ボガルーサ
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ボガルーサ Bogalusa, Louisiana | |
|---|---|
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市 | |
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ボガルーサにかつて存在したグレイト・サザン製材会社 (1930年代) | |
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ボガルーサ市地図 | |
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ワシントン郡におけるボガルーサの位置 | |
| 座標:北緯30度46分50秒 西経89度51分50秒 / 北緯30.78056度 西経89.86389度座標: 北緯30度46分50秒 西経89度51分50秒 / 北緯30.78056度 西経89.86389度[1] | |
| 国 | アメリカ合衆国 |
| 州 | ルイジアナ州 |
| 郡 | ワシントン郡 |
| Incorporated | 1914年7月4日 |
| 創設者 | フランク・H・グッドイヤー、チャールズ・W・グッドイヤー |
| 政府 | |
| • 市長 | タイリン・Z・トゥルオング |
| 面積 | |
| • 合計 | 9.55 mi2 (24.74 km2) |
| • 陸地 | 9.51 mi2 (24.62 km2) |
| • 水域 | 0.05 mi2 (0.13 km2) |
| 標高 | 102 ft (31 m) |
| 人口 (2020年) | |
| • 合計 | 10,659人 |
| • 密度 | 1,121.41人/mi2 (432.98人/km2) |
| 等時帯 | UTC-6 (中部標準時) |
| • 夏時間 | UTC-5 (中部夏時間) |
| ZIP code |
70427[3] |
| 市外局番 | 985 |
| FIPSコード | 22-08150 |
| GNIS識別子 | 2403888[1] |
| ウェブサイト | http://www.bogalusa.gov/ |
ボガルーサ (Bogalusa、[ˌboʊɡəˈluːsə] BOH-gə-LOO-sə)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州ワシントン郡の都市である。2020年のアメリカ合衆国国勢調査時点の人口は12,232人であった。市が報告した2020年の国勢調査報告では、人口は10,659人としている。同市は、ワシントン郡全体を含むボガルーサ小都市統計圏の主たる都市であり、またより大きなニューオーリンズ-スライデル統合統計圏の一部ともなっている。
市の名前はチョクトー語で「暗い水」[4]、「霞んだ水」[5]を意味する「ボゲ・ルサ」に由来する。
松林が生い茂る場所に位置しており、20世紀初頭に、「グレイト・サザン製材会社」の製材所と提携し、労働者の住宅やサービスを提供する企業城下町として開拓された[6]。1930年代後半には、この事業は製紙、化学の工場に置き換わっている。
市の設立
ボガルーサ市は1914年に設立されており、ルイジアナ州では最も歴史の浅い町の一つである。ニューヨーク州バッファローの製材王の兄弟、フランク・H・グッドイヤーとチャールズ・W・グッドイヤーによって設立された。1900年代初頭にグッドイヤー兄弟は、木材の製材と、その木材を市場に運ぶための鉄道の支線を建設する戦略を進めるため、ルイジアナ州南東部とミシシッピ州南西部の数十万エーカーに上る原生のダイオウマツ林を購入した。
1902年、彼らはグレート・サザン製材会社を設立し、後にボガルーサ市となる企業城下町に最初の製材所を建設した。製材所は当時、世界最大規模であった[7][8]。グッドイヤー兄弟のもたらした利益により、労働者と監督者の居住地としてボガルーサ市と関連インフラを建設が建設された。また、木材や製品を市場に輸送するために、ニューオーリンズまでニューオーリンズ・グレイト・ノーザン鉄道が敷かれている[9]。

市の設計はニューオーリンズの建築家、ラスボーン・デバイズが行ない[10]、着工から1年も経たずしていくつかのホテル、学校、病院、YMCA、多くの宗派の教会、労働者のための住居が建設された。町の設計図では製材の町が南部に、商業の町が北部に配置され、町は南北に走る鉄道と東西に走るボガ・ルサ・クリークによって住人の人種別に4つの地区に分けられていた。町は迅速な建設を賞賛して「マジック・シティ」と呼ばれた[11]。
グレイト・サザン製材会社のマネージャーは、ウィリアム・H・サリヴァンであった[12]。彼は製材所を管理する責任者として、町が建設中から、町の中心人物として行動した。1914年7月4日にボガルーサが市として発足した後、サリヴァンは白人有権者によって市長に選ばれ(黒人には参政権は与えられていなかった)、1929年6月26日に死去するまで度々再選された[13]。
グレイト・サザン製材会社の広大な製材所では、日当たり最大100万ボードフィート(2400立方メートル)の木材を生産した。世界恐慌下の1938年、松の原生林が伐採されてなくなったため、製材所は閉鎖された。カリフォルニアのセコイアを使い製材所を継続させる案が検討されたが、コストがかかりすぎることから実現せず、製材所は閉鎖に追い込まれた。跡地にはグレイト・サザンの子会社のボガルーサ製紙会社が操業した。1937年にボガルーサ製紙会社はゲイロード・コンテイナー・コーポレーションと合併し、製紙工場の隣にゲイロード社の化学工場が操業した。1955年、クラウン・ゼラーバック社がゲイロード社の事業を買収し、製紙工場と化学工場は引き続き、同社の経営の下で市の経済を支え続けた。
ピーク時には市内に21,000人以上の人口があった。1985年にはクラウン・ゼラーバック社は分裂したが、製材事業は継続された[14]。
人種問題に関する事件
1919年、世界最大規模の製材所である市内のグレイト・サザン製材会社の労働者がストライキを決行し、最大規模の労働紛争が勃発した。会社側は白人民兵のグループを支援する一方、スト破り要員として黒人労働者を投入し、これによって人種間の緊張が高まった。事態は労働組合員4人が殺害されたボガルーサ製材所殺人事件で頂点に達した。1919年8月31日、黒人退役軍人のルーシャス・マッカーティーが白人女性を暴行した容疑で告発され、約1,500人の暴徒がマッカーティーを捕らえて彼に向けて銃を1,000発以上発砲する事態となった。暴徒集団は、彼の遺体を車に結び付けて黒人が住む地域を走り回り、その後遺体を焚火で燃やした[15][16]。
公民権運動の時期
白人および黒人の工業労働者は20世紀初頭から雇用を求めてこの企業城下町に流入し始めた。第二次世界大戦からの帰還後、アフリカ系アメリカ人の帰還兵たちはルイジアナ州、そして南部地域一帯における人種差別と暴力によって大きな困難に直面し、ジム・クロウ法、州の人種隔離政策、そして組織的権利剥奪と政治からの排除という、20世紀初頭から続く問題と闘うこととなった[17]。
公民権運動の時代においては、クラウン・ゼラーバック社のアフリカ系アメリカ人従業員が、全ての職務への就職、管理職への昇進を含めた雇用機会均等を求めて運動を展開した。この平等を求める動きは、白人労働者の抵抗も受けた。更には、アフリカ系アメリカ人コミュニティは、特に1964年公民権法の制定後に、地元住民の一部からの反対に直面しながらも、ボガルーサ市公共施設の統合を主張した[18]。
人種差別に対する闘争は、産業階級制度に異議を唱える黒人労働者だけにとどまらず、広範囲に及んだ。地元のクー・クラックス・クランのメンバーは公民権運動家たちを脅迫することで影響力を示した。1964年に公民権法が制定されたことで、白人層が反対の声を強め、事態は悪化することとなった。ボガルーサ・デイリー・ニューズ発行人のルー・メイジャーが顕著な標的となった。クランは彼の自宅の庭で十字架を燃やし、平等と正義を訴える人々を黙らせようとするその試みを明確に示した[19]。
ボブ・ヒックス、チャールズ・シムズ、A.Z.ヤングら活動家は自らの権利のために戦うことを決意し、(全黒人)ボガルーサ市民有権者連盟を率いて行動に出た。1965年2月21日、ルイジアナ州ジョーンボロを拠点とする「防衛と正義のための執事会」に所属する3人の活動家の支援を受け、彼らは、アフリカ系アメリカ人の自衛組織の最初の関連支部を設立した。執事会のその他の指導者たちにはバード・ワイアー、オーリラス・"リーヴス"・パーキンズ、サム・ボンズ、フレッチャー・アンダーソンらがいた[20]。彼らは黒人コミュニティの多くの戦争帰還兵を動員し、公民権運動家とその家族に対して武装警備を提供した[21][22]。この夏に暴動が起きると想定し、州警察は1965年2月にボガルーサに事務所を設置した[21]。
セス・ヘイグの説明によると:
...コミュニティはジョーンボロの執事会のような戦闘的なレトリックを受け入れるようになった。考え方に基づき多くの暴力的な対立が発生し、1965年夏にピークを迎えた。その結果、黒人労働者の闘争心は黒人中間層の力を脅かすに留まらず、ボガルーサの白人権力層の政治的・経済的覇権をも脅かした。白人権力層が革命的なボガルーサ市民の闘争心とレトリックを包摂してしまったため、クラウン・ゼラーバック社に対する法廷闘争におけるいくつかの特筆に値する「勝利」を除けば、事実上、闘争の唯一の成果と言えるものは権力層を脅かしたことに留まった[21]。」
公民権運動時代のボガルーサで起きたアフリカ系アメリカ人の殺人事件のうち、最も特筆すべきものは1965年に殺害されたオニール・ムーアの事件[23]と、1966年に殺害されたクラレンス・トリッグスの事件である[24]。ムーアは、ワシントン郡の保安官事務所に採用された初の黒人副保安官であった。一方トリッグスは失業中の煉瓦職人で、黒人たちによるデモと夜の行進に参加する予定だったとみられるという[24]。
1970年から現在まで
製材業の変化に伴い、1960年代から20世紀末にかけて、工場の稼働、雇用、そして市の人口は急速に萎んでいった。2015年には市の推計人口は12,000人を切るところまで落ち込んでおり[25]、1960年の頃と比較すると40%以上の減少となっている。このような状況は、残る住民にとってより一層の厳しさを強いている。
1995年、ゲイロード・ケミカル社で鉄道のタンク車が爆発して四酸化二窒素が放出され、半径1.8マイル(約1.6キロメートル)以内の約3,000人が避難を余儀なくされた。住民の証言によるとこの爆発の結果「空はオレンジ色に変わった」という。救急外来は4,000人もの人で溢れかえり、彼らは眼、皮膚、肺の炎症を訴えた。ゲイロード・ケミカル社に対して数十件の訴訟が起こされたが、それらは2005年5月、事故で被害を被った約20,000人に対し補償金を支払うことで最終的に和解した。
2005年8月29日、市をハリケーン・カトリーナが襲い、風速約110 mph (175 km/h)の風が多くの木々をなぎ倒し、電線を断線させた。ボガルーサの多くの建物が木の倒壊によって被害を受け、いくつかは全壊となっている。殆どの家屋、企業、その他の建物はハリケーンの猛烈な風によって屋根が損傷した。市の郊外の一部地域では1か月以上にわたって停電が続いた。
地理
アメリカ合衆国国勢調査局によると、市の総面積は 9.5平方マイル (24.6 km2)であり、そのうち陸地は9.5平方マイル (24.6 km2)、水面は0.1平方マイル (0.3 km2) (全体の0.52%)である。
気候
ケッペンの気候区分によると、ボガルーサは温暖湿潤気候(Cfa)である。ボガルーサで記録された最高気温は1936年6月20日の107 °F (41.7 °C)であり、一方最低気温は1962年1月12日の4 °F (−15.6 °C)である[26]。
| ルイジアナ州ボガルーサ (1991–2020年通常値、異常値 1930年-2008年)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 最高気温記録 °F (°C) | 86 (30) |
86 (30) |
91 (33) |
94 (34) |
100 (38) |
107 (42) |
105 (41) |
104 (40) |
101 (38) |
95 (35) |
89 (32) |
86 (30) |
107 (42) |
| 平均最高気温 °F (°C) | 61.3 (16.3) |
65.8 (18.8) |
72.1 (22.3) |
78.9 (26.1) |
85.4 (29.7) |
90.5 (32.5) |
92.4 (33.6) |
92.0 (33.3) |
88.8 (31.6) |
81.0 (27.2) |
70.8 (21.6) |
63.9 (17.7) |
78.57 (25.89) |
| 日平均気温 °F (°C) | 50.0 (10) |
54.1 (12.3) |
60.2 (15.7) |
66.9 (19.4) |
74.3 (23.5) |
80.3 (26.8) |
82.3 (27.9) |
82.0 (27.8) |
78.2 (25.7) |
68.8 (20.4) |
58.4 (14.7) |
52.4 (11.3) |
67.33 (19.63) |
| 平均最低気温 °F (°C) | 38.7 (3.7) |
42.4 (5.8) |
48.3 (9.1) |
54.8 (12.7) |
63.2 (17.3) |
70.1 (21.2) |
72.1 (22.3) |
71.9 (22.2) |
67.7 (19.8) |
56.7 (13.7) |
45.9 (7.7) |
40.9 (4.9) |
56.06 (13.37) |
| 最低気温記録 °F (°C) | 4 (−16) |
12 (−11) |
20 (−7) |
31 (−1) |
42 (6) |
48 (9) |
57 (14) |
56 (13) |
40 (4) |
27 (−3) |
21 (−6) |
6 (−14) |
4 (−16) |
| 降水量 inch (mm) | 6.14 (156) |
4.64 (117.9) |
5.14 (130.6) |
4.38 (111.3) |
4.51 (114.6) |
7.76 (197.1) |
6.35 (161.3) |
5.83 (148.1) |
4.72 (119.9) |
5.33 (135.4) |
4.15 (105.4) |
4.93 (125.2) |
63.88 (1,622.8) |
| 降雪量 inch (cm) | 0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.2 (0.5) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.2 (0.5) |
| 平均降水日数 (≥0.01 in) | 10.9 | 8.0 | 9.4 | 7.3 | 8.0 | 12.6 | 13.7 | 10.2 | 9.0 | 6.9 | 8.2 | 9.1 | 113.3 |
| 平均降雪日数 (≥0.1 in) | 0.0 | 0.0 | 0.1 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.1 |
| 出典1:NOAA[27] | |||||||||||||
| 出典2:XMACIS2 (mean maxima/minima 1971–2000)[28] | |||||||||||||
人口動勢
| 人口推移 | |||
|---|---|---|---|
| 年 | 人口 | %± | |
| 1920 | 8,245 | — | |
| 1930 | 14,029 | 70.2% | |
| 1940 | 14,604 | 4.1% | |
| 1950 | 17,798 | 21.9% | |
| 1960 | 21,423 | 20.4% | |
| 1970 | 18,412 | −14.1% | |
| 1980 | 16,976 | −7.8% | |
| 1990 | 14,280 | −15.9% | |
| 2000 | 13,365 | −6.4% | |
| 2010 | 12,232 | −8.5% | |
| 2020 | 10,659 | −12.9% | |
| 米国国勢調査(10年単位で実施)[29] | |||
| 人種 | 人数 | 割合 |
|---|---|---|
| 白人 (非ヒスパニック) | 4,410 | 41.37% |
| アフリカ系アメリカ人 (非ヒスパニック) | 5,398 | 50.64% |
| ネイティブアメリカン | 23 | 0.22% |
| アジア人 | 68 | 0.64% |
| その他人種/混血 | 356 | 3.34% |
| ヒスパニックあるいはラテン系アメリカ人 | 404 | 3.79% |
2020年国勢調査によると、ボガルーサの人口は10,659人、市内の世帯数は4,874、家族数2,923である。
犯罪率
ボガルーサの犯罪発生率は住人1000人に対して53件であり、ルイジアナ州の犯罪発生率の平均値よりも高くなっている[31]。しかし警察活動が成果を上げ、2023年から2024年の2年間は凶悪犯罪は殆ど発生していない。2023年には4件のみであり、そのうち1件は自動車による殺人であった。2023年には凶悪犯罪は1件しか発生していない。銃、刃物を使用した暴力事件も減少している。ボガルーサ市警察によると、2022年には96件だったが、2023年は41件、2024年は2件であった[32]。
経済

ボガルーサの経済は、ニューヨーク州バッファローのグッドイヤー兄弟が1902年に設立したグレイト・サザン製材会社によって市が設立されて以来、木材産業と関連製品の事業と結びついている[7]。ボガルーサの製材所は長い間、世界最大規模を誇った。1918年には製紙工場も建設されている[33]。1938年までにこの製材所は、ボガルーサから数百マイル圏にある原生のダイオウマツを全て伐採してしまい、カリフォルニアからセコイアを仕入れて製材所を維持する案が検討されたものの、採算に合わないことから実現せず、製材所の操業は終焉を迎えた。
製材工場の経営がゲイロード・コンテイナー・コーポレーションに移行した後、ボガルーサの産業は製紙業に移行し、同社も1955年にクラウン・ゼラーバック社に買収された。1960年代半ばには、この工場では日に1300トンの紙を4つの製紙機械を稼働させて生産していた[34]。1986年、ジョージア・パシフィック社がこの工場を買収している。2002年まで工場は同社に下にあったが、2002年にこの地域最大の雇用主であるテンプル・インランド社に買収されている。
2011年8月にパール川に工業廃水が流出したことにより、連邦政府はテンプル・インランド社に100万ドルを超える罰金を科した。翌年の2012年には、同社はメンフィスに本社を置くインターナショナル・ペーパーに買収され、工場は再び新たな経営下に置かれることとなった[35]。ボガルーサの製紙工場は箱や輸送用コンテナを製造する段ボール工場として稼働を続けている。2019年現在、この工場は425人を雇用する市内最大の雇用主であり続けている[36]。しかしながら、1960年代と比較すると生産規模は縮小しており、製紙機械は2台しか稼働していない[34]。
アートと文化
- 公民権運動の活動家、ボブ・ヒックスの邸宅、ロバート"ボブ"ヒックス・ハウスは、2015年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録された[37]。
- 公民権活動を継続するためにロバート・ヒックス・ファウンデーションが設立されている[20][38]。
- ロバート・インディアナの絵画「ルイジアナ」 (1965年)。アメリカ南部の公民権運動についてのコメントが記された4枚の絵画の一つ。「人間の解剖学と同じように、どの国も後部を持っている:美しい都市ボガルーサ」と記されている[39][40]。
- 「Deacons for Defense」 (2003年)。1965年のボガルーサにおける公民権闘争を描いたテレビ映画。ビル・デューク監督、フォレスト・ウィテカー、オジー・デイヴィス、ジョナサン・シルヴァーマンらが出演している[41]。
政治
教育機関
ボガルーサは、7つの小学校、1つの中学校、1つの高等学校からなる公立学校のシステム「ボガルーサ・シティ・スクールズ」を運営している。2020年現在、3,600人以上の生徒が在籍、230人の教員がこの教育システム下で勤務している[47]。
市内にはノースショア・テクニカル・コミュニティ・カレッジがある。同校は1930年時点で、ルイジアナ州内に設立された初の職業学校であった。現在は完全な形で認定されたコミュニティ・カレッジとして存在している。
メディア
公共インフラ
道路
ボガルーサは東西に走るルイジアナ州道10号線と南北に走るルイジアナ州道21号線の交差点の周囲に位置している。ルイジアナ州道21号線を南下したところには非法人地域のブッシュがある。
鉄道
ボガルーサまで行く旅客鉄道は存在しないが、ボガルーサ・バイユー鉄道 (BBAY) が市内のインターナショナル・ペーパー社の工場に停車し、北方向に行くとミシシッピ州内のカナディアン・ナショナル線と接続している[51]。
航路
市が所有する、ボガルーサ空港(正式な名称は「ジョージ・R・カー・メモリアル・エア・フィールド」[52][53])があり、市の北2マイル(3.2km)の場所に位置している[54]。国際航空運送協会(IATA)が定める3レターコード(ICAOコード)はBXAである[54]。
警察
警察署には35人の警官と12人の予備隊員が勤務している[47]。