Wikiwand AI

ヴァーティゴ・ツアー

From Wikipedia, the free encyclopedia

ヴァーティゴ・ツアー(英語: Vertigo Tour)は、アイルランドのロックバンド、U2が11枚目のスタジオ・アルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(2004年)を携えて、2005年から2006年にかけて行った世界コンサート・ツアーである。2005年3月28日にアメリカ合衆国サンディエゴで開幕し、2006年12月9日にハワイ州ホノルルのアロハ・スタジアムで行われた公演をもって終了した。全5レグ、131公演が行われた[1][2]。

初日 2005年3月28日
最終日 2006年12月9日
行程 5
概要 関連アルバム, 初日 ...
関連アルバム 『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』
初日 2005年3月28日
最終日 2006年12月9日
行程 5
公演数 131
総収入 3億8,900万ドル
エレヴェイション・ツアー
(2001年)
ヴァーティゴ・ツアー
(2005年–2006年)
U2 360°ツアー
(2009年–2011年)
閉じる

ツアーは、北米第1レグ28公演、ヨーロッパ32公演、北米第2レグ50公演、中南米8公演、オーストラリア、ニュージーランド、日本、ハワイを巡る太平洋地域13公演から構成された[1]。北米では主として屋内アリーナ、その他の地域では大規模なスタジアムを使用し、前回のエレヴェイション・ツアーで採用された観客との距離を縮めるステージ構成を発展させる一方、大型LEDスクリーンなどを用いた映像演出が導入された。

セットリストは『原子爆弾解体新書』の楽曲を中心としながら、「アイ・ウィル・フォロー」「ジ・エレクトリック・カンパニー」「アウト・オブ・コントロール」など初期の楽曲も取り上げられ、ツアー全体では60曲が演奏された[1]。また、ボノが推進していたアフリカの貧困・HIV/AIDS問題への取り組みも公演の重要な要素となり、「ブラディ・サンデー」「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」「ワン」などでは、宗教間の共存、人権、ONE Campaignなどに関連したメッセージや映像が組み込まれた。

2006年3月にはブエノスアイレス公演が3D映像で撮影され、後にコンサート映画『U2 3D』の中心的な素材となった。ツアーは興行面でも大きな成功を収め、約462万人を動員し、約3億8,900万ドルの興行収入を記録した。

背景

『原子爆弾解体新書』の成功

U2は2004年11月、11枚目のスタジオ・アルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』を発売した。同作はアメリカで発売初週に約84万枚を売り上げ、Billboard 200で初登場1位を獲得したほか、世界32か国で初登場1位を記録した[3]。アルバムからの先行シングル「ヴァーティゴ」も全英シングルチャートで1位を獲得し、アメリカではBillboard Hot 100に20週間ランクインした[4]。

アルバム発売に際してU2はAppleと提携し、「ヴァーティゴ」を使用したテレビCMに出演したほか、U2仕様のiPodや、バンドの楽曲446曲を収録したデジタル・ボックスセット『The Complete U2』を展開した。こうした大規模なプロモーションもアルバムとバンドへの注目を高め、U2は『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』とエレヴェイション・ツアーによって回復していた商業的地位をさらに強固なものとした[5]。

また、2005年と2006年のグラミー賞では、アルバムとその収録曲が対象となった9部門すべてを受賞し、「ヴァーティゴ」は最優秀ロック楽曲賞、『原子爆弾解体新書』は年間最優秀アルバム賞、「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」は年間最優秀楽曲賞を受賞した[3]。

ツアーの企画

『原子爆弾解体新書』に伴うツアーは、2001年のエレヴェイション・ツアー以来約4年ぶりの本格的な世界ツアーとして計画された。エレヴェイション・ツアーでは、1990年代のZoo TVツアーやポップマート・ツアーで展開した巨大なスタジアム・プロダクションから転換し、北米とヨーロッパを中心にアリーナへ戻ることで、バンドと観客との距離を縮める方向が採られていた。ヴァーティゴ・ツアーでもこの考え方は引き継がれ、北米公演では主としてアリーナを使用する一方、ヨーロッパ、中南米、オセアニアなどではスタジアム公演が組まれた[6][7]。

また、ツアーの構想には当時のボノの政治・社会活動が強く反映された。ボノはアフリカにおける貧困、債務、HIV/AIDS問題への取り組みを続けており、ヴァーティゴ・ツアーではこれらの活動がコンサートの演出にも組み込まれたることになった[8]。

ジ・エッジの娘の闘病とツアー計画

ツアー準備が進められていた2004年12月13日、U2がダブリンのゲイエティ・シアターで「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」のミュージック・ビデオを撮影していた際、ジ・エッジは当時7歳だった娘シアンが重病であるとの連絡を受けた。検査の結果、シアンは進行の速い白血病と診断されたが、治療可能であると医師から説明された。エッジと妻モーリー・スタインバーグはその後数週間、病院への通院、専門医との面会、治療方針の検討に時間を費やした。[9]

他のメンバーはエッジと家族を支援し、発表を予定していたヴァーティゴ・ツアーの日程をいったん無期限に延期するとともに、バンドのその他の予定も取り消した。しかし、シアンが治療に反応し始めたことに加え、家族にとって可能な限り通常の生活を維持することが望ましいとの判断から、エッジはツアーに参加することを決断した。ツアーの日程はシアンの治療を考慮して組み直された。[9]

チケット先行販売をめぐる混乱

ツアー開幕前には、U2の公式サイト「U2.com」を通じたチケットの先行販売をめぐって大きな混乱が起きた。U2はファンに年間40ドルの会費を支払ってU2.comへ加入することで、一般発売に先立ってチケットを購入できる機会と、良席への優先的なアクセスを提供すると告知していた。ところが、一般発売の5日前に行われた会員向け先行販売では、ステージ前方の49.50ドルの立見券を購入できない会員が相次ぎ、一部のファンは95ドルから165ドルの高額な指定席を購入するか、チケット自体を諦めざるを得ない状況となった[10]。

同時に、良席のチケットがeBayや二次流通業者を通じて1枚1,000ドルを超える価格で販売されていることも判明した。U2.comでは先行販売で提供できるチケット数に対して多すぎる会員登録を受け付けており、旧公式ファンクラブ誌『Propaganda』の購読者を優先するとしていたにもかかわらず、実際には抽選方式が導入されたため、転売目的の業者も有料会員となって先行販売に参加できる状態になっていた[10]。

問題はメディアでも報じられ、一部のファンからツアーのボイコットや法的措置を求める声が上がった。これを受け、ラリー・マレン・ジュニアはU2公式サイトにファンへの公開書簡を掲載し、問題の一部はバンド側の管理外で起きたものだったとしながらも、「一部はそうではなかった」と責任を認め、今後の先行販売で同様の問題を防ぐ方法を検討すると表明した[10]。

約10万人が2005年の先行販売のためU2.comに加入したとの推計もあり、年間40ドルの会費から単純計算すると約400万ドルの収入に相当した。当時、アーティストの公式ファンクラブを有料化し、チケットへの優先アクセスを特典とする方式は広がりつつあったが、コンサート業界誌『Pollstar』編集者のゲイリー・ボンジョヴァンニは、有料ファンクラブの最大の特典がチケットの優先購入である一方、転売業者もその権利を得るためにファンクラブへ加入するという問題を指摘している[11]。

ステージと演出

ステージ設計

ヴァーティゴ・ツアーのステージ

ヴァーティゴ・ツアーのステージは、長年U2のコンサート演出を担当してきたウィリー・ウィリアムズがショー・デザインを手掛け、建築家・舞台デザイナーのマーク・フィッシャーらが参加した。北米のアリーナ公演では、2001年のエレヴェイション・ツアーで使用されたハート型のキャットウォークを発展させた楕円形(ellipse)のキャットウォークがメインステージから客席へ張り出し、その内部にも観客を収容する構造となった。ボノはキャットウォークの先端や外周を頻繁に移動し、バンドと観客との距離を縮めるエレヴェイション・ツアー以来の設計思想が継承された[7]。

ステージそのものは比較的簡素に構成され、その代わりに照明と映像装置が演出の中心に置かれた。ステージ床にもLEDが埋め込まれ、曲に応じて床面そのものが発光するよう設計された。ツアー初日のサンディエゴ公演では、「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」のイントロとともにステージを取り囲む照明装置が点灯し、ボノは楕円形キャットウォークの先端から登場した[7]。

ヨーロッパなどのスタジアム公演では、アリーナ用のデザインをそのまま拡大するのではなく、大規模な屋外会場に対応したステージが用意された。ステージ後方には巨大な湾曲した映像スクリーンが設置され、2005年6月10日のブリュッセル公演では「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」の開始とともに、ステージ後方を覆っていた湾曲した金属状の幕全体が巨大なビデオスクリーンとして機能する演出が披露された[12]。

映像と照明

LEDのカーテン

アリーナ公演の視覚的な中心となったのが、ステージ上部から吊り下げられたLEDの「カーテン」である。これは多数の小型LED素子を連ねたBarcoのMiSPHEREシステムを使用したもので、通常の大型スクリーンのような平面ではなく、半透明の幕としてステージを包み込むことができた。ウィリアムズによれば、この装置の原型は彼とフィッシャーが、観客の視界を遮る巨大な構造物を使用せずにステージ上方の空間を映像で満たす方法を検討したことから生まれた。当初はLED素子を三次元的に配置する「video cloud」が構想され、その実験を経てMiSPHEREを用いたシステムへ発展した[13]。

このLEDカーテンは曲によって上昇・下降し、抽象的な色彩や図形、文字、メンバーの映像などを表示した。「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」では照明の壁としてステージを包み込み、ツアーを象徴する視覚効果の一つとなった。さらにステージ床にもLEDが組み込まれ、ステージ上部の映像と床面の照明を連動させることで、比較的簡素なステージ構造を曲ごとに異なる空間へ変化させた[14]。

映像は政治的・社会的メッセージを伝える手段としても利用された。「ブラディ・サンデー」から「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」に至る一連の演出では、ユダヤ教のダビデの星、キリスト教の十字架、イスラム教の三日月を組み合わせた「Coexist」の文字が表示された。また、「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」の終盤では世界人権宣言第1条がスクリーンに流された[15][8]。

ツアーでは映像技術と観客参加型の演出も結び付けられた。「ワン」の前後では、ボノが観客に携帯電話を取り出すよう呼びかけ、ONE Campaignへの参加を促すテキストメッセージ用の情報がスクリーンに表示された。映像装置は単なる舞台装飾ではなく、ヴァーティゴ・ツアーにおける政治的・社会的メッセージを伝達する装置としても機能した[16]。

セットリスト

セットリストは『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』の楽曲を中心としながら、バンドのほぼ全キャリアから選曲された。ツアー初日の2005年3月28日のサンディエゴ公演では、「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」で開幕し、「ヴァーティゴ」「ミラクル・ドラッグ」「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」「ラヴ・アンド・ピース・オア・エルス」「オール・ビコーズ・オブ・ユー」「ヤハウェ」など新作から7曲が演奏された[17]。

その一方、「ニュー・イヤーズ・デイ」「ブラディ・サンデー」「プライド」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」「ワン」「ビューティフル・デイ」など、過去のツアーで定番となっていた楽曲も引き続き演奏された。また、『アクトン・ベイビー』から「ズー・ステーション」「ザ・フライ」「ミステリアス・ウェイズ」などが組み込まれ、1990年代の楽曲と1980年代初期の作品を新作と並置する構成が特徴となった[1]。

セットリストはツアーを通じて固定されておらず、公演ごとに曲順や選曲が変更された。ツアー開始直後からバンドは曲順を試行錯誤しており、4月1日のアナハイム公演では「ラヴ・アンド・ピース・オア・エルス」がオープニングに移されるなど、ショー全体の流れについて実験が続けられた[18]。「ヴァーティゴ」はヨーロッパ公演などでオープニングと終盤の2度演奏されることもあり、2005年6月10日のブリュッセル公演では同曲で開幕し、約2時間15分後に再び同曲を演奏して公演を締めくくった[19]。

初期楽曲の復活

ヴァーティゴ・ツアーのセットリストで特徴的だったのが、1970年代末から1980年代初頭の楽曲の大幅な復活である。ツアー初日のサンディエゴ公演では、ボノが初期へ戻ることを観客に告げた後、デビュー・アルバム『ボーイ』から「ザ・クライ/ジ・エレクトリック・カンパニー」「アン・キャット・ダブ」「イントゥ・ザ・ハート」を連続して演奏した[20]。その後も「グロリア」「アイ・ウィル・フォロー」「アウト・オブ・コントロール」など初期の楽曲が公演ごとに入れ替えながら演奏された[21]。『U2 by U2』でメンバーは、こうした初期曲を再び演奏することによって、若い頃に書いた楽曲を現在の演奏能力と経験を通じて再発見したことを振り返っている[22]。

公演

第1レグ:北米

ツアーの様子

ヴァーティゴ・ツアーは2005年3月28日、カリフォルニア州サンディエゴのiPayOne Centerで開幕した。第1レグは5月28日のボストン公演まで北米のアリーナを巡り、全28公演が行われた[23]。オープニング・アクトは主にキングス・オブ・レオンが務めた[24]。

ツアー開始当初のセットリストでは『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』の楽曲が中心に据えられる一方、デビュー・アルバム『ボーイ』からの楽曲が多数復活した。「ザ・クライ/ジ・エレクトリック・カンパニー」「アン・キャット・ダブ」「イントゥ・ザ・ハート」「ジ・オーシャン」などが演奏され、「グロリア」「アウト・オブ・コントロール」なども日によってセットリストに加えられた。アダム・クレイトンによれば、当時は新作から7、8曲、『ボーイ』から5、6曲を演奏する複数のセットリストを用意し、公演ごとに使い分けていた。ジ・エッジも、初期の楽曲が再び自分たちに語りかけるように感じられ、数回のリハーサルですぐに演奏感覚を取り戻したと述べている[25]。

5月にはシカゴのユナイテッド・センターで4公演を行い、このうち5月9日と10日の公演が撮影された。映像は同年11月にライブDVD『ヴァーティゴ 2005 // ライヴ・フロム・シカゴ』として発売された。監督はハミッシュ・ハミルトンが務めた[25]。

第2レグ:ヨーロッパ

ツアーの様子

第2レグは2005年6月10日のブリュッセル、ボードゥアン国王競技場公演から始まり、8月14日のリスボン公演までヨーロッパ各地のスタジアムを巡った。全32公演が行われ、マンチェスター、ロンドン、ダブリン、パリ、アムステルダム、ミラノ、ローマ、ベルリン、バルセロナなどを訪れた[26]。

アリーナを中心とした第1レグからスタジアムへ移行したことに伴い、ステージと映像演出も大規模な屋外会場に合わせて変更された。また、セットリストの構成にも変化が加えられ、「ヴァーティゴ」をオープニングで演奏した後、アンコールの最後でもう一度演奏する構成が定着した。第2レグでは32公演で「ヴァーティゴ」が計62回演奏されている[26]。

6月24日、25日、27日には地元ダブリンのクローク・パークで3公演を開催した。初日の観客は約8万2,000人で、U2公式サイトは当時のツアーで最大の観客数だったとしている[27]。

ヨーロッパ・レグの途中には、ツアーとは別に2005年7月2日のLIVE 8ロンドン公演にも出演した。U2はハイド・パーク公演の冒頭に登場し、ポール・マッカートニーと「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を演奏した後、自らのセットを披露した。その日のうちにウィーンへ移動し、ヴァーティゴ・ツアーを再開した[28]。

7月20日と21日のミラノ、サン・シーロ公演も撮影され、その映像の一部は後に『Vertigo 05: Live from Milan』として発表された[29]。

第3レグ:北米

ツアーの様子

約1か月の休止を挟み、第3レグは2005年9月12日のトロント公演から開始された。12月19日のポートランド公演まで北米のアリーナを巡り、全50公演が行われた[30]。

このレグではセットリストの選択肢がさらに拡大し、全体で48曲の異なる楽曲が演奏された。「ミス・サラエボ」「ディスコテック」「ザ・ファースト・タイム」「ワイルド・ホーセズ」など、それまでのレグでは定番ではなかった楽曲も取り上げられたほか、「オリジナル・オブ・ザ・スピーシーズ」など『原子爆弾解体新書』収録曲の位置づけも変化していった[30]。

トロントでは9月12日から17日まで4公演を行い、その後シカゴ、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.、ロサンゼルスなどを巡った。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンではこのレグだけで複数回公演が行われ、セットリストにも頻繁な変更が加えられた[30]。

一方、ボノの政治活動はツアーの舞台裏にも入り込んだ。ワシントンD.C.公演のVIPエリアには政治家や政府関係者が訪れ、ボノはONE Campaignへの支持を訴え続けた。これに対し、ラリー・マレン・ジュニアはボノと政治家との関係が近くなりすぎていることに不満を抱いていたとされ、ワシントン公演ではボノがONE Campaignについて長く話している最中にドラム演奏を止め、腕時計でその時間を計るという抗議を行った[31]。

第4レグ:中南米

ツアーの様子

2006年に入るとツアーは中南米へ移り、第4レグは2月12日のモンテレイ公演から3月2日のブエノスアイレス公演まで行われた。メキシコで3公演、ブラジルで2公演、チリで1公演、アルゼンチンで2公演の計8公演が開催され、いずれも大規模なスタジアムが使用された[32]。

2月15日と16日にはメキシコシティのエスタディオ・アステカ、20日と21日にはサンパウロのエスタジオ・ド・モルンビーで公演を行い、26日にサンティアゴのエスタディオ・ナシオナル・デ・チリ、3月1日と2日にはブエノスアイレスのリーベル・プレート・スタジアムで演奏した[32]。

ブエノスアイレス公演は、後に公開される3Dコンサート映画『U2 3D』の主要な撮影地となった。3月1日の公演では3Dカメラがステージ上部などに配置され、観客を含む公演全体が撮影された[33]。『U2 3D』には中南米レグで撮影された100時間以上の映像が使用され、その中心となったのがブエノスアイレスでの2公演だった[34]。

当初、この後にはニュージーランド、オーストラリア、日本、ハワイを巡る日程が続く予定だった。しかし、メンバーの近親者の病気を理由として、3月8日に残る10公演の延期が発表された。当時発表されていた日程には、オークランド、ブリスベン、メルボルン、アデレード、シドニー、横浜、ホノルルが含まれており、すべて完売していた[35]。後に、延期の理由はジ・エッジの娘シアンの治療に伴うものだったことが明らかになった[36]。

第5レグ:オセアニア・日本・ハワイ

ツアーの様子

約8か月の中断を経て、ヴァーティゴ・ツアーは2006年11月7日のブリスベン公演から再開された。第5レグではオーストラリアで7公演、ニュージーランドで2公演、日本で3公演、ハワイで1公演の計13公演が行われた[37]。

当初2006年3月から4月に予定されていた公演は、ジ・エッジの娘シアンの治療のため延期されていた。治療にはAngiogenesis Foundation会長のウィリアム・リー医師が関わっており、エッジは後にリーが娘の命を救ったと述べている[36]。再開後、バンドはオーストラリアのゴールドコーストを拠点とし、ブリスベン、シドニー、アデレード、メルボルンを巡った[38]。

ニュージーランドのオークランドで2公演を行った後、U2は日本へ移動した。当初は4月4日に日産スタジアムで公演を行う予定だったが、延期後の日程では会場がさいたまスーパーアリーナへ変更され、11月29日、30日、12月4日の3公演が開催された。日本でU2が公演を行ったのは1998年のポップマート・ツアー以来約8年ぶりだった。12月4日のさいたま公演では「ヴァーティゴ」がオープニングと終演時の2回演奏され、このツアーでヨーロッパ公演などに用いられていた構成が日本でも採用された。[37]

ツアー最終公演は2006年12月9日、ハワイ州ホノルルのアロハ・スタジアムで行われた。オープニング・アクトをパール・ジャムらが務め、ショーの開始前にはヴァーティゴ・ツアーの全公演を振り返る映像が上映された。U2公式サイトは、このホノルル公演をツアー131公演目として記録している[39]。

最終公演では「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」で幕を開け、「ヴァーティゴ」「エレヴェイション」「アイ・ウィル・フォロー」などが演奏された。アンコールではビリー・ジョー・アームストロングが登場し、U2とグリーン・デイがハリケーン・カトリーナ被災地支援のために録音した「セインツ・アー・カミング」を共演したほか、エディ・ヴェダーとマイク・マクレディもステージに加わった。こうして2005年3月のサンディエゴ公演から約20か月に及んだヴァーティゴ・ツアーは終了した[40]。

政治的・社会的メッセージ

ONE Campaign

ツアーの様子

ヴァーティゴ・ツアーでは、ボノが当時進めていたアフリカ支援活動がコンサートの演出に直接組み込まれた。特に北米公演では、2004年に設立されたONE Campaignへの参加を観客に呼びかける場面が「ワン」の前後に設けられた。ボノは観客に携帯電話を取り出すよう促し、スクリーンに表示された番号へテキストメッセージを送ってキャンペーンに登録するよう呼びかけた。2005年5月17日のニュージャージー公演では、登録した観客の名前がスクリーンに表示され、U2公式サイトによれば、この時点でキャンペーンへの登録者は60万人を超えていた[41]。

ボノはこの場面で、個々の観客による参加を政治的圧力へと結び付けようとした。4月28日のバンクーバー公演では、カナダ政府に国民総所得の0.7%を開発援助に充てるよう求める運動を取り上げ、観客に当時の首相ポール・マーティンへ電話をかけるよう促し、首相府の電話番号をスクリーンに表示した。これは、Zoo TVツアーでボノが政治家へステージ上から電話をかけた演出を、携帯電話を持つ観客全体へ拡張したものでもあった[42]。

2005年10月のワシントンD.C.公演では、ボノはONE Campaignへの参加者が100万人を超えたと報告し、債務削減やHIV/AIDS治療の拡大といった成果に言及した。この時期には公演のVIPエリアにも多数の政治家や政府関係者が訪れ、ボノの政治活動とU2のツアーとの境界はさらに曖昧になっていた[43][31]。

こうした演出については、政治活動をロック・コンサートに持ち込みすぎているとの批判もあった。ボノがONE Campaignについて長時間語ることで、公演が政治集会のようになるとの反応もあり、ラリー・マレン・ジュニアもボノの政治活動がバンドの公演を圧迫することに不満を抱いていた。ワシントンD.C.公演では、ボノがONE Campaignについて演説している最中に、ラリーが演奏を止めて腕時計でその時間を計ったとされる[8][31]。

「Coexist」と宗教間の共存

Coexistの文字

ツアーの中盤では、「ラヴ・アンド・ピース・オア・エルス」「ブラディ・サンデー」「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」を連続して演奏する構成が採られ、宗教対立、戦争、暴力を題材とする一連の演出が行われた。その象徴となったのが「Coexist」の文字である。「C」にイスラム教の三日月、「X」にダビデの星、「T」にキリスト教の十字架を組み込み、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共存を象徴するデザインがスクリーンに表示された。[44]

「ブラディ・サンデー」では、ボノ自身も三つの宗教のシンボルを描いた白いヘッドバンドを身につけ、「Jesus, Jew, Mohammed ... all sons of Abraham」と歌詞を変更し、三宗教がアブラハムを共通の祖とすることを強調した。続く「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」では、ボノがヘッドバンドを目隠しのように下ろして跪き、両手を拘束された囚人のような姿勢を取る一方、背後のスクリーンには戦闘機などの映像が流された。[44]

この「Coexist」の演出は特定の宗教や国家を支持するというより、アメリカ同時多発テロ事件以降に強まった宗教的・政治的対立の中で、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共通性を訴えることを意図したものであった。ツアーを通じて「Coexist」は繰り返し使用され、ヴァーティゴ・ツアーを代表する視覚的モチーフの一つとなった。[45]

イラク戦争と人権問題

アフリカ各国の国旗

「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」を中心とする演出には、2003年に始まったイラク戦争と、その後明らかになったアブグレイブ刑務所における捕虜虐待への批判も盛り込まれた。ボノが目隠しをして跪く演出は、拘束された囚人を想起させるものとなり、「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」の終盤では「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」の一節も挿入された[44]。

その後の「ランニング・トゥ・スタンド・スティル」では、スクリーンに1948年に国際連合で採択された世界人権宣言の条文が流された。一方、ボノは同曲をアメリカ軍兵士に捧げることもあり、アメリカ政府の政策を批判しながら、兵士個人を攻撃するものではないことを示そうとした[46]。

「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」では、従来の赤い映像背景に代わり、アフリカ各国の国旗がスクリーンに表示されることがあり、ボノはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの夢はアメリカだけにとどまらず、世界全体を包み込むものだったと語った。こうして人権、宗教間の共存、戦争、アフリカ問題は、それぞれ独立したメッセージではなく、ショー後半を通じて連続する一つの物語として構成された[46]。

アフリカ支援とMake Poverty History

2005年のヨーロッパ公演では、アメリカで展開していたONE Campaignと並行して、イギリスを中心に広がっていた「Make Poverty History」運動がより前面に出された。Make Poverty Historyは、2005年にイギリスがG8議長国を務める機会を利用し、公正な貿易(trade justice)、開発途上国の債務帳消し、より多く、より良い援助(more and better aid)を各国政府に求めた連合キャンペーンであった[47][48]。

キャンペーンは、同年7月にスコットランドのグレンイーグルズで開催されたG8サミットを重要な政治的機会と位置づけ、サミットに先立つデモ、集会、白いリストバンドを用いた運動、LIVE 8などを通じて世論を喚起し、G8首脳に貧困対策への具体的な約束を迫った。[49]

ボノはツアー中にも各国政府へ開発援助の拡大を求めた。ノルウェー公演では、同国が他国に比べて高い水準の開発援助を行っていることを称賛し、「この種の貧困は止めることができる」と観客に語った[50]。

ウィーン公演ではボノが、1985年のライヴエイドに象徴される「慈善」から、2005年のLIVE 8が掲げる「正義」への転換を強調し、Make Poverty Historyについて、単なるスローガンではなく実現可能な目標であると語った[50]。

同年7月のG8サミットでは、最貧国への債務削減やアフリカ向け援助拡大などが合意され、ボノはこれを大きな前進として評価した。その後もヴァーティゴ・ツアーでは、ONE CampaignやMake Poverty Historyへの参加を呼びかけ続けた。一方、G8合意の内容については、アフリカの活動家や開発NGOから不十分との批判もあり、ボノやボブ・ゲルドフが合意を高く評価しすぎたとの指摘も出た[51]。

このようにヴァーティゴ・ツアーでは、政治的メッセージは楽曲間の短い発言にとどまらず、セットリスト、映像、携帯電話を利用した観客参加、ステージ上の宗教的シンボルなどと結び付けられた。その結果、アフリカ支援と人権問題はツアーを特徴付ける重要な要素となった一方、ボノの政治活動が音楽そのものを覆い隠しているとの批判も生じた[8]。

映像作品

『ヴァーティゴ 2005 // ライヴ・フロム・シカゴ』

『ヴァーティゴ 2005 // ライヴ・フロム・シカゴ』は、2005年5月9日および10日にシカゴのユナイテッド・センターで行われた公演を収録したコンサート映像作品である。ハミッシュ・ハミルトンが監督を務め、同年11月14日にDVDとして発売された[25][52]。

本編は「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」から「40」まで全23曲を収録している。『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』の楽曲に加え、「ジ・エレクトリック・カンパニー」「アン・キャット・ダブ」「イントゥ・ザ・ハート」など、ヴァーティゴ・ツアーで久しぶりに演奏された初期の楽曲も収められた[25]。

2枚組版では、第1ディスクにコンサート本編、第2ディスクにツアーの舞台裏を追ったドキュメンタリー『Beyond the Tour』などが収録された。また、ショー・ディレクターのウィリー・ウィリアムズが考案した「Surveillance Cuts」では、4台の遠隔操作式白黒赤外線監視カメラを使用し、「ラヴ・アンド・ピース・オア・エルス」「アン・キャット・ダブ/イントゥ・ザ・ハート」「ジ・エレクトリック・カンパニー」「ランニング・トゥ・スタンド・スティル」を通常のコンサート映像とは異なる視点から収録している[53]。

『Vertigo 2005: Live from Milan』

ヨーロッパ公演では、2005年7月20日および21日にミラノのサン・シーロで行われた公演が撮影された。この公演では映像収録を考慮し、ステージがスタジアムのゴール裏ではなくピッチの長辺側に設置され、約7万5000人の観客を背景に収めることのできる配置が採られた[54]。

この公演から10曲を収録した映像作品『Vertigo 2005: Live from Milan』は、2006年発売のベスト・アルバム『U218 Singles』デラックス版の特典DVDとして発表された。収録曲は「ヴァーティゴ」「アイ・ウィル・フォロー」「エレヴェイション」「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」「オール・アイ・ウォント・イズ・ユー」「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」「ミス・サラエボ」「オリジナル・オブ・ザ・スピーシーズ」「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」である[55]。

『U2 3D』

『U2 3D』は、ヴァーティゴ・ツアーの中南米公演を中心に撮影されたデジタル3Dコンサート映画である。長年U2の映像・舞台制作に携わってきたキャサリン・オーウェンズとマーク・ペリントンらによって制作され、ツアー中に撮影された100時間以上の映像が素材として使用された。特にブエノスアイレスで約7万5000人を集めた2公演の映像が作品の中心となった[56]。

従来のコンサート映画とは異なり、デジタル3D技術を全面的に使用して、ステージ上のバンドだけでなく、観客や巨大なスタジアム空間そのものを立体的に表現することが企図された。撮影はヴァーティゴ・ツアーの中南米公演を中心に行われ、複数の公演から収録された映像を組み合わせて一本のコンサートとして構成された[57]。

2007年5月にはカンヌ国際映画祭で上映され、これに合わせてU2はパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレの赤絨毯が敷かれた階段で短いライブ・パフォーマンスを行った。その後、2008年に劇場公開され、世界興行収入は2600万ドルを超えた[56]。

興行成績

ヴァーティゴ・ツアーは商業的に大きな成功を収めた。2005年に行われた90公演はすべて完売し、300万人以上を動員、興行収入は約2億6000万ドルに達し、『ビルボード』の年間ツアー興行収入ランキングで首位となった[58]。

なかでも2005年6月24日、25日、27日にダブリンのクローク・パークで行われた3公演は計24万6743人を動員し、興行収入は約2116万ドルに達した。この公演は『ビルボード』の「Boxscore of the Year」に選ばれた[58]。初日の6月24日公演だけでも約8万2000人を集め、当時のツアー最大の観客数となった[27]。

最終的にツアーは2005年3月28日から2006年12月9日まで5レグ、131公演に及び、約461万9000人を動員、総興行収入は約3億8900万ドルに達した。これは当時のロック・ツアーとして史上有数の興行成績であり、U2にとってもそれまでで最大規模のツアーとなった[59]。

評価

ヴァーティゴ・ツアーは興行面で成功した一方、その内容については評価が分かれた。『エレヴェイション・ツアー』で確立したバンドと観客との距離を縮めるステージ構成を発展させ、北米のアリーナ公演では楕円形のランウェイを利用してメンバーが観客の中へ入り込む演出が採用された。また、初期の「ジ・エレクトリック・カンパニー」「アン・キャット・ダブ」「イントゥ・ザ・ハート」などがセットリストに復活したことも、ツアーの特徴となった。

一方、イギリスの音楽評論家、ジョン・ジョブリングは、ステージ設計がエレヴェイション・ツアーと類似しており、1990年代のU2のツアーに見られた危険性や美的な独創性が弱まったというファンの反応を紹介している。ただし、北米の屋内公演で使用された巨大なLEDカーテンについては、従来のU2のステージにはなかった重要な視覚的要素としている[60]。

また、ボノによるONE Campaignへの参加呼びかけや、アフリカ支援、宗教間の共存、イラク戦争、人権問題を扱った長いスピーチについても賛否が分かれた。ジョブリングは、これらの政治的メッセージが公演の流れを停滞させ、ロック・コンサートというより政治集会のように感じられる場面があったと批判している[8]。

ツアー日程

ヴァーティゴ・ツアーは5つのレグに分けて行われた。2005年3月28日にサンディエゴで開幕し、第1レグは北米のアリーナ、第2レグはヨーロッパのスタジアム、第3レグは再び北米のアリーナを巡った。2006年には第4レグとして中南米を訪れた後、第5レグでオセアニア、日本、ハワイを巡り、同年12月9日のホノルル公演で終了した[1]。

当初、第5レグのオセアニア公演は2006年3月から4月に開催される予定だったが、ジ・エッジの家族の病気により延期され、同年11月から12月に組み直された。延期された日程にはオーストラリア、ニュージーランド、日本などが含まれ、最終公演は12月9日にホノルルのアロハ・スタジアムで行われた[1]。

さらに見る レグ, 地域 ...
レグ 地域 期間 公演数
第1レグ 北米 2005年3月28日 - 5月28日 28
第2レグ ヨーロッパ 2005年6月10日 - 8月14日 32
第3レグ 北米 2005年9月12日 - 12月19日 50
第4レグ 中南米 2006年2月12日 - 3月2日 8
第5レグ オセアニア・日本・ハワイ 2006年11月7日 - 12月9日 13
合計 131
閉じる

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks