レオニド・アンドレーエフ
1871-1919, ロシアの作家。(1871-1919)
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
法律を学び、モスクワでしばらく弁護士として働いた後、ジャーナリストとなった。当時の知識人の大半と同じく、1905年の革命に同情的であり『ルースカヤ・ヴォーリャ Русская воля』誌の有力な寄稿者であった。革命の失敗によって、保守的な勢力に転じた。1917年の革命後はドイツ、フランス、フィンランドへ逃れフィンランドで没した。
1897年に大学の卒業試験に合格した後、新聞『モスコフスキー・ヴェストニク』や『クーリエル』で裁判記事を執筆し、1898年には『クーリエル』に短編小説『バルガモートとガラスカ』を発表した。この作品はマクシム・ゴーリキーの注目を集め、ゴーリキーはアンドレーエフを文学者の集まりに紹介するとともに、後に出版社「知識(Знание)」へ参加するよう勧めた[1][2]。
20世紀初頭には短編小説や戯曲を相次いで発表し、ロシアを代表する作家の一人となった。1905年のロシア第一革命や日露戦争を背景として『赤い笑い』[注 1]などを発表し、国際的にも知られるようになった[3]。
その後、革命に対する立場は次第に変化し、1917年のロシア革命後はボリシェヴィキによる政権を批判した。革命後はフィンランドに移住し、1919年9月12日にフィンランドのムスタマキで死去した[4]。
人物
アンドレーエフは、興味を持ったものに極端なまでに熱中する性格だったと、同時代の作家コルネイ・チュコフスキーは回想している。ある時期にはヨットや航海に夢中になり、船員の服装をして海について語り続けるなど、生活そのものを船乗りのように変えてしまったという。また、蓄音機にも熱中し、チュコフスキーはその熱中ぶりを病気にたとえている[5]。
写真にも強い関心を持ち、特にカラー写真に熱中した。オートクロームによるカラー写真を撮影し、約400点のカラー・ステレオオートクロームが現存している。フィンランドの別荘では家族や友人、家屋、周囲の風景などを数多く撮影し、写真の現像のために暗室も設けていた[6]。
また、何かに興味を持つと、それを極端な規模まで追求する傾向があり、チュコフスキーはアンドレーエフについて「限界を意識しない」ことが際立った特徴だったと記している。フィンランドのクオッカラで友人たちとゴロドキに興じた際には、暗くなって遊べなくなるとランタンを灯して続けることを提案した。友人たちがランタンを壊すことを心配したにもかかわらず遊び続け、実際に最初の投球でランタンを破壊したが、アンドレーエフはすぐに別のランタンを灯すよう求めたという[7]。
作風
外国での紹介・評価
作品
- 『思想 Мысль』(1902年)
- 『深淵 Бездна』(1902年)
- 『かくあった Так было』(1906年)
- 『闇 Тьма』(1907年)
- 『飢餓王 Царь Голод』(1908年)
- 『七死刑囚物語 Рассказ о семи повешенных』(1908年)
- 『サーシカ・ジェグローフ Сашка Жегулёв』(1911年)
邦訳
- 『血笑記』二葉亭四迷訳 易風社 1908
- 『心 小説』上田敏訳 春陽堂 1909
- 『信仰 小説』中村吉蔵訳 杉本梁江堂ほか 1909
- 『人の一生』森鷗外訳 春陽堂 1911
- 『七死刑囚物語』相馬御風訳 海外文芸社 海外文芸叢書 1913
- 『アンドレエエフ戯曲選集 上巻』熊沢復六訳、1926 - 所収作品 飢餓王、アナテマ、大洋
- 『アナテマ』伊東六郎訳 泰平館書店 1913
- 『反逆者ユダ』西宮藤朝訳 赤坂書院 1914
- 『星の世界へ』小山内薫訳 籾山書店 1914
- 『星の世界に 全訳』守田有秋訳 日吉堂本店 1914
- 『露西亜現代文豪傑作集 第1編 アンドレーエフ傑作集』昇曙夢訳 大倉書店 1920
- 『救ひなき祈り』伊藤欽二訳 日本評論社出版部 1921
- 『アンドレエフ選集』宮原晃一郎訳 露西亜現代作家叢書 佐藤出版部 1921
- 『殴られる「あいつ」』吉田甲子太郎訳 玄文社出版部 1923
- 『アンドレエエフ戯曲選集』熊沢復六訳 原始社 1926-27
- 『隣人の愛』小山内薫訳 原始社 1926
- 『ラザルス』岡本綺堂訳 『世界怪談名作集』所収、改造社 1929
- 『深淵 他』昇曙夢訳 創元文庫 1952
- 『悪魔の日記』小平武訳 20世紀のロシア小説 白水社 1972
- 『霧の中』原卓也訳 「世界文学全集 60」集英社 1979、新編「ギャラリー 世界の文学15 ロシアⅢ」 1990