下村宏

日本の新聞経営者、政治家、歌人 From Wikipedia, the free encyclopedia

下村 宏(しもむら ひろし、1875年明治8年〉5月11日 - 1957年昭和32年〉12月9日)は、明治大正昭和法学博士逓信官僚台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。

生年月日 1875年5月11日
出生地 日本における郵船商船規則の旗 日本和歌山県名草郡和歌山城下駕町(現:和歌山市
没年月日 (1957-12-09) 1957年12月9日(82歳没)
概要 生年月日, 出生地 ...
閉じる

玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。

略歴

和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。

和歌山中学第一高等学校[1]から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。北京郵便局長などをつとめる[2]。その後郵便貯金の実務を学びにベルギーへ留学し[3]帰国後に郵便貯金局長(1909年・明治42年)[4]、為替貯金局長(1913年大正2年)[5]となる。1915年(大正4年)に台湾総督府明石元二郎に招かれて民政長官[6]となり、更に総務長官(1919年・大正8年)となる。1915年(大正4年)から1919年(大正8年)には鉄道部長をも兼務する。台湾総督府時代には、八田與一を支援し嘉南大圳の建設に貢献した。

1921年(大正10年)に台湾総督府を退官[7]すると朝日新聞社に入社、専務・副社長を歴任した。1923年(大正12年)2月6日、早稲田大学で科外講義の講師を務めた[8]1937年(昭和12年)1月12日に貴族院議員に勅選され[9][10](1946年2月22日まで在任[11])、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任。1942年(昭和17年)、日本文学報国会理事、第1回大東亜文学者大会座長。1943年(昭和18年)5月15日に社団法人日本放送協会会長となり、1945年(昭和20年)4月7日に鈴木貫太郎内閣国務大臣内閣情報局総裁)となる。

1945年(昭和20年)ポツダム宣言後の8月1日に、久富達夫次長から「終戦するには、陛下に自らマイクの前に立って放送していただく。陛下が国民に直接終戦を宣言させる。」という発案を受け、川本信正秘書官を通じて、下村から昭和天皇上奏するための調整を佐藤朝生内閣官房総務課長へ要請する[12]8月8日、昭和天皇に拝謁して情報局の現場や政情等を奏上。この中で、「和戦いずれにしても聖断を仰ぐべき時なり」という考えを国民の心持ちとして伝え決断を促した[13]

終戦直後の12月2日連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し下村を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[14]戦犯容疑者として巣鴨拘置所に勾留された後に釈放。公職追放を受け、東京商業学校(現ドルトン東京学園中等部・高等部)の運営に関わりながら1953年(昭和28年)の参院選に無所属で出馬するも落選に終わっている。

1957年(昭和32年)12月9日、死去。同月12月11日大田区田園調布の自宅を勅使が訪問し、祭粢料を賜った[15]。墓所は青山霊園(1ロ20-6)。

主な主張

下村氏は「人種改良を国策に」「障害者や犯罪者は断種すべき」と強く主張し、1937年(昭和12年)に貴族院議員になり、その3年後に政府は「優生保護法」の前身となる「国民優生法」を成立させる。「世紀の悪法」として知られる「優生保護法」は、約1万6000人にも上る障害者が不妊手術を強制的に受けさせられた人権問題へと発展していった。

1933年(昭和8年)に児童養護協会が出した雑誌『児童を護る』の中で、こう持論を展開している。

私は今日日本の国策の基本はどこに置くかといへば、日本の人種改良だらうと思ひます。この點から見ますると、どうも日本の人種改良といふ運動はまだ極めて微々たるものである。それでは一體その他の改良といふことは日本ではやらんのかといへば、人種改良の方は存外無関心であるが、馬匹改良はやつて居る。豚もだんだん良い豚にする。牛も良い牛にする。牛乳の余計出る乳牛を仕入れる。

家族

歌人

和歌山県串本町潮岬の下村宏歌碑

歌人としては1915年に佐佐木信綱主宰の竹柏会に入会し、竹柏会の「心の花」に多くの作品を寄せると共に生涯に5冊の歌集を出した。1921年、兵庫県西宮市の苦楽園に邸宅を構え「海南荘」と称して約15年間ここに住み、その間、佐佐木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催した。

玉音放送

1945年8月15日正午、昭和天皇による玉音放送に際し、情報局総裁として本放送の前後に言葉を述べた。

栄典

位階
勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
閉じる
外国勲章佩用允許
さらに見る 受章年, 国籍 ...
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1925年(大正14年)12月25日 支那共和国 二等嘉禾章中国語版[38]
1926年(大正15年)9月16日 フランス第三共和政 フランス共和国 レジオンドヌール勲章コンマンドール[39]
1941年(昭和16年)12月9日 満洲国 満洲帝国 建国神廟創建記念章[40]
閉じる

著作等

論文
著書
講演
  • 「新聞の功罪」(1925年3月、社団法人東京放送局より放送)
社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協会、1925年11月、23~30頁

下村を描いた作品

ギャラリー

出典

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI