第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線
第二次世界大戦において戦闘行為が行われたヨーロッパの地域
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欧州戦線(おうしゅうせんせん、英語: European theatre of World War II)とは、1939年から1945年にかけて行われた、第二次世界大戦におけるヨーロッパ地域の全ての戦闘・作戦を指す総称である。 主に枢軸国(ドイツ・イタリア・ルーマニアなど)と連合国(イギリス・ソ連・アメリカなど)との間で行われ、戦争の発端・中心・終結の全てがこの地域で展開された。
| ヨーロッパ戦線 (第二次世界大戦) | |
|---|---|
1941年から1942年にかけての欧州戦線。 青色・水色が枢軸国の領域で、赤色が連合国の領域。 | |
| 戦争:第二次世界大戦 | |
| 年月日:1939年9月1日 - 1945年5月15日 | |
| 場所:ヨーロッパ | |
| 結果:連合国の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
背景
第一次世界大戦に敗戦したドイツは、1919年のヴェルサイユ条約によって領土を喪失し、天文学的な額の賠償金を払うことを義務付けられた。1920年代には、ドイツはかろうじて経済的復興を遂げたものの、アメリカのウォール街で大暴落が起きると世界的な大恐慌が起きた。これによりドイツ経済は悪化し、ドイツ国内では不満の声が上がってきた。
すると、オーストリア系ドイツ人のアドルフ・ヒトラー率いるナチ党は、経済の復興を約束し、ドイツ国民の人気を集め、1933年にヒトラー内閣が成立し、翌1934年にはヒトラーは総統に就任した。
ナチス・ドイツはオーストリアへの政策を巡ってベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国と対立していた。ところが、イタリアが第二次エチオピア戦争で国際的に孤立したことをきっかけに、ドイツとイタリアはお互いに接近していき、両国の関係は徐々に改善していった。
1936年、ヒトラー率いるナチス・ドイツは、ヴェルサイユ条約によって非武装化させられていたドイツ領ラインラントに進駐。ヒトラーは英仏の報復を警戒していたが、英仏は抗議をしたのみで、具体的な報復行為は行わなかった。これにより自信を持ったヒトラーは、1938年に自身の出身国であるオーストリアを併合。同年には英仏、さらにイタリアとのミュンヘン協定によってチェコスロバキア領のドイツ人多住地域ズデーテン地方を併合した。
さらに、ドイツと同様にチェコスロバキアと領土問題を抱えていたハンガリーやポーランドもチェコスロバキア領の一部を併合したことにより、同国は弱体化。
その後、ナチス・ドイツは1939年にリトアニア領のドイツ人多住地域メーメル(クライペダ)を併合。同年には、弱体化しつつあったチェコスロバキアを解体を実行。チェコをドイツの保護領とし、スロバキアをドイツの影響下で独立させた。ちなみに、同じ時期にチェコスロバキアから独立したカルパト・ウクライナ共和国はハンガリー軍による侵攻によって消滅した。
それから約1ヶ月後、イタリアはアルバニア王国に侵攻し、同国を保護領とした。後にドイツとイタリアは鋼鉄協約を締結し、両国の友好を国際的にアピールした。
同年8月、反共主義を掲げていたはずのナチス・ドイツは共産主義国家ソビエト連邦との間に独ソ不可侵条約を締結。同条約では、裏条項で欧州のどの地域を独ソの影響下に置くかを定めていた。
ドイツは、ヴェルサイユ条約で喪失し、ドイツ本土と東プロイセンを分断していたポーランド回廊の割譲をポーランドに迫るが、ポーランドはそれを拒否。ヒトラーは、これの報復としてポーランドに対する侵攻作戦の開始をドイツ国防軍に命令した。
戦線の経過
1939年
ポーランド侵攻
1939年9月、ナチス・ドイツとスロバキアは白作戦を発動し、ポーランドへと侵攻(ポーランド侵攻)。ドイツ軍は電撃戦を展開し、ポーランド軍を圧倒していった。
ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスは、ドイツに対して宣戦布告をしたものの、具体的な軍事的行動は起こさなかった(まやかし戦争)。さらに東からはソ連がポーランドへと侵攻(ソビエト連邦によるポーランド侵攻)。イギリスとフランスは、ドイツとソ連を共に相手にすることは不可能と考えたため、ソ連によるポーランド侵攻は事実上黙認した。
同年10月、独ソに挟撃されたポーランドは地図上から消滅し、ポーランド領の西部はドイツ領となった。また、ポーランド領の東部(ウクライナ西部とベラルーシ西部)はソ連領となった。
冬戦争
1939年11月、ソ連はフィンランドに対して侵攻を開始(冬戦争)。
当初は、大軍のソ連軍が圧勝すると思われていたが、予想に反してフィンランド軍はモッティ戦術を用いて善戦。数年前の大粛清によって弱体化していたソ連軍は多大な犠牲を出した。一方のフィンランドも、国力に余力が残っているうちに戦争を終わらせたかったため、両国はモスクワ講和条約によって講和。
なお、この条約によってフィンランドは領土の一部をソ連に割譲。さらにソ連は外交的にフィンランドに対して圧力をかけ続けたため、両国の対立は継続した。
1940年
北欧侵攻
ドイツが鉄鉱石の輸入をスウェーデンに依存していたことに目をつけたイギリスは、中立国スウェーデン及びノルウェーを占領することでドイツの鉄鉱石輸入を妨害しようと計画した(R4計画、ウィルフレッド作戦)。
ヒトラーは、イギリスのスウェーデンとノルウェーへの占領計画をはっきりとは知らなかったが、アルトマルク号事件が起きたことにより、イギリスがノルウェーの中立を尊重する気がないことを察知。
ドイツは、先手を打つことを目的としてデンマーク、そしてノルウェーへの侵攻を開始した(ヴェーザー演習作戦)。デンマークは6時間で降伏。ノルウェーは約2ヶ月粘ったものの、ノルウェー人の親独派ヴィドクン・クヴィスリングがドイツを支援。1940年6月、ノルウェー王ホーコン7世はイギリスへと亡命し、ノルウェー本土はクヴィスリング率いるクヴィスリング政権下に置かれた。
ベネルクス・フランス本土侵攻
フランスは、ドイツとの国境に建設していた要塞マジノ線を根拠に、ドイツ軍はフランス本土に侵入できないという絶対的な自信を持っていた。そのためフランス軍はドイツ本土への攻勢をほとんど行っておらず、西部戦線はこう着状態となっていた(まやかし戦争)。
しかし1940年5月、ドイツ軍はマンシュタイン計画を発動し、ベネルクス三国を占領。さらに、フランス本土へと侵入し、同国の首都パリを占領。さらに、イタリアが中立を放棄してフランスへと侵攻したことにより、フランス政府は独伊に降伏。フランス本土のうち北部と西部の海岸線はドイツ軍の占領区域となり(ナチス・ドイツによるフランス占領)、イタリア国境付近の地域はイタリア領となり、残りの地域ではドイツの影響下でフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が発足した。
ちなみに、シャルル・ド・ゴールを中心とした自由フランス軍はイギリスへと亡命し、ドイツへの徹底抗戦を宣言した。
ソ連によるバルト三国占領
フランスがドイツに降伏したのとほぼ同じ時期に、ソ連はバルト三国を占領した。
ドイツとイギリスが睨み合っていることを好機に、ソ連は東欧における勢力圏を拡大しようとしていたのだった。ドイツはこの事を内心快く思っていなかったが、独ソ不可侵条約の裏条項でこれを許可しており、さらにイギリスとの戦争が終わっていなかった以上、この時点ではこの行動を実質的に黙認した。
ルーマニア分割
ソ連は、当時中立国だったルーマニア王国に対してベッサラビアとブコヴィナ北部の割譲を迫る最後通牒を突きつけた。趣味が女遊びのルーマニア国王カロル2世は、ソ連の要請にあっさりと応じ、冬戦争の時のフィンランドとは対照的に一切の抵抗を見せなかった。
ちなみに、この出来事はヒトラーのソ連に対する不信感を生むきっかけとなった。理由は、独ソ不可侵条約の裏条項でベッサラビアをソ連の影響下に置くことを合意はしていても、ブコヴィナ北部をソ連の影響下にすることは合意していなかったからである。
ヒトラーは、ソ連が東欧やバルカン半島に対する影響力をさらに拡大することを恐れた。特に、当時のドイツは石油の輸入をルーマニアに依存していたためにルーマニア全土がソ連の影響下に置かれることだけは絶対に避けたかった。
そこでヒトラーは、先手を打ってドイツのルーマニアへの影響力を拡大するべく、イタリアと共同で第二次ウィーン裁定を行なった。内容としては、ハンガリーとルーマニアの間のトランシルヴァニアを巡る領土問題に関して、ハンガリーがトランシルヴァニア北部を併合することを支持する代わりに、ドイツとイタリアはルーマニアの安全を保障することを定められていた[注釈 4]。カロル2世は、その裁定も承諾し、トランシルヴァニア北部をハンガリーに割譲した。
さらにカロル2世は、ブルガリア王国にもクラヨーヴァ条約でドブロジャ南部を割譲した。
同じ年に三度も隣国に領土を割譲したカロル2世は、ルーマニアにおける支持率低下を招いた。ルーマニア軍元帥イオン・アントネスクによって退位を迫られたカロル2世は、国外に亡命した。なお、カロル2世退位の直後に嫡男ミハイ1世が即位したが、実権はアントネスクが握っていた。
バトル・オブ・ブリテン
ソ連によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領の直後、ドイツ空軍とイギリス空軍の間で空中戦が繰り広げられた。
ちなみにヒトラーは、フランス占領後にイギリスとの講和を望んでいたが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルはこれを拒否していた。
英独両国の空軍は一進一退の攻防を繰り広げたものの、最終的にはアメリカのレンドリースを受けたイギリスの優勢で終了した。これにより、ドイツはイギリスへの上陸作戦(アシカ作戦)を断念した。
枢軸国拡大
1940年9月、ドイツとイタリアに加えて、日独伊防共協定で既に両国と友好関係にあった大日本帝国によって日独伊三国同盟が締結された。
同年11月、ホルティ政権下のハンガリー、前述したアントネスク政権下のルーマニア、そして既にポーランド侵攻戦でドイツと共闘していたティソ政権下のスロバキアも日独伊三国同盟に加盟。これをきっかけに、ドイツを中心とした枢軸国はさらに拡大していくことになる。
ギリシャ侵攻
1940年10月、ヒトラーとは対照的に目立った象徴的軍事成果を達成できていないムッソリーニは、ローマ帝国の復興を掲げ、前述した通り当時保護領となっていたアルバニアからギリシャ王国への侵攻を開始した。
当初は、大軍のイタリア軍が勝利すると予想されていたが、その予想に反してギリシャ軍はイタリア軍の侵攻を押し留め、さらにアルバニア南部にまで反転攻勢を行なった。その後、戦線は膠着状態となった。これは、翌年にドイツ軍がイタリア軍に加勢するまで続いた。
1941年
ユーゴスラビア侵攻・ギリシャ降伏
1941年3月、バルカン半島のブルガリア王国が日独伊三国同盟に加盟した。それから数日後、同じくバルカン半島のユーゴスラビア王国も日独伊三国同盟に加盟した。しかし、ユーゴスラビアは加盟国のうちイタリア、ハンガリー、ブルガリアとの間に領土問題を抱えていた上、セルビア[注釈 5]のナショナリズムが反ドイツ・反ブルガリア的だったこともあり、クーデターが発生し、表向きは三国同盟へ残ると主張しつつも、親連合国的な態度を見せた。
これに激怒したヒトラーは、ドイツ軍にユーゴスラビアに侵攻を命令。さらに、イタリア、ハンガリー、ブルガリアもユーゴスラビアに侵攻し、クロアチアの親独勢力ウスタシャがクロアチア独立国の独立を宣言したため、ユーゴスラビアは枢軸国に降伏。スロベニアはドイツ領に、セルビア・バチュカはハンガリー領に、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナはクロアチア領に、ヴァルダル・マケドニアのほとんどはブルガリア領に、コソボの大部分及びヴァルダル・マケドニア西部はイタリア保護領アルバニア領になり、セルビアにはドイツ傀儡のセルビア救国政府が設置され、モンテネグロにはイタリア傀儡のモンテネグロ王国が設置された。
ユーゴスラビアを降伏させた勢いで、ドイツ軍はギリシャ戦線にてイタリアに加勢。ギリシャはドイツに降伏。エーゲ・マケドニア西部、西トラキア再東部及びクレタ島のほとんどはドイツ領となり、エーゲ・マケドニア東部及び西トラキアのほとんどはブルガリア領となり、残りはイタリア領となった。
6月にはクロアチア独立国が正式に日独伊三国同盟に加盟した。
独ソ戦勃発
1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、バルバロッサ作戦を発動してソ連への侵攻を開始。ここに独ソ戦が始まった。スロバキアや、ベッサラビアとブコヴィナ北部の奪還を目指すルーマニアもドイツに加勢した。
後には、前述した冬戦争で領土の一部を喪失していたフィンランドもドイツに加勢し、ソ連へと宣戦布告(継続戦争)。さらに、ハンガリーもソ連へと宣戦布告した。
イタリアもドイツに加勢し、さらにクロアチアのクロアチア軍団、そして中立国スペイン国の義勇軍青師団やヴィシー・フランス(フランス国)の反共フランス義勇軍団もドイツに加勢。
当初はドイツ率いる枢軸国軍が優勢であり、ソ連の支配下にあったウクライナ、ベラルーシ、バルト三国などを次々に占領していった。
しかし、ドイツ軍とフィンランド軍によるレニングラード包囲戦は拮抗し、ドイツ軍によるソ連首都モスクワ攻略を目的としたタイフーン作戦も失敗に終わった。
アメリカ、連合国に加盟
1941年12月、日米交渉が失敗に終わったことで、ドイツの同盟国大日本帝国はアメリカの真珠湾を攻撃(真珠湾攻撃)。
これをきっかけに、ドイツ、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、クロアチア、ハンガリーなどもアメリカに宣戦布告。こうして、アメリカは連合国となった。
1942年
ブラウ作戦
1942年、独ソ戦において、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍は、目標をコーカサスへと変更した。主な理由は、同地域には油田地帯のバクー[注釈 6]があり、そこを確保することで枢軸国軍の石油供給を安定して行い、ソ連軍の戦力・戦意を削げると見込んでいたからだった。
しかし、ソ連軍はウラヌス作戦を発動し、枢軸国軍を押し返した。
さらに、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)においてドイツ軍やルーマニア軍の一部が包囲され、最終的にそれらの師団はソ連軍に降伏した(スターリングラード攻防戦)。
アントン作戦
米英連合軍は、北アフリカのヴィシー・フランス領に上陸作戦を決行した(トーチ作戦)。
これは、地中海において枢軸国軍の安全保障が弱まったことを意味するため、連合国のフランス本土への上陸を阻止するべく、独伊軍はヴィシー・フランスの本土を直接占領した(アントン作戦)。
1943年
イタリア内戦
1943年7月、米英連合軍は、ハスキー作戦によってイタリア領シチリア島に上陸。イタリアのファシズム大評議会は、グランディ決議にてムッソリーニの解任を決定し、連合国に降伏した。
しかし、それに反発したヒトラーはムッソリーニを救出。イタリアでは、北部の親独政権(イタリア社会共和国)と南部の親連合国政権(バドリオ政権下のイタリア王国)との間で内戦が繰り広げられた。
対ルーマニア爆撃
前述した通り、ドイツは石油の輸入をルーマニアに依存していた。
これに目をつけたアメリカは、ルーマニアのプロイェシュティ油田に対する爆撃を開始(タイダルウェーブ作戦)。しかし、枢軸国軍はアメリカ合衆国陸軍航空軍に対して勝利した。
対ブルガリア爆撃
連合国は、ブルガリアに対しても爆撃を実行。ブルガリアの首都ソフィアなどへの爆撃・空襲を行った。
1944年
ノルマンディー上陸作戦
1944年6月、米英連合軍は、フランス本土に対する上陸を開始(ノルマンディー上陸作戦)。
これ以降、パリの解放などによってドイツ軍は西部戦線で劣勢になっていった。
バグラチオン作戦
ソ連軍は、バグラチオン作戦を発動し、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国枢軸国軍を駆逐した。そして、東欧やバルカンの枢軸各国及びその占領地へと侵入した。
なお、バグラチオン作戦中にドイツ占領下のポーランドにてポーランド国内軍がワルシャワ蜂起を起こしたが、ソ連軍はポーランド国内軍を見捨てたため、同蜂起はドイツ軍によって鎮圧された。
ルーマニア・クーデター
ソ連軍は、ヤシ=キシナウ攻勢によってルーマニア本土へと侵入した。
これに危機感を抱いたミハイ1世は、アントネスクを解任し、連合国と講和した(ルーマニア宮廷クーデター)。その後、ルーマニアはドイツ軍・ハンガリー軍と交戦状態に突入した。
ブルガリア・クーデター
さらにブルガリアでも、ブルガリア共産党によるクーデターが勃発(ブルガリア・クーデター)。ブルガリアも、ルーマニアと同様に連合国に鞍替えし、ドイツ軍と交戦状態に突入した。
ラップランド戦争
フィンランドも、戦局が劣勢化したことを理由にソ連と講和(モスクワ休戦協定)。同協定で、フィンランドは冬戦争後のモスクワ講和条約で割譲した地域とそれ以外の一部の地域もソ連に割譲させられ、国内に駐屯していたドイツ軍を追放することが義務付けられた。
これにより、フィンランドとドイツの間でラップランド戦争が勃発した。
マーケット・ガーデン作戦
米英連合軍は、ドイツ軍をベネルクスから駆逐することを目的にマーケット・ガーデン作戦を開始。
しかし、ドイツ軍は踏みとどまり、米英連合軍に対して勝利した。
バルジの戦い
バルジの戦いで、ドイツ軍は米英連合軍に敗北。これにより、米英連合軍はドイツ本土へと本格的な侵攻を開始した。
1945年
ドイツ本土決戦
1945年2月にはハンガリーが、4月にはスロバキアが連合国に降伏。さらにはムッソリーニがパルチザンによおて銃殺され(ベニート・ムッソリーニの死)、5月にイタリア社会共和国は降伏。
同月、ベルリン市街戦により完全劣勢となったヒトラーは自殺(アドルフ・ヒトラーの死)。後継者となったカール・デーニッツ率いるフレンスブルク政府は連合国に降伏。
さらにクロアチア独立国も連合国に降伏し、ヨーロッパ戦線は終結した。