マニラの戦い (1762年)
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| マニラの戦い | |||||||
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| 七年戦争中 | |||||||
イギリスの上陸地点を記した地図 | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
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| 指揮官 | |||||||
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セサール・フェリエ騎士[1]:38 | ||||||
| 戦力 | |||||||
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10,300人[2] 船15隻[1]:22–23 |
スペイン正規軍556人[1]:12 パンパンガ族8,600人 フランスとイギリスの逃亡者200人[3] | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 死傷者147人[4][5] |
死傷者約100人 投降361人[5] | ||||||
マニラの戦い(マニラのたたかい、英語: Battle of Manila)は七年戦争中の1762年9月24日から10月6日まで、グレートブリテン王国とスペイン王国のフィリピンの首都マニラおよびその周辺における戦闘。イギリスが勝利し、当時スペインの植民地だった同地を短期間占領した。
イギリス政府はウィリアム・ドレイパー大佐のフィリピン島侵攻計画を許可し、カスカート・グラント大尉が指揮するシーホース号をマニラ行きの船の拿捕に送り出した。テディンソン准将率いるイギリス艦隊の先鋒は7月21日にマドラスから出港、残りはサミュエル・コーニッシュ准将とドレイパー大佐が率いて8月1日に出発した。旗艦はノーフォーク号だった[6]。
この8隻の戦列艦、3隻のフリゲート、4隻の貨物船を含むイギリス艦隊には6839人の正規軍、海員、海兵隊が乗っていた。[1]。
マニラの守備はフィリピン総督に任せられた。陸軍の指揮官はドン・ミゲル・デ・バルデス、砲手の指揮官はドン・フェリクス・デ・エギルクス中将とヴィラ・メディナ侯爵だった[6]。
戦闘
コーニッシュの艦隊は9月23日にマニラ湾に到着し、マニラから2マイル南のところで上陸した。次の日、632人の海兵隊が上陸、さらに25日にサン・アントニオ・アバド要塞を占領した[6]。
イギリスが偵察隊を派遣した結果マニラの要塞が全く完成していなかったことがわかった。溝はできておらず、通路は老朽化、斜堤は低すぎ、外塁の一部には大砲がなかったという[6]。
9月30日、携帯シャベルを積載したイギリス輸送艦が到着したが強風で岸近くまで移動した。イギリスにとっては幸運なことに、この輸送艦がドレイパーの軍営の後ろで擱座したことで、フィリピンの大軍が後ろから襲撃することを防いだ。また、海上で数日間漂流するより擱座したほうがほかの軍艦の通行を妨げなかった[1]:44。
10月1日に再び強風が吹き、上陸軍とイギリス艦隊の連絡が断たれた。4日の朝、1000人のパンパンガ族がイギリス軍を攻撃したが300人の損害を出して撃退された。この失敗の後、パンパンガ族は1800人を除いてマニラ市を放棄した。穴だらけになったマニラの守備はイギリスに容易く破られ、ラッセル中尉は10月6日に城壁の穴からマニラに侵入した[6]。
総督代行のマニラ枢機卿マヌエル・ロホ・デル・リオ・イ・ヴィエイラはこれ以上死傷者数が徒に増えることを防ぐために降伏した[1]:51–54。