キッドナップ・ブルース
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ストーリー
本業はバンドマンだが今はほとんど仕事をせず、パチプロのような事をして稼いでいる中年男、森田。彼は近所に住む母子家庭で鍵っ子の孤独な少女、舞を普段から気にかけていたが、ある時彼女の「海が見たい」というつぶやきに応じて自転車で海辺まで連れていった折、そこで出会ったジャズピアニストに言われた「こういう子なら、旅をさせてもいいんじゃないか」という言葉に乗り、舞を連れた旅に出る事にする。特に行く先も決めていない二人の旅は日本のあちこちに及び、様々な人に出会っては別れる旅路が続くが、森田はほとんど家にいない舞の母親とは面識が無く、母親が出した捜索願により誘拐犯とされて指名手配されてしまう。「東京に帰ろうか」と問う森田に舞はポツリと「雪が見たい」と答え、二人は北の雪野原に向かうが、途中で寄った質屋の店主の通報により、警察の追跡はすぐそこまで迫っていた。森田が質屋で買ったカメラで舞と並んだ写真を撮ったところで、森田の収監が示唆される。
キャスト
※エンドクレジットに表記される出演順
スタッフ
製作
1981年の始めに製作費1,000万映画で有名なATGが[9]、「今、1000万円で何が可能か?」を探るべく、「もう一度1,000万映画」というコンセプトで[10]、1981年の1,000万映画として[8][9]、『ガキ帝国』『九月の冗談クラブバンド』『生きてゐる小平次』『近頃なぜかチャールストン』(全て発表時のタイトル)とともに5本のうちの1本として製作発表があった[9]。このとき発表されたタイトルは『KID NAPING BLUES(誘拐の唄)』で[8][9]、「誘拐事件を借りて現代を生きるということの意味を問う」と説明があった[9]。また5本はいずれも東京ではシネマ・プラセットで公開すると発表された[9]。本業カメラマンの浅井慎平の映画進出に「素人のくせに何を始めるんだ」と言う者もいた[4]。1980年前後に名のある素人の映画進出が流行になっていた[4]。
1981年(昭和56年)10月の文献には「5~6年前に実際に起こった事件を主題に、二人の珍道中が描かれます。1981年(昭和56年)12月にアップするが、公開は来年か?」と書かれている[11]。この事件は神奈川県川崎市で起きた事件で、中年男がカギっ子の女の子を連れて自転車で旅をしたという本作のプロットそのまま[4]。この事件は女の子が帰って来たのは一年後で、中年男にも女の子にも誘拐という意識が全くなく、映画を作るならこの事件を取り上げたいと浅井は考えたという[4]。タモリはノーギャラ[8]。浅井慎平との付き合いの延長として出演した[8]。タモリは出演にあたり、「(自分は)いつダメになるか、もうオチメだろうって、ずっーと思っているけど、忙しくなるばっかりで、でもいい友だちがいたので助けられたんですね」と話した[8]。
演出
浅井慎平は元々、大学時代に映研にいて毎日映画のことばかり考えていたという映画青年[4]。テレビや音楽の抬頭に比べて、特に邦画がいつまでも古い形式にあることが不満だった等と述べ、一般的に映画は台詞とか、ある動きが中心になって進められていくため、そこに出てくる人物をとり囲む風景については見捨てられてきた、そこにある空気というか光というか状況というかそういい物を渾然一体となってドラマを作っていかなければ映画じゃないという発想の元に製作した、と写真家らしい発言をした[12]。製作費1,000万という非常に悪い条件のため、シナリオの原型を友だちに読んでもらい、友だちに出てもらった[12]。川谷拓三のように「是非出たい!」と言ってくれた人は、逆に話をその人に合わせて考えた[12]。仲間うち映画に不快感を表明する人もいた[12]。また主役のタモリに寄りかかった映画を作る気はなく、タモリが得意でない"受けの芝居"をしてくれるように頼んだ[12]。試写会の後、マスメディアからストーリーの書きようがないと言われたが、浅井はそのこと自体、映画作りに対する批判と述べている[4]。また音楽映画ではなく、音楽的映画だと発言したことについても批判された[4]。
撮影
登場人物各々の、虚像と実像のほんの僅かなズレを感じさせることも一つの狙いだったと浅井監督は述べている[12]。
宣伝
キャッチコピー
「流れる日々を自転車に乗せて、男と少女は日常を漂っていく。だが、何かが見えない」[3]。
興行
東宝洋画系で公開[12]。