ロベール2世 (フランス王)

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ロベールは972年3月27日にオルレアンで生まれた。987年12月25日、ユーグ・カペーはオルレアンでロベールに対して共治王として戴冠させ、カペー家による王位世襲を諸侯に確認させた。[2]ロベール自身も即位後に長男ユーグに対して戴冠させたが、彼はロベール2世の崩御より先に薨去したため、王位を嗣いだのは次男アンリとなった。

ロベール2世は自身の結婚問題で一時ローマ教皇グレゴリウス5世によって破門されたことがあるにも拘らず、[3]「敬虔王」の名が示すとおり極めて信心深い王だった。[4]彼は宮殿の一角に礼拝所を作り、王服をまとって朝課晩課を行ったほか、異教徒に対して厳しい政策をとった。

当時のフランス王国は極めて狭い範囲しか統治していなかった。ロベール2世は王領を拡大すべく継承者不在となった諸侯領を併合しようとしたが、これは対立する継承権者との戦いを招いた。1003年ブルゴーニュ公領への出兵は強い抵抗を受け、教会の支援を得てこの地を手に入れたのは1016年だった。

ロベール2世の政策は多くの敵を作ったが、息子もその例外ではなかった。長男で共治王のユーグは自ら単独王となるべく反乱を起こした。ユーグは1025年に急死するが、続いて次男アンリと三男ロベールにも反乱を起こされた。敗れたロベール2世はパリからボージャンシーロワレ県)へ退却した。[5]そして1031年7月20日、ムランで息子と戦っている最中に戦死した。

結婚と子供

脚注

参考文献

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