マグヌス2世 (ノルウェー王)
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| マグヌス2世 | |
|---|---|
| 共同統治 | オーラヴ平穏王(1067年より) |
| 先代 | ハーラル苛烈王 |
| 次代 | オーラヴ平穏王 |
| 出生 | 1048年ごろ |
| 死亡 |
1069年4月28日(19–21歳没) ノルウェー ニーダロス |
| 実名 | マグヌス・ハラルドソン |
| 王室 | ハルドラーダ家 |
| 父親 | ハーラル苛烈王 |
| 母親 | トーラ・トールベルグスドッティル |
|
子女 ホーコン・マグヌソン | |
マグヌス・ハラルドソン(古ノルド語:Hákon Magnússon、ノルウェー語:Magnús Haraldsson、1048年頃 - 1069年4月28日)とは、11世紀のノルウェー王(在位:1066年 - 1069年)である。1067年からは弟のオーラヴと共同で統治にあたった。近代に至るまでノルウェーの公式な歴代国王一覧には含まれていなかったが、現在はマグヌス2世として数えられている。
ハーラル苛烈王の子であるマグヌスは、1058年、未だ幼少の身でありながらアイリッシュ海方面遠征軍の名目的・象徴的な指導者に指名された。彼は、ウェセックスに抵抗するウェールズの統治者グリフィズ・アプ・ルウェリンやマーシア伯エルフガ―を支援したとみられるが、その主目的はオークニー伯国への支配力の誇示であったと考えられる。後に彼は1062年の父によるデンマーク遠征に同行し、1066年の父、苛烈王が敢行したイングランド侵攻の際、マグヌスは父からノルウェー王国摂政に任命されるとともに王位を授けられた。同年、ハーラル苛烈王は戦死し、マグヌスは一時的に単独でノルウェーを統治したが、1067年に弟オーラヴ(父と共にイングランド侵攻に参加していたが、父の死後、残存部隊を率いて帰還した。)がイングランドから帰還した。
弟の帰還後、マグヌスはオーラヴと共同で統治を行ったが、即位から3年も経たぬうちに病に倒れ、崩御した。治世が短命であったことから、後世の歴史においてその存在は軽視される傾向にある。マグヌスには唯一の子としてホーコン・トレスフォストレがいたが、ホーコンもまたオーラヴの死後に短期間王位に就いたものの、若くして世を去った。
背景
マグヌスは1048年[1]、あるいは1049年に誕生した[2]。彼はハーラル苛烈王とその配偶者トーラ・トールベルグスドッティルとの間に長子として生まれた[2]。マグヌスについて詠まれたスカルド詩は現存せず、北欧のサガにおける記述も極めて断片的である[2]。『ノルウェー古王略記』の著者は、彼を「この上なく美しい男」と評している[3]。サガには一切言及がないものの、1058年頃の当時のブリテン諸島の史料には、アイリッシュ海におけるノルウェー遠征軍の指導者としてマグヌスの名が登場する[4]。
西方への遠征
1058年、マグヌスはアイリッシュ海への遠征軍を率い、同地域におけるノルウェーの権威拡大を企図した。この際、ノルウェー軍はノース・ゲール人のエフマルカハ・マク・ラグナイル王に敵対する派閥に加勢した[5]。この遠征は、アイルランドのディアルマイト・マク・メール・ナ・ムボー王に対抗するノース・ゲール人のイーヴァル家の枝族をも支援したとみられる[4]。マグヌスが指揮した艦隊には、ノルウェー本国に加えてオークニー、ヘブリディーズ諸島、そしてダブリン王国から兵員が集められた[6]。彼の軍勢は後にウェールズにおいて活動し[7]、おそらくはイングランドにも進出した。イングランドの年代記者ウスターのジョンは、このノルウェー艦隊を(ウェールズの統治者グリフィズ・アプ・ルウェリンと共に)、追放されていたマーシア伯エルフガーの復権に関連付けている[8]。アイルランドの『ティゲルナハ年代記』はさらに踏み込み、マグヌスの目的はイングランドの権力掌握であったと主張しているが、この説は『ウェールズ年代記』や『アングロサクソン年代記』を含む[9]ウェールズおよびイングランド側の史料では裏付けられていない[10]。
マグヌスの軍事行動は、群島王国の掌握がさらなる兵力の確保に繋がることから、父ハーラル苛烈王によるイングランド侵攻計画の一環であった可能性がある[5]。歴史家ケリー・デヴリーズは、父王ハーラルが本格的な侵攻に先立ち、イングランドの情勢を試そうとしたものの、デンマークとイングランドを同時に相手にするのは不可能であると悟ったのではないかという推測を提示している[11]。マグヌスの遠征隊がイングランドに大規模な上陸を果たすことはなかったが、イングランド王エドワードにとっては、自らをエドワードの正当な後継者と見なしていたハーラル苛烈王による野心の再燃を告げる警鐘となった。同時に、ウェセックス伯ゴドウィンとその息子たち、特にハロルド・ゴドウィンソンの台頭も、ハーラル王の王位請求権に対する脅威となり始めていた[12]。
他方、歴史家アレックス・ウルフは、この遠征が元来はオークニーのみを目的としたものであり、略奪を求めてアイリッシュ海へと転じた結果、偶然にもエルフガー伯と共に略奪を行う機会を得たに過ぎないのではないかと示唆している[13]。オークニー伯トールフィン・シグルズソンの没年は正確には記録されていないが、『オークニーのサガ』によれば、それがハーラル苛烈王の治世の後半であったことは確かである[14]。したがって、トールフィン伯の死がマグヌスの遠征を誘発し、その過程で後継者のポールおよびエルレンド兄弟がハーラル苛烈王に臣従したという可能性も考えられる[15]。またウルフは、マグヌスが1057年から1058年にかけてのスコットランドにおける戦争に関与し、スコットランド王ルラハに対抗するマエル・コルム・マク・ドンハダを支援した可能性をも指摘している[16]。
王位と死

『ヘイムスクリングラ』1899年版より
1062年、マグヌスは父によるデンマーク遠征に同行した。デンマークへの途上、ハラルドの艦隊はデンマーク王スヴェン・エストリズセンの艦隊とニーサの戦いで激突。この大規模な海戦はノルウェーの勝利に終わった[2]。1106年、スヴェン・エストリズセンとの和睦を成立させた後、父ハーラルはハロルド・ゴドウィンソンからイングランドを奪うべく遠征を開始。出発に際し、父ハーラルは不在の間の摂政およびノルウェー王としてマグヌスを任命し、次男のオーラヴを遠征に帯同させた。イングランドに侵攻を開始した父ハーラル率いるノルウェー軍は、初戦で勝利を飾ったものの、続くスタンフォード・ブリッジの戦いでハロルド・ゴドウィンソンに敗れ、戦死。次男オーラヴは生き残り、1067年初頭に残存兵力と共にノルウェーへ帰還した。その後、オーラヴは王位を宣言し、兄マグヌスとの共同統治が始まった[2]。
マグヌスとオーラヴによる王国統治は、分割なき共同統治を意図したものであったが、実際にはオーラヴがヴィーケン(ノルウェー南東部)を、マグヌスがウップランド、トロンデラーグ、西ノルウェー、北ノルウェーを支配した。この分割にもかかわらず兄弟間に敵対の兆しはなく、その関係は平穏であったとされる[2]。
即位から3年に満たない1069年4月28日、マグヌスはニーダロス(現トロンハイム)において病没した。サガは死因を体部白癬(しらくも)としているが、現代の研究者は麦角中毒(真菌「バッカクキン」による中毒)であった可能性を提示している[2]。スノッリ・ストゥルルソンは『ハーラル・ハルドラーダのサガ』の中で、マグヌスは「慈悲深い王であり、民衆からその死を惜しまれた」と簡潔に記している[17]。
マグヌスの王位は、その在位期間が短かったこと、およびその大部分が弟との共同統治であったことから、後世の歴史において軽視されてきた。オーラヴの治世がその後長く続いたことや、後世のノルウェー王家がオーラヴの血統のみを継承(あるいは主張)したことも、マグヌスの影を薄くする要因となった[2]。
現在、マグヌス6世として知られる王(ノルウェー王として初めて君主番号を用いた王)は、当時のラテン語の書簡において自らを「マグヌス4世」と称しており、マグヌス・ハラルドソンを数に含めていなかった[18]。しかし、近代に番号システムが改められた結果、現在はマグヌス・ハラルドソンが「マグヌス2世」として数えられている[2]。