ヘトゥム1世
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生まれ
1213年、バベロンのコスタンディンとランプロンのアリスとの間に生まれる。
即位
1226年、女王ザベルの摂政をしていた父のコスタンディンは、ザベルの夫フィリップ王を廃し、息子のヘトゥムをサベルと結婚させ、共同統治者として即位させた[1]。
モンゴルに臣従
1243年、モンゴル帝国の将軍バイジュがルーム・セルジューク朝のスルターン・カイホスロー2世を破ったことを聞いたヘトゥム1世はモンゴルと親善関係を結ぶのが最も良い方策であると考え、1244年にバイジュに臣従を申し入れた[2]。バイジュは先にキリキアに避難していたカイホスロー2世の母・妻・娘を差し出すよう要求した[3]。ヘトゥム1世は悩んだが背に腹は代えられないと、王妃たちをバイジュに手渡した[4]。これにバイジュは満足し、キリキア・アルメニア王国と同盟を結ぶことを決め、モンゴル皇帝の封臣としての地位を承認した勅許状(タムガ)をヘトゥム1世に交付した[4]。
1246年、モンゴル帝国でグユクが第3代皇帝に即位すると、ヘトゥム1世は弟で元帥のスンバトに莫大な贈物を携えさせてグユク・カンの宮廷に赴かせ、モンゴル帝国に臣従することを誓った[5][2]。
モンケ・カアンに入朝
1251年、モンケがモンゴル帝国の第4代皇帝に即位すると、ジョチ・ウルスの当主バトゥに新皇帝に紹介してくれるよう懇願した[6]。バトゥはヘトゥム1世自ら大オルドへ入朝することと、その前に自分と会見することを勧めた[6]。ヘトゥム1世はこの長旅の旅程にたじろぎ、また、自分の不在中に王国で事件が起きることを心配し、出発をためらった[6]。ちょうどそのときモンゴル帝国のペルシア総督アルグン・アカが貢納徴収の任務を帯びてアルメニアにやってきて、キリスト教徒に対して苛酷な扱いをし、納税に応じない者を容赦なく拷問に処した[7]。これを目の当たりにしたヘトゥム1世は直接モンケ・カアンに訴えようと思い、出発を決意した[7]。しかし、妻サベルが死去したため、出発は2年後とした[7]。
1254年、ヘトゥム1世は自ら本国を出発してカルス市でバイジュと会見し[7]、デルベント街道からバトゥとサルタクのオルドに行き、9月にモンケの宮廷に到着すると、特別な厚遇を受けた[2][7]。50日の滞在ののち、11月に宮廷を去ったが、この際王国授与の特許状と、キリキア・アルメニア王国に課せられた貢賦の減額、聖職者に対する課税の免除を保証した勅書を授けられた[2][7]。ヘトゥム1世はビシュバリク、アルマリク、アム川、ペルシアを経て1255年7月に帰国した[2][7]。
フレグに助言
1259年、モンゴル帝国の征西司令官フレグが破竹の勢いでアッバース朝を征服した後、シリアに侵攻した。フレグはメソポタミアのルハー市にいる時にヘトゥム1世を呼び出した[8]。フレグはこれから聖地イェルサレムへ侵入し、キリスト教徒に手渡そうと考えたため、ヘトゥム1世に意見を仰いだ[8]。これに対し、ヘトゥム1世は「イェルサレムを征服するならまずアレッポを攻撃するのが良いでしょう」と助言したため、フレグはそれに従った[8]。
マムルーク朝への侵攻
1262年、ヘトゥム1世はイルハン朝の君主となったフレグ・ハンの命令により、マムルーク朝のアインターブへの侵攻を開始した[9]。事前にルーム・セルジューク朝のキリジ・アルスラーン4世と緊密な同盟を結んだ[9]。マムルーク朝のスルターン・バイバルスはすでにハマー市とホムス市の軍隊をアレッポ市に進軍させており、アルメニア軍を奇襲して潰走させた[9]。ヘトゥム1世はアルメニアに駐屯する700のモンゴル部隊に援助を求めた[9]。さらにアンティオキアからも150人の騎士を得て再度討って出たが、雪と雨のために大損害を被り、軍隊は解散し、マムルーク朝の略奪を受けた[9]。
マムルーク朝のキリキア侵攻
1265年、1266年と、イルハン朝のアバカ・ハンが東方の脅威を受けていたため、西方の防備が手薄になっていたのをついて、マムルーク朝のスルターン・バイバルスはイルハン朝支配下で十字軍の領するカイサリア、アルスーフ、サファード、ヤッファ、シャキーフの諸都市と、メルハト、ハイファ、ジャレバ、アルカ、カリアトの諸城堡を奪った[10]。バイバルスはつづけてキリキア・アルメニア王国にも侵攻し、ヘトゥム1世に対してマムルーク朝に朝貢し、シリアとの交通を開放して穀物の輸出を許可するよう勧告した[10]。ヘトゥム1世が宗主国であるイルハン朝を畏れて満足する返答をしなかったため、1266年8月8日、バイバルスはハマーの王侯アル=マンスールとその配下イッズッディーン・アイガーン、サイフッディーン・カラーウーン両将軍の一団をキリキアへ向けて派遣した[10]。
1266年、マムルーク朝軍が侵攻しつつあるため、ヘトゥム1世はルームに駐屯しているモンゴル軍の司令官に救援を要請したが、この司令官はアバカ・ハンの特命がなければ援助できないと言ったため、直接アバカ・ハンの宮廷へ使者を派遣して救援を乞うた[11]。しかし、そうしている間にマムルーク朝軍はキリキアに侵入したため、ヘトゥム1世は王子レヴォンに命じて海岸に臨むイスカンデルン峡谷を防衛させた[11]。8月、マムルーク朝軍はこの峡谷を俯瞰する山地を突破してセルンド要塞の付近でレヴォンを攻撃した[11]。キリキア・アルメニア軍は敗北を喫し、レヴォンは捕らえられ、その弟トロスと叔父のひとりは戦死した[11]。その後マムルーク朝軍はその領内で掠奪をおこない、男子は殺され、婦女子は捕虜となり、城塞は焼き払われた[12]。ヘトゥム1世はアバカ・ハンに何度も援助を要請したものの、アバカは東方の対応におわれてそれどころではなかった[13]。結局ヘトゥム1世はマムルーク朝との講和条約にすべて同意し、翌年(1267年)6月にアンティオキアで調印された休戦条約によってビヘスナ、ダルバサーク、マルザバーン、ラーナン、アル=ルーブ、シーフ・アル=ハディードの諸要塞を返還すること、アミールの赤毛のソンコルを釈放することを約束した[14]。7月、これによって捕虜になっていた者たちが釈放され、カイロの山城に抑留されていた王子レヴォンも帰還した[14]。
退位
1269年、ヘトゥム1世はバグダードに駐留していたアバカ・ハンの宮廷へ赴き、自分が老齢で持病が多いため、キリキア・アルメニア王位を王子レヴォンに譲る許可を得たため、帰国後レヴォンに譲位した(レヴォン3世)[15]。レヴォン3世は即位するとさっそくアバカ・ハンの宮廷に赴き、あらためてキリキア・アルメニア国王の冊封を受けた[15]。
