伊那商事索道
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1933年(昭和8年)9月27日 法人格消滅
1940年(昭和15年)4月23日 資本金を減じたうえで信越炭鉱として再建
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 長野県上伊那郡赤穂村大字赤穂 |
| 設立 | 1924年(大正12年)12月20日 |
| 廃止 |
1933年(昭和8年)6月12日 破産宣告 1933年(昭和8年)9月27日 法人格消滅 1940年(昭和15年)4月23日 資本金を減じたうえで信越炭鉱として再建 |
| 業種 | 索道業 |
伊那商事索道(いなしょうじさくどう)は伊那電気鉄道赤穂駅(現在の東海旅客鉄道飯田線駒ケ根駅)と下伊那郡大鹿村、上伊那郡伊那里村(現在の伊那市)を結んでいた索道およびその運営会社である。本項では再建後の信越炭鉱についても記載する。
赤穂村から大鹿村、伊那里村を結ぶ索道の計画は1907年(明治40年)頃に一度計画があったものの、実現には至らなかった[1]。その後1918年(大正7年)になって計画が再燃し、1921年(大正9年)に上伊那郡中沢村の野村徳次郎を発起人として会社設立の認可を得ている[1][2]。1923年(大正11年)には索道架設の許可を得るが、資金集めが難航したことで会社の設立は1924年(大正12年)12月20日まで延びることとなる[3][4]。資金を赤穂村の堀伝次郎が提供した[3]ことで1925年(大正13年)1月に着工し[5]、1926年(大正14年)8月30日に大鹿村鹿塩北川光源寺までの第1期線、第2期線が開通し翌9月1日より運行を開始する[3][6]。同年10月には早速延伸工事に着工し[5]、翌1927年(大正15年)には伊那里村浦までの第3期線が開通した[2][7]。
大鹿村は元来高遠町と飯田町が商圏争いをしていたが、1917年(大正6年)に久原鉱業が大河原の青木谷で伐採事業を開始し、1918年(大正7年)頃に伊那電気鉄道上片桐駅に至る索道ならびにトロッコを架設、敷設したことで三つ巴の状態になった[3][8][9]。なおこの久原鉱業による索道ならびにトロッコは1931年(昭和6年)に廃止されている[10]。ここに更に伊那商事索道が開通したことで高遠町から分杭峠を経るルートに至っては殆ど使われなくなり[8][11][12]、鹿塩中沢間を並行する鹿塩街道経由の荷馬車は絶無に近くなったという[3]。唯一索道に対抗し得った飯田町からの北條峠を通るルートも冬季は積雪によって駄馬が不通になることがままあったため、11月から4月にかけての輸送量はそれ以外時期のの倍であった[8]。しかし、この索道の開通時期は不幸にも丁度荷馬車、駄馬による輸送から自動車による輸送への転換期と重なっていた[3]。
1928年(昭和3年)9月には生田村の生田産業組合が当時自動車制限道路であった栗沢時又線にオート三輪の特別通行許可申請を行い貨物輸送を開始するなど、周辺の自動車輸送は急速に発達し、会社経営を続けることは困難となった[10]。かくして伊那商事索道株式会社は1933年(昭和8年)6月12日に飯田区裁判所に破産宣告を行い破産し[13]、同年9月27日に破産手続が廃止されたことで法人格は一旦消滅した[14]。
その後1940年(昭和15年)4月23日に行われた臨時株主総会で資本金を減じたうえで再建され、1941年(昭和16年)2月24日をもって商号を信越鉱業株式会社に改める[15][16]。信越鉱業となってからは亜炭の搬出に用いられた[16]。索道の運行終了時期は定かでないが、同社は1943年(昭和18年)4月20日をもって本店所在地を上水内郡浅川村大字東条1199番地に移転している[15]。
