中野並助
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群馬県多野郡鬼石町(現・藤岡市)の米屋に生まれる[1][3]。鬼石小学校、東京府立第一中学校、第四高等学校を経て[1][3]、1909年(明治42年)東京帝国大学法学部ドイツ法学科を卒業[1][2]。在籍中に郷里に帰省中、偶然逢った小学生時代の同級生から薦められた一言がきっかけになり検察官の道を志す。
1912年(明治45年)検事任官[1]。松阪広政とは司法省採用が同期で終生の友となる。中野死去の際は葬儀委員長を務める。
福井地方裁判所検事正在任中に、飛島組社長の選挙違反事件で、周囲の猛反対を押し切って立件に持込み、塩野季彦の賞賛を浴びる。
東京地方裁判所検事局次席検事在任中におきた帝人事件では、『世間の常識からみて贈賄するのにその会社の株券を用いる事があるだろうか?』と発言して実証主義に徹し、検事控訴は無いものとの見解を示す。これらの事件を扱った事から、当時、中野は平沼騏一郎、塩野季彦などの思想検事系列の人物と見られていたが、必ずしも思想的に平沼たちに一辺倒たったわけではなく、バランスが取れた人物だった。
太平洋戦争中は時の東條内閣に強い反感を抱き、ごく親しい友人に対して酷評する発言をしていた。