伊地知氏
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祖は桓武天皇7代の子孫である秩父氏の祖・秩父将恒(平将恒)で、越前国伊知地(現・福井県勝山市伊知地)を領したことから伊地知氏を称した。将恒より13代の子孫伊地知季随は島津氏5代貞久と同番の足利尊氏の内臣であったが、尊氏によって罪人とされたのを貞久の執り成しにより許され、その貞久が許しを得て薩摩国へ下向すると、その臣下となって共に下向、その際に下大隅を拝領したのが大隅国に土着する始めとなった。
伊地知氏は島津氏への忠義篤く、貞久の子で大隅守護である氏久が正平6年/観応2年(1351年)に足利直冬軍と戦った際、季随は氏久の身代わりとなって筑前国金隈(現・福岡県福岡市博多区金隈)にて戦死している。その子の季弘は今川了俊が肥後国水島(現・熊本県菊池市七城町)に陣を布いた際には氏久に同行し、その子季豊は島津8代当主久豊の家老を務め、その孫の重周も島津12代忠治の家老、その子重武も島津14代勝久の家老であった。
ところが、重武の子の重興は宗家を継いだ島津15代貴久に臣従したものの、永禄年間に肝付氏・禰寝氏と結んで反旗を翻した。しかし、禰寝氏が島津方に寝返るなど戦況は悪化の一途を辿り、重興は肝付氏と共に先非を悔いて剃髪した上で島津氏へ降伏した。その後は島津氏の家臣となったが、文禄3年(1594年)に孫の重順が勘気を被り(詳細は不明)重順は浪人となる。ただし慶長6年(1601年)、高野山へ在住していたところを上洛した島津18代忠恒(後の家久)に召されたことで、家臣への復帰がなった。
その後、嫡流のみは先祖の秩父姓を名乗った。
明治維新後、伊地知氏の庶流家から伊地知正治(東征軍東山道先鋒総督参謀、左院議長、参議)と伊地知幸介(陸軍中将)が出ている。勲功により、正治の家系は華族の伯爵家(伊地知家 (伯爵家)参照)、幸介の家系は華族の男爵家(伊地知家 (男爵家))に列せられた[1]。