ヤ・ヤ
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| 「ヤ・ヤ」 | ||||||||||
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| リー・ドーシー の シングル | ||||||||||
| 初出アルバム『Ya! Ya!』 | ||||||||||
| B面 | ギブ・ミー・ユー | |||||||||
| リリース | ||||||||||
| 規格 | 7インチシングル | |||||||||
| 録音 |
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| レーベル | フューリー・レコード | |||||||||
| 作詞・作曲 |
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| プロデュース | ボビー・ロビンソン | |||||||||
| チャート最高順位 | ||||||||||
| 後述を参照 | ||||||||||
| リー・ドーシー シングル 年表 | ||||||||||
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「ヤ・ヤ」(Ya Ya)は、リー・ドーシーの楽曲で、1961年2月7日にフューリー・レコードから発売されたアルバム『Ya! Ya!』に収録された[1]。5か月後の7月29日にシングルとしてリリースされた[2]。
作詞作曲は、ドーシーとボビー・ロビンソン[注釈 1]で、子供たちが童謡を唱和する様子に触発されて作ったといわれている。
この曲は1961年にビルボード・ホット100で7位、R&Bシングルチャートで1位を記録した[5]。
1973年のアメリカ映画『アメリカン・グラフィティ』の挿入歌として使われ、サウンドトラック盤にも収録された。
ビートルズがデビュー前の1961年から1962年にかけて、ハンブルクやリバプールなどで、ジョン・レノンのリードボーカルで本作をライブ演奏していたことが知られている[6]が、録音は現存していない。
演奏者(ジョン・レノン版)
| 「ヤ・ヤ」 | ||||||||||||||||
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| ジョン・レノン の シングル | ||||||||||||||||
| 初出アルバム『ロックン・ロール』 | ||||||||||||||||
| A面 | ビー・バップ・ア・ルーラ | |||||||||||||||
| リリース | ||||||||||||||||
| 規格 | 7インチシングル | |||||||||||||||
| 録音 |
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| ジャンル | ロック | |||||||||||||||
| 時間 | ||||||||||||||||
| レーベル | アップル・レコード | |||||||||||||||
| プロデュース | ジョン・レノン | |||||||||||||||
| ジョン・レノン シングル 年表 | ||||||||||||||||
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1973年9月、アルバム『マインド・ゲームス』が完成すると、レノンは妻オノ・ヨーコのもとを離れ、2人の個人秘書であったメイ・パンとともにカリフォルニア州ロサンゼルスで同棲生活を始めた[7]。
10月、 チャック・ベリーの楽曲の出版権者だったモリス・レヴィが起こしていた著作権侵害をめぐる裁判の審理が12月に始まるという通知がレノンの下に届いた。レヴィは「カム・トゥゲザー」がベリーの「ユー・キャント・キャッチ・ミー」のメロディと酷似しており、さらに歌詞の一部 "Here come a flat-top"(「カム・トゥゲザー」では "Here come old flat-top")を使用しており[8][9]、著作権を侵害していると主張し、ノーザン・ソングスらを相手取って提訴していた[10]。レノンはこれに関して一貫してベリーの影響は認めていたが、盗作は否定していた。
折しもフィル・スペクターと共にオールディーズ・カバー・アルバムのレコーディングを始める予定だったレノンは、法廷外で和解することにした[11]。和解の条件として、レノンが次に発表するアルバムにレヴィのビッグセブン出版社が所有する楽曲から「ユー・キャント・キャッチ・ミー」「エンジェル・ベイビー」、そして「ヤ・ヤ」の3曲を収録することが取り決められた[12][13]ところが、セッション中にスペクターがマスターテープを持ったまま失踪してしまうという事件が起こり、3曲のうち本作は録音されないまま中断を余儀なくされてしまった[注釈 2]。

1974年4月下旬、スペクターからテープを取り戻すことをいったん諦め、やむなくニューヨークに戻ったレノンは自らのプロデュースでアルバム『心の壁、愛の橋』を制作し発表した。しかし、おまけのように収録された本作[注釈 3]以外が全て新曲だったため、約束を反故にされたと感じたレヴィが激怒し、和解を撤回し再提訴すると通告してきた[12]。慌てたレノンはレヴィにレコーディングが遅れている経緯を説明し、取り戻したセッション・テープを聴かせて、実際にカバー・アルバムを制作中であることを示して納得させた。10月から録音を再開し、11月には本作も含むアルバム『ロックン・ロール』が完成した。
「スタンド・バイ・ミー」に続く2枚目のシングルとして、日本[14]やスペイン[15]、デンマーク[16]などでは「ビー・バップ・ア・ルーラ」のB面としてリリース、ドイツでは6月30日にA面[17][18]としてリリースされ、9月15日メディア・コントロール・チャートで47位に達した [19][20]。
- ジョン・レノン - ギター、ボーカル
- ジェシ・エド・デイヴィス - ギター
- エディー・モトウ - アコースティックギター
- クラウス・フォアマン - ベース
- ケニー・アスチャー - キーボード
- ジム・ケルトナー - ドラムス
- アーサー・ジェンキンス - パーカッション
- ジョセフ・テンパリー - サクソフォーン
- フランク・ヴィカリ - サクソフォーン
- デニス・モラウズ - テナーサックス
その他のアーティストによるカバー
- トニー・シェリダンは1962年10月にドイツ盤EPのA面としてリリースした[21]。1964年4月に発売された『ザ・ビートルズ・ファースト・アルバム』に収録されたため、ビートルズの演奏と誤解されたが、実際は全く関与していなかった[注釈 4]。
- トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズは1966年、「イッツ・オンリー・ラブ」のB面としてリリースした[22]。
- マウス&ザ・トラップスは1967年のシングル「クライイン・インサイド」のB面としてリリースした[23]。
- ザ・オンブレスは1968年の唯一のアルバム『レット・イット・アウト(レット・イット・オール・ハングアウト)』に収録した[24]。
- ジョージ・フェイスは1977年のファーストアルバム『トゥー・ビー・ア・ラヴァー』で「ミッドナイト・アワー」とのメドレーを収録した[25]。
- トリオは1981年、ファースト・アルバム『トリオ』[26]とライブ・アルバム『トリオ・ライブ・イン・フリュー82』[27]に収録した。
- リー・マイケルズは1971年のアルバム『5th』に収録した[28]。
- アイク&ティナ・ターナーは2004年のコンピレーション・アルバム『ヒズ・ウーマン、ハー・マン:ジ・アイク・ターナー・ダイアリーズ』に、1970年代初頭にカバーしながらが未発表だった本作を収録した[29]。
- スティーブ・ミラーは、1988年のアルバム『ボーン・トゥー・ビー・ブルー』でこの曲をカバーした[30]。
フランスでは、ジョルジュ・アベールとリュシアン・モリスによってフランス語歌詞がつけられ、当時流行していたツイスト・ビートにアレンジされた「ヤ・ヤ・ツイスト」が制作された。