下関通り魔殺人事件
1999年に山口県下関市で発生した無差別殺傷事件
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下関通り魔殺人事件(しものせきとおりまさつじんじけん)は、1999年(平成11年)9月29日に山口県下関市の西日本旅客鉄道(JR西日本)下関駅において発生した通り魔事件である[4][5]。最高裁においてはJR下関駅無差別殺傷事件と称される[5]。
| 下関通り魔殺人事件 | |
|---|---|
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| 場所 |
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| 日付 |
1999年(平成11年)9月29日[4] 午後4時25分頃[3] (UTC+9) |
| 標的 | 民間人[4] |
| 攻撃手段 | 乗用車ではねる・包丁で切りつける[3] |
| 武器 | |
| 死亡者 | 5人[5] |
| 負傷者 | 10人[5] |
| 犯人 | 男U(事件当時35歳)[3] |
| 動機 | 社会に対する憎悪[5] |
| 攻撃側人数 | 1人[3] |
| 対処 | Uを山口県警察鉄道警察隊が現行犯逮捕[3] |
| 訴訟 | Uに対して遺族と被害者に損害賠償計1億7200万円の支払いを命じた(控訴審判決・最高裁の上告棄却決定により確定)[6][7] |
| 刑罰 | 死刑(第一審判決・最高裁の上告棄却判決により確定 / 執行済み)[8][9][10] |
| 管轄 | |
概要
事件発生
1999年9月29日午後4時25分頃、加害者である運送業の男U(当時35歳)がレンタカーの乗用車(8代目マツダ・ファミリア)に乗ったままJR下関駅東口駅舎のガラスのドアを突き破って駅構内の自由通路に車ごと侵入[注 1]、そのまま売店や多数の利用客などの存在する駅構内を約60メートル暴走して7人をはねた[4][3][5]。その後車から降り、包丁を振り回しながら改札[注 2]を通過し、2階のプラットホームへと続く階段を上る途中で1人に切りつけ、プラットホームに上がってからさらに7人に無差別に切りつけた[4][3][15]。Uは駅員に取り押さえられ山口県警察鉄道警察隊に現行犯逮捕された[4][16]。
犯人
本事件の犯人U・Yは1964年(昭和39年)3月6日に山口県下関市で生まれ[17][18]、地元の小学校と中学校を卒業後、1979年(昭和54年)4月、高等学校に入学した[18][20]。
Uは将来医師になることを志し、九州大学医学部進学を目指したものの、大学共通第1次学力試験の成績が悪かったため、医学部受験を諦め、1982年(昭和57年)の高校卒業時には九州大学大学理学部を受験したが不合格となった[18]。そのため、北九州市内の予備校に通い、翌年の大学共通第1次学力試験では医学部に合格できる可能性のある得点に達したものの、確実に合格できるようにという父親の指示に従い、九州大学工学部建築学科を受験し、1983年(昭和58年)3月に合格した[11][18][20]。大学合格後、Uは福岡市内に部屋を借りて通学するようになったが、友人もあまりできず、次第に他人と視線が合っただけで相手が自分を嫌っているのではないかなどと考え悩むようになり、自己が対人恐怖症であると思うようになった[18][20]。
1987年(昭和62年)3月に九州大学工学部建築学科を卒業したが[注 3]、社会生活における人間関係を嫌って卒業間近になっても就職活動も全くしない状態であり、下関市の実家に帰って引きこもり、無為に過ごしていた[11][18]。その後、次第に対人恐怖症を治療しようとの気持ちを持ち始めたため、陰陽療法などの民間療法を受けたり、1988年(昭和63年)2月から5月ごろまで東京都新宿区にあった病院に入院して治療を受けたが、十分な改善効果は得られなかった[18][20]。しかし、医師の勧めもあって退院後、大学時代に生活していた福岡市内で就職することとし、同年5月から精神科に通院しながらいくつかの会社で働いたが、苦手な人間関係に悩み、いずれも長続きしなかった[18][20]。
1989年(平成元年)4月から福岡市内の建築設計事務所に就職したが、所長とUの2人だけの職場であり、しかも所長が営業担当であり、Uが対外的な折衝をする必要もなかったことなどから、対人関係に悩まされることもなくなり、通院治療の効果もあって精神的に落ち着き始めた[18][20]。その後、1990年(平成2年)ごろから対人恐怖や視線恐怖の症状は軽減するようになり、1991年(平成3年)には通院しなくても日常生活を送れるようになった[18][20]。
1991年(平成3年)12月ごろから結婚相談所の紹介で知り合った女性と交際を始め、1992年(平成4年)4月、女性と会う機会を増やしたいとの思いから女性が住んでいた久留米市内に転居した[18][20]。そして、同年8月ごろに建築設計事務所を退職し、一級建築士の資格取得をめざして合格し、同年12月、福岡市内にある建築構造設計事務所に就職した[18][20]。
しかし、所員5人の職場であったため、人間関係の煩雑さや事務所への通勤に長時間かかったことなどから次第に対人恐怖や視線恐怖の症状が出始め、1993年(平成5年)2月8日から再び精神科に通院するようになり、生活環境を変えるために父親の援助を受ける等して福岡市内のマンションへ転居した[18][20]。更にUは福岡市内で設計事務所を独立開業し、主に以前勤務していた建築設計事務所から仕事の紹介を受けるようになって事務所の仕事も順調に始まり、通院によって上記症状が少しずつ改善したこともあって同年9月、ニュージーランドで女性と挙式し、同年10月から福岡市内のマンションで新婚生活を始めるに至った[18][20]。
Uの仕事や結婚生活はしばらくの間は大きな問題もなく経過していたが、1995年(平成7年)、些細なことから仕事を貰っていた建築設計事務所の所長と喧嘩となり、事務所から仕事を回して貰えなくなった[18][20]。このため、収入が半減し、営業活動を嫌って仕事の注文を獲得できなかったこともあって次第に仕事や収入が減り、 1997年(平成9年)頃に事務所は事実上の廃業状態になったため、妻が働きに出て得た収入やUの実家からの仕送りなどによってようやく生計を立てる状態となった[18][20]。Uはこのような自分を情けないとして嫌悪すると共に周囲の人間が自分を軽蔑しているに違いないと思い込んで苛立ちを募らせるようになり、新婚旅行で行ったニュージーランドであれば煩雑な人間関係から逃れられると考え、ニュージーランドへ移住する計画を立てたりしたが、英会話が上達しなかったことからその実現は困難と感じるようになっていった[18][20]。そして、Uは将来に対する不安が膨らみ、建築設計の仕事を続けることはおろか1998年(平成10年)1月中旬ごろにはニュージーランドへ移住することも諦めて実家に戻ることにし、妻も一旦は了承した[18]。ところが、Uの妹が出産のため里帰り中であったため、両親から実家に戻ることについて断られてしまい、そのことを知った妻が一転してニュージーランド移住を強く望んだことから、同年2月、Uは妻を残し実家に戻った[18][20]。
実家に戻った後、Uは妻と別居状態になったのは妹が長期間里帰りしており、両親が同居を認めなかったことが原因だとして気に入らないことがあると、母親を小突いたり、家の物を壊したりして暴力を振るうようになり、両親を怒鳴ったりするようになった[18]。一方で同年3月から精神科で治療を受け始めると共に、実家の農業の手伝いを始めた[18]。そして、ニュージーランド渡航の意思が固い妻と話し合い、妻が単身でニュージーランドに赴き、1年間暮らした後、帰国してUの実家で一緒に生活するということで折り合いが付いたため、同年5月、妻はニュージーランドに出国した[18]。同年末ごろまでUは農作業をしながら生活していたが、対人恐怖、視線恐怖、音に対する過敏症状が相当程度軽減したこともあって、定職に就いて妻の帰国を待とうと考え、職を探したところ、個人軽貨物運送業者の募集を知り、同年10月ごろ、その事業説明会に参加した[18]。説明会に参加した後、Uは、運送業であれば営業や交渉が不要なので、自分に向いた仕事であると考え、荷主の紹介などを業務とする会社と契約し、160万円のローンを組んで軽トラックを購入した[18]。
1999年(平成11年)2月に運送業を始めたが、同年6月には単身でニュージーランドに渡航していた妻が帰国して離婚を切り出され、さらに9月には台風18号で軽トラックが冠水し使用不能になったため、ローンの残債約130万円がそのまま残り、移住資金のための貯蓄計画にも狂いが生じる等と考えるうちに運送業を継続する意欲を失った[21][22]。
Uはニュージーランドへ移住してこの状況から抜け出そうと考えて、父親に軽トラックのローンの肩代わりと移住費用を無心したが断られ、ローン返済のために実家の車で運送業を続けるよう説得された[21][22]。「何をやってもうまくいかない」と思うようになったUは、その責任が両親と社会にあると考え、本件での犯行に及んだ[21][15][23][24]。
Uは当初、人通りの多い日曜を選んで10月3日に決行しようとし、9月28日に包丁を購入するとともに下関駅周辺を下見し、運転する自動車で駅東口歩道からコンコース内に突入して多数の歩行者を次々と跳ね飛ばす等して殺害し、自動車から降りた後、改札口からホームに上がって電車を待ってホームにいる多数の人々を包丁で次々と突き刺す等して殺害することにより10人以上の人々を殺害しようと具体的な犯行方法を策定していた[21][22][25]。そして、帰宅後、自室のカレンダーの10月3日の欄に死んで人生の舞台から退場するという意味を込めて「スクランブルアウト」と記入した[22]。しかし、9月29日に父親から電話で軽トラックの廃車手続を自分でするよう言われたことに腹を立てて、その日のうちに決行することに決め、午後にレンタカーを借りた後、人通りの多い夕刻を狙って犯行に及んだ[21][22][23]。犯行の前には、120錠もの睡眠薬を服用していた[21][22][23]。
なお、下関での事件の約3週間前に池袋通り魔殺人事件が起きていた[26]。Uは公判の中で「池袋の事件を意識した」「池袋の事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」と述べている[15]。
また、Uは月に数回下関市内の民間病院に通っていたことも分かったため、Uの精神状態の調査も実施された[24]。さらにUは、「包丁は犯行のために買った。怪我をした人や死んだ人には悪いことをしたと思うし、可哀想だと思う」と反省の様子も伺わせていた[24]。
捜査
取り調べ
山口県警は下関警察署に捜査本部を設置し、Uの自宅からノートとメモなどを押収し、Uを山口地検下関支部に送検した[11]。逮捕当初からUは捜査一課と捜査本部の取り調べに素直に応じ、「(犯行の)前日、駅を下見した」などと供述した[11][12]。このため、捜査一課と捜査本部はUを下関駅に同行して現場検証を行い、犯行に使用したレンタカーの走行経路の確認や降車後、プラットホームに上がり、8人を無差別に切りつけた状況を再現した[注 4][27]。
起訴
1999年(平成11年)10月21日、山口地検下関支部はUを殺人、殺人未遂、銃刀法違反の罪で起訴した[28][29]。起訴にあたって、Uが過去に複数回、精神科に通院していたことから簡易精神鑑定を実施し、計画的犯行であることや鑑定結果、Uの家族からの事情聴取の内容を踏まえて責任能力を問えると判断した[28][29]。
刑事裁判
Uの責任能力について最高裁まで争われた[30][31][32]。Uおよび弁護側は無罪または死刑回避を求めたが、死刑判決となった[30][31][32]。
第一審・山口地裁下関支部
公判の争点は主にUの刑事責任能力の程度に絞られ、弁護人は起訴事実を概ね認める一方で犯行当時、Uが心神耗弱状態であったと主張し、減軽を求めた[33][34]。
刑事裁判の中で、弁護人がUの精神鑑定を請求[35]。弁護人の申請した鑑定医による精神鑑定の結果、Uには妄想性パーソナリティ障害(パラノイア)や「受動攻撃性パーソナリティ障害」(通常は受動攻撃性という)があり、事件発生当時、心神喪失に近い心神耗弱状態にあったとの鑑定結果が出た[36]。一方、検察官が証人として申請した鑑定医は、Uには完全責任能力があると判断した[37]。
| 鑑定人 | 犯罪心理 | 鑑定結果 | 責任能力に関する結論 |
|---|---|---|---|
| 福島章[38] | 本件犯行は、自殺念慮を伴う大量殺人である。これは、妄想性障害には時にみられる。被告人の自殺の主たる動機、原因は、その精神障害による苦痛から解放されたいという願望であり、これに現実的挫折が加わって、自殺心が強く刺激された。 一方、大量・無差別な殺傷の動機は、長年にわたる被害妄想・関係妄想の対象たる不特定多数の人々に対する増悪と攻撃心によるものである。この動機の原点は「妄想」にあり、合理的なものでも真に了解可能なものでもない[39]。 | 被告人は本件各犯行時において、妄想性障害(パラノイア)であり、また回避性及び妄想性の人格障害も併存していたが、犯行の進行にしたがって犯行直前に大量服用したロヒプノールの影響による軽度の意識混濁が加わっていた疑いもある。 しかし、それは被告人の刑事責任能力に大きな影響を与えるものではなく、本件各犯行時の被告人の精神状態は「妄想性障害」(パラノイア)のために事物の是非善悪を弁識する能力及びこの弁識に従って行動する能力が著しく減退していたことは確実であるが、その能力が完全に喪失していたとまではいえない[36]。 |
被告人は妄想患者であり、精神病に罹患していたこと、犯行前の社会的・職業的機能には大幅な低下があったこと、本件犯行の動機は人類全般を敵とみなして無差別大量殺人を行うという、パラノイアによる被害妄想に基づく奇想天外の発想によるものであり、 更に被告人の場合には脳波異常、てんかんの濃厚な遺伝要因が認められ、抗うつ剤・抗不安剤常用による衝動性・攻撃性の抑制能力の低下という特異な事情が存したこと、本件犯行の態様も異常かつ了解困難な行動であり、常識から著しく隔たっていること、 本件犯行は計画的であり、自殺以外の動機による犯行は合理的に遂行されていることからすれば、被告人の精神状態は是非善悪の弁識能力やその能力に基づく行動制御能力が完全に喪失していたとまではいえず、その能力が著しく減退していたものといえる[39]。 |
| 保崎秀夫[40] | 被告人には対人恐怖、視線恐怖、それに結びついて、過敏性、依存・攻撃、自己中心的、自己愛的、執拗性、易怒性、未熟などの性格傾向が目立っている。被告人の精神状態は大学4年時ごろから発症した対人恐怖、視線恐怖を中心とした神経症状態から始まり、執着性、敏感性、依存・攻撃、自己中心的、自己愛的、易怒性等の人格的偏りを背景に多くはうつ病圏内の不安、抑うつ、焦燥、無気力、無為、あるいは敏感、関係・被害念慮と主として両親、その後、妻に対する依存、攻撃傾向が目立つ状態で、 犯行に至るまでの1991年(平成3年)から1993年(平成5年)ごろまでの中断期間を除き精神科専門病院への入院、通院治療を続け、犯行前は不安定ながらある程度の落ち着きを示していたが、事業の不振、妻との離別などから再び不安定となり、救いを求めていたものの、仕事のために折角ローンで買った車が台風で駄目になり、親の立て続けの拒絶にあって不安、刺激性、うつ状態から、親への復讐に転じ、自らも命を絶って復讐することとし、家族には手を出さずに、やや高揚した気分で犯行を計画し、睡眠薬を相当量飲んで犯行に及んだものである[37]。 | 被告人の精神状態は妄想性障害とか精神分裂病圏内のものというより、特異な性格的偏りが基盤となる、非定型的であるが、うつ病の家族歴なども参考にすると、うつ病圏内のものと考えてよい。 犯行当時の精神状態は、物事の善し悪しを判断し、その判断にしたがって行動する能力にある程度の障害があったと考えるが、著しい障害があったとまではいえない[41]。 | 犯行当時の被告人の精神状態は、物事の善し悪しを判断し、その判断にしたがって行動する能力にある程度の障害があったと考えるが、著しい障害があったとまではいえない[37]。 |
1999年(平成11年)12月22日、山口地裁下関支部(並木正男裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否で被告人Uは「あまり覚えていないが、多くの目撃証言などから全面的に認めます」と述べて起訴事実をほぼ全面的に認めた[42][43]。冒頭陳述で検察官はUが仕事や結婚生活がうまくいかずに行き詰まりを感じる中で「生きていても仕方がない。自殺しよう。いつも自分だけがみじめな思いをしてきた。ただ死ぬわけにはいかない。社会に大きなダメージを与えてやろう。それには大量無差別殺人しかない」とUが本事件を実行した経緯を述べた[42]。一方、弁護人は「被告人は事件当時、心神耗弱の状況にあった」と主張、刑事責任能力について争う姿勢を示した上で公判の推移を見ながら精神鑑定を請求する方針を固めた[42][43]。
2000年(平成12年)3月8日、第4回公判で検察官は、検察官面前調書を読み上げる中でUが「(犯行の3週間前に起きた)池袋の通り魔事件では刃物を使用していたが、刃物では目標の10人は殺せないと思った」「殺すのは誰でも良かったので、逃げない人やベンチに座っている人を狙った」などと供述したことを明らかにした[44]。また、Uが「被害者には申し訳ないとの気持ちもある」と述べた上で「マスコミが騒いでいると聞き、社会にダメージを与えることができた」と述べていたことも明らかにした[44]。
2000年(平成12年)3月29日、第5回公判で被告人質問が行われ、犯行を決意した経緯についてUは「追い詰められていくうちに神の指示があったように思う」と答えた[45]。また、「(事件後に)胸を包丁で刺して死ぬつもりだったが、気抜けしてやめた」と述べて犯行後に自殺を図ろうとしていたことを明らかにした[45]。
2000年(平成12年)4月、弁護人はUの精神鑑定を山口地裁下関支部に請求した[46]。これを受けて山口地裁下関支部は精神鑑定を実施することを決めた[47]。この決定により、公判が8ヶ月にわたって中断した[48]。
2000年(平成12年)12月4日、上智大学教授・福島章[注 5]は「善悪を認識する能力が著しく減退していた」とする精神鑑定書を山口地裁下関支部に提出した[49]。
2001年(平成13年)1月10日、第8回公判が開かれ、検察官は福島が山口地裁下関支部に提出した精神鑑定書について不同意とした[50]。
2001年(平成13年)5月18日、第12回公判で事件前にUの主治医を担当した精神科医に対する証人尋問が行われ[注 6]、精神科医は「主に回避性の人格障害で、妄想はなかった」と証言した[51]。
2001年(平成13年)6月6日、第13回公判で起訴前に簡易精神鑑定を行った精神科医が出廷し、福島が行った精神鑑定について「対人恐怖の症状として捉えられるものが妄想と認定されているところが最大の問題点」と指摘した上で「精神鑑定では肝心な部分の考察がほとんどなされていない。被告人には妄想はなかった」と述べてUに完全責任能力があったと証言した[52]。
2001年(平成13年)6月27日、第14回公判が開かれ、山口地裁下関支部は弁護人と検察官の再度の精神鑑定請求を受けて2回目の精神鑑定を実施することを決めた[53]。
2001年(平成13年)7月30日、第15回公判で遺族や被害者が検察側証人として出廷し、Uに対して「被告の態度に反省がない。私たちが悲しみや苦しみに耐えながら生きているのに、何を考えているのだろう」などと訴えて死刑を求めた[54]。
2001年(平成13年)12月10日、慶應義塾大学名誉教授・保崎秀夫[注 7]は「事件時の精神状態に著しい障害は見られない」とする精神鑑定書を山口地裁下関支部に提出した[55]。
2002年(平成14年)1月15日、第16回公判で山口地裁下関支部は、保崎が提出した精神鑑定書について証拠採用した[56][57]。
2002年(平成14年)2月20日、第18回公判で遺族と被害者3人が出廷し、意見陳述で「被告は自分の命で償って」と訴えてUに死刑を求めた[58]。
2002年(平成14年)4月24日、論告求刑公判が開かれ、検察官はUの刑事責任能力について「周到な計画に基づき合理的に行動しており、記憶も鮮明。犯行当時、善悪を判断する能力はあった」とした上で「対人恐怖症に悩み、両親や社会に対する身勝手な復讐心から大量殺人を企図するに至ったものであって、その犯行動機に酌量の余地は全くない」としてUに死刑を求刑した[59]。
2002年(平成14年)6月19日、最終弁論で弁護人は「被告には十数年来、精神分裂病の症状が潜在的にあり、社会への適応能力が低下。犯行当時、顕在的な精神分裂病が悪化していた」として事件当時、Uは心神喪失または心神耗弱だったと主張し、結審した[60]。
2002年(平成14年)9月20日、山口地裁下関支部(並木正男裁判長)で判決公判が開かれ、Uの完全責任能力を認めた上で「自らの不遇を全て周囲に責任転嫁し、身勝手かつ理不尽な怒りを正当化するなど、自己中心的な姿勢に終始した挙げ句、無差別殺人という非人間的な犯行を決意するに至るという本件犯行の動機には酌量すべき余地は全く認められない」としてUに検察官の求刑通り死刑判決を言い渡した[15][61]。
争点となった刑事責任能力について山口地裁下関支部は、精神鑑定の結果や犯行動機などを基に「被告人は精神分裂病に罹患したり、妄想性障害の状態にあったものということはできず、強い性格的偏りを持った人格障害あるいは神経症であって、狭義の精神病の状態にはなかったものと認めるのが相当である」「犯行目的達成のために、周到、冷静かつ合理的な計画を立てて準備行為を行い、犯行時もその計画に従った合目的的な行動に出ており、被告人は本件犯行の準備段階はもとより犯行時においても、自己の行動の意味を認識し、冷静に行動していたことが認められる」と事実認定した[62]。
その上で「狭義の精神病に罹患していたものとは認められず、その病的傾向は人格障害ないし神経症の段階にとまるものであり、本件犯行時は、視線恐怖や対人恐怖の症状が軽減していた状態にあり、上記認定のような動機から犯行に及ぶことを決意したもので、その動機は被告人の置かれていた状況に照らすと了解可能であること、本件犯行時の行動やそれに関する記憶も十分に保持し、行為の違法性も認識していたことなど上記認定の各事実に鑑みると、被告人は、本件犯行時、いまだ事理の弁識能力もしくはこれに従って行動する能力が欠如した心神喪失状態、又は、これらの能力が著しく減弱した心神耗弱状態にはなかったと認めるのが相当である」として犯行当時、Uに完全責任能力があったと結論付けた[63]。
以上の内容を踏まえて量刑について「白昼、駅という不特定多数の人が日常的に訪れる場所やその周辺の歩行者の中に自動車で突っ込み、更に包丁を持って駅ホームにまで入り込んで多数の人を殺傷したもので、列車利用客や付近住民はもとより一般市民に大きな衝撃を与え、平穏な地域社会に多大な恐怖感や不安感を抱かせたもので、社会全体に与えた影響も大きく、その点においても結果は重大であり、一般予防の見地からみても重大な事案と言わなければならない」として死刑を以って臨むのはやむを得ないとした[64]。Uは判決を不服として控訴した[65]。
控訴審・広島高裁
控訴審では弁護人が事件当時、Uは心神喪失状態だったとして無罪を主張し、精神鑑定を請求したため、3回目の精神鑑定が行われた[66][67][68]。鑑定結果は以下の通り、Uの完全責任能力を認めるものとなった[69]。
被告人は、少なくとも大学卒業前から、視線恐怖症を主症状とする対人恐怖症に罹患しており、自分の視線が原因で他人が嫌がる、避けるといった自分に関係付けて被害的に意味付けする被害関係念慮を伴っていたが、平成10年3月に実家に戻ってからは、病状も落ち着き、対人恐怖や関係念慮はほとんどないか、著しく軽快していた。また、統合失調症(精神分裂病)に関しては、思考の障害がなく、了解できない奇異な妄想や妄想の拡散が見られず、幻聴、幻覚が認められないことから、その罹患の可能性は否定される。さらに、妄想性障害(パラノイア)に関しては、妄想が治療等によって消長しており、確固とした妄想体系を形成しているとはいえないから、これに該当しない。なお、本件犯行時に、抑うつ状態を呈していなかった。そして、被告人の人格には偏りがあり、回避性人格障害、受動ー攻撃性人格障害等と重なる。ところで、被告人は、被害関係念慮が本件犯行に影響を及ぼした旨強調するが、本件犯行に結び付くものではないし、本件犯行前には、被害関係念慮が著しく軽減していたのであるから、さしたる影響があったともいえない。そうすると、対人関係が苦手な性格、設計事務所経営の失敗、軽貨物運送業の破綻、 妻との離婚状態、両親の非協力等が重なって、自殺を企図したものの、ただで死ぬのはしゃくなので、本件犯行に及んだというものであるから、被害関係念慮を伴う対人恐怖に直接影響されたものではなく、副次的なものである。したがって、被告人は、本件犯行当時、対人恐怖症に罹患してはいたが、是非善悪を弁識し、それに従って行動する能力が著しく減退した状態にあったともいえない。 — 鑑定人、[68]
2003年(平成15年)7月18日、広島高裁(久保真人裁判長)で控訴審初公判が開かれ、弁護人は「妄想に基づく犯行で、刑事責任は問えない」として無罪を主張し、精神鑑定を請求した[66]。同日の公判では遺族がUと向き合う形で意見陳述し、「あなたにできることは一つだけ。命をもって償ってほしい」と訴えて改めてUに死刑を求めた[注 8][67]。
2003年(平成15年)9月12日、第2回公判でUの父親が出廷し、遺族に対して「愚息がこのような重大な罪を犯し、被害者や家族、世間の皆様に大変なご迷惑をかけた。心から深くお詫び申し上げます」と謝罪した[70]。
2003年(平成15年)10月17日、第3回公判が開かれ、広島高裁は弁護人が請求した精神鑑定について「遺族・被害者の気持ちは重く受け止めるが、極めて重大な事件で、一審の2つの鑑定が異なる判断をしており、慎重を期す」として3回目の精神鑑定を実施することを決めた[注 9][71]。
2004年(平成16年)1月5日、第4回公判で鑑定人尋問が行われ、鑑定人が「(鑑定には)6か月ほど頂きたい」と要望を出したため、広島高裁はUを鑑定留置することを決定した[72]。その後、3回目の精神鑑定が実施された[73]。
2005年(平成17年)1月13日、第5回公判で広島高裁は、控訴審でUの精神鑑定を行った鑑定人が「犯行は被害妄想が影響していたが、その程度は軽かった」とする精神鑑定書を証拠採用した[73]。
2005年(平成17年)3月22日、第6回公判の最終弁論で弁護人は「犯行時は自分の行動を制御できない状態で、法的にも心神喪失の判断しかない」として改めて無罪を主張し、結審した[74]。
2005年(平成17年)6月28日、広島高裁(大渕敏和裁判長)は「犯行時、完全責任能力があったことは明らか」として第一審・山口地裁下関支部の死刑判決を支持し、被告側の控訴を棄却した[75][15][76]。
最大の争点となった刑事責任能力について広島高裁は、精神鑑定の結果や犯行態様などから「多数の人々を殺害しようと決意し、事前の計画に従って、極めて冷静、合理的に犯行を行っている」「責任能力に影響を及ぼすような異常性をうかがわせる徴候は皆無。妄想に支配されて犯行に及んだと考える余地はない」として完全責任能力を認めた一審の判断を追認した[76][77]。
犯行動機については「運送業が継続できなくなったうえ、両親からの援助も拒絶され、八方ふさがりの状態で将来に絶望し、無差別大量殺人をしたあとに自殺すれば、両親に対するうっぷんばらしになると考え、犯行に及んだ」と認定した上で「被告人は、本件犯行当時、是非善悪を弁識し、それに従って行動を制御する能力が喪失していたとか、著しく減弱した状態にはなかった」と結論付けた[76][78]。その後、Uは判決を不服として上告した[79]。
上告審・最高裁第二小法廷
2008年(平成20年)6月13日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)で上告審弁論が開かれ、弁護人は秋葉原通り魔事件を引き合いに出しながら「秋葉原では容疑者に躊躇いや良心のとがめがあったようだが、Uにはなかった」と指摘した上で「社会に迫害されてきたとの妄想に支配され、心神喪失状態だった」として無罪を主張した[80][81]。一方、検察官は上告棄却を求めて結審した[80][81]。
2008年(平成20年)7月11日、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は「周到な準備の下、確定的殺意に基づき、何一つ落ち度のない通行人や駅利用者等を無差別に襲った犯行の罪質は極めて悪質である。犯行動機及び犯行に至る経緯に酌量の余地は見いだし得ず、犯行態様も残虐、非情というほかはない。5名もの尊い生命を奪った結果は、極めて重大であり、通り魔的な大量殺人事件として本件が社会に与えた衝撃は大きく、各遺族の処罰感情も峻烈である」として被告側の上告を棄却する判決を言い渡した[5][82]。
民事裁判
第一審・山口地裁下関支部
2001年(平成13年)9月29日、遺族と被害者4人は「(両親が)Uを精神的に追いつめ、犯行を決意させた」「(JR西日本の職員が)Uが改札を通るのを防いだり、客に注意を呼びかけたりする必要があったのに怠った」としてUと両親、JR西日本に約1億8500万円の損害賠償を求める訴訟を山口地裁下関支部に提訴した[84][55]。その後、新たに被害者5人が総額1700万円の損害賠償を求めて提訴した[85]。
2001年(平成13年)12月10日、山口地裁下関支部(近下英明裁判長)で第1回口頭弁論が開かれ、Uと両親は「両親に責任はなく、Uについては刑事裁判の経緯を見て判断する」、JR西日本は「全ての危険を想定して防止措置を取るのは不可能」とした答弁書を山口地裁下関支部に提出した[55]。一方、原告は意見陳述で「遺族と被害者は苦しんでいる。Uには反省の色も見られない」と訴えた[55]。
2004年(平成16年)11月1日、山口地裁下関支部(神坂尚裁判長)は「旅客の安全確保の義務は、管理する施設で発生する全ての事態に対して求められるものではなく、予測も困難で過失はない。被告は犯行当時、責任能力があり、賠償義務を負う」としてUの両親の監督責任とJR西日本の過失を認めず、Uのみに計1億6191万円の損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡した[86]。原告は判決を不服として控訴した[87]。
控訴審・広島高裁
2006年(平成18年)3月13日、広島高裁(草野芳郎裁判長)は第一審判決を取消自判し、Uに対して約1000万円を増額した計1億7200万円の損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡した[88][89]。一方、Uの両親に対しては「事件を起こすことは予想できなかった」と判断し、JR西日本に対しては「犯行は3分前後の短時間に突如発生しており、駅員が防犯ベルを押したり改札口の扉をしめたりする時間的・心理的余裕はなかった」として第一審判決を支持、原告の控訴を棄却した[88]。原告のうち7人は判決を不服として最高裁へ上告した[90]。
上告審・最高裁第一小法廷
2007年(平成19年)1月25日、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は原告7人の上告を棄却し、Uの両親とJR西日本に対する賠償請求を棄却した広島高裁の判決が確定した[91]。
死刑確定後
国家賠償請求訴訟
2009年(平成21年)2月と3月、広島弁護士会所属の弁護士2人が再審請求の準備のため、広島拘置所に収容中の死刑囚Uと3回にわたって接見した際、職員の立ち会いをしないよう広島拘置所に申し入れたが、広島拘置所はいずれも拒否した[92][93]。このため、弁護士2人は「弁護人の職務遂行を妨げられ、精神的苦痛を受けた」として国に対して慰謝料など330万円の国家賠償を求める訴訟を広島地裁に提訴した[92][93]。
2013年(平成25年)1月30日、広島地裁(梅本圭一郎裁判長)は3回の接見のうち、2回の接見について接見交通権の侵害を認めた上で国に48万円の支払いを命じた[92][93]。
死刑執行
2012年(平成24年)3月27日、小川敏夫法務大臣が死刑執行命令書に署名し、翌々日の3月29日に広島拘置所でUの死刑が執行された[10][94][95]。48歳没[17][10][94]。死刑の執行は1年8ヶ月ぶりのことで、同日には横浜前妻一家3人殺害事件、宮崎連続強盗殺人事件の各死刑囚(共に2007年に死刑判決確定[96][97])に対しても死刑が執行された[10][94]。本件は戦後初めての旧帝国大学出身者に対する死刑執行である[98]。
その他
下関駅通り魔事件被害者の会
2000年(平成12年)2月1日、被害者や遺族らが損害賠償や被害救済制度の拡充を求めるために「下関駅通り魔事件被害者の会」が発足した[99]。発足にあたって、Uから十分な謝罪や被害弁償がなされていないことや、報道によるプライバシーの侵害など被害者の人権が軽視されていることから遺族や被害者が被害回復などを目的に発足に至った[100][99]。発足後、被害者の会は被害者が証人出廷し、公判で意見陳述できるよう要望する上申書を山口地検下関支部に提出した他、Uに謝罪や損害賠償を求める民事調停の申し立てや上記の損害賠償訴訟の支援を山口県弁護士会と協力して行った[101][102][103]。
被害者支援
自動車による被害は、加害者の故意によるものであっても自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)の補償対象となるため、自動車にはねられて死傷した被害者に対しては、自賠責による支払いが行われた[104][105]。
一方、自動車によらずナイフで死傷した人達に対しては、犯罪被害者等給付金のみが支払われた[注 10]ため、全国犯罪被害者の会や下関駅通り魔事件被害者の会などの犯罪被害者支援組織から、同じ事件でありながら公的補償額が不平等であるとの指摘もあった[107][108]。このことを契機に、2001年(平成13年)に犯罪被害者等給付金の支給等に関する法律が改正され、犯罪被害者への補償範囲の拡大と支給額の見直しが行われている[106]。
事件後の下関駅
2000年(平成12年)9月29日、事件発生から1年を迎えて駅構内に祭壇が設けられ、被害者や遺族によって献花が捧げられた[109]。その後も事件発生日に遺族が事件現場となったプラットホームなどを訪れて献花を捧げている[110][111][112][113]。なお、この事件でUが自動車で侵入した下関駅東口の駅舎は、通り魔事件から約7年後の2006年(平成18年)1月7日に、放火により焼失(下関駅放火事件)、その後の駅周辺の再開発にあわせて、改札口の位置や形状も事件当時とは大きく変わっている[1][2][114][115][116]。