ベリーズの中国人

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ベリーズの中国人
総人口
9,990 (2022 census)[1]
居住地域
ベリーズ郡
言語
英語 · クリオール英語版 · 中国語 · スペイン語
宗教
仏教 · 中国の民俗宗教 · プロテスタント
関連する民族
中国系カリブ人英語版

ベリーズの中国人(ベリーズのちゅうごくじん)コミュニティは、イギリス領ホンジュラス時代の年季奉公者の子孫、または中華人民共和国ないし台湾からの移民から構成される。

初期の歴史

イギリス領ホンジュラスへの中国系移民の流入は、19世紀中葉の同地における経済的変化に影響されたものであった[2]。1838年には奴隷制度が廃止され、カリブ海のイギリス植民地では中国人労働者をもってこれを代替することが考えられた[3]。また、ホンジュラスではログウッドおよびマホガニー生産が停滞し、サトウキビのプランテーション経営がこれに取って代わっていった。中国からの労働者雇用は、植民地総督であり、中国南東部の沿岸地方である福建省厦門にて労働者仲介業に従事していたジョン・グラディナー・オースティン英語版により推し進められた[2]

1865年には、イギリス領ホンジュラス会社(British Honduras Company)によって474人の中国人労働者がイギリス領ホンジュラスに派遣され、北部・ニュー川英語版沿いの木材伐採労働に従事した[4][3]。しかし、1869年時点で消息が明らかになっていたのは211人にとどまり、108人が死亡、155人がチャン・サンタクルス英語版の先住民のもとに逃れた[4]。劣悪な労働条件を理由とする自殺[5]、不十分な食事、アヘンの常用などがその理由であった。1871年までに中国人労働者の数は133人にまで減少し、ホンジュラス会社は残った労働者を南部・トレド郡のサトウキビプランテーションに移送するとともに、インド人労働者を雇用することにした[3]

その後の展開

その後も、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ベリーズには中国人出稼ぎ労働者が散発的に訪れた。1920年代から1930年代にかけては、グアテマラやホンジュラスで年季奉公者として働いたのちベリーズにて商売をはじめる者が多く現れ、チー家・マーク家・クアン家などの成功した華人一族も生じた[3]

1960年代には、ベリーズが自治領として移民誘致を重視したことにより、中国人の商店経営者が増加した[3]。1986年には投資家移民プログラム英語版がはじまり、1990年代には中国系のあいだで一般化した[6]。需要の増加に伴い、1997年には同プログラムの適用に必要な費用が25,000ドルから50,000ドルに値上げされた。この時期には、香港返還後、同地の状況が悪化する自体に備えてベリーズの市民権を取得しようとする香港人が多かったほか、中国本土の住民は、アメリカ合衆国に移民するための踏み台としてベリーズを用いることも多かった[7]。また、台湾からの移民も多くこのプログラムを利用した[8]。台湾からの移民はベリーズに家族とともに移住することが多かった[9]。1990年代中葉にはベリーズ国内の中国系住民は6,000人から7,000人にまで増加していた可能性があるが、政府が労働許可を厳格化すると、中国系住民はコスタリカタイフィリピンといった他地域に流出していった[9]

社会

人口統計

2000年の国勢調査によれば、ベリーズ国内には1,716人の中国系住民がいた。これは、総人口の0.7%にあたる。また、1,607人が中国語が第一言語であるとした[10]。ベリーズの中国系住民は6分の5が都市部に住んでおり、うちベリーズシティ(988人)およびベルモパンをふくむカヨ郡(351人)が集住地となっている。この都市居住率は、集計された民族グループの中で最も高い割合である。この割合はガリフナやクレオールよりやや高く、約半数が農村部に住むインド系とは対照的である[1]。中国系住民は46%が中等教育を修了しており、これはアフリカ系および白人に次いで高い。一方で、高等教育を修了する者は12%にとどまる[11]

なお、中国系住民はその他の移民と同様、言語の壁や、不法移民の法執行に対する恐れなどから、2000年国勢調査に協力しなかった場合があり、この人口は過小評価となっているかもしれない[12]。2010年国勢調査では中国人住民の人口は調査されなかったが、2,823人の「アジア人(インド系とは区別される)」が居住している旨が報告された[13]

経済

19世紀のカスタ戦争英語版時代より、中国系住民はレバノン系移民とおもにベリーズシティにて商店を営みはじめた。アウグスト・クアン(Augusto Quan)の商店は、特定の工具、釘、バケツを長年にわたり唯一供給する店としてよく知られていた[8]。1960年代に中国系住民がこぞって商店を開き出すようになるまで、ベリーズの一般人は複数人で注文をまとめたのち、トラックでメキシコまで買い出しをおこなうのが一般的であった。しかし、中国系商店が物資供給の中心地となったことにより、ベリーズ全土に一般人が徒歩で訪れることのできる商店が増加した[3]

地域社会との関係

リー・マーク・チャン英語版

ベリーズ・クレオール人英語版により、マヤ系の先住民および中国系住民が差別されることがある[14]メスティーソなどと同様、中国人はヴィジブル・マイノリティとして、社会的排除の対象となりやすい。中国人自身も、独自の制度や社会的ネットワークを維持することを好み、地元社会への統合に消極的であることが多い[15]

中国人商店主に対するクレオール系ギャングの強盗が頻発していることも、中国系住民とクレオール系住民の関係を疎なものとしている[16]。商店主が防犯のために窓に鉄格子をつけることも、ベリーズ社会から距離を置こうとする現れとみなされることがある。中国系・インド系といったアジア系住民が家族経営によって経済的成功をおさめ、外部者に雇用機会をほとんど提供しないことに対する反感もみられる。また、彼らはほとんどの場合ベリーズ・クレオール語英語版を話さない[17]。中国系住民が投資家移民プログラムを用いてきたことも議論の的となってきた[8]

ベリーズ中華会館(Belize Chinese Association)の前会長であるリー・マーク・チャン英語版は、中国人商店主に対する犯罪行為への抗議をたびたび行っており、彼らが犯罪に会うのは地元住民に雇用機会を提供していないためであるという主張に対しても反論してきた[18]。2010年には14歳の児童であるヘレン・ユー(Hellen Yu)が強盗により殺害される事件が起き、中華会館の指導により全国の中国系店舗の一斉休業が行われた[19]

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出典

参考文献

外部リンク

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