フランスのアナキズム

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フランスのアナキストたち

フランスのアナキズムAnarchism in France)は、思想家ピエール・ジョゼフ・プルードンにその起源を遡ることができる。プルードンは復古王政の時代に育ち、初めて自らをアナキストと称した人物である。フランスのアナキストは、スペイン内戦において国際旅団の義勇兵として戦った。ジャーナリストのブライアン・ドハティによれば、「アナキスト運動の多くの出版物を購読していた人々の数は、フランスだけで数万人にのぼった」[1]

第二共和政からジュラ連合まで

シルヴァン・マレシャル

近代アナキスト運動の起源はフランス革命の出来事にある[2]。歴史家トーマス・カーライルはこの革命を「腐敗しきった権威に対する、解放されたアナーキーの公然たる暴力的反乱と勝利」と特徴づけた[3]バスティーユ襲撃の直後、フランスのコミューンは地方の自治システムへと自らを組織し始め、国家からの独立を維持し、連邦主義の原則を通じてコミューン間の結束を組織した。直接民主主義は各コミューンの地区で実施され、市民は代表を必要とせずに事項を決定するために総会に集まった。憲法制定国民議会がコミューンの統治に関する法律を可決しようとしたとき、各地区は自分たちの承認なしに制定されたとして即座にこれを拒否し、その結果、この計画は提案者によって放棄された[4]

特に、パリ・コミューンサン・キュロットジロンド派によって「アナキスト」として非難された[5]。ジロンド派のジャック・ピエール・ブリッソーは、「アナキスト」の絶滅の必要性について長々と語った。このグループは国民公会内でいかなる政治的派閥も形成していなかったが、革命の積極的な参加者であり、 新興ブルジョアジーの率直な反対者であった[6]アンラジェはサン・キュロットの擁護者の一人であり、フランスを直接民主的な「コミューンのコミューン」へと変革することを主張する原始社会主義の一形態を表明した。この呼びかけは後に19世紀のフランスのアナキスト運動に引き継がれた。アンラジェはブルジョアジーと国民公会の代議制構成を攻撃し、セクションごとの集会を支持してこれに反対した[7]

パリ・コミューンと国民公会の対立は「第三の革命」へとエスカレートした。ジャン=フランソワ・ヴァルレ率いるアンラジェは公然と蜂起を支持し、国民公会を打倒してフランス全土に直接民主主義を確立することを目指した。しかし、この「アナーキーの革命」の試みは、ジャコバン派国民衛兵からの支持がなかったこともあり、ジロンド派に敗北した[8]。それにもかかわらず、対立の継続的なエスカレーションと急進化の高まりは1793年5月31日-6月2日の蜂起で頂点に達し、ジロンド派は国民公会から追放され、山岳派が権力を掌握し、公安委員会の手に権力を集中させた。これにより、サン・キュロットとアンラジェの直接民主主義的な野心は完全に満たされないままとなった[9]

恐怖政治が始まると、アンラジェは公安委員会による弾圧の対象となったが、政府はサン・キュロットを疎外しないためにいくつかの経済的譲歩も試みた[10]。アンラジェの指導者ジャック・ルー革命裁判所に召喚された後に自殺し、1794年までにアンラジェは公の場からほぼ姿を消した[11]。公安委員会はその後、セクション民主主義に反対し、国家機構の大規模な官僚制化に着手し、選挙で選ばれた役職を国家による任命制に転換し、権力をセクション集会から政府の手に移した[12]。恐怖政治が激化するにつれてサン・キュロットの力は衰え始め、エベール派ダントン派も弾圧された。最終的に、マクシミリアン・ロベスピエールの失脚によって恐怖政治は終わりを告げ、テルミドールのクーデターはそれまでに起こった多くの革命的変化を後退させ始めた。

革命的アナキズムの最後の残滓はバブーフの陰謀によって表明された。これは総裁政府の打倒と、それを共産主義社会に置き換えることを主張した。プロト無政府主義の思想家シルヴァン・マレシャルは、その『平等のマニフェスト』(1796年)の中で、「大地の果実の共同享受」を要求し、「富者と貧者、偉大な者と小さな者、主人と従者、支配者と被支配者という、不快な区別の」消滅を期待した[13]。総裁政府を打倒しようとする陰謀は失敗し、その指導者フランソワ・ノエル・バブーフギロチンで処刑されたが、彼らの思想は19世紀に引き継がれた。ナポレオン戦争フランス復古王政の後、アンラジェと平等派に触発された社会主義およびアナキストの思想が共和主義の理想に取って代わり始め、フランスの急進主義に新たな枠組みを築き、7月王政の時代に頂点に達し始めた[14]

ピエール・ジョゼフ・プルードン、初めて自らをアナキストと称した人物

ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809年-1865年)は、自らを「アナキスト」と称した最初の哲学者であった[15]。プルードンは、資本家、銀行、土地の利益を保護する政府の特権、そして財産の蓄積や取得(およびそれに至るあらゆる形態の強制)に反対した。彼は、これらが競争を妨げ、富を少数の者の手に留めると信じていた。プルードンは、個人が自らの労働の生産物を自身の財産として保持する権利を支持したが、個人が生産し所有できる範囲を超えるいかなる財産も非合法であると信じていた。したがって、彼は私有財産を自由にとって不可欠であると同時に、専制への道でもあると見なしていた。前者は労働から生じ、労働に必要とされる場合であり、後者は搾取(利益、利子、地代、税金)をもたらす場合である。彼は一般的に前者を「所有」と呼び、後者を「財産」と呼んだ。大規模産業については、彼は賃金労働に代わる労働者組合を支持し、土地の所有に反対した。

プルードンは、労働する者が自ら生産したものの全体を保持すべきであり、信用と土地の独占がそれを妨げる力であると主張した。彼は、所有としての私有財産と利益を伴わない交換市場を含む経済システムを提唱し、これを相互主義と呼んだ。ジョゼフ・デジャック無政府共産主義を創始する際に明確に否定したのはプルードンの哲学であり、デジャックはプルードンへの手紙の中で「労働者が権利を持つのは、その労働の生産物ではなく、その性質が何であれ、その需要の満足である」と直接主張した。

『ル・リベルテール、社会運動のジャーナル』。ジョゼフ・デジャック編集のリバタリアン共産主義の出版物。このコピーは1860年8月17日のニューヨーク市版。

初期の無政府共産主義者の一人にジョゼフ・デジャックがいた。彼は自らを「リベルテール」と称した最初の人物である[16]プルードンとは異なり、彼は「労働者が権利を持つのは、その労働の生産物ではなく、その性質が何であれ、そのニーズの満足である」と主張した[13][17]。アナキストの歴史家マックス・ネットラウによれば、リバタリアン共産主義という用語が初めて使われたのは1880年11月で、フランスのアナキスト会議がその教義をより明確に特定するために用いた[18]。フランスのアナキスト・ジャーナリストで、後に4巻からなる『アナキスト百科事典』の創設者兼編集者となるセバスチャン・フォーレは、1895年に週刊紙『ル・リベルテール』(リバタリアン)を創刊した[19]

デジャックはプルードンの主要な批判者であった。デジャックは、「プルードン主義的なリカード派社会主義は、労働力の報酬と交換価値の問題を中心としている」と考えた。女性解放に関するプルードンとの論争の中で、デジャックはプルードンに「契約の廃止、剣と資本だけでなく、あらゆる形態の財産と権威の廃止まで」進むよう促し、「労働」(労働力)に対する「公正な報酬」の要求の商業的・賃金的論理を論破した。デジャックは問うた:「契約のシステムと同様に、各自の偶発的な生産能力に応じて、彼らが権利を持つものを計量したいと望むことは...正しいことだろうか?」この問いに対するデジャックの答えは明確である:「労働者が権利を持つのは、その労働の生産物ではなく、その性質が何であれ、そのニーズの満足である」...。デジャックにとって、他方で、共同体の状態—「統計書の」権威以外に「いかなる階層も、いかなる権威もない」ファランステール—は、「自然な交換」、すなわち「全ての生産と消費の無制限の自由、農業、個人、芸術、科学の財産のいかなる兆候の廃止、労働の生産物のいかなる個人保有の破壊、手工業および知的資本、ならびに道具、商業、建物の資本の非君主化と非貨幣化」に対応していた。[20]

デジャックは、「『偉大な人民の建築家の弟子たち』と『人民、すなわち俗衆』の間の区分に基づいたブランキ主義を拒否し、あらゆる変種の社会共和主義、一人の人間の独裁、そして『プロレタリアートの小さな天才たちの独裁』に等しく反対した。後者について、彼は次のように書いている。『労働者で構成された独裁委員会は、確かに最も自惚れが強く、無能であり、したがって最も反革命的なものである...(権力に疑わしい敵がいるよりも、疑わしい友がいる方がましだ)』。彼は『アナーキーなイニシアチブ』、『理性的な意志』、そして『各自の自治』をプロレタリアートの社会革命の条件と見なしており、その最初の表現が1848年6月のバリケードであった。デジャックの見解では、蜂起から生じる政府は、プロレタリアートの自由なイニシアチブに対する反動的な足枷であり続ける。むしろ、そのような自由なイニシアチブは、大衆が『権威主義的な偏見』から自らを解放することによってのみ生じ、発展することができる。その偏見によって、国家は代表と委任という主要な機能において自己を再生産するのである。デジャックは次のように書いている。『政府によって、私は人民の外にあるすべての委任、すべての権力を理解する』。これに代わって、政治が超越される過程で、『主権を直接所有する人民』、すなわち『組織されたコミューン』が置かれなければならない。デジャックにとって、共産主義アナキストのユートピアは、各プロレタリアが『社会科学』に関する無知を正すことに加えて、各自の人間的可能性を探求するよう促す機能を果たすだろう」[20]

1864年にロンドンで第一インターナショナル、すなわち国際労働者協会(IWA)が設立された後、ミハイル・バクーニン反権威主義的な革命組織「国際革命兄弟団」("Fraternité internationale révolutionnaire")または同盟("l'Alliance")を創設する最初の試みを行った。彼は1868年にこれを更新し、「国際兄弟」("Frères internationaux")または「民主社会主義同盟」を創設した。

バクーニンと他の連邦主義者たちは、1872年のハーグ大会カール・マルクスによってIWAから除名され、スイスでジュラ連合を結成した。この連合は翌年の1872年のサンティミエ大会で会合し、そこでアナキスト・サンティミエ・インターナショナル(1872年-1877年)が創設された。

パリ・コミューンへのアナキストの参加

1870年、ミハイル・バクーニンは後にパリ・コミューンによって例示される原則に基づき、リヨンで失敗に終わった蜂起を率いた。彼は普仏戦争中のフランス政府の崩壊に対応して総蜂起を呼びかけ、帝国主義的紛争を社会革命へと転換しようと試みた。彼の『現在の危機に関するフランス人への手紙』の中で、彼は労働者階級と農民の間の革命的同盟を主張し、後に行動によるプロパガンダとして知られるようになるものの定式化を提示した。

アナキストの歴史家ジョージ・ウッドコックは、「インターナショナルの年次大会はパリ・コミューンの勃発のために1870年には開催されず、1871年に総評議会はロンドンで特別会議を招集したのみであった。スペインから1人の代表が出席できただけで、イタリアからは誰も出席できなかった。一方、彼らがロマーニュ連邦から分裂したという技術的な口実が、バクーニンのスイスの支持者を招待しないために使われた。したがって、ごく少数のアナキストしか出席しておらず、総評議会の決議はほぼ満場一致で可決された。そのほとんどは明らかにバクーニンと彼の信奉者たちに向けられたものであった」[21]と報告している。1872年、この対立はハーグ大会での両グループの最終的な分裂で頂点に達し、バクーニンとジェームス・ギヨームはインターナショナルから追放され、その本部はニューヨークに移された。これに対し、連邦主義派はサンティミエ大会で独自のインターナショナルを結成し、革命的なアナキスト綱領を採択した[22]

ルイーズ・ミシェル、アナキストのコンミューン主義者

パリ・コミューンは、1871年3月18日(より正式には3月28日)から5月28日までパリを短期間統治した政府であった。コミューンは、普仏戦争でフランスが敗北した後のパリでの蜂起の結果として生まれた。アナキストはパリ・コミューンの設立に積極的に参加した。その中にはルイーズ・ミシェル、ルクリュ兄弟、そしてウジェーヌ・ヴァルラン(後者はその後の弾圧で殺害された)がいた。コミューンによって開始された改革、例えば職場を協同組合として再開することなどに関して、アナキストは自分たちの協同労働の思想が実現し始めていると見なすことができる...さらに、コミューンの連邦に関する思想は、明らかにプルードンがフランスの急進思想に与えた影響を反映していた。実際、選挙人によって発行され、いつでも罷免される拘束的委任に従う代議員の連邦に基づく共同体フランスというコミューンのビジョンは、バクーニンとプルードンの思想を反映している(プルードンはバクーニンと同様に、1848年に「拘束的委任の実施」...そしてコミューンの連邦を支持していた)。したがって、経済的にも政治的にも、パリ・コミューンはアナキストの思想に強く影響されていた[23]。ジョージ・ウッドコックは、「コミューンの活動、特に公共サービスの組織化に顕著な貢献をしたのは、相互主義者のクールベ、ロンゲ、ヴェルモレル、リバタリアン集産主義者のヴァルラン、マロン、ルフランセ、そしてバクーニン主義者のエリーとエリゼ・ルクリュ、ルイーズ・ミシェルを含む様々なアナキスト派閥のメンバーであった」[21]と述べている。

ルイーズ・ミシェルパリ・コミューンにおける重要なアナキスト参加者であった。当初、彼女は救護員として働き、バリケードで負傷した人々を治療した。パリ包囲戦中、彼女はプロイセン人への抵抗を絶え間なく説いた。コミューンが設立されると、彼女は国民衛兵に参加した。彼女はティエールを射殺することを申し出て、降伏への報復としてパリの破壊を提案した。

1871年12月、彼女は第6軍法会議に召喚され、政府転覆の試み、市民の武装扇動、そして彼女自身が武器を使用し軍服を着用したことなどの罪で起訴された。彼女は反抗的に、コミューンを決して放棄しないと誓い、裁判官に死刑を宣告するよう挑んだ[24]。伝えられるところによると、ミシェルは法廷で「自由のために鼓動するすべての心は、鉛の弾丸を少し受ける権利しかないようですので、私の分を要求します。もし私を生かしておくなら、私は決して復讐を叫ぶことをやめないでしょう」[25]と述べたという。

1871年のパリ・コミューンの後、アナキスト運動は、労働運動全体と同様に、指導者を失い、長年にわたって深刻な影響を受けた。

「行動によるプロパガンダ」の時代とイギリスへの亡命

スイスに拠点を置くアナキスト運動の一部は、行動によるプロパガンダを理論化し始めた。1880年代後半から1895年にかけて、自称アナキストによる一連の攻撃がアナキズムを世間の注目を集めさせ、不安の波を引き起こした。これらの行為の中で最も悪名高いのは、ラヴァショルエミール・アンリオーギュスト・ヴァイヤンによる爆弾事件、そしてカゼリオによる共和国大統領サディ・カルノーの暗殺であった。

オーギュスト・ヴァイヤンが代議院で爆弾を爆発させた後、「日和見主義的共和主義者」は1893年に最初のテロ対策法を可決したが、これはすぐに凶悪諸法(「悪党法」)として非難された。これらの法律は表現の自由を厳しく制限した。最初の法律は、あらゆる重罪や犯罪の弁護をそれ自体が重罪であると断罪し、報道の広範な検閲を可能にした。第二の法律は、実際に殺人が行われなかったとしても、「行動によるプロパガンダ」行為に直接または間接的に関与した人物を断罪することを可能にした。最後の法律は、アナキストのプロパガンダを利用する人物や新聞(そして、広義には、国際労働者協会(IWA)の現会員または元会員である社会主義リバタリアン)を断罪した:

挑発または弁護によって... [何人も]一人または複数の人物に窃盗、殺人、略奪、放火の犯罪を犯すよう奨励した者...; 2. または、陸軍または海軍の軍人に対し、彼らを軍務と上官への服従から逸脱させる目的で挑発を行った者は... 裁判所に送致され、3ヶ月から2年の禁固刑に処せられる。[26]

このようにして、言論の自由や「行動によるプロパガンダ」または反軍国主義の奨励は厳しく制限された。1894年にイタリアのアナキスト、カゼリオによってフランス大統領サディ・カルノーが暗殺されたことを喜んだとして、投獄された人々もいた。「凶悪諸法」(lois scélérates)という言葉は、それ以来、特に社会運動全体を広範に抑圧するテロ対策法など、あらゆる過酷または不公正な法律を指すために一般的な言葉となった。

エミール・プージェ

イギリスはすぐに、爆弾事件に関与した少数の人々と同一視されたアナキストをはじめとする政治難民にとって最後の避難所となった。すでに、カール・マルクスが約20年前に避難していたロンドンで、1871年に第一インターナショナルが設立されていた。1890年代、イギリスは大陸から追放されたアナキストのコロニーの巣窟となり、特に1892年から1895年にかけては弾圧の頂点に達し、1894年には「30人裁判」が行われた。ルイーズ・ミシェル(別名「赤い処女」)、エミール・プージェシャルル・マラートは、フランスや他のヨーロッパ諸国から逃れてきた多くの無名のアナキスト、脱走兵、または単なる犯罪者の中で最も有名であった。彼らの多くは、1895年2月のフェリックス・フォール大統領の恩赦の後にフランスに帰国した。しかし、1880年から1914年の間に、アナキスト運動に関連する数百人がイギリスに留まることになった。亡命の権利は、16世紀の宗教改革以来のイギリスの伝統であった。しかし、それは徐々に侵食され、フランス人移民は敵意にさらされた。1890年代には、これらのフランス人亡命者に対してイギリスの報道機関でいくつかの憎悪キャンペーンが展開され、暴動や移動の自由に関する寛大さの終焉を主張する「制限主義」政党、そしてフランス人や国際的な活動家への敵意へとつながった[27]

1895年–1914年

セバスチャン・フォーレアルフレド・ドレフュスの主要な支持者の一人)とルイーズ・ミシェル(別名「赤い処女」)によって創刊された新聞『ル・リベルテール』は、1895年11月16日に創刊号を発行した。同年、様々な「労働取引所」(フェルナン・ペルティエ)、労働組合、産業連盟が合併して労働総同盟(CGT)が設立された。アナルコ・サンディカリスムに支配されたCGTは、1906年にアミアン憲章を採択した。これは、ジャン・ジョレスジュール・ゲードが率いるSFIO党(第二インターナショナルのフランス支部)で他の社会主義的潮流が統一された翌年のことであった。

1907年8月のアムステルダム国際アナキスト大会には、フランスからわずか8人の代議員しか出席しなかった。歴史家のジャン・メートロンによれば、フランスのアナキスト運動は、組織という考えそのものを拒絶し、したがって国際組織という考えそのものに反対する者たちと、すべての希望をサンディカリスムに託し、したがって「他の場所で忙しかった」者たちに分かれていた[28]。大会に出席したフランスのアナキストは、ブノワ・ブルチューピエール・モナットルネ・ド・マルマンドを含むわずか8人であった[28]

大会の後、いくつかの組織化の試みが行われたが、いずれも短命に終わった。産業が盛んな北部では、リールアルマンティエールドゥナンランスルーベトゥールコワンのアナキストたちが1907年12月に大会を招集することを決定し、新聞『ル・コンバ』の創刊に合意した。その編集委員会は、公式には存在しない連盟の非公式な事務局として機能することになっていた[28]。別の連盟がセーヌセーヌ=エ=オワーズで1908年6月に設立された[29]

セバスチャン・フォーレ

しかし、1910年フランス議会選挙が近づくと、反議会委員会が設立され、その後解散する代わりに、無政府共産主義同盟(Alliance communiste anarchiste)という名前で常設組織となった。この新しい組織は、常任のメンバーを一切排除した[30]。この新しいグループも一部のアナキスト(ジャン・グラーヴを含む)からの反対に直面したが、すぐに新しい組織、共産主義連盟(Fédération communiste)に取って代わられた。

共産主義連盟は1911年6月に400人のメンバーで設立され、全員がパリ地域出身であった[30]。すぐに無政府共産主義連盟(Fédération anarcho-communiste, FCA)と改名し、ルイ・ルコワンを書記に選出した[30]セバスチャン・フォーレが率いる革命的無政府共産主義連盟(Fédération communiste révolutionnaire anarchiste)は、1913年8月にFCAを継承した。

フランスのアナキスト界には、多くの個人主義者も含まれていた。彼らは『ラナルシー』や『ラン・ドゥオール』のような出版物を中心に活動していた。フランスの主要な個人主義的アナキスト理論家は、イベリア半島でも影響力を持っていたエミール・アルマンアン・リネールであった。他の重要な個人主義的活動家には、アルベール・リベルタアンドレ・ロルロヴィクトル・セルジュゾ・ダクサリレット・メートルジャンがいた。マックス・シュティルナー利己主義と、クレマン・デュヴァルマリウス・ジャコブの犯罪的・政治的功績に影響を受け、フランスは公然と犯罪性を支持する物議を醸すアナキスト思想、違法主義の発祥の地となった。

個人主義アナキストと共産主義アナキストの関係は、戦前の年間を通じて良好ではなかった。悪名高いボノ党の1913年の裁判の後、FCAは個人主義をブルジョア的であり、共産主義よりも資本主義に沿ったものとして非難した。イギリスのアナキスト紙『フリーダム』に掲載された、ピョートル・クロポトキンが書いたとされる記事では、「単純な若い同志たちはしばしば非合法主義者の見かけ上のアナキスト論理に惑わされ、部外者は単にアナキストの思想に嫌悪感を抱き、いかなるプロパガンダにも耳を貸さなくなった」と主張された。

第一次世界大戦開戦の数日前に反軍国主義の社会主義指導者ジャン・ジョレスが暗殺され、その後第二インターナショナル労働運動が戦争を支持する「神聖連合」(Union Sacrée)政府に結集した後でさえ、一部のアナキストはこれを支持した。ジャン・グラーヴピョートル・クロポトキンらは、三国協商をドイツに対して支持する『16人のマニフェスト』を発表した。1917年6月15日には、『リベルテール』の非合法版が発行された。

フランスの個人主義的無政府主義

アン・リネール

プルードンとシュティルナーの遺産から、フランスの個人主義的アナキズムの強力な伝統が生まれた。初期の重要な個人主義的アナキストはアンセルム・ベルガリリーグであった。彼は1848年のフランス革命に参加し、『Anarchie, Journal de l'Ordre』と『Au fait ! Au fait ! Interprétation de l'idée démocratique』の著者兼編集者であり、1850年に重要な初期のアナキスト宣言を書いた。カタルーニャの個人主義的アナキズムの歴史家ザビエル・ディエスは、彼がアメリカを旅行中に「少なくともヘンリー・デイヴィッド・ソローと、おそらくジョサイア・ウォレンに接触した」と報告している[31]。『Autonomie Individuelle』は1887年から1888年にかけて発行された個人主義的アナキストの出版物であった。編集はジャン=バティスト・ルイシュ、シャルル・シェフェール、ジョルジュ・デルムが担当した[32]

後に、この伝統はアルベール・リベルタアンドレ・ロルロエミール・アルマンヴィクトル・セルジュゾ・ダクサリレット・メートルジャンといった知識人たちによって引き継がれた。彼らは1905年に創刊されたフランスの主要な個人主義的アナキスト雑誌『ラナルシー』で理論を展開した[33]。この雑誌以外では、アン・リネールが『Petit Manuel individualiste』(1903年)を執筆した。後には、1891年にゾ・ダクサによって創刊された雑誌『ラン・ドゥオール』が登場した。

ゾ・ダクサ

フランスの個人主義者のサークルは、個人的なリバタリアニズムと実験に対する強い意識を持っていた。ナチュリズム自由恋愛の内容が個人主義的アナキストのサークルに影響を与え始め、そこからアナキズムの他の分野にも広がり、スペインの個人主義的アナキストのグループにも現れた[34]。「社会秩序に対する熱狂的な活動とともに、リベルタは通常、饗宴、ダンス、田舎への遠足も組織していた。これは、アナキズムを戦闘的な犠牲や死の本能としてではなく、『生きる喜び』として捉える彼のビジョンに起因するものであり、個人の要求(自治の必要性)と権威主義社会を破壊する必要性とを両立させようと試みていた」[35]

アナキスト・ナチュリズムは、アンリ・ジスリーエミール・グラヴェル[36]ジョルジュ・ビュトーによって推進された。ビュトーは個人主義者であり、「自由な環境」(milieux libres)の支持者で、1901年にウィーンで「フランボー」(Flambeau、権威の敵)を出版した。彼のエネルギーのほとんどは、アナキストのコロニー(communautés expérimentales)を創設することに捧げられ、彼自身もいくつかのに参加した[37]

「この意味で、フランスの個人主義の理論的立場と実体験は、リバタリアン界隈においてさえも、深く偶像破壊的でスキャンダラスである。裸体主義のナチュリズムの呼びかけ、産児制限方法の強力な擁護、性的実践のみを正当化する『利己主義連合』の考えは、困難を伴いながらも実践を試みられ、一部には共感をもたらし、他者には強い拒絶を引き起こす思考と行動の様式を確立するだろう」[34]

違法主義

ボノ党の風刺画

違法主義[38]は、主にフランス、イタリア、ベルギー、スイスで1900年代初頭にシュティルナーの個人主義的アナキズムの派生物として発展したアナキスト哲学である[39]。違法主義者は通常、自分たちの行動に道徳的根拠を求めず、「権利」ではなく「力」の現実のみを認識していた。ほとんどの場合、非合法な行為は、より大きな理想のためではなく、単に個人的な欲望を満たすために行われた[40]が、一部は行動によるプロパガンダの一形態として犯罪を犯した[38]。違法主義者は直接行動行動によるプロパガンダを支持した[41]

理論家マックス・シュティルナーの利己主義と、プルードン「財産は盗みである」という見解に影響を受け、クレマン・デュヴァルマリウス・ジャコブは、「個人的な奪還」(la reprise individuelle)という理論を提唱した。これは、富裕層からの強盗と、搾取者やシステムに対する個人的な直接行動を正当化するものであった[40]

違法主義が最初に顕著になったのは、1890年代の騒乱に触発されたヨーロッパの一世代の間であった。この時期、ラヴァショルエミール・アンリオーギュスト・ヴァイヤン、そしてカゼリオがアナキズムの名の下に大胆な犯罪を犯した[42]。これは行動によるプロパガンダとして知られている。フランスのボノ党は、違法主義を最も有名なグループであった。

第一次世界大戦から第二次世界大戦まで

戦後CGTはより改革主義的になり、アナキストは徐々に離れていった。かつてはアナルコ・サンディカリストに支配されていたCGTは、1920年のトゥール党大会フランス共産党(PCF)が創設された後、非共産主義部門と共産主義の統一労働総同盟(CGTU)に分裂した。『リベルテール』の新しい週刊シリーズが編集され、アナキストはアナキスト連盟の即時創設を発表した。ボリシェヴィキに対抗して1919年11月にアナキスト連合(Union Anarchiste, UA)グループが結成され、1923年12月4日に『リベルテール』の最初の日刊紙が発行された。

ネストル・マフノピョートル・アルシノフを含むロシアからの亡命者たちは、1925年にパリで雑誌『ジェーロ・トルダー』(Дело Труда, 労働の事業)を創刊した。マフノは、『リバタリアン共産主義者の組織綱領』を共同執筆・共同出版し、ロシア革命後のウクライナの経験とボリシェヴィキによる敗北に基づき、アナキストがどのように組織されるべきかについての考えを提唱した。この文書は当初、ほとんどのアナキストに拒絶されたが、今日では広く支持されている。それは今日に至るまで物議を醸しており、一部(出版当時はヴォリンマラテスタを含む)はその含意をあまりにも硬直的で階層的であると見なしている。マフノの立場が知られるようになった綱領主義は、思想的統一、戦術的統一、集団行動と規律、そして連邦主義を提唱した。1934年のマフノの葬儀には、ペール・ラシェーズ墓地で500人が参列した。

1926年6月、「アナキスト総連合のための組織綱領草案」、通称「アルシノフの綱領」が発表された。ヴォリンはこれに対し、自身の論文「組織問題と統合の思想」("Le problème organisationnel et l'idée de synthèse")で「統合」草案を発表して応じた。オルレアン大会(1926年7月12日-14日)の後、アナキスト連合(UA)は無政府共産主義連合(UAC, Union anarchiste communiste)へと変貌した。綱領主義の支持者と、ヴォリンの統合アナキズムに従う者たちとの間の溝は広がった。

1926年11月13日-14日にリヨンで開催された建築自治連盟(Fédération autonome du Bâtiment)の大会で、スペインの全国労働連盟(CNT)のメンバーの助けを借りて、CGT-SR(Confédération Générale du Travail-Syndicaliste Révolutionnaire)が創設された。これにより、CGTの革命的サンディカリストたちがこれに加わることになった。ジュリアン・トゥブレがこの新しい労働組合の書記長に就任した。『ル・リベルテール』は1926年に再び週刊紙となった。

1927年10月31日と11月1日に開催されたオルレアン大会で、UACは綱領主義に転向した。ヴォリンに従う少数派は分裂し、無政府連邦主義者協会(AFA)を設立し、『Trait d'union libertaire』、次いで『La Voix Libertaire』を配布した。一部の統合主義者は後にUACに再加入し(1930年)、1934年の大会で反ファシズムを基盤にアナキスト運動を統一するイニシアチブを取った。この大会は、パリでの1934年2月6日の危機に続いて1934年5月20日と21日に開催された。左翼全体がファシストのクーデターを恐れており、アナキストは反ファシスト運動の先鋒に立っていた。AFAは同年に解散し、新しいグループに加わり、すぐにアナキスト連合(Union anarchiste)と改名された。しかし、後にUAで新たな分裂が起こり、リバタリアン共産主義連盟が結成された。

その後、アナキストは人民戦線(1936年-1938年)時代のゼネラル・ストライキに参加し、これがマティニョン協定(週40時間労働制など)につながった。レオン・ブルムが率いる人民戦線は、政府内に急進社会党が存在したため、スペイン内戦に介入しなかった。こうしてブルムは、アドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニフランシスコ・フランコに兵員と武器を送る一方で、国際旅団が国境を越えるのを阻止し、スペイン共和国側に救急車を送った。同様に、ブルムはベルリンでの1936年ベルリンオリンピックをボイコットし、バルセロナでの人民オリンピックを支援することを拒否した。一部のアナキストは国際反ファシスト連帯(Solidarité internationale antifasciste)のメンバーとなり、義勇兵が非合法に国境を越えるのを助けた。一方、他の者はスペインへ渡り、ドゥルッティ隊のフランス語話者部隊であるセバスチャン・フォーレ隊に参加した。UAからの分裂から発展したフランス語圏アナキスト連盟(Fédération anarchiste de langue française, FAF)は、フランスのアナキストと人民戦線の癒着を非難し、またスペインの共和国政府へのCNT-FAIの参加を批判した。FAFは『Terre libre』を編集し、ヴォリンもこれに協力した。第二次世界大戦前には、新聞『ル・リベルテール』を持つアナキスト連合(UA)と、新聞『Terre libre』を持つフランス・アナキスト連盟(FAF)の2つの組織が存在した。しかし、戦前に非合法ネットワークを組織していたフランス共産党(PCF)(エドゥアール・ダラディエ政権は独ソ不可侵条約後にこれを非合法化さえしていた)とは対照的に、アナキストグループは1940年にはいかなる非合法インフラも持っていなかった。そのため、PCF以外のすべての政党と同様に、ナチス・ドイツのフランス侵攻中およびその後に急速に完全に無組織化された。

ヴィシー政権下

バルバロッサ作戦連合軍の北アフリカ上陸の後、フランス第三共和政に代わって成立した新しい「フランス国」(ヴィシー政権)の首長であるフィリップ・ペタン元帥は、「悪い風が近づいてくるのを見た」("le mauvais vent s'approcher")。レジスタンスは1942年から1943年にかけて組織化され始めた。一方、ルネ・ブスケと彼の次官ジャン・ルゲイの指揮下にあるフランス警察は、ゲシュタポが指定した標的(共産主義者フリーメイソンユダヤ人、そしてアナキスト)のリストに体系的に追加していった[43]

1943年7月19日、トゥールーズでアナキスト活動家の非合法な会合が開かれ、彼らは国際革命的サンディカリスト連盟(Fédération internationale syndicaliste révolutionnaire)について話し合った。1944年1月15日、新しいアナキスト連盟は、1944年10月29日から30日にアジャンで承認された憲章を決定した。関係を維持するために『ル・リベルテール』を非合法に出版することが決定され、その創刊号は1944年12月に発行された。解放後、新聞は再び隔週刊となり、1945年10月6日から7日にかけてリバタリアン運動の総会(Assises du mouvement libertaire)が開催された。

第四共和政 (1945年–1958年)

アナキスト連盟(FA)は1945年12月2日にパリで設立され、翌年にはジョルジュ・フォントニを初代書記に選出した。FAは、ヴォリンの統合アナキズムを支持した旧FAの活動家の過半数と、スペイン内戦中に共和国政府を支援したCNT-FAIを支持した旧アナキスト連合のメンバー、そして一部の若いレジスタンス活動家で構成されていた。FAの青年組織(Jeunesses libertaires)も創設された。エミール・アルマンを中心に『L'Unique』と『L'EnDehors』を出版していた一部の個人主義的アナキストや、一部の平和主義者(『A contre-courant』を出版したルーヴェとマイユ)を除き、フランスのアナキストはFAに結集していた。さらに、ルーヴェと新聞『Ce qu'il faut dire』、再統一されたCGTのアナルコ・サンディカリスト少数派(フランス・サンディカリスト連盟(FSF)に結集し、CGT内の「サンディカリスト行動」潮流を代表)、そして新聞『Le Libertaire』との出版を調整するための連合組織が創設された。FSFは最終的に1946年12月6日に現在の全国労働連盟(CNT)へと変貌し、パリ憲章を採択し、『Le Combat Syndicaliste』を出版した。

全国労働連盟(CNT、Confédération nationale du travail)は、1946年に亡命中のスペインのアナルコ・サンディカリストと、旧CGT-SRのメンバーによって設立された。

アナキストたちは1947年にルノー工場で蜂起的なストライキを開始したが、これは社会党の内務大臣ジュール・モックによって鎮圧された。彼はこのために共和国保安機動隊(CRS)の機動隊を創設した。CNTの内部分裂のため、一部のFA活動家は、共産党支配のCGT内の分裂から生まれた改革派のCGT-FOの設立に参加することを決定した。FAは1949年にピュトーで開催された国際アナキスト会議に参加した。この会議には、組織化された団体だけでなく、自主的なグループや個人(ドイツ、アメリカ、ボリビア、キューバ、アルゼンチン、ペルーなどから)も集まった。一部の共産主義アナキストは1950年初頭に「組織・思想・闘争」(Organisation pensée bataille, OPB)という分派を組織し、単一の政治的立場を強要し、組織を中央集権化することを目指した。

GAAP(プロレタリア行動アナキスト・グループ)は、1951年2月24日から25日にかけて、アンコーナ大会でFAIから除名された元メンバーによってイタリアで設立された。同年、FAはモーリス・ジョワイユーが主導するルイーズ・ミシェル・グループの提案に基づき、グループ投票を個人投票に置き換えることを決定した。採択された立場は連邦主義的な地位を得たが、個人には強制されなかった。この動議に反対した個人主義者は、それを阻止することができなかった。「Haute fréquence」というシュルレアリスムのマニフェストが1951年7月6日に『ル・リベルテール』に掲載された。一部のシュルレアリストはFAと協力し始めた。さらに、1951年末には独立ユースホステル運動(MIAJ)が設立された。

1950年、FA内にジョルジュ・フォントニが率いる「組織・思想・闘争」(Organisation Pensée Bataille, OPB)という非合法グループが結成された[44]。OPBは、1953年のパリ大会の後、FAがその名称をリバタリアン共産主義連盟(FCL)に変更する動きを推し進めた。一方、『ル・リベルテール』の記事は、アンドレ・ブルトンが率いるフランスのシュルレアリスムグループとの協力の終了を示した。FCLは130人から160人の活動家を再結集させた。新しい意思決定プロセスは全会一致に基づいており、各人が連盟の方針に対して拒否権を持っていた。FCLは同年に『リバタリアン共産主義宣言』を出版した。FCLは1954年に「労働者綱領」を発表したが、これはCGTの要求に大きく影響されたものであった。イタリアのGAAP、スペインのRuta、北アフリカ・リバタリアン運動(MLNA)をグループ化するリバタリアン共産主義インターナショナル(ICL)は、あまりにも改革主義的と見なされたアナキスト・インターナショナルに代わるものとして設立された。1977年まで発行されるFAの報道機関である月刊誌『ル・モンド・リベルテール』の創刊号は1954年10月に発行された。

1955年12月、いくつかのグループがFCLを脱退した。これは、議会選挙に「革命的候補者」を立てるという決定に同意しなかったためである。1954年8月15日から20日にかけて、CNTの第5回大陸間総会が開催された。 Entente anarchiste と呼ばれるグループが現れ、これは OPB が FCL に与えていた新しいイデオロギー的志向が権威主義的でほとんどマルクス主義的であると見て、それを好まない活動家で構成されていた。[45] FCLは、10人の候補者で国政選挙に参加した直後の1956年まで続いた。この動きはFCLの一部のメンバーを疎外し、組織の終焉をもたらした。[44]

FAがFCLに転換することに同意しなかった活動家グループが、1953年12月に設立された新しいアナキスト連盟を再編成した[44]。これには、新しいFAに参加し、その後L'Ententeを解散させたL'Entente anarchisteを結成した人々も含まれていた。FAの新しい基本原則は、個人主義的アナキストのシャルル=オーギュスト・ボントンと、非綱領主義のアナルコ・コミュニストのモーリス・ジョワイユーによって書かれ、統合主義の原則を中心に組織された、複数の傾向とグループの自治を持つ組織を設立した[44]。歴史家のセドリック・ゲランによれば、「マルクス主義の無条件の拒絶は、その瞬間から新しいアナキスト連盟のアイデンティティ要素となり」、これはジョルジュ・フォントニと彼のOPBとの以前の対立が大きな動機となった[44]。また、組織内に、事務総長、国内関係書記、対外関係書記、『ル・モンド・リベルテール』編集委員会、および運営委員会で構成される連絡委員会を設立することが決定された[44]。1955年、アナルコ・サンディカリストのメンバーによって提案されたFA内にサンディカリスト関係委員会が設立された[44]

ロベールとボラトンを中心に再結集した旧エンタント・アナキストの一部の活動家はFAを脱退し、1956年11月25日にブリュッセルでAOA(Alliance ouvrière anarchiste、無政府主義労働者同盟)を創設した。この組織は『L'Anarchie』を編集し、アルジェリア戦争中には極右に傾倒していくことになる。

アンドレ・ブルトン率いるフランスのシュルレアリスムグループは、今や公然とアナキズムを支持し、アナキスト連盟と協力した[46]。1952年、ブルトンは「シュルレアリスムが最初に自己を認識したのは、アナキズムという黒い鏡の中であった」と書いた[47]。「ブルトンはフランス語圏アナキスト連盟への支持を一貫しており、フォントニ周辺の綱領主義者たちがアナキスト連盟をリバタリアン共産主義者連盟に変貌させた後も、連帯を表明し続けた。彼は、アルジェリア戦争中にFCLが厳しい弾圧を受け、地下活動を余儀なくされた際にも、FCLへの支援を申し出続けた数少ない知識人の一人であった。彼は潜伏中のフォントニをかくまった。彼はフランスのアナキスト運動の分裂に際してどちらかの側につくことを拒否し、彼とペレは、統合主義アナキストによって設立された新しいアナキスト連盟にも連帯を表明し、60年代の反ファシスト委員会でアナキスト連盟と並んで活動した」[47]

第五共和政 (1958年) と1968年5月

1968年3月にナンテールで起こった分権的な学生抗議運動である3月22日運動の指導者の多くは、小規模なアナキスト・グループの出身であった。アナキストたちは、アナキスト連盟(FA)を教条的であるとして拒絶し、代わりにトロツキストや他の過激派のような他の革命家たちと交流した[48]。1968年5月の急進的な出来事が起こった当時、アナキズムは停滞期にあった。それは出来事の中に最小限しか存在しなかった。同様の立場を持っていたシチュアシオニストでさえ、公にアナキストと一緒くたにされることに反発した[49]ダニエル・ゲランの『アナキズム:理論から実践へ』は1968年5月の出来事の間に人気を博した[50]

アナキスト連盟のロゴ

アナキズムは1968年の学生委員会や職場占拠に影響を与えたが、それを利用することはなかった[51]。1968年5月のフランスでの出来事の際に活動していたアナキスト・グループには、FA、リバタリアン共産主義運動フランス語版(MCL)、無政府主義者連邦連合フランス語版無政府主義労働者同盟フランス語版無政府共産主義組織連合フランス語版(UGAC)、黒と赤フランス語版全国労働連盟英語版アナルコサンディカリスト連合フランス語版無政府革命組織英語版(ORA)、リバタリアン社会主義研究手帳フランス語版ア・コントル・クーランフランス語版、『La Révolution prolétarienne』、そしてエミール・アルマンに近い出版物が含まれていた[44]。ORAはFA内で成長し、1971年に独立した。1970年代初頭には100以上のグループを形成し、リバタリアン共産主義者組織フランス語版リバタリアン共産主義労働者連合フランス語版に分裂した。後者はアルテルナティブ・リベルテール英語版となった[51]

70年代、FAは統合アナキズム綱領主義の両方の原則を統合するものへと発展した。今日、FAは全国に約100のグループで構成されている[52]

現代の運動は複数のグループに分かれている。FAの社会的無政府主義者たちは、ラジオ局、週刊誌、そして書店ネットワークを運営している。『アルテルナティブ・リベルテール』はより小規模な組織である[51]

フランスのリバタリアン組織一覧

参考文献

参考文献

  • Berry, Dave (2018). “Anarchism and 1968”. In Levy, Carl; Adams, Matthew S.. The Palgrave Handbook of Anarchism. Palgrave Macmillan. pp. 449–470. ISBN 978-3-319-75619-6 
  • Berry, David. A history of the French anarchist movement: 1917 to 1945. Greenwood Press. 2002. new edition AK Press. 2009.
  • Carr, Reg. Anarchism in France: The Case of Octave Mirbeau. Montreal. 1977.
  • Porter, David (2011). Eyes to the South: French Anarchists & Algeria. AK Press. ISBN 978-1-84935-076-1 
  • Shaya, Gregory. "How to Make an Anarchist-Terrorist: An Essay on the Political Imaginary in Fin de Siècle France", Journal of Social History 44 (2010). online
  • Sonn, Richard D. Anarchism and Cultural Politics in Fin-de-Siècle France. University of Nebraska Press. 1989.
  • Sonn, Richard D. Sex, Violence, and the Avant-Garde: Anarchism in Interwar France. Penn State Press. 2010.
  • Varias, Alexander. Paris and the Anarchists. New York. 1996.

関連文献

関連項目

外部リンク

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