布施健
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戦前
元は田舎の百姓の身分であり、中学に入る12歳の時に広島県の布施家の養子となる[2]。広島県立呉第一中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)、旧制第六高等学校を経た布施は、海軍士官に憧れて兵学校に進学しようと考えていたが、養父から弁護士を勧められ、1935年(昭和10年)に司法試験を受けて合格[2][3]。1936年(昭和11年)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、1937年(昭和12年)に検事に任官した[2][4]。
太平洋戦争前の東京区裁判所検事時代には、ゾルゲ事件の被告であるブランコ・ド・ヴーケリッチの取り調べを担当するなどして評価を高めた[4]。
戦後
戦後は司法省(現在の法務省)行政局第三課長を振り出しに、法務省と東京地検を行ったり来たりする「本流コース」を歩む[5]。1949年(昭和24年)には東京地検の主任検事として下山事件を担当し、「他殺説」をとった[6]。布施はこの事件の捜査が打ち切られた後も、時効までの15年の間、政治家や国鉄関係者、右翼まで多岐にわたった人物の調書をとって少人数で捜査を続けた[6]。この結果を綴った捜査資料は約700頁にも及んだ[6]。
1958年(昭和33年)に東京地検特捜部長、1962年(昭和37年)に甲府地検検事正、1965年(昭和40年)に法務省矯正局長を歴任[7]。1969年(昭和44年)の東京地検検事正時代には東大安田講堂事件や沖縄返還闘争などを手掛けた[8]。
1973年(昭和48年)に東京高検検事長などを経て1975年(昭和50年)に戦後第11代検事総長に就任[4]。同年に日本赤軍によるクアラルンプール事件が発生して犯人から獄中同志の釈放を要求された際には、布施は「法治国家の原則がこわれる。凶悪犯を再び野に放つことは、同じような事件の再犯につながる」という意見だったが、関係大臣の協議の結果を受けた稲葉修法務大臣から検察庁法第14条が準用される形で指揮権が発動され、5人のメンバーを超法規的措置として釈放することとなった[9][10][11]。
1974年(昭和49年)に発覚した石油危機の際の石油ヤミカルテル事件を担当した[12]。
ロッキード事件
1976年(昭和51年)、日本の疑獄史上最大の事件とされるロッキード事件が発覚すると、「日米両国にまたがる事件だから、真相解明には困難が多いだろうが、検察が失敗を恐れて消極的な態度を取ることは許されない」、「全責任は私が取る。思う存分やってほしい」と捜査にゴーサインを下して指揮をとった[13]。
布施は衆議院議長の前尾繁三郎を訪ね、この事件で多額の賄賂を受け取っていたとされる田中角栄元首相に、逮捕しない代わりに議員バッジを外させる説得を頼んだが、田中はこれを拒否[14]。その約一週間後、布施は政界からの圧力に屈することなく田中を逮捕、起訴に追い込んだ[4][14][15]。
ロッキード社の副会長であるアーチボルド・コーチャンは、嘱託尋問に応じる条件として罪を問わない事を保証するよう要求[16]。布施は「コーチャンらが証言した事項については、たとえそれが罪となる場合でも起訴しない。この決定は後任者にも拘束力を持つ」と不起訴宣明を出し、刑事訴訟法第248条に規定された起訴便宜主義に基づいてロッキード社幹部の嘱託証人尋問調書を取る過程で起訴をしないことを約束し、ロッキード社幹部に事実上の司法取引を行った[16][17]。結局、1995年(平成7年)の最高裁判決では有罪判決が確定したが、幹部に対する事実上の司法取引については否定的見解が出た[17]。
また、事件の捜査中に京都地方裁判所判事補の鬼頭史郎が布施になりすまして当時の首相・三木武夫に電話を掛け、指揮権発動の言質を引き出し秘密録音を行った事件が発生した(ニセ電話事件)[18]。
晩年
布施は退任に先立って全国の検事長と地検検事正を集めた会議で「今後、情勢がいかに変化しようと、いずれにも偏らず、法にのっとり、組織を挙げて非違の摘除に当たる検察精神と姿勢は不変と確信する」と最後の訓示を結んだ[19]。
1977年(昭和52年)3月に定年で検察界を去った後は弁護士を務め[4][20]、1988年(昭和63年)2月25日に死去[4]。29日に葬儀・告別式が執り行われた[21]。