氷室

氷や雪を貯蔵することで冷温貯蔵庫として機能する専用施設 From Wikipedia, the free encyclopedia

氷室(ひむろ、ひょうしつ、英語:ice house アイスハウス)とは、天然のを蓄えることで冷温貯蔵庫として機能する施設のこと。

古代より世界各地で利用されてきた蓄熱施設である。洞窟や横穴を利用したもの、井戸状の穴を利用したもの、石積みやドーム状の建築物など古代以来の土木技術による建造物のほか、現代的技術で建設された建造物まで、様々な様式がある。

もともと冷蔵庫として一般的な形式であり、20世紀後半に電気冷蔵庫(電気によりヒートポンプを作動させる冷蔵庫)が普及した結果 激減したものの、今も節電目的で使われたり、酒や食品の熟成、伝統行事を継承する目的などで利用され続けている。

ペルシアイタリアスペイン、イギリス(イングランドスコットランド)、アメリカ合衆国など、各地に存在している。

歴史

紀元前1780年頃の楔形文字粘土板には、メソポタミア北部のテルカの街でマリの王ジムリ・リムが氷室を建設したことが記録されており、「これまでどの王も建設したことがなかった」と書かれている[1]

アジアでは春秋時代から代までの遺跡が重層的に重なった永城の遺跡群、陵陰遺跡で氷室が見つかっており、主室は東西27メートル、南北6.7メートルの大きさで、深さは0.14~0.5メートルの浅い地下建造物である。周囲には広い圧縮土壁があり、地面はタイルで覆われている。北と南に19の溝があり、これらは東西に走る主要な溝と繋がっている。溝の東端は東壁を通る排水管に繋がっている。周囲の遺跡には柱をたてるための穴も残り地上の建造物が存在したことも証明されているので、陵陰遺跡は地下の氷室と地上の建物により構成されていたと考えられている[2]


ペルシアの氷室

日本の氷室

歴史

日本書紀に登場する都祁󠄀氷室の復元(天理市福住町)

日本書紀仁徳天皇62年条に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ:現在の奈良県天理市福住町)へ狩りに出掛けたとき、光るものを発見したとの記述が初出とされる。奈良時代長屋王宅跡から発掘された木簡には「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかっている[注釈 1]

日本書紀』の孝徳天皇紀に氷(むらじ)という(かばね)が登場し、朝廷のために氷室を管理した職が存在したことがうかがえる。例えば、朝廷の要職を占めた家の一つ賀茂県主氏(主に賀茂神社神官を輩出した、亦元豪族か。賀茂神社祭神は鴨家の氏神)の家系図には「氷連」「氷室」の記述が見られる。

平城京では春日山に氷室が置かれ、宮中への献氷の勅祭を行った。(なお、平安京への遷都後に奈良にあった氷室を祀る形で設けられたのが、現在、奈良市春日野町にある氷室神社であり[3]、氷室権現とも呼ばれる。)

律令制においては氷室、製氷職は、宮内省主水司に属した。その後も氷室とそれを管理する職は各時代において存在した。(なお製氷職は明治時代になって消滅した。)

江戸時代

加賀藩の氷室

江戸時代には、加賀藩では冬の"大寒"の時期に降雪を氷室に蓄え、毎年旧暦6月1日にこれを取り出して、かためた雪(氷)を江戸幕府(将軍家)へ献上した[4]。(なお、氷室からとり出すと雪(氷)は溶け始めてしまうので、通常であれは12日ほどかけて移動した江戸までの約 480キロメートルの道のりを加賀飛脚らは重い氷をかついで4日で、つまり1日あたり120キロメートルほど進む速さで駆け抜けたという[4]。届けられた氷は土なども混じっていたので、かき氷などのように口に入れられたわけではなく、果物を冷やすためなどに使われたらしい[4]。)この風習は明治期に一旦すたれたが、1986年(昭和61年)に湯涌温泉観光協会が中心となって復活のために活動し金沢市なども協力して加賀の氷室の復元に成功し[4]、今日にいたるまで行事が行われ続けており、毎年1月31日に地域住民や観光関連の人々が協力し雪を氷室に詰め、6月30日にこれをとり出して、石川県知事、金沢市長、加賀藩の江戸藩邸があった東京都板橋区目黒区に贈呈している[4]。氷室に雪を詰める日は「仕込み初め」、雪をとり出す日のことを「氷室開き」と呼び、冬・夏の風物詩として金沢市民に親しまれている[4]

鳴沢氷穴

また、富士山麓の鳴沢氷穴から夏季に取り出した氷も将軍家への献上品として届けられていた。

明治時代

明治時代になると、天然氷が一般に販売されるようになり、大正時代にかけ、冷蔵用の需要が増加したため、北陸各地に新たな雪室が作られるようになった。他方で、明治30年代から機械氷が天然氷を代替するようになり、冷凍施設なども製造されるようになったため、昭和初期には、徐々に雪室は廃止されていった。そして、戦後の食品衛生法による規制強化、昭和30年代からの電気冷蔵庫の普及によって、昭和37年ころには、ほぼ完全に雪室は消滅した。[5]

氷室を題材・題名としたの演目がある。脇能物の荒神物のひとつ。

延喜式の記載

平安時代中期成立の『延喜式』には、次の10ヶ所の氷室が記載されている[6][7]。いずれも宮内省主水司の所管であった[7]

なお、後の天長8年(831年)8月、山城国・河内国にはそれぞれ氷室3宇が加え置かれた[7][8]

様式

洞窟や地面に掘った穴に茅葺などの小屋を建てて覆い、保冷したとされる。氷室の中は地下水気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。

掘った穴と敷き詰め包み込むためのだけでできたものや、氷雪の上に断熱材(藁、断熱シートなど)をかぶせるだけのものもある。このようなタイプは日本では雪蔵(ゆきくら、ゆきぐら)あるいは雪中貯蔵庫(せっちゅうちょぞうこ)などと呼ばれる。 日本の「雪蔵」「雪室」は、酒の貯蔵によく用いられている[9]。この他に生鮮食品を含む食品の保存のほか、氷雪そのものが納涼医療に活用されることも珍しくなかった。

このように天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、長らく朝廷将軍家など一部の権力者のものであった。

伝統行事

1月の最終日曜日に氷室小屋に雪が詰められ(氷室の仕込み)、6月30日に雪を取り出し、これは「氷室開き」とよばれる。豪雪地帯である石川県金沢市とその周辺ではかつて各所に氷室があった。夏場の氷は庶民には貴重品であり、7月1日に氷を模したといわれる氷室饅頭を食べて健康を祈る風習が生まれ、現在も続いている。氷室開きは昭和30年代(およそ1955-1965年)に途絶えたが、1986年(昭和61年)に復活した。しかし近年は暖冬続きで雪不足に悩まされることが多いうえ、氷室小屋を保有する湯涌温泉白雲楼ホテル1998年平成10年)に倒産したことから、行事の継続が一時危ぶまれた。破産管財人の許可により、白雲楼ホテルに近接する玉泉湖畔の氷室と氷室開きの行事は現在も続いており[10]、氷は地元(石川県と金沢市)のほか加賀藩前田氏と縁がある東京都の板橋区目黒区に贈呈されている[11]

熊本県八代市では5月31日から6月1日にかけて八代神社妙見宮)で氷室祭が行われる[12]。この祭の日を俗に「こおっづいたち」(氷朔日か)と呼び、雪の塊を模した雪餅(米粉を水で練り、蒸籠で蒸した菓子)を食べる慣わしである[12]

栃木県日光市にはかつて10軒程度の天然氷製氷業者があった。現在では3軒のみが残っており[13]、四代目氷屋徳次郎(吉新氷室)[14][15]、松月氷室[16][17]、三ツ星氷室が氷室で天然氷を保蔵し販売している。


地名

氷室はそれが存在した場所に地名として名残をとどめている場合がある。京都府京都市北区西賀茂氷室町の「氷室町」や島根県出雲市斐川町神氷氷室の「氷室」は現存する地名であるし、氷室村氷室町は全国各地に数多く存在する、あるいは存在した集落名である。

また、氷室山氷室岳、氷室台、氷室川、氷室沢、氷室大滝(氷室の大滝)、氷室池、氷室別れ(交差点の名)なども見られる。

現代の氷室

この分野では室蘭工業大学媚山政良特任教授による研究が著名であり、数々の実績がある。

北海道穂別町沼田町などでは天然雪による冷熱を利用した大型倉庫が整備されており、穂別町では年間1500tの雪を運び込むという。米3万俵(1俵60kg)の他、ブロッコリーナガイモなどが常時5℃以下で保管される。野菜の場合、氷室で長期保管することにより甘みが増し、米は「雪瑞穂」というブランドとして評価が高い[18]

山形県舟形町にある農業実習体験館では駐車場斜面に貯雪庫(60t)を設け、送風機により施設の夏季冷房を実施、年間200時間の雪冷房を実現している[19]

北海道洞爺湖サミットの会場となった国際メディアセンターで7000tの自然雪を利用した大規模冷房の展示が行われた。冷房に必要な冷熱の全熱量の90%、雪解け水による効果が3%、合計93%の熱量がこの雪冷房によって供給された。その結果、一般の建物に比べ約34%の二酸化炭素排出削減につながった[要出典]

北海道美唄市では、雪氷熱利用によって、データセンターを冷却するホワイトデータセンター構想を始め、雪蔵を使った農産物の保存、マンションや宿泊施設の冷房などに利用されている。[20]

このほか、福島県喜多方市山都町の玄ソバの熟成(詳細は山都そば#雪室熟成そばを参照)、新潟県上越市安塚区の「雪室コンビニ」(詳細はキューピットバレイを参照)など、各地で雪室の活用が行われている。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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