人生の親戚
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主人公・倉木まり恵の悲劇的な後半生が、共に知的障害を持つ子供がいるという機縁から知り合いになった作家「僕」の視点で語られる。
主人公の倉木まり恵は、生まれつき知的障害を持つ長男ムーサンと、事故による身体障害で車椅子生活になった次男道夫の二児の母親である。後天的な障害を悲観した道夫がムーサンをけしかけて二人は投身自殺してしまう。
まり恵は、ムーサンらの生前に既に離婚していた元夫で、ムーサンらの死後、悲劇に耐えきれずに重度のアルコール中毒となったサッチャンにこう言う。「──サッチャン 、私たちの人生は失敗だったね 。いいものはもうなにも残っていないね 。これからまた 、めずらしいことや美しいことにめぐりあったとしても 、一緒に楽しむムーサンや 、道夫くんはいないと感じて 、逆に落込むはずだものね 。」
まり恵はアメリカ南部のカトリックの作家フラナリー・オコナーの研究者として大学に勤めていたが、二人の死を受けて職を辞し、救いを求めながら奇妙な遍歴を重ねる。映画製作を目指す朝雄君ら三人の若者、宇宙の意思を思想の根本に置くコズ率いるフィリッピン人の演劇活動グループ、テューター・小父さん率いる若い娘たちで構成される新興宗教のグループ「集会所」と次々関わっていく。
まり恵はテューター・小父さんらと共に渡米し、カリフォルニアのコンミューンに暮らすが、テューター・小父さんは現地で病死する。後追いで集団自殺しようとする娘らを押しとどめ、一行はアメリカ全土をキャンピング・カーで巡りテューター・小父さんの遺骨を散骨してまわる。その後、まり恵はメキシコに向かう。
メキシコではコンミューンで知り合ったセルジオ・松野の農場で暮らし、貧しいインディオやメスティソのために尽くし聖女のようにあがめられるようになったが、渡米前からわずらっていたものを、だましだましして養うようにやってきていた乳癌で死ぬ。
まり恵の晩年のメキシコでの姿を朝雄君らのチームがフィルム撮影する。セルジオ・松野はそれを素材にして、農場近隣の町村の広場(ソカロ)で上映するための「世界最終の女」と題する映画を仕上げる目論みを持っている。
まり恵は強烈な悲しみを抱え続けて生涯を閉じたが、この悲しみをこの小説では「人生の親戚」と呼んでいる。ストーリーを通して、最悪の悲劇を体験した人間は果たしてそこから恢復し得るのか?という問いが追求される。これは、「キリスト教では、世界には言葉(ロゴス)が始めにあり、そこから事物は生まれたとされるが、そうだとすると、感知しえる(sensible)ものは理解しえる(Intelligible)はずである。まり恵に起きた悲劇は理解し難いが、果たしてこの世界は理解し得るように成り立っているのか?」という神学的な問いともなっている。