九月の冗談クラブバンド
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| 九月の冗談クラブバンド | |
|---|---|
| 監督 | 長崎俊一 |
| 脚本 |
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| 出演者 | |
| 音楽 | 宇崎竜童 |
| 撮影 | 手塚義治 |
| 編集 | 宮沢精一 |
| 製作会社 |
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| 配給 | ATG・東宝共同[1] |
| 公開 |
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| 上映時間 | 104分 |
| 製作国 |
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| 言語 | 日本語 |
『九月の冗談クラブバンド』(くがつのじょうだんくらぶばんど) は、1982年公開の日本映画[2][3][4][5]。自主映画出身の長崎俊一監督がATGの佐々木史朗二代目社長による“ニュー1,000万円路線“で撮った初の劇場用映画[3][5][6]。公開時は25歳だった長崎が「第二の大森一樹、石井聰亙」となれるか注目された[4]。走ることを止めた元暴走族のリーダーと、彼をとりまく昔の仲間たちの青春群像を描く[7]。
キャスト
スタッフ
製作
1979年2月1日付でATG二代目社長に佐々木史朗が就任し[5][8]、「今、1000万円で何が可能か?」を探るべく、1981年の1,000万映画として、『ガキ帝国』『近頃なぜかチャールストン』『生きてゐる小平次』『KID NAPING BLUES(誘拐の唄)』(全て発表時のタイトル)とともに5本のうちの1本として製作発表があり[8][9]、本作は「熱い季節=夏、誰もが通り抜けるその季節の終わりを描く青春映画」と説明があった[8]。また5本はいずれも東京ではドーム型移動映画館・シネマ・プラセットで公開するとこのときは発表されていた[8]。
佐々木社長就任年の1979年のうちに『もう頬づえはつかない』の大ヒットがあり[5]、ATG再建初年度に12年ぶりに黒字を計上する順調な船出を見せたが[5]、製作費1,000万円の低予算映画であることが悪い形で出た[5]。本作クランクアップ直前の1980年11月9日午後9時頃、横浜市鶴見区の大黒大橋の上でアクションシーンの撮影を行っていた[4][5]。バイク10数台を使っての撮影だったが[4]、うち12台が巻き込まれる大事故を起こし[4]、多数の入院者を出した[4]。長崎も助監督が運転する400㏄のバイクにカメラマンと同乗して事故に巻き込まれた[5]。長崎は両大腿部を骨折とぼうこうを破裂させ、一時は危篤状態に陥った[5]。1980年11月10日付の朝日、毎日、読売、産経、東京新聞各紙の夕刊と11月11日付の日刊、サンケイスポーツに記事が掲載されたが[5]、全ての紙でATG作品と書かれておらず。「撮影スタッフが警察当局にATG作品を黙秘したため」「取材に当たったのが社会部の記者で長崎監督を知らず、ATG作品と見抜けなかった」など様々な説が飛び交った[5]。また一台のバイクに3人が同乗したのも問題で、事故当時の時速は40キロ程度だったとされるが、35ミリのカメラは8ミリや16ミリに比べてズッシリ重量感があるもので、誰が見ても危険極まりない[5]。撮影製作費が1,000万円のローコストのため、セットは組めず。長崎が見つけてきたバーを拠点に、その近くの合宿所を借りてスタッフ全員で泊まり込んで撮影していた[5]。同時期に井筒和幸監督が同じATGの1,000万円映画『ガキ帝国』を撮影中だったが、スタッフは1日飯代のみ500円、エキストラは1日800円でこき使い[5]、しかも撮影は朝7時から早くて夜9時10時、時には翌朝4時まで行った[5]。井筒は長崎の事故に対して「やはり1,000万円という予算のシワ寄せから来てると思う。もう少し予算があったら事故は起こらなかったと思う」と[5]、映画ジャーナリスト・梅林敏彦は「東映の暴走族映画は、カメラを乗せるためのバイクがある。それは1,000万円の予算じゃとてもできないね」などと解説した[5]。
長崎の復帰は危ぶまれたが、車椅子で歩行できるまでに回復した。このため撮影は中止でなく、中断という処置がとられた[5]。事故に対して佐々木史朗ATG社長は「危険な撮影にも関わらず、十分な準備をしていたとはいえない、不用心から発生したもの。下手をすると今まで撮ったフィルムを頭から捨てることも考えられる。どうしても撮り上げたいなら、ピンチヒッターとして助監督に撮らせることも考えられるのではないか」などと述べた[5]。その後のいきさつは分からないが、映画は1982年に公開された。