上野直昭
From Wikipedia, the free encyclopedia
1882年(明治15年)、上野昭道の長男として神戸市に生まれた。慶應義塾幼稚舎[1]、東京正則中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)を卒業。
1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで、美学者である大塚保治教授の主宰する東京帝大文科大学美学研究室の副手をつとめた。その在任中の1916年(大正5年)に東照宮三百年祭記念会が帝国学士院に委托した研究費の補助を得て、絵巻物の調査研究に当たった。
1920年(大正9年)4月以降、東京女子大学講師をつとめ、1924年(大正13年)10月には京城帝国大学予科講師となったが、同月、美学・美術史研究のため満2年間欧米(ドイツ・イタリア・ギリシャ・アメリカ合衆国)在留を命ぜられ、翌11月出発。1927年3月帰国し、京城帝大教授(1926年4月任命)として美学美術史第一講座を担任し、1941年(昭和16年)1月まで在職した。その在任期間中、1930年(昭和5年)2月から1931年(昭和6年)7月まで交換教授としてドイツに赴き、ベルリン大学で日本美術史を講じ、1932年(昭和7年)5月から1935年(昭和10年)4月までは九州帝国大学教授を兼任して法文学部美学美術史講座を担任。1935年(昭和10年)5月から1937年(昭和12年)8月までは京城帝大法文学部長の職に在った。
1941年(昭和16年)2月から1944年(昭和19年)5月まで大阪市立美術館館長をつとめた。同年6月、東京美術学校長に就任と同時に工芸技術講習所[2]所長を兼任した。
太平洋戦争終結後の1949年(昭和24年)、東京芸術大学発足とともに学長となり、1961年(昭和36年)まで在職した。また1949年(昭和24年)には半年間国立博物館長もつとめた。1966年(昭和41年)、愛知県立芸術大学の創立に際して学長に就任、逝去の前年までその職に在った。
文化財保護の点では、1940年(昭和15年)に国宝保存会委員となり、1952年(昭和27年)文化財保護審議会専門委員を辞するまで、国の文化財保護事業に参画。1946年(昭和21年)、学術上、研究教育上の功績により帝国学士院会員に選出された[3]。また、1954年(昭和29年)以降、宮殿用絵画揮毫者の人選を任されている[4]。
1973年(昭和48年)4月11日、心不全のため、国分寺市の自宅にて死去。
受賞・栄典
研究内容・業績
- 日本の絵巻物や東洋と西洋の美術比較等に造詣が深かった。
- 美学・美術史学者としての研究活動に加えて、後進を育成する大学の教育、ならびに美術館・博物館の運営と文化財の保護に尽力した。
家族・親族
- 妻・ひさ(旧姓 田中) - (1893年10月-1997年)103歳没[5]。東京音楽学校卒業、ヴァイオリニスト、上野学園大学名誉教授[6]。1910年東京音楽学校入学、1916年3月研究科を修了、同年11月上野直昭と結婚、翌1917年にはピアノ専攻で研究科に再入学し、後進の指導にあたる。直昭が京城帝国大学の教授就任時には、京城管絃楽団と共演[7]。
- 長女・マリ - 美術史家吉川逸治の妻となる[8]。
- 二女・アキ - (1922年-2014年)92歳没。美術史家、東京文化財研究所名誉研究員。共同研究により1960年日本学士院恩賜賞受賞[9][10]。
- 義姉(妻の姉)・宇川ろく(旧姓 田中) - (1886年-1948年)62歳没。1903年東京音楽学校に入学、本科でピアノを専攻、研究科を1909年修了[11]。
- 伯父(母の兄)・九鬼隆一 [12]。