今村力三郎
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(前列左から3人目が今村力三郎)
信濃国(現長野県)下伊那郡上飯田村(現飯田市)に生まれる[1]。旧姓は蜂谷であったが、今村家の養子となって今村姓を名のった[1]。この養子縁組は兵役を逃れるためであった[1]。1884年に上京し[1]、伴正臣大審院(現最高裁判所)判事の玄関番をしながら[1]、1886年に専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学する[1]。1888年、在学中に代言人試験(現司法試験)に合格[2]して、専修学校を首席で卒業し[3]、1889年から弁護士としての活動を開始した。1894年から1898年に裁判官として任官した後、1954年に没するまで在野法曹として、民事および刑事の多岐にわたる事件を扱い活躍した。足尾鉱毒事件の弁護を担当したことから[1]、田中正造を介して幸徳秋水と知り合い、後に大逆事件の弁護を引き受けることになる。
弁護士活動のかたわら、1920年から35年間にわたって、母校である専修大学の評議員や理事を務めた。1946年、当時今村は80歳を超えていたが、学生からの懇願もあり、修善寺の温泉付きの別荘での隠居生活を引き払い、総長に就任した[1]。当時は戦後の学制改革として、旧制大学から新制大学への移行期であり、それに伴う設置基準により、施設や人員を整備することが要請されていたものの財政的に厳しく、専修大学は存亡の危機に立たされていた[1]。しかし、1949年に日本電気から生田校舎の敷地を取得し[1]、施設の拡充と学部の拡張を図り、その危機を乗り切った[1]。今村自身も、杉並の成宗(現在の地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅と荻窪駅の間あたり)に、敷地1万平方メートルという広大な屋敷を持っており、庭にはボートが浮かべられるほどの池もあったというが、修善寺の別邸とともに、そのほとんどの土地を専修大学に寄付した[1]。その後は校舎の一隅に居を構えて生活し、大学の再建に奔走した[1]。葬儀も大学内の体育館で行われた[1]。
