宅見若頭射殺事件
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宅見若頭射殺事件(たくみわかがしらしゃさつじけん)とは、1997年(平成9年)8月28日、五代目山口組若頭の宅見勝が、同じく五代目山口組中野会組員に射殺された暴力団の内部抗争事件[1]。
| 宅見若頭射殺事件 | |
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事件現場のANAクラウンプラザホテル神戸 (当時は新神戸オリエンタルホテル) | |
| 正式名称 | 宅見組組長射殺事件 |
| 場所 |
兵庫県神戸市中央区北野町1丁目 新神戸オリエンタルホテル (現:ANAクラウンプラザホテル神戸)[1] |
| 座標 | |
| 標的 | |
| 日付 |
1997年(平成9年)8月28日[1] 15時20分ごろ[1] |
| 概要 | 財津組組長と実行犯K、N、Y、Tが新神戸オリエンタルホテル4階のティーラウンジで五代目山口組若頭・宅見勝を襲撃し、宅見を射殺した他、歯科医師の男性が流れ弾による巻き添えに遭い、死亡した[2]。 |
| 攻撃側人数 | 5人[3] |
| 武器 | 拳銃[1] |
| 死亡者 | 2人[2] |
| 犯人 | |
| 容疑 | 殺人・銃砲刀剣類所持等取締法違反[8] |
| 動機 | 五代目山口組の内部抗争[9] |
| 対処 | 財津組組長ら4人を兵庫県警察が逮捕・神戸地方検察庁が起訴[6][5][4][8] |
| 刑事訴訟 | |
| 管轄 | |
発端
事件前
1997年(平成9年)7月、当時の中野会若頭補佐の吉野和利が総指揮をとり、東京都と大阪府の中野会傘下組織から、宅見の動向を探るための偵察部隊と襲撃するための襲撃部隊をそれぞれ選抜した。当初の計画では東京で宅見を襲撃する予定だったが、居場所が掴めずに断念し、後日大阪で襲撃することになった[16]。
その後、同年8月27日に宅見が大阪市内のホテルを訪問することがわかったが、その場には中野も同席することがわかったため、またも襲撃は見合わされた[16]。一方の宅見は翌8月28日、山口組の他の最高幹部2人・岸本才三総本部長(当時、後に最高顧問)と野上哲男副本部長(当時、後に最高顧問)と共に、昼食を摂るため、JR新神戸駅に隣接する新神戸オリエンタルホテル(現・ANAクラウンプラザホテル神戸[17])のティーラウンジに向かった[18]。
事件発生
事件後
宅見の告別式は8月31日に執り行われた[20]。同日、山口組の渡辺芳則組長(当時)は、中野を復縁の可能性もある破門に処した[21][2]。
しかし9月3日に流れ弾に当たった歯科医師の男性が死亡したため、渡辺は中野の処分を破門からさらに重い絶縁に変更した[22][14]。一般的には、絶縁されたものはヤクザの世界に残ることはできず、組織を解散してカタギに戻らざるをえなくなるのだが、中野会についてはその後、絶縁理由に納得できない[注釈 1]として解散せず、独立組織となった[23]。しかし独立組織となった後は、この事件の報復と思われる襲撃で幹部メンバーを殺害されたことなどにより組織力が低下し、2003年に中野が脳梗塞で倒れたこともあり、渡辺が引退した直後の2005年8月7日に解散届を大阪府警に提出、解散している[24][25]。
また、この事件をめぐっては2004年(平成16年)10月26日、別の詐欺事件で執行猶予判決を受け、その後の捜査で、この事件に関与した疑いが強まり、指名手配されていた容疑者の1人が大阪府豊中市内で逮捕されている[26]。
その他にもこの事件では、実行犯の1人で現在は服役中の受刑者が、この事件についての獄中手記を発表していることが知られている[注釈 2]。
中野は事件への関与を認めず、2018年に宮崎学の協力により自叙伝を発表したが、後遺症のせいか事実誤認が多いと指摘された。そして、2021年1月10日に中野は84歳で死去した。
捜査
兵庫県警は山口組の内部抗争と断定し、生田警察署に捜査本部を設置[16]。大阪府警と京都府警の協力を得て神戸市灘区篠原本町の山口組総本部、大阪市西成区花園北の山口組中島総業事務所など11ヶ所を殺人・銃刀法違反容疑で捜索した[16]。
1998年(平成10年)10月9日、捜査本部は実行犯N(当時48歳)を別件の詐欺容疑で逮捕した[27][28]。ホテルに設置されていた防犯カメラの映像からNが実行犯の疑いが浮上したため、捜査本部は京都府八幡市の中野会組長宅や事務所など8ヶ所を殺人容疑で捜索した[27][28]。
逮捕当時、Nは事件の関与を否認したものの、恐喝容疑で大阪府警に逮捕された中野会系元組員が「事件直後にホテルから駆け出して来た襲撃犯と思われる男2人を大阪まで運んだ」と証言したため、捜査本部が裏付けを取ったところ、Nは一転して「(射殺事件)は自分がやった」と関与を認めた[29][30]。また、前述の証言から、別件の詐欺幇助容疑で捜査本部が逮捕したY(当時29歳)も関与が浮上したため、捜査本部が追及したところ、Yも関与を認めた[30]。
1999年(平成11年)3月24日、捜査本部はNとYを殺人容疑で逮捕し、財津組組長とK及びTを指名手配した[31]。
1999年(平成11年)4月15日、神戸地検はNとYを殺人・銃刀法違反の罪で起訴した[32]。
1999年(平成11年)7月12日、捜査本部は指名手配中の実行犯K(当時36歳)を東京都内で発見、殺人・銃刀法違反容疑で逮捕した[5]。
1999年(平成11年)8月2日、神戸地検はKを殺人・銃刀法違反の罪で起訴した[33]。
2006年(平成18年)6月30日、実行犯の1人として指名手配されていた男T(当時56歳)が神戸市の六甲アイランドのプレハブ小屋で病死体で発見された[7][13]。発見時、Tはジャージー姿で膝を折り曲げた状態でプラスチックケースに入れられており、痩せ細っていた[7]。これを受けて兵庫県警は死体遺棄容疑で捜査を開始するとともにTの司法解剖を行った[7]。
2006年(平成18年)8月25日、兵庫県警はTを殺人・銃刀法違反容疑で容疑者死亡のまま書類送検した[34]。なお、事件の総指揮役の吉野は1998年(平成10年)に韓国で死亡したため、同日にTとともに容疑者死亡で書類送検された[34]。
2013年(平成25年)6月5日、兵庫県警は殺人・銃刀法違反容疑で指名手配されており、本件における最後の逃亡者であった、実行犯の指揮役の財津組組長(当時56歳)を逮捕した[35][36]。
2013年(平成25年)6月27日、神戸地検は実行犯の指揮役の財津組組長を殺人・銃刀法違反の罪で起訴した[37]。
裁判
実行犯の内、一人は逮捕されず、その後、病死が確認されている(上述)。
実行犯NとYの刑事裁判
- 1999年(平成11年)6月22日、神戸地裁(江藤正也裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否で被告人NとYは起訴事実を全面的に認めた[38]。
- 1999年(平成11年)8月24日、論告求刑公判が開かれ、検察官は「白昼の公共の場で、一般人を巻き込む無残な結果を引き起こした計画的で残忍な犯行」としてNとYに懲役20年を求刑した[39]。
- 1999年(平成11年)10月26日、神戸地裁(江藤正也裁判長)はNとYに検察官の求刑通り懲役20年の判決を言い渡した[40]。
- 2000年(平成12年)6月5日、大阪高裁(西田元彦裁判長)は「暴力団組織間の反目による無法で、反社会的な犯行だ」として被告側の控訴を棄却した[41]。Yは上告しなかったため、懲役20年の判決が確定した。
- 2002年(平成14年)1月16日、最高裁第二小法廷(福田博裁判長)はNの上告を棄却する決定を出したため、Nに対する懲役20年の判決が確定した[42][43]。
実行犯Kの刑事裁判
- 1999年(平成11年)9月27日、神戸地裁(島敏男裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否で被告人Kは起訴事実を認めた[44]。
- 1999年(平成11年)12月6日、論告求刑公判が開かれ、検察官はKに懲役20年を求刑した[45]。
- 2000年(平成12年)1月21日、神戸地裁(森岡安広裁判長)は検察官の求刑通り懲役20年の判決を言い渡した[46]。
- 2000年(平成12年)7月11日、大阪高裁(栗原宏武裁判長)は「暴力団の内部抗争で市民を巻き添えにし、社会に大きな不安を与えた責任は組長殺害以上に重いとも言える」として被告側の控訴を棄却した[47]。Kは上告しなかったため、懲役20年の判決が確定した。
財津組組長の刑事裁判
報道の扱い
“山口組のナンバー2”と呼ばれた宅見勝が射殺された事件については、多くのメディアが大々的に伝えた。テレビでの第一報は、事件発生当日の28日16時頃、NHKや民放などの通常の番組放送中に、テロップのニュース速報で伝え、17 - 18時からのニュース番組では、各局がトップ項目で宅見が殺害された経緯について詳しく伝えた[注釈 3]。事件翌日、一般紙の朝刊各紙は勿論のこと、スポーツ新聞各紙でも宅見射殺事件を一面で大きく報道した[51][52]。
また、テレビのワイドショー・情報番組なども同事件の話題中心の内容となり、事件発生から2日間、その事件を検証する内容となっていたが、事件から3日後の8月31日以降、イギリスのダイアナ元皇太子妃がフランス・パリで交通事故死したニュースが日本のメディアでも大きく報道されることとなり、射殺事件をテレビ番組で扱うことは少なくなった[20][53][54][55][56][57][58]。