仁礼景範

日本の武士、海軍軍人 From Wikipedia, the free encyclopedia

仁礼 景範旧字体: 仁禮 景範、にれ かげのり、1831年4月6日天保2年2月24日[2]〉- 1900年明治33年〉11月22日)は、日本武士海軍軍人。最終階級は海軍中将栄典従二位勲一等子爵通称源之丞平助、平輔[3]

生年月日 1831年4月6日
天保2年2月24日
没年月日 (1900-11-22) 1900年11月22日(69歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市芝区三田綱町(現:東京都港区三田二丁目)
概要 生年月日, 出生地 ...
仁礼にれ 景範かげのり
仁禮 景範
生年月日 1831年4月6日
天保2年2月24日
出生地 江戸幕府薩摩国鹿児島郡荒国村[1](現:鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1900-11-22) 1900年11月22日(69歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市芝区三田綱町(現:東京都港区三田二丁目)
前職 武士薩摩藩士
海軍軍人
称号 海軍中将
従二位
勲一等旭日大綬章
子爵
配偶者 仁礼寿賀子
子女 仁礼景一(長男)
仁礼景雄(三男)
斎藤春子(娘)
親族 斎藤実(娘婿)
第3代 海軍大臣
内閣 第2次伊藤内閣
在任期間 1892年8月8日 - 1893年3月11日
在任期間 1893年3月11日 - 1900年11月22日
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仁礼景範の墓
海軍省にあった銅像

海軍軍令部長海軍大臣枢密顧問官を歴任した。

来歴

薩英戦争後にイギリスとの交渉のため集結した島津久治(中央)と家臣たち。後列左から喜入雄次郎、伊集院彦助、伊地知壮之丞(貞馨)、相良次太夫、仁礼源之丞(景範)、平田某、江夏蘇助(仲左衛門)、本田恕右衛門、原田淳林、床次正義。

1831年(天保2年)、薩摩藩士仁礼源之助の次男として生まれる[3]1859年安政6年)、誠忠組に参加、尊攘運動に投じた[2]1863年文久3年)、朔平門外の変では、京都守護職会津藩が容疑者とされた田中新兵衛の寓居を急襲した際に、田中新兵衛と一緒にいた仁礼も、下僕の太郎ともども逮捕され連行された。後に容疑は晴れて、無罪放免となった。同年の薩英戦争では「スイカ売りの決死隊」に加わった。

1864年元治元年)には禁門の変で追撃隊長を務める。1867年慶応3年)に藩命によりアメリカに留学(薩摩藩第二次米国留学生)。帰国後、1871年明治4年)兵部省に入る。1872年(明治5年)、海軍に出仕して海軍少佐1874年(明治7年)、海軍大佐1877年(明治10年)、西南の役時には長崎臨時海軍事務局局長[4]1878年(明治11年)、海軍兵学校校長、1880年(明治13年)に少将。1881年(明治14年)、東海鎮守府長官[5]、さらに中艦隊司令官、軍事部長などを歴任。

1883年(明治16年)12月、樺山資紀海軍大輔就任後、樺山と共に海軍省軍事部設置に努力。1884年(明治17年)2月、設置後に部長に就任した[2][6]。同年、子爵[7]

1885年(明治18年)、伊藤博文に従い清国訪問、同年中将。1886年(明治19年)より海軍参謀本部次長、参謀本部長、1889年(明治22年)、横須賀鎮守府司令長官、1891年(明治24年)、海軍大学校校長、1892年(明治25年)、第2次伊藤内閣海軍大臣に就任、海軍備の充実に力を注いだ。陸軍参謀本部から海軍軍令権の独立に尽力し、1893年(明治26年)に軍令部が設置され軍令部長(のちの軍令部総長)に就任するが、結局陸軍の反対により頓挫した。さらに民党文官側より、海軍行革に不熱心との批判を受けて辞意を表明。伊藤博文は先の和協詔勅において、政府の公約であった海軍行革の推進と野党国民協会の会頭(党首)・西郷従道の引抜きを図るために辞任を認め、1893年3月、予備役編入。同年西郷従道とかわって枢密顧問官に就任[8]1897年(明治31年)、議定官

仁礼は西郷従道川村純義とともに海軍三元勲といわれた。

1900年(明治33年)11月22日、69歳で死去。墓所は青山霊園(1イ5-4-1-10)。

栄典

位階
爵位
勲章等
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逸話

  • 仁礼の飼っていた犬・サワが上野公園にある西郷隆盛の像の犬のモデルとなったことが、娘の春子によって証言されている。像の建設にあたり、そのモデルとすべき薩摩犬を都内において見つけることが出来ずにいたところ、春子が可愛がっていた犬が薩摩犬であることが分かり、急遽モデルとなった[17]
  • 1873年(明治6年)8月9日付で、西郷隆盛が仁礼景範に宛てた書簡が残されている。仁礼は西郷と同郷で、当時は海軍小丞であった。西郷は弟・西郷従道の別邸(渋谷)に滞在していた際、仁礼がたびたび訪れたものの不在にしていたことをまず詫び、その上で同年6月1日に没し海軍埋葬地に葬られた赤塚真成の石塔建立について、自らも寄進したい旨を述べ、承諾を求めている。さらに石塔が完成次第建立してよいかどうか、返答を依頼する内容であった。
  • 1880年(明治13年)頃、海軍少将であった仁礼景範は、千葉県船橋市の海岸に塩田を開発した。仁礼が当時東京市三田に居住していたことから、この塩田は「三田浜塩田」と呼ばれた。塩田は約26万平方メートルに及ぶ規模であったが、1929年昭和4年)に廃止され、その跡地には「三田浜楽園」と称する遊園地が開業した。園内には動物園・野球場・温泉旅館・プールなどが設けられ、東京近郊の行楽地として賑わい、作家川端康成も逗留して小説『童謡』にこの地を登場させている[18]。「三田浜楽園」は2006年平成18年)3月に閉館し、跡地は高層集合住宅へと再開発された。かつて同園に設けられていた発祥碑も解体に伴い撤去された。
  • 1936年(昭和11年)に刊行された『痴遊雑誌』(話術倶楽部出版部)には、弁護士・播磨龍城が伝聞として語った説が収録されている。それによれば、明治6年に暗殺された姉小路公知を襲撃した下手人は不明のままであったが、後年、鹿児島の旧藩士から「刺客は故仁礼景範海軍大将であった」と伝え聞いたという。同誌に記された話では、当時薩摩藩士たちが「姉小路を討つべし」と評議していたものの決断できずにいたところ、仁礼は「また小田原評定か」と言い放って席を立ち、従者・河田とともに単独で行動を決意。「姉小路一人くらいなら他人の手を借りるまでもない、我輩とお前で十分だ」と述べ、そのまま断行したとされる。

銅像

1909年(明治42年)5月、海軍省構内に仁礼景範の銅像が建立された。主唱者は東郷平八郎で、原型は彫刻家・朝倉文夫、鋳造は海軍造兵廠が担当した。像高は1丈2尺(約3.6メートル)。1907年(明治40年)8月に起工され、明治42年5月に竣工し、同月に除幕式が行われた。この銅像は当時「帝都十大銅像」の一つに数えられた。 また朝倉文夫は制作の応募資格を石川光明にら譲られて公募したといういつがある [19]

親族

脚注

関連文献

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