井上真六

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井上 真六(いのうえ しんろく[1]1907年 - 没年不詳)は第二次大戦中の資材不足を補うため、純国産木製飛行機の製造を提唱し、キ107を開発した航空機技術者。父は李氏朝鮮顧問であり、ハングル普及に尽力したことでも知られる井上角五郎

東京の麹町区一番町で1907年(明治40年)4月9日に生まれる。衆議院議員を長く務め、いくつもの企業設立に関わる実業家でもあった父の邸宅で育ち、兄弟一人ずつに女中が付く生活であった[2]東京府立第五中学校から第一高等学校へ進学[3]。1931年(昭和6年)3月に東京大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機製作所へ入社した[1]。同社では太田工場設計部技師となり、試作設計業務に従事する。1933年(昭和8年)5月、内海勝二男爵の媒酌で中華滙業銀行専務理事を務める小林和介の三女・元子と結婚[3]

1939年(昭和14年)4月、同志50名をまとめ富士飛行機を設立。自身は専務取締役兼製造部長に就いた[4]。しかし同社が海軍の専管となった[注釈 1]ため、以前から関係の深かった陸軍航空技術研究所との間で板挟みとなり、1942年(昭和17年)に退社して陸軍専管の東京航空へと移った[5]

東京航空では専務取締役兼機体部長を務め、同社は1943年(昭和18年)7月に陸軍航空本部から木製機「キ107」量産の内示を受ける。そのための工場用地を探し求めた結果、新潟県村上に決定。また同年9月に同社蒲田工場で行われた主翼の耐過重テストでは、技研の松尾大尉立ち合いの下で優秀な数値を記録している[6]。真六は1944年(昭和19年)4月に疎開も兼ねて一家で村上に移住し、東京航空の村上製作所所長として生産指導に励んだ[注釈 2]。同所制作の第一号機は同年8月に完成。しかし思うような量産体制が築けず、軍需省の意向を受け責任を取らされる形で創業社長の相羽有と共に1944年9月辞任、東京航空を退職した。同年11月より京都にある国際航空工業の大久保工場に勤めるが、1945年(昭和20年)5月には陸軍航空技術研究所・南方出張所の要請により、中佐待遇の司政官としてシンガポールに赴任。この地にあった予備の空冷発動機と南方の豊富な森林資源を使った木製航空機の現地生産計画が陸海軍の共同で進められ、真六は主任技師としてその中心を担った。製造は英国軍がチャンギに残した建物内で進められたが、主翼組立ての最中に終戦。機体は進駐軍に知られぬよう破壊または海に廃棄され、幻の飛行機となった[4]レンバン島での捕虜生活を耐え、1946年(昭和21年)5月に復員。船で広島県大竹へ上陸し、家族の待つ新潟県村上へ帰還した[7]

1948年(昭和23年)6月、家族と共に村上から東京等々力へ戻ると、新設された慶應義塾高校で数学を教えた[8]。1952年(昭和27年)に日本航空整備へ入社。技術部次長を経て1956年(昭和31年)5月に日本航空(株)事務機械室長[1]へと転じる。1957年(昭和32年)4月には業務調査のため渡米。1960年(昭和35年)2月はVTOL航空機視察のため欧米6ヶ国を歴訪し、その翌年6-7月には産業視察団員としてソ連も視察した[9]

1965年(昭和40年)9月に定年退職。翌年3月より鹿島建設で技術研究所顧問を務めた[10]。1983年(昭和58年)3月に長年連れ添った愛妻・元子と死別。晩年は仏教研究に力を注ぎ、多くの著作を残している[11]


家族・親族

著書

脚注

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