中野会会長襲撃事件
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1964年の木屋町事件を契機に、三代目山口組と三代目会津小鉄との間には、山口組は京都に進出しないという暗黙の了解が交わされていた。しかし、1990年代に入ると京都市の崇仁地区の利権をめぐって対立が激化していった[1]。
1992年4月、京都府で、五代目山口組中野会関係の不動産業者が四代目会津小鉄系組員に刺殺された。翌1993年の10月に会津小鉄組員が京都市の山口組系事務所を銃撃。さらに山口組系組員が滋賀県大津市の会津小鉄系組事務所の駐車場で会津小鉄系組員を射殺した。
1995年6月、山口組と会津小鉄の間で26時間以内に14件の発砲事件が起きたが、すぐに山口組と会津小鉄は手打ちを行った。
1995年7月、中野太郎の自宅に銃弾が撃ち込まれる。
同年8月24日夜、京都市東山区祇園の繁華街で、山口組藤和会山下組組員と会津小鉄系山浩組組員が口論となった。山下組組員が山浩組の山本浩令組長を狙撃、山本は重傷を負った。その後、山口組関係者宅に銃弾が撃ち込まれた。
8月25日午前4時10分、山口組藤和会山下組組員2人が、京都市左京区の山浩組事務所近くで、私服で警戒にあたっていた京都府警巡査部長を会津小鉄系組員と勘違いして射殺[2]。(山下組組員警官誤射殺事件)
1996年2月18日、山口組総本部で、山口組若頭補佐・桑田兼吉と、共政会・沖本勲会長と、会津小鉄若頭・図越利次(当時は中島会会長。後の五代目会津小鉄会会長。三代目会津小鉄・図越利一会長の長男)の五分の兄弟盃が執り行なわれた。