会津西街道
会津藩主・保科正之によって整備された会津の若松城下から下野の今市に至る街道
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会津西街道(あいづにしかいどう)は、江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備された、会津の若松城下から下野の今市に至る街道。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)、日光街道、南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた[1]。

経路は福島県会津若松市から栃木県日光市今市(旧今市市)までの全長130キロメートルに及び、現在の福島県道131号下郷会津本郷線、国道121号に沿っている。会津五街道(越後街道,会津西街道,白河街道,米沢街道,二本松街道)のひとつをなし[1]、江戸時代には会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な街道であった。
1884年(明治17年)、会津西街道に代わる新道、会津三方道路(国道121号の前身)が整備されたことに伴い、主要街道としての機能は衰退していった。
史跡指定
宿場
玉光堂の地蔵さまと腰掛けの松伝説
会津西街道沿いの泉現寺境内に、玉光堂子安地蔵尊がまつられているが、もともとは極楽地蔵尊であり、以下の伝説が残されている。 江戸時代の中期、通りかかった殿様の一行がここで休憩した。当時は地蔵尊の裏に清水がわき、腰掛けの松という老木が日陰をつくっていた。日陰で冷たい清水に上機嫌の殿様が2口目を飲もうとすると、突然マツケムシが茶碗に落下した。怒った殿様が茶碗を投げ捨てるなり、腰掛けの松の伐採を命じ、あっという間に腰掛けの松は切り倒されてしまったのである。せいせいした殿様一行であろうが、お城に着くなり殿様は気分が悪くなり寝込んでしまった。それどころか日に日に殿様の容態は悪化し命すら危なくなったという。家来が藁にもすがる思いで、良くあたるという陰陽師を呼びつけ祈祷してもらったところ、玉光堂の地蔵さまが現れ、腰掛けの松を切った仏罰であると判明。思い当たった殿様は直々に参詣して土下座のうえお詫びし、ようやく許しを得たという。後に全快の御礼として寄進した家紋入りの鬼瓦が葺かれており、今も見ることができる。