ルネ・ヴィヴィアーニ
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生涯
1863年11月、フランス領アルジェリアのシディ・ベル・アッベスで生まれた[1]。パリ大学法学部で学位を修得した後[2]、弁護士として名声を得て、1893年フランス代議院選挙でパリから出馬して、代議院議員に当選した[1]。1898年の選挙で再選した後、1902年の選挙で落選したものの、1906年の選挙で当選して議員に返り咲いた[2]。
1906年10月に第1次ジョルジュ・クレマンソー内閣に労働・社会保障大臣として入閣、1909年7月にアリスティード・ブリアンが首相に就任したときも続投した[1]。労働・社会保障大臣として労働者の週休、労働保険、既婚女性の賃金に関する法案を可決させた[2]。1910年4月の選挙でクルーズ県に鞍替えして再選した[2]。1910年10月、内閣の鉄道ストライキに対する態度に反対して大臣を辞任した[1]。これによりブリアンは内閣を改造せざるを得なかった[1]。

1911年(エルネスト・モニ)、1912年(レイモン・ポアンカレ)、1913年(ルイ・バルトゥー)に入閣の打診を辞退した後[2]、1913年12月の第1次ガストン・ドゥメルグ内閣で公共教育大臣を務めた[1]。1914年4月の選挙で再選した後、同年6月に閣僚評議会議長(首相)および外務大臣に就任した[1]。7月23日、サラエボ事件を受けてオーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に最後通牒を突き付けたとき、ヴィヴィアーニは大統領レイモン・ポアンカレとともにロシア帝国訪問の帰途にあり、本国に着くとフランスに侵略の意思がないことを示すべく、フランス軍を仏独国境から10キロメートル後方に下がらせた[1]。しかし事態の進展をみて態度を変え、8月1日に総動員を命じ、8月3日にドイツがフランスに宣戦布告すると、ヴィヴィアーニは内閣を改造して、自身を無任所大臣とした[2]。8月4日、議会でドイツからの宣戦布告を発表し、そのときの演説は「悲壮」と形容された[2]。
1915年10月に首相を退任して、代わりにブリアンが組閣すると、ブリアン内閣の司法大臣に就任した[1]。1917年3月のブリアン内閣崩壊とともに司法大臣を退任した[1]。1917年4月から5月にかけてジョゼフ・ジョフルとともにアメリカ合衆国を訪問して、アメリカを連合国側で参戦するよう説得した[2]。
1920年と1921年に国際連盟のフランス代表を務め、1921年にブリアンとともにワシントン会議に出席した[2]。1922年10月、クルーズ県から元老院議員に選出された[3]。
