佐藤正雄
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| 佐藤正雄 | |
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ワンダーアキュートと佐藤 (画像左、2010年12月11日) | |
| 基本情報 | |
| 国籍 |
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| 出身地 | 岩手県 |
| 生年月日 | 1948年1月1日(77歳) |
| 騎手情報 | |
| 所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
| 所属厩舎 |
京都→栗東・加藤清一(1964年 - 1976年) 栗東・松田正弘(1976年 - 1997年) |
| 初免許年 | 1969年 |
| 免許区分 | 平地・障害 |
| 騎手引退日 | 1993年 |
| 重賞勝利 | 2勝 |
| G1級勝利 | 1勝 |
| 通算勝利 | 2734戦209勝 |
| 調教師情報 | |
| 初免許年 | 1997年(1999年開業) |
| 調教師引退日 | 2018年 |
| 重賞勝利 | 7勝(うち地方3勝) |
| G1級勝利 | 1勝(うち地方1勝) |
| 通算勝利 | 3459戦198勝 |
| 経歴 | |
| 所属 | 栗東T.C.(1999年 - 2018年) |
中学校卒業後は北海道えりも町の田中牧場に就職するが、後に京都・加藤清一調教師の勧めを受けて騎手を目指す[1]。1964年に加藤厩舎に騎手候補生として入門し、1969年に同厩舎からデビュー。
1年目の1969年は3月8日の京都第6競走5歳以上100万下・オックスドールで初騎乗初勝利[2]を挙げ、12月21日には阪神牝馬特別・ナンカイホマレ(10頭中9着)で重賞初騎乗[3]を果たす。初年度から2桁の12勝をマークし、3年目の1971年まで2桁勝利を記録[4]。
2年目の1970年には5月23日・24日の阪神で初の2日連続勝利[5]で6月21日の阪神では初の特別勝ちと初の1日2勝[5]を挙げ、17勝[4]をマーク。
1971年には自力で見習騎手を脱し[6]、優駿牝馬で八大競走初騎乗を果たすと[6]、不良馬場を人気薄のバンブーキャッチャでカネヒムロの3着[7]に入り、21勝[4]をマークしたが、結局この年が自己最多で唯一の20勝台[4]となった。
その後は長らく1桁台[4]が続くが、1976年にはバンブーキャッチャの弟バンブーホマレ[8]で神戸新聞杯ではコーヨーチカラを抑えてダービー上位組[9]に次ぐ4着[10]に入り、11月には松田正弘厩舎に移籍。
1977年にはバンブーホマレでスワンステークス3着[11]、1981年にはサンエムフォーマで阪神牝馬特別2着[12]に入った。
1982年には1月31日の京都第10競走淀短距離ステークスでバンブーアトラスの兄バンブーハッピー[13]でハッピープログレスの2着[14]、サンエムフォーマで阪急杯3着[12]に入り、11年ぶりの2桁となる12勝[4]をマークし、1985年まで4年連続2桁勝利[4]を記録。
1983年にはバンブーキャッチャを母に持つスミレバンブーで2勝[15]したほか、不良馬場の桜花賞を15番人気のサンエムビクトリーでシャダイソフィアの5着[16]と健闘し、9月3日の函館第2競走3歳新馬では後にランドパワーの母となるセレーヌバンブー[17]でロングハヤブサにクビ差勝利[18]。
1987年には函館3歳ステークス・サンエムプライズでサッカーボーイに先着の3着[19]に入り、11勝[4]を挙げたが、最後の2桁勝利[4]となった。
1989年にはモンテプリンス産駒サンエムグランディでメジロライアンを抑えて新馬を逃げ切ると、札幌3歳ステークスではメンバー中最速上がり36秒4の脚を使って4着に入った[20]。
重賞未勝利でベテランの域に突入し[6]、徐々に起用される回数が減少していた中[6]、1991年にはクラシック候補のニシノフラワーに出会い[6]、同馬の主戦騎手として活躍[21]。札幌ダート1000mの新馬戦では好スタートからハナを奪って逃げて、後続の接近を許さず、4馬身差を付けて初勝利を挙げた[22]。芝となって2年目の札幌3歳ステークス[23]では最内枠から好スタートを切って先行し[24]、ハイペースで逃げるイイデザオウに離された好位の3番手を折り合って追走[24] [23]。4コーナーから垂れて後退するイイデザオウに代わって先頭を奪取すると[24]、直線では最内を突いて進出し[24]、後方勢の追い込みはなく[23]、先頭を立ってからは独走となる[23]。後方に3馬身半差を付けて連勝での重賞初勝利となり、1分10秒5のコースレコードを樹立[25]。佐藤はデビュー23年目での重賞初勝利となり[6]、重賞初勝利に佐藤は「もう勝負服を脱いでもいいくらい[24]」と述べたが、函館3歳ステークスはニシノフラワーと同厩で同じような過程を踏んでいたアステリアダンサー[26]で5着[27]であった。
ニシノフラワーは次走のデイリー杯3歳ステークスも制して連勝するが、佐藤は騎乗停止中のため田原成貴の代打騎乗であった[21]。
JRA史上初めてとなる3歳牝馬によるGI競走となった阪神3歳牝馬ステークス[28]では騎乗停止明けの佐藤が舞い戻り、19歳となる息子を競馬場に呼び寄せるなど、気合を入れて臨む[29]。レースでは先行するが、バックストレッチに差し掛かるあたりで外側からの圧力がかかり、進路を失ってブレーキを余儀なくされる[30]。ブレーキで折り合いを欠く危険があったが、佐藤は鎮めてニシノフラワーをかかることなく走らせることができ、好位3番手を確保[30]。4コーナーで逃げるファンドリエバートが垂れると、代わって抜け出したユートジェーンを追う2番手となり[28]、直線ではしばらく独走となっていたユートジェーンにすぐには詰め寄らず、直線半ばを過ぎてからスパートし、ユートジェーンを交わして抜け出す[30]。背後からスパートしたサンエイサンキュー・ディスコホール・シンコウラブリイに迫られるが[31]、初めて直面した接戦でも先頭を譲らず[32] [28]。新設された坂を踏破[30] [33]。4連勝でのGI初制覇となったほか、前身の阪神3歳ステークスも含めて史上3頭目、牝馬として史上初の重賞3連勝での同レース制覇を成し遂げていた[34] [30]。43歳の佐藤は5回目のGI騎乗で1番人気を初めて背負ってGI初制覇[29]、松田も厩舎開業16年目でGI初制覇[34]、名門西山牧場もGI初制覇[34]となった。
JRA賞最優秀3歳牝馬を全176票中176票を得る満票で選出され[35]、フリーハンデでは、同世代の牡馬ミホノブルボンと並ぶ首位タイの56が与えられる[36]。牝馬による「56」は、1979年ラフオンテースと1985年ダイナアクトレスの55を上回り、同じように1972年に4戦4勝で阪神3歳ステークスを制したキシュウローレルと同等の評価が与えられた[36]。
1992年には桜花賞指定オープンのチューリップ賞[37]でスタートからいつものように先行し、3番手を確保したが、直後に外側から寄られ、後退せざるを得なかった[38]。4コーナーに差し掛かり、後退した分を取り戻そうと追い上げたが、今度は前方の馬たちに阻まれて、進路を失う不利を被る[39]。度重なる不利によって追い遅れ、直線では先に抜け出していたアドラーブルに独走を許した[38]。残り300mでようやく進路を見出して追い上げたが、既にアドラーブルがセーフティリードを築いていた[40]。最後はアドラーブルに詰め寄ったものの、3馬身半及ばず2着と初めての敗北を喫する[40]。佐藤の騎乗は、途中で後退したニシノフラワーに、4コーナーでの追い上げを狙って、終いまで末脚を持たすと同時に本番を見据え、馬群で落ち着いて走る経験をさせようとしたためであった[41]。それでも佐藤は敗戦に大きな責任を感じ、後に自信を喪失[40]。本番を前にニシノフラワーの鞍上を誰かに譲り渡すことを決意し、佐藤は自ら後任を探して、河内洋に託すことになった[40] [42]。
馬主の西山正行は佐藤の騎乗に怒り心頭で、レース直後の検量室では「このへたくそ!」と叫びながら佐藤の頭を丸めた競馬新聞で叩き、3歳時に騎乗経験のある田原への乗り替わりを求めていた[41]。松田は鞍上に河内を推し、最終的に松田の意見が優先された[41]。
降板後は12月13日の中京第7競走4歳以上500万下・サンエムブリッツが最後の勝利となり、同馬に騎乗した1993年1月30日の京都第12競走4歳以上900万下(11頭中10着)を最後に現役を引退[43]。
騎手引退後は松田厩舎で調教助手を務めたのち、1997年に調教師免許を取得。1999年より栗東トレーニングセンターで厩舎を開業した。2001年、川村禎彦厩舎から移籍してきたタマモストロングがかしわ記念[注 1]を制し、調教師として重賞初勝利。2012年にはワンダーアキュートがJBCクラシックを制し、開業14年目でGI級(JpnI)競走初制覇を果たした。
2018年2月28日付けで定年の為、調教師を引退することになった[44]。調教師としてチューリップ賞を勝利することはできなかった。