smith, 基本情報 ...
ベッシー・スミス
Bessie Smith
基本情報
出生名 ベッシー・スミス
Bessie Smith
別名 ブルースの女帝
生誕 (1894-04-15) 1894年4月15日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テネシー州
チャタヌーガ
死没 1937年9月26日(1937-09-26)(43歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシシッピ州クラークスデール
ジャンル
職業
  • 歌手
  • 俳優
担当楽器 ヴォーカル
活動期間 1912年 – 1937年
レーベル
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テネシー州チャタヌーガで生まれたスミスは幼くして両親を亡くし、彼女と6人のきょうだいは生活のために街角で芸をしなければならなかった。スミスはマ・レイニーを一員に含むミンストレル一座に加わり、各地を巡業する芸能活動を始め、その後、独り立ちした。スミスに成功をもたらしたコロムビア・レコードでのレコーディング・キャリアは1923年に開始されたが、スミスが自動車事故により43歳で亡くなったことで、中断を余儀なくされた。

伝記

生い立ち

Portrait of Bessie Smith, 1936
スミスのポートレイト、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影、1936年

1900年の国勢調査によると、ベッシー・スミスは家族によって、1892年7月に、テネシー州チャタヌーガで生まれたと報告されている[2][3][4]。1910年の国勢調査では、スミスの年齢は16歳とされ[5]、誕生日は1894年4月15日とされている。これはスミスの家族によって、彼女の誕生日として述べられたものであり、以後の公文書にも同様の記述が見られる。1870年と1880年の国勢調査では、幾名かの年上のきょうだい、あるいは異父または異母きょうだいが報告されている。

ベッシーはローラとウィリアム・スミスの娘として生まれた。ウィリアムは肉体労働者であり、パートタイムのバプテスト派の牧師であった(ウィリアムは1870年の国勢調査において、アラバマ州ローレンス郡モールトン(英語版)在住の「聖職者」として一覧表に掲載されている)。ウィリアムが死んだとき、まだ娘は幼すぎて、父親の記憶らしいものは何も残っていなかった。ベッシーが9歳になる頃までには、母親と1人の兄弟も亡くなり、ベッシーの姉ヴァイオーラがきょうだいの世話を引き受けていた。結果として、ベッシーは教育を受けることができなかった[6][7]。

両親の死と貧困のため、ベッシーは「みじめな子供時代」を送った[8]。貧しい家計を助けるために、ベッシーと兄弟のアンドルーはチャタヌーガの街で芸を披露して小銭を稼いだ。ベッシーはアンドルーが弾くギターに合わせて、歌ったり踊ったりした。2人が街角で披露した芸に対してたったの数ペニーの実入りしかないことはしばしばであった[8]。2人が立ついつもの場所は、チャタヌーガのアフリカ系アメリカ人コミュニティの中心に位置した、13番通りとエルム通りの角にあるホワイト・エレファント・サルーンの店先であった。

1904年、ベッシーの長兄クラレンスは家を後にして、モーゼズ・ストークスが座長を務める小さな旅芸人の一座に加わった。「ベッシーが一座に加われるだけの年齢になっていたら、クラレンスと一緒に出発していたに間違いありません」とクラレンスの寡婦モードは話した。「ベッシーの熱意がそれほどだったからこそ、クラレンスはベッシーに何も言わずに出ていったのです。とはいうものの、クラレンスは、ベッシーは今すぐにでも舞台に立てる、と私に言いました。その当時でさえもです。もちろん、ベッシーはまだ子供でした」[9]。

1912年、クラレンスはストークス一座とチャタヌーガに帰ってきて、一座のマネージャー、ロニーとコーラ・フィッシャーによる妹のオーディションをお膳立てした。一座にはすでに人気歌手のマ・レイニーが在籍していたので、ベッシーは歌手というよりはむしろダンサーとして雇われた[8]。当時を知る人たちが語るところによれば、マ・レイニーはベッシーに歌唱法を教えることはなかったが、その一方おそらくステージ上での存在感を引き出すための一助を担った[10]。ベッシーは最終的にコーラスライン(en)で歌って踊るようになり、アトランタの「81」劇場を自身の本拠地とした。ベッシーは黒人経営の劇場所有者出演契約協会(T.O.B.A.)の巡業におけるショーでもパフォーマンスを披露し、そのアトラクションの目玉の1つとなったのだった。

経歴

スミスのポートレイト、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影、1936年

ベッシー・スミスはアトランタの「81」劇場において、1913年頃から自分自身の演し物を発展させ始めた。1920年までに、スミスは南部および東海岸沿いにおいて名声を確立していた。当時、歌手のメイミー・スミス(ベッシーとは無関係)によってオーケー・レコードで録音された「Crazy Blues」が10万枚以上売れた出来事は新たなマーケットの存在を指し示していた。レコード会社は自社の商品を黒人向けに販売しては来なかったが、上述のレコードが収めた成功は女性ブルース歌手を発掘するきっかけとなった。

この新たなマーケットから利益を得ようとして、スミスは1923年に自身のレコーディング・キャリアを開始した[11]。スミスは同年、それに先立つ何年も前から彼女のパフォーマンスを見てきたタレント・エージェントであるフランク・ウォーカー(英語版)を通して、コロムビア・レコードと契約した。スミスのコロムビアにおける最初のレコーディング・セッションは1923年2月15日に行われた。スタジオ・エンジニアを務めたのはダン・ホーンズビー(英語版)で、当時、南部における多くの音楽的才能を発掘しては録音していた人物であった。1923年の大半の期間、スミスのレコードはコロムビアのレギュラーAシリーズのラインナップとして発売された。同社が「レイス・レコード(英語版)」シリーズを創設した時、スミスの「Cemetery Blues」(1923年9月26日)が第1弾として発売された。スミスの最初のレコードの両面、「Downhearted Blues(英語版)」とその裏面の「Gulf Coast Blues」はどちらも大ヒット曲となった(作曲者の1人であるアルバータ・ハンター(英語版)による「Downhearted Blues」のより早期の録音はパラマウント・レコード(英語版)によってそれ以前に発売されていた[12])。

評判が上がるにつれ、スミスは劇場所有者出演契約協会(T.O.B.A.)の巡業において花形歌手となり、1920年代には、大看板スターとなるところまで上り詰めた[13]。冬の間、ハードスケジュールの劇場の仕事をこなし、年末までテントショーでパフォーマンスを披露して、スミスは彼女が生きた時代における最も高給取りの黒人エンターテイナーとなり、自身が所有する全長72フィート(約22メートル)の旅客車で巡業地の間を移動し始めた[14][8]。コロムビアの宣伝部はスミスに「ブルースの女王」というニックネームを付けたが、全国メディアはすぐにスミスの称号を「ブルースの女帝」に格上げした。スミスの音楽は独立不羈、恐れ知らず、そして性的自由を強調し、労働者階級の女性たちが社会から尊重されるために自らを押し殺して振る舞いを変えたりする必要は無いと暗に主張していた[15]。

スミスの成功にもかかわらず、スミス自身も彼女の音楽も全面的に受け入れられたわけではなかった。スミスはかつてブラック・スワン・レコード(英語版)(W・E・B・デュボイスが取締役会のメンバーだった)のオーディションを受けて落ちた。というのも、スミスは粗野過ぎるとみなされたからであり、唾を吐くために歌うのを中断したといわれている[15]。ブラック・スワン・レコードの幹部たちは、スミスが最も成功を収めたディーバとなった時、驚愕した。というのも、彼女のスタイルはメイミー・スミスより荒っぽく品がなかったからである[16]。スミスのファンたち——白人黒人を問わず——も、彼女を「荒っぽい」女性とみなしていた(すなわち、労働者階級の女性、あるいは「下層階級」の女性とさえみなしていた)。

スミスのポートレイト、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影、1936年

スミスは力強いコントラルトの声の持ち主だった[17]。その歌声の録音はレコーディングがまだアコースティック録音であった時代に行われた最初のセッションの時から上々の出来映えだった。電気録音の出現はスミスの歌声のパワーをより一層明白なものにした。スミスの最初の電気録音は「Cake Walking Babies [From Home]」という曲で、1925年5月5日に録音された[18]。スミスは新たなテクノロジーであるラジオ放送、それも分離政策を行っている南部(英語版)のラジオ局の放送からでさえも利益を引き出した。例えば、1923年10月に、テネシー州メンフィスの劇場で白人だけの聴衆を相手にコンサートを行なった後、スミスはメンフィスのラジオ局WMC(en)からレイトナイト・コンサートを開催し、リスナーの好評を博した[19]。ダニー・バーカー(英語版)やトミー・ドーシーのようなミュージシャンや作曲家はスミスが自らの聴衆を恍惚に導き、感動するにまで至らせる能力ゆえに彼女の存在感と歌い方を説教師のそれになぞらえた[20]。

スミスはコロムビアで160曲を録音し、伴奏はしばしば当時における最高のミュージシャンたちだった。とりわけ、ルイ・アームストロング、コールマン・ホーキンス、フレッチャー・ヘンダーソン、ジェイムズ・P・ジョンソン(英語版)、ジョー・スミス、そしてチャーリー・グリーン(英語版)の名が挙げられる。スミスによる録音曲——例えば、1927年の「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」など——の多くはその発売年のベストセラーのリストにすぐさま仲間入りした[21][22]。

ブロードウェイ

スミスのキャリアは、レコード会社をほとんど倒産に追い込んだ世界恐慌と、ヴォードヴィルの終焉を招く結果となったトーキーの出現とによって突然断ち切られた。しかしながらスミスは舞台に立つことをやめなかった。手の込んだヴォードヴィルショーの時代は終わった。しかしスミスは巡業を続け、時折、クラブで歌った。1929年、スミスはブロードウェイ・ミュージカル「Pansy」に出演した。この芝居は大失敗だった。主だった批評家たちは同芝居で唯一価値のあるのはベッシー・スミスだけだと評した。

映画

映画「セントルイス・ブルース」のポスター
「セントルイス・ブルース」、スミスの唯一の映画、1929年

1929年11月、スミスは作曲家W・C・ハンディの同名曲に基づいた、2巻ものの短編映画「セントルイス・ブルース(en)」で主役を演じ、唯一の映画出演を果たした。ダドリー・マーフィー(英語版)が監督し、クイーンズ区アストリアで撮影された同映画では、スミスは、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の楽員たち、ホール・ジョンソン合唱団、ピアニストのジェイムズ・P・ジョンソン、およびストリング・セクションによる伴奏で、タイトルソングを歌う。それは従来のスミスの録音のいずれの演奏環境ともまったく違うものだった。

スウィング時代

1933年に、ジョン・ハモンド——ビリー・ホリデイを導きもした人物である——は、スミスにオーケー・レコード(1925年にコロムビア・レコードによって買収されていた)で4曲録音しないかと依頼した。ハモンドはスミスを半ば忘れ去られた状態で発見したと主張した。「フィラデルフィアのリッジ・アヴェニュー(英語版)にあるスピークイージーの女主人として働いていた」と言うのだ[23]。スミスはリッジ・アヴェニューにあるアーツ・カフェ(Art's Cafe)で働いていたが、女主人としてではなかったし、1936年の夏まで働いていたわけでもなかった。1933年に、スミスがオーケーで録音をした時、彼女はいまだに巡業に出ていた。ハモンドは記憶を都合の良いように変えてしまうことと、話にいわれのない尾ひれを付け加えることで有名だった[24]。

スミスは、彼女の最後の録音となった、これらオーケー盤に収録された曲のそれぞれに対して、37ドル50セントの非印税報酬を支払われた。1933年11月24日に録音されたこれらの曲は、スミスが自らのブルース歌手としての芸術的手腕をスウィング時代(英語版)にふさわしいものへと移行させるに際して、彼女自身がパフォーマンスをどのように変化させたかを示す手がかりとなる。この録音における比較的モダーンな伴奏は注目に値する。バンドには、トロンボーン奏者のジャック・ティーガーデン、トランペット奏者のフランキー・ニュートン、テナーサックス奏者のチュー・ベリー(英語版)、ピアニストのバック・ワシントン(英語版)、ギタリストのボビー・ジョンソン、そしてベーシストのビリー・テイラー(英語版)などといったスウィング時代のミュージシャンが参加していた。隣接するスタジオでたまたまエセル・ウォーターズ(英語版)と一緒にレコーディングしていたベニー・グッドマンが立ち寄り、録音曲中にかろうじて声を聞き取ることができる[25]。ハモンドは、スミスを古いブルース・サウンドに立ち戻らせる方を好んだため、録音の結果については全面的に気に入っていたわけではなかった。どちらもウェズリー・ウィルソン(英語版)作曲である「Take Me for a Buggy Ride」と「Gimme a Pigfoot(英語版)」の2曲はスミスの録音曲中で最も人気を得たもののうちに入った[6]。

死

スミスの死亡診断書

1937年9月26日に、スミスはテネシー州メンフィスとミシシッピ州クラークスデール間の国道61号線(英語版)で自動車事故により重体となった[8]。運転していたスミスの恋人、リチャード・モーガンは前を低速走行していたトラックの速度について判断ミスをした。現場に残されたタイヤのスリップ痕(英語版)からは、モーガンはトラックの左側に回り込んで衝突を避けようとしたが、避け切れず、高速走行のまま側面からトラックの後部に衝突したことが示唆されていた。トラックのリアゲート(en)はスミスの古いパッカードの乗用車の木製屋根を削ぎ落とした。助手席にいたスミスはおそらく右腕か右肘を窓から出しており、衝撃を全面的に食らった。モーガンは無傷で脱出した。

現場に最初に逢着したのはメンフィスの外科医、ヒュー・スミス医師(ベッシーとは無関係)だった。1970年代初頭、ヒュー・スミスはこの時の経験をベッシーの伝記作家クリス・アルバートソン(英語版)に詳細に語った。これはベッシーの死を取り巻く出来事に関して最も信用の置ける目撃証言(英語版)である。スミス医師は、午前2時頃、現場に出くわして、明らかな重傷を負って道の真ん中に横たわっていたベッシーを診察した。同医師はベッシーはおよそ半パイント(240ミリリットル)の血液を失血したと見積もった。そしてすぐに重度の外傷に気がついた。ベッシーの右腕は肘のところでほとんど完全に切断されていたのだ[26]。

スミス医師はベッシーの死は上述の負傷だけで引き起こされたものではないと言明した。光が乏しかったとはいえ、頭部には軽度の外傷が幾つか認められただけだった。同医師はベッシーの死の原因を彼女の身体右側全体への広範囲に亘る激しい圧迫損傷に帰した。これは側面からのこするような(英語版)衝突だったことと首尾一貫していた[27]。同医師の釣り仲間、ヘンリー・ブロートンが手伝ってベッシーを路肩へ移動させた。同医師はベッシーの腕の負傷に清潔なハンカチを使って包帯をし、ブロートンに頼んで、道路から500フィート(150メートル)ほど離れた人家まで行って救急車を呼んでくれるよう頼んだ。およそ25分後、ブロートンが戻って来た時には、ベッシーは循環性ショックに陥っていた。

救急車到着の気配も無いまま時間が過ぎて行った。そのためスミス医師は彼の自家用車でベッシーをクラークスデールへと運ぶことを提案した。車の後部座席をほぼ片付け終えたところの同医師とブロートンの耳に高速で近づいて来る自動車の音が聞こえた。同医師はヘッドライトを点滅させて警告したが、やって来る対向車は速度を落とし損ねて、フルスピードで同医師の車に衝突した。その結果、同医師の車は無制御状態でベッシーの横転したパッカードに突っ込むと、完全に破壊した。対向車は同医師の車を弾き飛ばして右の側溝に落下させると、間一髪でブロートンとベッシー・スミスにぶつかるのを免れた[28]。

疾走してきた車に乗った若いカップルは生命を脅かすような怪我は負っていなかった。2台の救急車がその時クラークスデールから到着した——1台は黒人専用病院からのもので、ブロートンが呼んだものだった。2台目は白人専用病院からのもので、衝突事故の犠牲者を目視してはいなかったトラック運転手からの通報でやって来たものだった。ベッシーはクラークスデールにあったG・T・トマス・アフリカ系アメリカ人病院(英語版)へ運ばれ、そこでベッシーの右腕は手術で切断された。ベッシー・スミスは意識を回復することなく、その朝死んだ。

ベッシーの死後、幾度となく繰り返されたが、現在は疑問視されている物語が浮上した。ベッシーが死んだのはクラークスデールの白人専用病院が受け入れを拒んだからというものである。ジャズ評論家でプロデューサーでもあるジョン・ハモンドがダウン・ビート誌1937年11月号に書いた記事において語られた。ベッシーの死を巡る状況とハモンドによって報じられた噂に基づいてエドワード・オールビーの1959年の一幕ものの芝居「ベッシー・スミスの死(英語版)」が書かれた[8][29]。「ベッシー・スミスを乗せた救急車が白人専用病院へ行くなんてことはあり得ることじゃないよ。絶対にあり得ない。」とヒュー・スミスはアルバートソンに語った。「深南部の綿花地帯の奥深くじゃ、どんな救急車運転手だろうと白人のドライバーだろうと、有色人種を白人のための病院で降ろそうなどとは考えさえしなかっただろう」[30]。

スミスの葬儀は1週間ちょっと後の、1937年10月4日にフィラデルフィアで執り行われた。最初、スミスの遺体はアップシャー葬儀場(en)に安置された。スミス死去の噂がフィラデルフィアの黒人コミュニティに広がったので、遺体は約1万人の弔問客に対応できるO・V・カトー(英語版)・エルクス・ロッジ(英語版)に移されねばならなかった。そこで、葬儀の前日である10月3日日曜日、約1万人の弔問参列者はスミスの棺の前を通ってお別れをした[31]。当時の新聞はスミスの葬儀にはおよそ7000人の人びとが参列したと報じたが、すぐ近くのシャロン・ヒル(英語版)にある、マウント・ローン墓地での埋葬に立ち会ったのは遙かに少ない人数の会葬者だった[32]。ジャック・ジーは仲違いして別居した妻ベッシーのために墓石を購入することには何がなんでも反対して、そのために集められた資金を1、2回着服した[33]。

墓標の無い墓

スミスの墓には墓標が無かったが、1970年8月7日に墓碑が建立された。歌手のジャニス・ジョプリンと子供時代、スミスの家で家事をしていたワニータ・グリーンが資金を出し合った[34]。ドーリィ・プレヴィン(英語版)は自らのアルバム『Mythical Kings and Iguanas』のためにジョプリンとベッシーの墓石についての歌「Stone for Bessie Smith」を書いた。ベッシーが運ばれたアフリカ系アメリカ人病院(現在はリヴァーサイド・ホテル(英語版)となっている)はミシシッピ・ブルース・トレイルにおいて4番目の歴史的標識が捧げられた場所となった[35]。

スミスの墓

私生活

1923年、フィラデルフィアに住んでいた時、スミスは警備員だったジャック・ジーと出合い[8]、ちょうど彼女の最初のレコードが発売された同年6月7日に結婚した。結婚後、スミスは当時、最も高給取りの黒人エンターテイナーとなり、時には40人もの座員を呼び物にした自身のショーの座長を務め、スミス自身による注文仕立ての鉄道旅客車で巡業を行なった[8]。

1920年代から1930年代にかけて、アフリカ系アメリカ人はホテルやその他寄り集まる場所に関して選択肢が限られていた。この必要性を満たすために、アフリカ系アメリカ人によって、アフリカ系アメリカ人のために、バフェイ・フラット(ビュッフェ・フラット)と呼ばれる隠れ家的な場所が作られた。バフェイ・フラットは高価な食べ物、飲み放題の酒、そしてセックス・ショー(詳細はen:Prostitution in Harlem Renaissanceも参照)を呼び物にした[36]。スミスはコンサートを終えると友人たちを伴ってしばしばバフェイ・フラットを訪れた。友人たちの中には、バフェイ・フラットを安全な隠れ家として見ていたドラァグクイーンたちやゲイの男性たちなどもいた。スミスの友人たちが伝えたところによると、たくさんの人びとがバフェイでのセックス・ショーを観るために高い金を惜しまず払ったと言う[36]。また、スミスは男女問わず相手にして性行為に及んだ、とも伝えられている。その中にはスミスがジャック・ジーと結婚する前から、また結婚してからも、長年の友人で恋人でもあったルビー・ウォーカーもいた[36]。

スミスとジーとの結婚は、スミスの数知れぬ女性の愛人など[36]、双方における不貞行為のせいで、嵐が吹くが如きだった。ジーはスミスが自らのキャリアにおいて稼いだ金額の大きさには感心していたが、ショービジネスの生活にはどうしても馴染めなかったし、まして彼女のバイセクシュアリティにおいてをや、という次第であった。ジーは定期的に姿をくらませることがあった。そしてスミスはそれを、彼女の音楽監督フレッド・ロングショーなどと情事に耽る機会として利用したものだった[36]。このことが発覚した時、ジーはスミスに肉体的暴力を振るったが、彼女はすぐさま態勢を立て直し、ジーをブチのめし始めた。夫の浮気の1つが発覚した時には、スミスはそのままジーのピストルを手に取り、夫に向かって発砲した[36]。1929年に、夫が別の歌手、ガートルード・ソーンダーズ(英語版)と関係を持っていると知った時、スミスはジーとの関係を終わりにしたが、2人のどちらも離婚を求めようとはしなかった。

スミスはのちに、古くからの友人で、ライオネル・ハンプトンのおじでもあった、リチャード・モーガンと事実婚に入った。スミスは残りの生をモーガンと共にして死んだ[6]。

音楽の主題

スミスのポートレイト、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影、1936年

「Jail House Blues」、「Work House Blues」、「Prison Blues」、「Sing Sing Prison Blues」、そして「Send Me to the 'Lectric Chair」といった歌は、チェインギャング(英語版)(1本の鎖に繋がれ強制労働などさせられる囚人たち)、囚人貸出制度、そして死刑といった当時の社会問題を批判的に取り扱った。「Poor Man's Blues」や「Washwoman's Blues」は学者からアフリカ系アメリカ人のプロテストソングの先駆けとみなされている[37]。

スミスの音楽を聴き、その歌詞を研究して明らかになることは、スミスはアフリカ系アメリカ人労働者階級の内なるサブカルチャー(下位文化)を強調し、その媒介者としての役目を務めたということである。加えて、スミスは貧困、同じ人種間での対立、そして女性のセクシュアリティ(英語版)といった社会問題についての論評を自らの歌の歌詞に組み込んだ。スミスの歌詞の率直さと公の場での振る舞いはアフリカ系アメリカ人女性に求められる適切な表現および振る舞いとして広く受け入れられることはなかった。それゆえ、スミスの音楽はアフリカ系アメリカ人の経験を正確に表象したものというよりはむしろ、不快なものもしくは品位を欠いたものであるとしばしば決め付けられたのだった。

スミスは音楽を通じて、労働者階級の女性たちが日常生活でのストレスや不満に対処する手段として、酒を飲んだり、どんちゃん騒ぎをしたり、または性的欲求を満たしたりする権利を堂々と受け入れるように励まし、それによってエリート主義的な規範に対する異議申し立てを行なった。スミスは家庭第一主義(英語版)、信心深さ、そして同調性を超えてアフリカ系アメリカ人女性であることについてのより幅広いヴィジョンの唱道者として振る舞った。スミスは独立不羈、大胆不敵さ、そして性的自由を通じてエンパワーメント(自己主導権)と幸福を得ようとしたのだった[15]。スミスは多くのマイノリティ集団の代弁者であり、彼女が生きた時代において最も才能に恵まれたブルース歌手の1人であったが、スミスの音楽における主題は当時においては受け入れ難いものであった(しかしながら、スミスの死から数十年経って、それら主題はポピュラー音楽においてより広範に表現されている)。それゆえ多くの人びとがスミスの音楽は真面目に評価するには値しないものだと信ずるに至ったのだった。

スミスの歌の歌詞は多くの場合、自身のセクシュアリティを描写したものであったと推測される。マ・レイニーによって歌われた「Prove It on Me」において、レイニーは名高くも次のように歌った。「ゆうべは大勢のダチと付き合った。ダチって言ってもみんな女だったはずさ、なぜってあたしは男は好かないんだ。奴らはあたしがそれをやってるって言ったけど、あたしをその場で取り押さえたのは誰もいない。そうだ、証拠があるって言うんなら出してみな。("Went out last night with a crowd of my friends. They must've been women, 'cause I don't like no mens. they say I do it, ain't nobody caught me. Sure got to prove it on me.")」。アフリカ系アメリカ人のクィア理論家やクィア・アクティヴィストたちはマ・レイニーやベッシー・スミスをしばしば20世紀初期のブルース時代における「ジェンダーベンディング(英語版)(性別に関する伝統的な規範にとらわれず自らを表現すること)」のロールモデル(英語版)として見ている[38]。

受賞歴と栄誉

グラミーの殿堂

スミスの録音3曲がグラミーの殿堂入りを果たした。グラミーの殿堂とは、少なくとも録音から25年以上経ち、「芸術的意義と歴史的価値」を有する録音曲の栄誉を称えるために1973年に創設された賞である。

さらに見る ベッシー・スミス: グラミーの殿堂, 録音年 ...
ベッシー・スミス: グラミーの殿堂[39]
録音年 曲名 ジャンル レーベル 受賞年度
1923 "Downhearted Blues" ブルース(シングル) コロムビア 2006
1925 「セントルイス・ブルース」 ジャズ(シングル) コロムビア 1993
1928 "Empty Bed Blues" ブルース(シングル) コロムビア 1983
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全米録音資料登録簿

2002年、スミスの録音曲「Downhearted Blues」がアメリカ議会図書館の全米録音資料保存委員会(英語版)によって全米録音資料登録簿に登録された[40]。同委員会は年に一度「文化的、歴史的、または美学的に重要な」録音をセレクトしている[41]。

「Downhearted Blues」は2001年にアメリカレコード協会と全米芸術基金によって「世紀の歌」のリストに登録された。また、ロックンロールを形成した500曲のうちの1曲としてロックの殿堂入りを果たした[42]。

表彰

さらに見る 選出年, 部門 ...
選出年 部門 注記
2008 ネスヒ・アーティガン(英語版)・ジャズの殿堂 ジャズ・アット・リンカーン・センター、ニューヨーク
1989 グラミー生涯業績賞
1989 ロックの殿堂 「初期影響源」
1981 ビッグバンド・ジャズの殿堂(英語版)
1980 ブルースの殿堂
1984 アメリカ女性殿堂[43]
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アメリカ合衆国郵便切手

アメリカ合衆国郵便公社は1994年にスミスの栄誉を称えて29セント記念郵便切手を発売した。

その他

2019年に、タイム誌は1920年に始まるその年の女性を祝福するカバー(表紙)を新たに89枚作成した。スミスは1923年の表紙に選ばれた[44]。

2023年、ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な200人のシンガーのリストにおいてスミスは第33位にランキングされた[45]。

ポップ・カルチャーにおいて

J・D・サリンジャーによる1948年の短編小説「ブルー・メロディ(英語版)」とエドワード・オールビーによる1959年の戯曲「ベッシー・スミスの死」はスミスの生涯と死に基づいているが、どちらの作品にも芸術的効果を高めるための事実の歪曲や逸脱が用いられていた。たとえば、オールビーの戯曲はスミスが死に至るまでの、スミスの医療処置をめぐる状況、あるいは医療処置が施されなかったという状況を歪曲し、スミスの死の原因を人種差別主義者の医療従事者たちのせいにしている[46]。サリンジャーとオールビーの両方によって語られたスミスの死を巡る状況は、後日、スミスの伝記作家によってその誤りを暴かれるまで、広範に亘って流布していた[47]。

ダイナ・ワシントンとラヴァーン・ベイカー(英語版)はそれぞれ1958年にスミスへのトリビュート・アルバムを発売した。1965年にエクソダス・レコード(英語版)から発売された『Hoyt Axton Sings Bessie Smith』はフォーク歌手のホイト・アクストンによるもう1枚のスミスの歌を収録したアルバムである。

ザ・バンドの曲「ベッシー・スミス」の初出は、1975年発売の『地下室』であるが、録音されたのは1970年から1971年の間と推測される。ミュージシャンのアーティ・トラウム(英語版)は1969年にウッドストックで、同曲の共作者であるリック・ダンコとばったり出合い、ダンコがその場で曲の一節「Going Down The Road to See Bessie」を歌ったのを覚えている[48]。

スミスの曲「See If I'll Care」は1993年に発売された、インディアン・サマー(en)のセルフタイトルEP全体の至るところでサンプリングされていた[49]。同EPのリリースは批評家から好評をもって迎えられ、サンプリングが曲の他の部分で聴かれるポスト・ハードコアとエモというスタイルの対比を際立たせる一助となっていることが注目された[50]。2019年にインディアン・サマーのディスコグラフィが再リリースされ高く評価された時、スミスと上記の曲「See If I'll Care」もまた人気の高まりを見せた。

スミスは1997年にジャッキー・ケイ(英語版)によって書かれた伝記の題材となった。同書は2021年に再版され、BBC Radio 4の番組「今週の本(英語版)(Book of the Week)」で取り上げられ、著者自身によって縮約版が朗読された[51][52]。

2015年のHBO制作のテレビ映画『ベッシー(英語版)』では、クィーン・ラティファがスミスを演じ、スミスの生涯とセクシュアリティにおける苦闘と変遷に焦点が当てられている。同映画は批評家から好評をもって迎えられ、プライムタイム・クリエイティブ・アート・エミー賞4部門で受賞し、それには作品賞(TV映画)も含まれた。

テレビ医療ドラマ『ニュー・アムステルダム 医師たちのカルテ』シーズン2、エピソード16(英語版)において、登場人物のレイノルズはベッシー・スミスの事故とスミスが当初白人専用病院に運ばれ、医療を拒否されたという都市伝説が彼と彼自身の医療プランを鼓舞するものとなったと述べる。同番組はスミスの墓には墓標がなかったという事実を正しく提示し、ブルースの世界におけるスミスの偉大な功績について言及した。

毎年6月、チャタヌーガのベッシー・スミス文化センターは同市のリヴァーベンド音楽祭(英語版)の一環であるベッシー・スミス・ストラットのスポンサーを務めてきた[53][54]。ベッシー・スミス・ストラットは2018年で幕を下ろし、2019年からは同センター主催による、ビッグ・ナイン・ルーツ・フェスティバルとして生まれ変わった[55][56]。現在は名称を変更し、ベッシー・スミス・ビッグ・ナイン音楽祭として継続されている[57]。

拾遺

  • スミスは「建造物を揺るがす」ほどの圧倒的な声量と芳醇な情感を保つ歌唱力で聴衆を魅了し[要出典]、偉大なブルース・シンガーとして現代でもその人気と名声は語り継がれている。
  • 近代アメリカのポピュラー音楽史上、スミスの存在は後に活動する多くの歌手たちへジャンルを問わず幅広く巨大な影響を与えていた。スミスを尊敬したという歌手にビリー・ホリデイ、マヘリア・ジャクソン、ジャニス・ジョプリン、ノラ・ジョーンズなどが挙げられる[58][59]。
  • 作品では「セントルイス・ブルース」、「ダウンハーテッド・ブルース」、「どん底にあっても人は気づかず("Nobody Knows You When You're Down and Out" )」などの録音が有名である。「セントルイス・ブルース」では、ルイ・アームストロングがコルネットの伴奏を務めている。 スミスのレコーディング・キャリアにおける最高の瞬間の1つは間違いなくアームストロングとの掛け合いだった。どんな曲でも自家薬籠中のものにしてしまうスミスの天才と当時唯一釣り合いのとれたミュージシャンはアームストロングだけであった[60]。
  • スミスは作詞および作曲も行ない、2006年7月現在、日本音楽著作権協会 (JASRAC) には35作品がPD状態として確認、登録されている。[要出典]

デジタル・リマスタリング

スミスのオリジナル・アナログ録音の大部分における技術的欠陥(とりわけ、スミスの声のピッチを明らかに上げたり、或いは下げたりしている、さまざまな録音速度)はスミスのフレージング、解釈、そして歌い方の「陰影」を正しく伝えていなかった。スミスの演唱の調は明らかに変えられてしまっていた(時によって、最大で半音の幅で調が上がったり、下がったりしていた)。マスター録音盤のうち幾つかの「センターホール」はマスター盤の正確な中心に位置していなかった。それゆえ、商業的にリリースされたレコード盤がセンタースピンドルの周りを回転する時、大きな幅で、トーン、ピッチ、調、そしてフレージングにおけるヴァリエーションが生じる結果となった。

以上のような歴史的限界があるにせよ、1970年代に発売されたLPのコンプリート盤は著しい音質の改善を見せ、さらにデジタル・リマスター盤においては劇的に音質が改善している。批評家のなかには、アメリカのコロムビア・レコードによって発売されたCDは、その後、フロッグ・レコード(英語版)のために故ジョン・R・T・デイヴィス(英語版)によってリマスタリングされたものに比べて、やや音質において劣ると考える者もいる[61]。

ディスコグラフィ

音楽キャリアの全期間(1923年 - 1933年)を通じて、ベッシー・スミスはコロムビア・レコードで156トラックを録音し、子会社のオーケーで4トラックを録音した。このため、スミスの全音楽作品をまとめて入手するのが極めて容易となり、最初は1970年代に次に挙げる5枚の2枚組アルバムとして発売された。『The World's Greatest Blues Singer』(1970年)、『Any Woman's Blues』(1970年)、『Empty Bed Blues』(1971年)、『The Empress』(1971年)、『Nobody's Blues But Mine』(1972年)。これらの録音はのちの1990年代に『The Complete Recordings (Vol. 1-5)』のタイトルでLPおよびCDのフォーマットで再発売された。

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No. タイトル 発売年 ローリングストーン・レコードガイドによる評価[60]
Col. CG-30126Any Woman's Blues1970★★★★★
Col. CG-30450Empty Bed Blues1971★★★★★
Col. CG-30093Nobody's Blues But Mine1972★★★★★
Col. CG-30818The Emperss1971★★★★★
Col. CG-33The World's Greatest Blues Singer1970★★★★★
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  • 1923-24年 – The Complete Recordings Vol. 1(LP2枚組またはCD)(コロムビア/レガシー、1991年)
  • 1925-25年 – The Complete Recordings Vol. 2(LP2枚組またはCD)(コロムビア/レガシー、1991年)
  • 1925-28年 – The Complete Recordings Vol. 3(LP2枚組またはCD)(コロムビア/レガシー、1992年)
  • 1928-31年 – The Complete Recordings Vol. 4(LP2枚組またはCD)(コロムビア/レガシー、1993年)
  • 1932-33年 – The Complete Recordings Vol. 5(LP2枚組またはCD)(コロムビア/レガシー、1996年)
  • 1923-33年 – The Complete Recordings Vols. 1-8(CD8枚組)(フロッグ、2001年)

SP盤組みアルバムとLP盤アルバムのオリジナル

  • Bessie Smith Album(コロムビア、1938年)6枚組SP盤(78回転)アルバム
  • Empress of the Blues(コロムビア、1940年)4枚組SP盤(78回転)アルバム
  • Empress of the Blues, Vol. II(コロムビア、1947年)4枚組SP盤(78回転)アルバム
  • The Bessie Smith Story, in 4 Volumes(コロムビア、1951年)4枚組LP盤(33回転)アルバム

アンソロジー

  • 1923-33年 - The Essential Bessie Smith(CD2枚組)(コロムビア/レガシー、1997年)
  • 1923-33年 - Empress of the Blues(Giants Of Jazz、1985年)
  • 1923-33年 - The Collection(コロムビア、1989年)
  • 1928-33年 - Blue Spirit Blues(Drive、1989年)

SP盤(78回転)シングル — コロムビア・レコード

A-3844 "Gulf Coast Blues" 1923-02-16
A-3844 "Down Hearted Blues" 1923-02-16
A-3877 "Aggravatin' Papa" 1923-04-11
A-3877 "Beale Street Mama" 1923-04-11
A-3888 "Baby Won't You Please Come Home" 1923-04-11
A-3888 "Oh Daddy Blues" 1923-04-11
A-3898 "Keeps on A Rainin All Time" 1923-02-16
A-3898 "Tain't Nobody's Bizness if I Do" 1923-04-26
A-3900 "Outside of That" 1923-04-30
A-3900 "Mama's Got the Blues" 1923-04-30
A-3936 "Bleeding Hearted Blues" 1923-06-14
A-3936 "Midnight Blues" 1923-06-15
A-3939 "Yodeling Blues" 1923-06-14
A-3939 "Lady Luck Blues" 1923-06-14
A-3942 "If You Don't, I Know Who Will" 1923-06-21
A-3942 "Nobody in Town Can Bake a Jelly Roll Like My Man" 1923-06-22
A-4001 "Jail House Blues" 1923-09-21
A-4001 "Graveyard Dream Blues" 1923-09-26
13000 D "Whoa, Tillie, Take Your Time" 1923-10-24
13000 D "My Sweetie Went Away" 1923-10-24
13001 D "Cemetery Blues" 1923-09-26
13001 D "Any Woman's Blues" 1923-10-16
13005 D "St Louis Gal" 1923-09-24
13005 D "Sam Jones' Blues" 1923-09-24
13007 D "I'm Going Back to My Used to Be" 1923-10-04
13007 D "Far Away Blues" 1923-10-04
14000 D "Mistreatin' Daddy" 1923-12-04
14000 D "Chicago Bound Blues" 1923-12-04
14005 D "Frosty Mornin' Blues" 1924-01-08
14005 D "Easy Come Easy Go Blues" 1924-01-10
14010 D "Eavesdropper Blues" 1924-01-09
14010 D "Haunted House Blues" 1924-01-09
14018 D "Boweavil Blues" 1924-04-07
14018 D "Moonshine Blues" 1924-04-09
14020 D "Sorrowful Blues" 1924-04-04
14020 D "Rocking Chair Blues" 1924-04-04
14023 D "Frankie Blues" 1924-04-08
14023 D "Hateful Blues" 1924-04-08
14025 D "Pinchbacks, Take 'em Away" 1924-04-04
14025 D "Ticket Agent Easy Your Window Down" 1924-04-05
14031 D "Louisiana Low Down Blues" 1924-07-22
14031 D "Mountain Top Blues" 1924-07-22
14032 D "House Rent Blues" 1924-07-23
14032 D "Work House Blues" 1924-07-23
14037 D "Rainy Weather Blues" 1924-08-08
14037 D "Salt Water Blues" 1924-07-31
14042 D "Bye Bye Blues" 1924-09-26
14042 D "Weeping Willow Blues" 1924-09-26
14051 D "Dying Gambler's Blues" 1924-12-06
14051 D "Sing Sing Prison Blues" 1924-12-06
14052 D "Follow the Deal on Down" 1924-12-04
14052 D "Sinful Blues" 1924-11-11
14056 D "Reckless Blues" 1925-01-14
14056 D "Sobbin' Hearted Blues" 1925-01-14
14060 D "Love Me Daddy Blues" 1924-12-12
14060 D "Woman's Trouble Blues" 1924-12-12
14064 D "Cold in Hand Blues" 1925-01-14
14064 D "St Louis Blues" 1925-01-14
14075 D "Yellow Dog Blues" 1925-05-06
14075 D "Soft Pedal Blues" 1925-05-14
14079 D "Dixie Flyer Blues" 1925-05-15
14079 D "You've Been a Good Ole Wagon" 1925-01-14
14083 D "Careless Love" 1925-05-26
14083 D "He's Gone Blues" 1925-06-23
14090 D "I Ain't Goin' to Play No Second Fiddle" 1925-05-27
14090 D "Nashville Women's Blues" 1925-05-27
14095 D "I Ain't Got Nobody" 1925-08-19
14095 D "J.C.Holmes Blues" 1925-05-27
14098 D "My Man Blues" 1925-09-01
14098 D "Nobody's Blues but Mine" 1925-08-19
14109 D "Florida Bound Blues" 1925-11-17
14109 D "New Gulf Coast Blues" 1925-11-17
14115 D "I've Been Mistreated and I Don't Like It" 1925-11-18
14115 D "Red Mountain Blues" 1925-11-20
14123 D "Lonesome Desert Blues" 1925-12-09
14123 D "Golden Rule Blues" 1925-11-20
14129 D "What's the Matter Now?" 1926-03-05
14129 D "I Want Every Bit of It" 1926-03-05
14133 D "Jazzbo Brown from Memphis Town" 1926-03-18
14133 D "Squeeze Me" 1926-03-05
14137 D "Hard Driving Papa" 1926-05-40
14137 D "Money Blues" 1926-05-04
14147 D "Baby Doll" 1926-05-04
14147 D "Them Has Been Blues" 1926-03-05
14158 D "Lost Your Head Blues" 1926-05-04
14158 D "Gin House Blues" 1926-03-18
14172 D "One and Two Blues" 1926-10-26
14172 D "Honey Man Blues" 1926-10-25
14179 D "Hard Time Blues" 1926-10-25
14179 D "Young Woman's Blues" 1926-10-26
14195 D "Back Water Blues" 1927-02-17
14195 D "Preachin' the Blues" 1927-02-17
14197 D "Muddy Water" 1927-03-02
14197 D "After You've Gone" 1927-03-02
14209 D "Send Me to the 'Lectric Chair" 1927-03-03
14209 D "Them's Graveyard Words" 1927-03-03
14219 D "There'll Be a Hot Time in Old Town Tonight" 1927-03-02
14219 D "Alexander's Ragtime Band" 1927-03-02
14232 D "Trombone Cholly" 1927-03-03
14232 D "Lock and Key Blues" 1927-04-01
14250 D "A Good Man Is Hard to Find" 1927-09-27
14250 D "Mean Old Bed Bug Blues" 1927-09-27
14260 D "Sweet Mistreater" 1927-04-01
14260 D "Homeless Blues" 1927-09-28
14273 D "Dyin' by The Hour" 1927-10-27
14273 D "Foolish Man Blues" 1927-10-27
14292 D "I Used to Be Your Sweet Mama" 1928-02-09
14292 D "Thinking Blues" 1928-02-09
14304 D "I'd Rather be Dead and Buried in my Grave" 1928-06-16
14304 D "Pickpocket Blues" 1928-02-09
14312 D "Empty Bed Blues Pt1" 1928-03-20
14312 D "Empty Bed Blues Pt2" 1928-03-20
14324 D "Put It Right Here" 1928-03-20
14324 D "Spider Man Blues" 1928-03-19
14338 D "It Won't Be You" 1928-02-12
14338 D "Standin' in The Rain Blues" 1928-02-12
14354 D "Devil's Gonna Git You" 1928-08-24
14354 D "Yes Indeed He Do" 1928-08-24
14375 D "Washwoman's Blues" 1928-08-24
14375 D "Please Help Me Get Him Off My Mind" 1928-08-24
14384 D "Me and My Gin" 1928-08-25
14384 D "Slow and Easy Man" 1928-08-24
14399 D "Poor Man's Blues" 1928-08-24
14399 D "You Ought to be Ashamed" 1928-08-24
14427 D "You've Got to Give Me Some" 1929-05-08
14427 D "I'm Wild About that Thing" 1929-05-08
14435 D "My Kitchen Man" 1929-05-08
14435 D "I've Got What It Takes" 1929-05-15
14451 D "Nobody Knows You When You're Down and Out" 1929-05-15
14451 D "Take It Right Back" 1929-07-25
14464 D "It Makes My Love Come Down" 1929-08-20
14464 D "He's Got Me Goin'" 1929-08-20
14476 D "Dirty No Gooder's Blues" 1929-10-01
14476 D "Wasted Life Blues" 1929-10-01
14487 D "Don't Cry Baby" 1929-10-11
14487 D "You Don't Understand" 1929-10-11
14516 D "New Orleans Hop Scop Blues" 1930-03-27
14516 D "Keep It to Yourself" 1930-03-27
14527 D "Blue Spirit Blues" 1929-10-11
14527 D "Worn out Papa Blues" 1929-10-11
14538 D "Moan Mourners" 1930-06-09
14538 D "On Revival Day" 1930-06-09
14554 D "Hustlin' Dan" 1930-07-22
14554 D "Black Mountain Blues" 1930-07-22
14569 D "Hot Springs Blues" 1927-03-03
14569 D "Lookin' for My Man Blues" 1927-09-28
14611 D "In the House Blues" 1931-06-11
14611 D "Blue Blues" 1931-06-11
14634 D "Safety Mama" 1931-11-20
14634 D "Need a Little Sugar in My Bowl" 1931-11-20
14663 D "Long Old Road" 1931-06-11
14663 D "Shipwreck Blues" 1931-06-11

SP盤(78回転)シングル — オーケー・レコード

8945 "I'm Down in the Dumps" 1933-11-24
8945 "Do Your Duty" 1933-11-24
8949 "Take Me for a Buggy Ride" 1933-11-24
8949 "Gimme a Pigfoot (and a Bottle of Beer)" 1933-11-24

ヒット・レコード

アメリカ合衆国では、1936年まで公式な国内レコードチャートは存在しなかった。全米チャートの順位は音楽史家のジョエル・ホイットバーンによって遡及的に打ち立てられたものである。

さらに見る 年, シングル ...
年 シングル 全米
ポップ
[62][注 2]
1923 "Downhearted Blues" 1
"Gulf Coast Blues" 5
"Aggravatin' Papa" 12
「家に帰ってくれないか?」 6
"T'ain't Nobody's Biz-Ness if I Do" 9
1925 「セントルイス・ブルース」 3
"Careless Love Blues" 5
"I Ain't Gonna Play No Second Fiddle" 8
1926 「アイ・エイント・ガット・ノーバディ」 8
"Lost Your Head Blues" 5
1927 「アフター・ユーヴ・ゴーン」 7
「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」 17
1928 "A Good Man Is Hard to Find" 13
"Empty Bed Blues" 20
1929 "Nobody Knows You When You're Down and Out" 15
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注記

  1. スミスの生年月日は確定的なものではなく、それを裏付ける明白な資料は存在しない。Wikipedia英語版では、スミスの生年月日を1892年4月15日としているが、これも確定的なものではなく、どちらも同程度に可能性のあるものと考えるべきである。
  2. ジョエル・ホイットバーンによる1940年代より前のチャート順位を作成する方法論は以前から批判されており[63]、ここにリストされたヒット曲の順位は決定的なものと捉えるべきではない。

脚注

参考文献

外部リンク

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