克美茂愛人殺害事件
1976年5月に日本の東京都港区で発生した殺人事件
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克美茂愛人殺害事件(かつみしげるあいじんさつがいじけん)[14][15][16]は、1976年(昭和51年)5月6日、 東京都港区六本木五丁目のマンションで発生した殺人事件[17][18]。歌手の克美茂(本名・津村誠也/当時38歳)が、自身の愛人である元ホステスの女性A(当時35歳)を絞殺し[17][19]、車のトランクに詰め込んだ死体を大田区羽田空港二丁目の東京国際空港(羽田空港)駐車場に遺棄した[19][20]。
| 克美茂愛人殺害事件 | |
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| 場所 | |
| 日付 |
1976年(昭和51年)5月6日 4時ごろ[1][2] (UTC+9〈日本標準時〉) |
| 攻撃手段 | 絞首 |
| 攻撃側人数 | 1人 |
| 武器 | タオル[7][8] |
| 死亡者 | 1人 |
| 被害者 | 女性A(当時35歳/元ホステス)[1][9] |
| 犯人 | 克美茂こと津村誠也(当時38歳/歌手)[5][2] |
| 容疑 | 殺人罪、死体遺棄罪[10] |
| 動機 | 妻子がいる身での愛人の存在が発覚すればスキャンダルとなり、歌手としてのカムバックの邪魔になるため[9][11] |
| 対処 | 逮捕・起訴 |
| 刑事訴訟 | 懲役10年 |
| 民事訴訟 | 克美に総額1,000万円の損害賠償を求め遺族が提訴[12]。確定判決結果は不詳(克美によれば1,000万円の賠償命令が確定[13])。 |
| 管轄 | |
当時、克美は歌手としての人気が低迷する一方で賭博に耽溺し、多額の借金を繰り返し作っており、Aはトルコ嬢へ転身するなどして多額の金銭を克美に貢ぎ、借金の返済を肩代わりしていた[21]。しかし克美は、新曲を披露してのカムバックを果たそうとする中で、愛人の存在が発覚してスキャンダルとなることを恐れ、Aを殺害するに至った[9][11]。
検察は懲役15年を求刑したが[22]、同年8月23日に東京地方裁判所は、妻子ある克美に執拗に結婚を迫り追い詰めた被害者側にも責任があるとして、克美に懲役10年の判決を言い渡し、そのまま確定[23]。模範囚であったため7年後の1983年(昭和58年)10月には仮釈放されたが[24][25]、1989年(平成元年)5月11日には覚醒剤取締法違反で再度逮捕され[26]、懲役10ヶ月の実刑判決を受けている[27]。克美のレコードは殺人事件の逮捕直後から全て廃盤・回収となったほか[9]、出所後も克美のテレビ出演はタブーとなり[28]、カラオケ教室の経営やスナックでの営業などの範囲で活動し[29]、2013年(平成25年)2月27日に75歳で死去した[30]。
本事件は、同年の1976年に公開された映画『戦後猟奇犯罪史』で題材の一つとなったほか、1977年(昭和52年)刊行の澤地久枝のルポルタージュ『烙印の女たち』でも「錬金術師にされた女」として取り上げられた。1979年(昭和54年)、山崎哲は本事件を題材とした戯曲『勝手にしやがれ――克美茂トルコ嬢殺人事件』を発表している。
被害者A
被害者の女性A(事件当時35歳)は、1941年(昭和16年)、岡山県児島郡興除村(現・岡山市南区興除地域)に生まれた[36][37][注 3]。後述の経緯から、肩書はホステス[11][39]、元ホステス[19][注 4]、トルコぶろ従業員[40]などと様々に報道されている。ホステスとしての源氏名は「山崎マリ子」で[36]、この名前が通称となっており[41]、克美も「マリコ」と呼んでいた[42]。
3人きょうだいの長女で[注 5]、第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)、父親の満洲国協和会就職に伴い、家族で満洲国へ移住した。戦争が激化すると父親は関東軍に召集され、戦後の1946年(昭和21年)夏に、母親は5歳のAと2歳の次女とともに本土へ引き揚げ、郷里の岡山県倉敷市に帰郷した。生活は貧しく、やがて復員した父親もシベリア抑留を経て病身となっていたため、Aは家計を助けるために高校を1年で中退し、住み込みの女工員や岡山駅のシューマイ売りなどとして働いた[44]。
18歳で理髪店を営む男性と結婚して、一女をもうけ[37][45]、自身も理容師の資格を取得する[37]。しかし婚家との仲がこじれたことから、子供を夫のもとへ残し、6年後の1965年(昭和40年)8月に離婚[37][45][注 6]。離婚後間もなく、Aは「銀座にいいお店があるの」と両親に告げて[37]、岡山を離れ、東京へと移住した[37][45]。
東京ではその後、水商売仲間と2回目の結婚をするが、やがてこれも離婚寸前の状態となっていた頃に、克美茂と出会うこととなった[45]。1972年(昭和47年)2月4日には、Aは新宿区役所へ離婚届を提出している[45]。
事件までの経緯
克美の人気低迷
本事件の犯人である歌手の克美茂(本名・津村誠也/事件当時38歳)は、1937年(昭和12年)7月2日、宮崎県に生まれた[47]。1961年(昭和36年)に『霧の中のジョニー』の日本語カバーでレコードデビューし[48]、漫画映画『エイトマン』の主題歌『エイトマン』や、歌謡曲路線に転向してのちの『さすらい』が大ヒット[49]。1964年(昭和39年)と1965年(昭和40年)には、2年連続で「NHK紅白歌合戦」への出場も果たした[50]。
芸能生活の傍ら、克美は著名な女優を含む数多くの女性と肉体関係を持ち、その人数は600人にも及んだが[51][52][注 7]、1971年(昭和46年)6月には、前年の9月に銀座のホステスの女性との間に子供(長女)が生まれたことから、正式に結婚している[51][53]。
しかし1971年(昭和46年)頃から、次第に人気が低迷するようになる[54][52]。克美は妻子のほか、専属バンドのメンバー10人を食べさせていく必要があり、稼ぎが不足していた[54]。さらに同年6月21日、保険加入前の新車を居眠り運転していたところ、対向車との衝突事故を起こし、仕事が激減している状況であるにも拘わらず、約300万円の借金を抱えることとなった[55][56]。
Aの多額の貢ぎ
1971年(昭和46年)の末、克美は当時、中央区銀座のクラブ「アンドリュース」で、ホステスとして働いていたAと知り合った[57][1][注 8]。知り合った経緯は、克美のスポンサーが当時愛人であったAを、自身が青山で開業したナイトクラブで紹介した、というものだった[36][37]。Aはやがて克美に好意を寄せるようになり、翌1972年(昭和47年)1月4日には、克美の弟夫婦の家庭を2人で訪ね、克美もこの際に「自分の子供を生んでもいいよ」と告げるような間柄となっていた[57]。
一方で、当時の克美は賭博に耽溺する荒れた生活を送っており、1月17日に15万円をAに借り、20日にはさらに5万円を受け取っている。この20万円は、Aが六本木の新築マンションへの入居資金として用意していたもので、そのためAは、高利貸しから借金することで入居資金を確保せざるを得なくなり、このために以来、借金に追われ続けることとなった[58]。
1972年(昭和47年)8月から、Aは克美に渡す金のため、ホステスを辞め、横浜のトルコ風呂「大将軍」で働き始めている[59][注 9]。Aは、自身は交通費や食費を倹約する一方、トルコ風呂での労働によって得た平均100万円ほどの月収から、多額の金を毎月克美に貢ぐようになった[59][注 10]。しかし、克美が次々と作ってくる借金に、トルコ嬢としてのAの多額の稼ぎも追いつかず、Aはダイヤの指輪を質入れしたり、100万円の定期預金を解約したりし、自身でも100万円を新たに借金して、克美の借金返済に充てた[62]。
克美に現金を貢ぐ一方で、Aは「早く誠意を見せてよね」として、克美に現在の妻との離婚と、自身との結婚を要求していた[60]。克美はAに対し、妻との仲は既に冷え切っており、自身の所属する秀和プランニングの社長を介して離婚の話もつくため、借金の返済が終わればAは自分と結婚して子供を産むことができる、と説明していた。このように与えられた結婚への希望が、Aにとってトルコ風呂での重労働の原動力となっていたが[63]、やがてAは、煮え切らない態度を続ける克美にしびれを切らし、克美の妻に、自身の家へ克美が来ていることや肉体関係を結んだことを明かして挑発する電話を、頻繁にかけるようになった[64][65]。
克美は妻に電話の内容を報告されると、単なるいたずら電話だとしてごまかしていたが[64]、『週刊新潮』は、Aがかけ続けた電話が要因となり、妻が克美へ離婚を切り出すに至った、としている[8]。また克美は仮出所後の『週刊ポスト』の取材に対し、Aとの同棲は妻にも露見していたが、妻はそれに対して何も言わず、そのために一層罪悪感に苛まれた、と述べているほか[42]、石橋春海のインタビューに対しても、北海道巡業直前の時点で、既に妻からは離婚を迫られていた旨を述べている[66]。澤地(1977)は、窮乏していた克美がAのコートやショールのみならず、妻の指輪までを質入れしたことが1976年4月中旬に露見し、このことで妻が別れ話を持ち出したとしている[67]。
Aは1973年(昭和48年)10月19日には、克美の子供を妊娠中絶し[68]、1974年(昭和49年)6月17日にも、再度中絶手術を受けたことを日記に記している[69]。一方で克美はのちの石橋春海のインタビューに対し、自身は既にパイプカットをしていて子供はできないはずであるのに、Aから妊娠・流産したことを泣きながら伝えられ、疑問に思いながらもその場を取り繕った、と述べている[64]。
克美のためのトルコ勤めに疲弊したAは、何度か克美と別れる決心を固めることもあり、同じマンションに住む知人女性のもとへ身を隠したこともあった。しかしこの際は、克美が30万円の現金を作って哀願に訪れ、結局はよりを戻すこととなっている[70][61][注 11]。
1974年(昭和49年)初めごろからは、克美はAの家に入り浸るようになり、自宅へは昼間や土日にのみ帰る、という生活を送るに至っていた[71]。同年の後半頃、克美の借金返済も一区切りがついて、Aの稼ぎが預金として残り始めると、克美は芸能仲間に1割から1割5分の高利で貸し付け、その利息で生活してゆくという計画を提案し、Aはこれに乗った[72]。しかしこの闇金融計画に実態はなく、克美が貸付の名目で現金を持ち出し、その中から既に貸し付けた分の利息としての金をAの口座へ入金していたに過ぎなかった[73][注 12]。Aの妹によれば、克美は妹やAの両親にも、100万円を預ければ月に5、6万円の利息が来るとして、高利貸しの話に乗るよう勧誘しているが、怪しまれて拒否されている[74][注 13]。Aが貸し付けたとされる多額の金の行方は明らかになっておらず、澤地(1977)は、克美がAを殺害した真の理由は、数千万円の金の行方をAが怪しみ、克美がこれ以上はAをごまかしきれないことを悟ったためではないか、と考察している[75](#判決への疑義も参照)。
1975年(昭和50年)5月、克美は岡山県のAの実家を訪ね、Aの両親に「岡山の御両親に、ちゃんと結婚しますと御挨拶をしてこいと社長に言われましたので……」と述べて、鄭重に挨拶をした[72]。9月18日、上野ステーションホテルで結婚式を挙行し、Aの両親から結婚祝いとして100万円を振り込まれている[76]。
カムバック計画から殺害計画へ
前述の通り人気が低迷していた克美だったが、1974年(昭和49年)、「3000万円作戦」として低迷した歌手のカムバック作戦を展開していた東芝EMI(のちのEMIミュージック・ジャパン)から声が掛かり、復活作戦用の新曲『傷』が制作された[77][注 14]。克美はこの際、制作部長から、本件は大掛かりなプロジェクトであることを告げられた上で「身辺は大丈夫だろうね」と確認されて戦慄し、絶対にAのことは言うまいと決意した、としている[77]。一方、キャンペーンの一環としてフジテレビの『オールスター家族対抗歌合戦』に出演した際には、Aから妻や娘と出演する気かと咎められたことから、弟に要請して幼い甥を呼び、息子に仕立てて出演するということもしていた[80]。
その後、『傷』はヒットに至らなかったものの、すぐに第二弾として阿久悠作曲の『おもいやり』が制作された[80]。有線放送された『おもいやり』は人気を集め[81]、1976年(昭和51年)5月5日にはレコードが発売[4]、翌5月6日からは、同曲のキャンペーンとして、北海道での巡業が開始されることとなった[81][66]。
4月ごろに北海道巡業が決まると、克美はAへ「いっしょに連れて行ってやる」と約束し、Aを喜ばせた。しかしその後、克美はAを連れて行って2人の関係が露見すると、デビュー当時からの所属プロダクション社長の倉本秀和に見捨てられるのではないかと思うようになり、北海道行きを思い留まらせる口実を考えたが、名案が浮かばなかった[82]。
一方でAは、煮え切らない態度を続ける克美にしびれを切らし、営業先にもしばしば出没するようになっていた[81]。克美のあらゆる営業先に現れるAは、スタッフの間でも有名な存在となり、不審に思われていたとされる[83]。そのために克美は、Aがこのままでは北海道へも付いてくるであろうことを予期して悩んでいた[81]。
犯行2日前の5月4日[84][82]、克美はAが北海道まで来ればスキャンダルの種になり、カムバックの機会を失ってしまうとして、Aの殺害を決意した[1]。
殺人事件
Aを殺害
Aの殺害を決意した克美は、事件2日前の1976年(昭和51年)5月4日、馴染みのバー経営者の女性(当時39歳)に車の借用を依頼した[17][4]。借用の口実は「レコード会社の人が車を借りたいと言っている」などという曖昧なものだった[85]。事件前日の5月5日16時ごろ、五反田駅前の喫茶「ビクトリア」前で、女性宅の使用人からグリーンのトヨタ・セリカを受け取った[17][4]。そしてAの死体を埋めるためのスコップを五反田近くの家庭雑貨店で購入し、車のトランクに収納した。さらに五反田駅前の東急ストアで白色の紐5本、紙テープ1本を購入し、後部座席に置いた[41][注 15]。
その後、五反田駅近くの池田山の自宅へ戻ってのち[86]、20時ごろにAと同棲している六本木の共同ビルへ向かい、21時ごろ、Aが用意した夕食を2人で摂った[41][87]。食後にビールを2人で飲み、2人で入浴して性交してのち、Aは就寝し、克美はテレビを観ていた[86]。
明朝の3時45分[87]、あるいは4時ごろ[86]、Aが目を覚ましたため、克美はベッドに腰掛けて、「A、明日一人で北海道へ行かせてくれ」[注 16]と哀願した[86][87]。これに対しAは「なに云ってんのよ。もういいわよ、私が五反田に行って決着をつけてくるから」[注 17]と答え、克美の胸を軽く叩く仕草をした。そこで克美が殺意をもってAの首に両手をかけて締めつけたところ、はずみでAはベッドの上に倒れ、悲鳴を上げて抵抗した[86]。克美はAに両手の甲をかきむしられて出血し[8]、その痛みに手が緩んだため、2人はともにベッドからずり落ち、Aはそばのガラステーブルに頭をぶつけた[7][8]。克美はとっさにテーブルの上にあったタオルを手に取って、うつ伏せになっているAの首に巻きつけ、Aが動かなくなるまで、力一杯に締め上げた[7][88]。
Aが死亡すると、克美は部屋を出て、車からロープやガムテープを取り出して戻り、広げた毛布の中央に死体を転がして置くと、両脚を折り曲げて毛布で包み、ロープで巻いて縛った[89][8]。そして毛布包みを、引きずるなどしながらエレベーターで地上へ降ろし、スコップの入った車のトランクに詰め込んで施錠した[89][87]。
死体遺棄
Aの死体を車のトランクに隠してのち、克美は雑巾で犯行の際に汚れた絨毯を拭き、抵抗したAに腕へ爪を立てられて血が滴った部分の絨毯のケバを鋏で切り取り、台所の生ゴミの袋に捨てた。そして夕食の食べ残しなどを片付けて1階のゴミ置場に出し、炊飯器や食器を洗うなどして、2人が旅行に出ているように装うために片付けた[84]。
そして、テーブルの上にあった4,000円の現金、Aの真珠入指輪、ダイヤ入結婚指輪をポケットに入れて部屋を出ると、Aの死体を収納した車で自宅へ戻り、入浴と仮眠ののち、「北海道へ行く」と告げて家を出た。そして質屋で指輪や自身のライターなどを質入れして50,000円の現金に換えた。そして共同ビルへ再度戻り、管理人へ旅行に出る挨拶をして、留守中のガスなどの集金に備えて20,000円を渡した。この際、管理人の夫婦には、Aは美容院へ寄るため先に出た、と説明している[84]。
7時ごろに共同ビルを出た克美は、死体を埋める場所を探して、多摩川沿いなど、都内を車で走り回った[1][87][注 15]。しかし、適当な場所を見つけられぬままに飛行機の出発時間が迫ってきたため[87][82]、そのまま東京国際空港(羽田空港)の第二有料駐車場に車を停め、正午の飛行機で北海道へと出発した[84][5][注 2]。
帰京予定は5月11日で、死体は帰ってのちにどこかの山中に埋めるつもりであったとされる[84][87]。札幌への到着直後には、車の所有者の女性に電話を掛け、事故を起こしたので、修理のため9日まで貸してほしい、と伝えている[1]。
逮捕・起訴
5月6日、千歳空港に到着した克美は札幌市へ移動し、夜には中央区南4条西のキャバレー「エンペラー」に出演した[18][1]。翌7日には中央区南3条西の「キクヤ楽器店」で一日店長を務め、新曲『おもいやり』を披露したほか、サイン会が催された[18][1]。同日の夜は、昨晩に引き続き「エンペラー」に出演している[4][1]。予定では、翌8日に10時発の特急「いしかり2号」で旭川市に移動し、同市では有線放送会社への挨拶回りののち、同日の夜には同市内でもキャバレーに出演することとなっていた[4]。キャバレーでは『さすらい』『ナナ』『おもいやり』を歌ったが、特に変わった様子はなく、客席に近づいて話し掛けるなどしており、レコード店のサイン会でも、にこやかに女性ファンと握手していた[1]。
5月8日の8時45分ごろ[4]、あるいは9時10分ごろ[5]、羽田空港第二有料駐車場の係員らが、観光バスの駐車場所を確保するため、車の移動作業を行っていたところ、トランクから血がしたたっている車を発見し、東京空港警察署に通報した[90][5][注 18]。臨場した空港署員がトランクをこじ開けたところ、中から女性の死体が発見された[41][4]。
女性の死体は、首から上がかなり腐乱しており[20]、下着姿に素足で、首には絞められた痕があり、薄茶の地に焦げ茶の斑点がある毛布に包まれて、太い白の綿のロープでぐるぐる巻きに縛られていた[5]。車内からは他に、6日12時7分の打刻のある駐車整理券、紙袋、工具なども見つかった[6]。
警視庁捜査一課と東京空港警察署は、殺人、死体遺棄事件と断定し、同署に特別捜査本部を設置[4]。同特捜本部の調べにより、ナンバープレートから所有者が割り出され、所有者の女性の証言から、ただちに同車を借りた克美の存在が浮上した[41][5]。
克美は同日10時、予定通りに札幌を「いしかり2号」で発ち、11時43分に旭川駅へ到着したが、東京から連絡を受けて張り込んでいた旭川警察署の署員に任意同行を求められ[18]、同日午後に克美は、「別れ話のもつれからAさんの首を絞めて殺した」と自供した[85][5]。これを受けて同本部は14時半過ぎ[5][85]、あるいは14時40分[18]、克美を殺人、死体遺棄容疑で緊急逮捕した[5][85]。
克美の身柄は、8日夜は札幌中央警察署に留置され[1]、9日の10時15分、日航機で東京国際空港に移送され[9][5]、直ちに空港署で取り調べを受けた[82]。
翌10日、特捜本部は克美を殺人、死体遺棄の容疑で東京地方検察庁に身柄送検した[91]。29日、東京地検刑事部は、克美を殺人、死体遺棄罪で起訴した[10][2]。
刑事裁判
1976年(昭和51年)7月5日13時より、東京地方裁判所刑事10部(佐々木史朗裁判長)にて、被告人克美茂(本名・津村誠也)の初公判が開かれた。克美は検察官の起訴朗読を、うなだれて肩を震わせながら聞いており、起訴事実に間違いがないかを裁判長から問われると、「間違いございません。申しわけございませんでした」と明瞭に認めた。また、凶器のタオルを示されて確認を求められると、「そのタオルで、Aさんを殺しました……」と涙声で答え、絶句している[92]。
7月19日13時より、同じく東京地裁刑事10部(石田恒良裁判長)にて論告求刑公判が開かれ、検察側は懲役15年を求刑した[22][19]。検察側は、「反省の色を示しているとはいえ、本件犯行は、妻子がありながら一家の柱としての自覚に欠けた被告人の、自堕落で安易な考え方が原因したもの。犯行は計画的で、その手段も冷酷、悪質というほかはなく、献身的な被害者の愛情を踏みにじった罪はきわめて重い」[22]「あまりに自己中心的。身勝手な動機による犯行で、情状酌量の余地はない」とした[19]。
また、克美はこの日の法廷で上申書を裁判所へ提出し、「犯行当時、私は仕事(新曲)のことで頭がいっぱいだった。仕事さえ成功すれば、これまで私のために努力してくれたみなさんに恩返しできるし、妻子やAさんとのこともうまくいくと考えたのです。すべて私の性格が弱かったのが原因で、今後はAさんのめい福を祈りながら、罪のつぐないをし、更生への道を歩みたい」と述べた[22]。
8月23日13時より、同じく東京地裁刑事10部にて判決公判が開かれ、石田裁判長は克美に懲役10年の判決を言い渡した[93][19]。裁判長は「自己の歌手としての名声を保つためには、他人の生命や幸福を犠牲にしてもいいという被告の自己中心的な態度が露呈した事件で、被告が歌謡界という特殊な世界に身を置いていたとしても、到底許せない」とし、「妻子ある身でありながら、四年余りも被害者と不倫な関係を続けていたこと自体、被告人の不健全な生活の現れ。社会人としての自覚を持っていれば、このようなことにはならなかった」とした[94]。
一方で、被害者であるAの側にも負うべき責任の一端があるとされ、克美の情状が酌量された。判決文では、当初は日蔭の身を甘受しようとしていたAが、次第に克美との結婚を望むようになり、妻との離婚と自身の入籍を強く要求するようになっていたことを述べ、1975年(昭和50年)には「気の進まぬ被告人を伴って結婚式を挙げさせるなどしていた」ことから、このようなAの積極的態度が事件の遠因となったことを認めざるを得ない、とした[95]。
そして、「再起をかけた北海道新曲キャンペーンに同行すると主張した被害者の言動には、たとえ同女が芸能界の事情に暗かったとしても、被害者自身の立場は勿論のこと、被告人のおかれた立場についての配慮を欠いたもので、被告人を愛するものの行為としては負の評価を与えざるをえない」[95]「妻○○の誤解もあって、被告人は北海道新曲キャンペーン後に被害者の入籍もやむなしとするに至っており、その旨同女に伝えるなどしていたことなどの諸点に徴すると、本件をひとり被告人の資に帰してその責任追求に急なるは、いささか被告人に酷に失する感を払拭しきれないのである」と被害者Aの責任を問い[96]、Aにも事件の遠因があったほか、克美がひたすら反省しているなどの情状を斟酌するとして、求刑を大幅に下回る判決を下した[94]。
その後、検察側も被告側も控訴せず、懲役10年の第一審判決が確定した[97]。公判はわずか3回[98][93]、事件から約100日のスピード判決だった[97]。
民事裁判
1976年(昭和51年)10月4日午後、被害者Aの両親は大阪刑務所で服役中の克美に対し、総額1,000万円の支払いを求める損害賠償請求訴訟を、東京地方裁判所に起こした[12][40]。両親は訴状で「Aは、物心両面で克美に尽くしてきた。娘の無残な姿を見るにつけ、両親として心休まる時はなく、失望のどん底の生活を続けており、克美を許せない」[12]「可愛い娘は克美と結婚できるものと信じて克美にみついできた。娘の無念さ、悔しさを思うと心が休まらない。大きな精神的苦痛をこうむった」とし[40]、それぞれに500万円と、完済まで年5分の割合による遅延損害金の支払いを求めた[99]。両親の代理人は、その無念に共感したとして、弁護士の円山雅也が引き受け[100]、円山雅也法律事務所の町田宗男が担当した[101]。
Aの両親は週刊誌の取材に対し、提訴の目的は金銭ではなく、刑事裁判では明らかにならなかった克美とAとの関係を、民事裁判の法廷で暴くことにあるとの旨を述べている[100]。両親は刑事裁判の法廷では、Aが仔細に書き残していた、毎日の収入や克美へ渡した金などの支出を記したメモ類が、証拠として一切取り上げられなかったとし、民事裁判ではこれらを提出して、克美がいかにAを精神的・金銭的に騙していたかを暴露したい、とした[100]。
1977年(昭和52年)1月21日10時半より、東京地方裁判所民事25号法廷(若林昌俊裁判長)で第2回公判が開かれ、被告側の弁護士が原告側の弁護士に、克美側の反論を記した準備書面を手渡した[102][注 19]。これにより、克美が原告側の主張を呑むことなく、対決する姿勢であることが明らかになった[102]。内容は、被害者のAにも克美を犯行に追い込む重大な過失があったとするもので、Aが妻子のある克美に離婚や自身の入籍を要求したこと、再起に重要な北海道キャンペーンへの同行を要求したことを挙げ、Aの身勝手さが被告に殺人に追い込んだため、原告側に過失相殺を要求する、としたものだった[102]。
また答弁書で克美は、Aに金を貢がせたことを否認し、結婚式はAの強い要求に押し切られて形式上のみ挙げたものであり、披露宴を行う約束も存在しなかったとした。さらに、この「結婚」に対して親たちから送られた100万円に関しても「不知」とし、1977年2月に岡山のAの実家をAとともに訪ね、正式な入籍を確約したこともないとし、本損害賠償請求については受けて立ち、争う旨を述べた[103]。
同年8月31日、東京地裁民事25部(若林昌俊裁判長)は、克美にAの両親に対し、500万円の支払いを命じる判決を言い渡した[11][39]。若林裁判官は「Aが被告に対し物心両面で献身してきたこと等、両人間の多年にわたり生活を考えれば、被告に入籍を求めることは当然の事」「被告の北海道行きに同行を求めたことも、それまでの生活を考えれば、Aの心情として当然のこと」とし[101]、「Aさんが同キャンペーンへの同行を求めたことは非難されない。Aさんは多年にわたって克美に献身的愛情を示したのに残忍な方法で殺された。両親の心中は察して余りある」とし、克美にその責任を負って支払うよう述べた[39]。
9月12日、原告側は判決を不服として、東京高等裁判所に控訴した[101]。Aの父親は取材に対し、第一審の判決に関しては、原告側の主張が全面的に認められたものとして評価しつつも[101]、控訴した理由として、克美自身が法廷に姿を見せず、代理人の弁護士のみが出廷したこと、Aの生前のメモ・日記が、証拠として採用されなかったことを挙げた[104]。
1978年(昭和53年)5月23日、東京高等裁判所民事10部(枡田文郎裁判長)にて控訴審が開かれ、枡田裁判長は500万円の支払いを命じた一審判決を変更し、増額した600万円の支払いを命ずる判決を言い渡した。裁判長は「克美がAさんを殺した動機、事情などを考え合わせると、両親の精神的苦痛を慰謝する金額としては合計六百万円が相当である」とした[105]。
その後の経緯は詳細不明だが、克美は石橋春海のインタビューにて、民事裁判では1,000万円の賠償金を払うことに決まり、出所後に開いたカラオケ教室が繁盛したことにより、これを半年で支払うことができた、と述べている[13]。
その後の克美
仮釈放まで
事件直後(1976年5月21日)、克美の妻は警察の聴取に対し、「私は主人に裏切られたような形になりますが、私としては、主人の立場をその女が追いこんだためにこのような結果になりましたが、主人を怨んではおりません」と答え、克美が出所するまで必ず帰りを待つ、と答えている。この回答は美談としてマスコミにも取り上げられ、Aさえいなければ夫婦は円満であった、との印象を醸成させる役割をしたが、克美の刑が確定してのちの[106]、1976年12月7日、妻は品川区役所へ離婚届を提出し、結局夫婦は離婚に至っている[106][102]。
懲役10年の判決が確定してのち、克美は大阪府堺市の大阪刑務所で服役した[107][12]。作業場は印刷工場で、写植・校正・衛生夫・暗室などの作業に従事した[108]。
模範囚であったため、克美(当時46歳)は、8年後の1983年(昭和58年)10月28日、2年8ヶ月の刑期を残して仮釈放となり、大阪刑務所を出所した[109][110][24][25]。身元引受人は、かつて克美の事務所でマネージャーを務めていた作家の大谷羊太郎が務めた[24][25][注 20]。その後、マスコミのインタビューに応じ、被害者のAについて「それまでの生活の中で尽くしていただいて、それを踏みにじったということは、人として、とうてい許されることではありません。私自身が悪かったのです」と述べたほか、芸能界への復帰はせず、大谷の手伝いをしながら贖罪を果たせるような生活の再建を果たしたい旨を述べた[111]。また、31日には岡山市のAの両親のもとへ赴いたが、会見や墓参は拒絶されている[111][25]。
同年中に『週刊ポスト』の取材を受けた際には、克美はAについて、歌手として落ち目になっていた自分を優しく励ましてくれ、「そのやさしさに私は魅かれ、彼女もまた、苦境に立って苦しんでいる私のおぼつかなさに同情を感じたのだと思います」とし、世間では彼女を徹底的に利用し尽くした末に殺したと言われているが、「私と被害者との関係は五年半に及んでいます。これだけの歳月は、愛情がなければ成りたつものではありません」「私ははじめ彼女を利用するつもりなどありませんでしたが、やはり歌手として再起したいという焦りが、結果として彼女を踏みにじることになっていったのだと思います」と述べている[42]。また、自身がAに応えてやれることは結婚式しかなく、それが妻と離婚しないままでの偽装結婚式という「デタラメなかたちになってしまった」としている[42]。そして自身の今後については、自身を狂わせた酒を断って更生に繋げたいとし、また「いまさら芸能界への復帰など全く考えておりません」と反省の弁の中で述べている[108]。
出所後と晩年
出所後、克美はマスコミによる激しい取材攻勢を受け、特に激しく克美を糾弾したTBSテレビによる、「被害者の両親に会う」企画も実施された[112]。結果的にこの企画は、ホテルの宴会場における、3時間に及ぶ「公開謝罪対面」となり、テレビ各局で放映されたほか、女性週刊誌などにおいても事細かに報道された[113]。その様子は、「お願いです。お墓参りさせて下さい」と克美が机に両手をつき、Aの父親が「そんなわけにはいかん」と拒否する、というようなものであったとされる[113]。克美はこの企画について、岡山県でAの両親の待つホテルを訪ねたところ、TBS以外のレポーターが待ち構えていたことで、初めて騙されたことを知った、という状況であったとしている。この企画は波紋を呼び、「これはリンチのようなものではないのか」との記事を掲載した週刊誌もあった[112]。
また、殺人を犯しながら刑期が短いとして非難も起こり、一時は引きこもり生活を送ったが[114]、1986年(昭和61年)6月からは、大谷の勧めにより、カラオケなどを教える音楽教室を開業[114][13][26]。300人以上の生徒が集まり、カラオケ教室は繁盛した[13]。
しかし1989年(平成元年)5月11日、埼玉県警察保安課と熊谷警察署は、克美(当時51歳)を、覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕した[26]。7月5日、浦和地方裁判所熊谷支部(鹿山春男裁判官)にて判決公判が開かれ、鹿山裁判官は克美に、懲役10月(求刑・懲役1年)の実刑判決を言い渡した[27]。
2004年(平成16年)、ライターの石橋春海が、自らが構成を担当したテレビ神奈川の歌謡番組「かっぱちゃんの歌謡スタジオ101」の第一回に克美を出演させることを計画し、収録も行われたが、放送の1時間前にテレビ神奈川から「克美出演部分に問題あり」との通達があったため、やむなく出演部分はカットされ、お蔵入りとなっている[115]。しかしこれを契機として石橋は克美に興味を覚え、取材を行うようになった[30]。
2007年(平成19年)、石橋は『封印歌謡大全』『蘇る封印歌謡 いったい歌は誰のものなのか』(三才ブックス)の2冊の著書で克美を取り上げ[30]、後者の附録として克美のCDを付けることを計画したが、東芝の法務部は事件から31年が経った現在も、「克美しげるの曲は再発売しない」という方針を引き継ぎ続けているとし、マスターテープの貸し出しは拒絶されている[116]。そのため、石橋は生バンドによるカラオケを作成してのち、克美の歌唱を録音するという形で、『さすらい』『エイトマン』『おもいやり』の3曲のCD化に漕ぎつけている[117]。また翌年には石橋がプロデューサーを務める形で、群馬県館林市にて「克美しげる 復活 ~Rebirth~ チャリティー・コンサート」が開催され、観客は約400人が集まったものの、マスコミの報道は少なく、石橋は「世間は甘くない」ということを思い知ったとしている[30]
2013年(平成25年)2月27日、克美茂は栃木県佐野市の病院で死去した(75歳没)。死去の事実は妻の意向で伏せられていたが、8月には報道機関に察知されたため、発表は彼女に委ねられた石橋が代行した[30]。
影響・分析
本事件は「NHK紅白歌合戦」への2回の出演経験もある、現役歌手のスキャンダルとして、大々的にマスコミに報道された[118]。ジャーナリストの亀井淳は当時の状況として、ロッキード事件が大きく報道されていたものの、まだ逮捕者が出ないという欲求不満の雰囲気が充満しており、その矢先に発生した事件であることで「克美は絶好の非難の射的とされた」と述べている[119]。
一方で逮捕後より、芸能界では玉川良一や村田英雄を初めとする芸能人らによって、克美の減刑嘆願運動が繰り広げられた[37][120]。
レコードの廃盤・回収
逮捕の翌日である5月9日、克美と1962年(昭和37年)から専属契約を結んでいた東芝EMI(のちのEMIミュージック・ジャパン)社長の高宮昇は、本社で記者会見を開き、克美との専属契約をただちに解除すること、克美のレコードを全て廃盤とし、流通しているものも早急に回収することを明らかにした[9]。一方で『おもいやり』は一時的にチャートによるヒットを記録した[120]。
上述の通り、事件から31年が経過した2007年(平成19年)時点でも、『エイトマン』がアニメのサウンドトラックやアニメ主題歌集などに収録されている以外、克美の曲は全て封印されており、中古のレコードを購入することでしか聴くことのできない状況となっている[121]。
判決への疑義
作家の澤地久枝は、ルポルタージュ「錬金術師にされた女」(『現代』1976年11月号に発表、のち『烙印の女たち』に収録)にて本事件を取り上げ、東京地裁の判断を批判している。澤地は、判決文では事件が「妻子ある男と知りつつ〈これと情を通じ〉、ついには妻の座をしつこく要求した女との痴情の縋れとして処理している」とし[97][注 21]、「判決理由の文脈にあるのは、殺された女の側の責任、あるいは、殺させた女の責任を問おうとする姿勢である。事件発覚以来、判決がおりるまでに、妻子ある男にしつこく妻の座を要求し、とうとう殺されてしまった女というイメージが、驚くほど早く深く浸透していった」と述べている[96]。
澤地は、残されたAのメモ等を分析し、克美が貸付の名目でAの金を持ち出していたものの、事件直前の4月末から5月にかけて、金の工面が完全につかなくなっていたことを明らかにし[122]、克美は結婚を迫られ、カムバックを邪魔されることを恐れて殺したとしているが、妻から離婚を切り出されていた克美には状況を切り抜ける道は他にもあり[75]、「問題がもはや、結婚云々の域を脱しており、この四年余の、二人の愛情関係、数千万円の金の行方に女が決定的な疑惑を抱き、男にはその疑惑をごまかすいかなる方法もないという状況での居直りが、殺意を構成するに至ったのであると私は考える」としている[75]。そして、Aがトルコ嬢として稼いだ数千万円の金が、死後には全く残っておらず、貸し付けた金の行方も不明のままであることを指摘し[75]、Aが残したメモを分析して、「大がかりな賭博の常習グループがあったことはまぎれもない。(中略)マリファナの吸引や売買を思わせるメモがあることをふくめて、この事件がはらんでいた黒い背景にメスを入れぬまま、裁判は落着してしまった。女から金を引き出すために、貸してもいない金を貸して利息をとっているような架空の状況に裏書きをし、克美の片棒をかついだ男や女が、被害者のメモに姿をみせているのに、警察も検察庁も、その何人かの調書をとりながら、じつに通りいっぺんの供述で満足し、追及しようともしなかった」と考察している[98]。
かつ、北海道巡業のための切符は既に4月中旬に購入されており、当初からAを連れていく計画は存在しなかったこと、また詳細なメモを残すほど念入りな性格であるAが、5月6日の切符を手にしないまま北海道へ同行するつもりでいたことも疑問であるとし、事件当時の2人の会話は復元できないとしつつも、克美がAの言葉に殺意を抱いて衝動的に殺人に及んだ、という点に疑問を呈している[123]。そして「トルコ風呂という現代の魔窟で、信ずるに値しない男を信じようとして惑い苦しんだ女が、肉体を資本に稼ぎつづけた四年余ののちに殺された。この事件をとく鍵が、彼女ののこした走り書きのメモのなかに確実に存在すること、この殺人事件の鍵は金であり、金の動きを黙殺した判決は、じつはもう一度書き直されてしかるべきものであるというのが、手にし得たすべてのメモを読み、つきあわせた上での私の結論である」と結んでいる[124]。
克美が仮出所間近であるとの噂が囁かれ始めた1983年(昭和58年)1月には、被害者Aの妹である岡田喜代子(旧姓)が、『週刊新潮』に告発手記を寄せている[注 22]。喜代子は、姉のAにも落ち度があったとする裁判長の判決を聞いて、「一体誰の裁判なの?」と茫然としたとし[126]、検察庁から返却されたAの日記や、様々な人物の供述書などを整理し、Aと克美の出会いから事件発覚までを一覧表にして掲載した上で、姉が克美を振り回したのではなく、惚れた姉を克美が散々利用した末に、利用価値がなくなると邪魔になるとして殺したのだ、と述べている[127]。
喜代子は同手記で、Aがいかにして克美に金を貢がされ続けていたかを分析した上で、克美の北海道巡業は4月16日までに決定していたにも拘わらず、Aのスーツケースが空のままで、Aの性格からして出発前夜まで何の支度もしないなどとは考えられないこと、5月3日に北海道巡業が決まった件をAの両親へ克美が自ら電話しているにも拘わらず、供述書では「Aが両親に電話して巡業の話をし、あなたからも言ってと言われ、その強引な性格にイヤ気がさした」などということになっていることから、克美の自供は全く信じられないとし、Aは殺されるまで、北海道巡業の出発が5月6日であることなど知らなかっただろう、としている[128]。そして、自供では朝の4時近くに殺害されたことになっているが、死体検案書には「午前一時頃死亡」とされていることから、夜の22時過ぎに帰宅した克美と夕食を取り、入浴し就寝してのちに、Aは絞殺されたのではないか、と述べている[129]。
その上で喜代子は、「おのれの人気回復のみを願って、疑うことを知らない女をさんざん利用したあげく、すべての噓を抹消するために、克美は殺人を犯したのです。克美の意に反し、犯行が露見すると、克美は卑怯にも自分の刑を最小限にくいとめるため、姉を悪女に仕立てあげたのです」とし、克美には一日も早く真実を語って謝罪してほしい、と述べている[129]。
また、澤地の指摘のうち、妻から既に離婚が切り出されており、Aにももうすぐ結婚ができると伝えていたのにも拘わらず犯行に及んだことについては、石橋春海も「理解できない」点として挙げているほか[107]、Aの父親も「娘を殺したのも、本当はもう娘から金を絞れなくなったからなのに、警察には再起のじゃまになるから殺したといっているんです」と述べている[130]。
識者の分析
克美が逮捕された直後、法学者の宮澤浩一は「芸能界における虚像と実像のギャップを、ありありと見せつけた事件だ」とし、「教養も実力もない人間が、一朝にして人気者になると、自分が優れた人間と錯覚、一転、人気が下降し捨てられると、あせり、悪あがきをする」「今度の事件は、克美のカムバックへのあせりが引き起こしたと思われるが、それにしても、ゾッとするほど自己中心的だ。永年チヤホヤされて、何でも自分の思い通りになると思っていたのでは。計画的なものか衝動的なものかわからないが、自分の欲望にはストレートに飛びつく。しかし、その結果に対して何ら責任を取ろうとしない幼児的、せつな的な軽薄さが見られる」と分析した[18]。
音楽評論家の安倍寧は「紅白に出たことがあり、ベストセラー曲もある "栄光を築いた男" が、こうした犯罪をおこしたのは初めてじゃないだろうか。タレント、歌手の芸能界は、普通の人以上の自覚と厳しさが要求されるのに、マスプロされる最近のタレントは、チヤホヤされる快感にだけ酔っている」と述べた[1]。
宮本忠雄(当時自治医科大学教授)は、「この事件は動機も単純なうえ、犯罪者の心理に共通の、犯行を隠そうとする工夫さえもみられない。あまりにも単純な犯罪だ。芸能人は一般庶民とは違うんだ、という特権意識があったり、マネジャーや付き人などが、身のまわり一切の面倒をみてくれる仕組みが社会的未熟性を生む土壌になっているのではないか」と述べた[1]。
評論家の古谷糸子は、「愛人を殺した歌手の克美茂に対して、男性よりも女性の間に同情者が多かったのは、面白い現象である」とし、事件後のテレビ番組で銀座のホステス30人を集めて意見を聞いたところ、23人が克美に同情し、被害者の女性に同情するホステスは6人のみであった、と指摘している[131]。その上で、自身は「あの事件で同情されるとしたら殺された女性の方ではないかと思う」と述べ[132]、「死人に口なし」であるがゆえに、滋賀銀行9億円横領事件(1973年)とは対照的に女性のほうに同情が集まることはなく、克美の一方的な供述のみで、被害者の女性がさも「解らず屋のヒステリー女」のように断定されているとし、克美の妻子は被害者であるとしても、克美もまた共犯者であり、被害者が殺される理由にはならない、と述べている[133]。
作家の野坂昭如は、『週刊朝日』1977年5月28日号に発表した文章で、事件を受けて所属レコード会社が、克美のレコードが廃盤にした決定を批判している。野坂は「廃盤にするのは、会社の自由だろうけれど、殺人者の歌だから抹殺するというのは、間違っている」「殺人者は歌を唄ってはいけないのか、常日頃、レコードを売るためには歌手に手段をえらばせず、しかも自らは手を汚すことなく甘い汁だけ吸う音盤販売業者が、いまさら道学者面してみせても、空々しい、いやむかっ腹が立つ」とし[134]、また自身が歌手であることから、「人様の前で、金をとり歌を唄うのは、なまなかのことじゃない、自己顕示欲の発露とだけでは片づけられぬものがある、つまり狂ってしまうのだ」と述べ、「歌手が、世間様の埒外にいることは当り前で、芸能界の乱れとか何とか、したりげにいうけれど、芸人をくいものにする女衒、遣り手、女郎屋蔭間茶屋の主人をも含め、乱れていればこそ、狂っているから存在価値がある」と述べている[135]。
ジャーナリストの亀井淳は、克美の生い立ちや技能に詳しいわけではないとしつつ、マスコミによって名声を馳せ、マスコミに持てはやされて愛人をトルコ風呂で働かせ、マスコミに復活するために殺人を犯したという点から、「察するところ彼は自分自身の判断力に乏しく、なにからなにまでマスコミに合わせて(あるいは合わせたつもりで)行動する "マスコミ人間" ではなかっただろうか」と考察している[136]。そして、前述の被害者遺族との「公開謝罪対面」を「嗜虐的な集団リンチ」と批判し、対面前に克美と遺族が話し合いを持っていたということから、克美はこの場で涙を見せて悔恨の情を示し、遺族は娘の名誉回復を図ろうという意図がそれぞれあったのではないかとし、会見に際して「名誉も醜聞も、マスコミが取りしきって決定するのだという大きな誤解が双方にあったのではないだろうか」[136]「この醜悪な醜聞商品化ショーにおける、最大のスキャンダル・スターはむろんテレビであったのだ」と述べている[137]。
前述の通り、晩年の克美の活動を取材・支援した石橋春海は、EMIミュージック・ジャパン(旧・東芝EMI)が克美の音源を封印し、門外不出のままにしていることを批判している。石橋は、克美の罪は一生消えることはないのかもしれないし、被害者の遺族の感情もわかるとしつつ、「罪は罪、曲は曲だろう。罪を憎んで曲を憎まず、とは考えられないだろうか」と述べ、例としてクロディーヌ・ロンジェはかつて殺人事件を起こし投獄されながらも、ほとんどのアルバムがCD化されているとして、東芝にも本当はこのようなことができるはずだが全く動かないとし、「臭いものには蓋をする、企業ならではの典型的な対応である。音楽企業がそれではいけない」「克美しげるの封印を解き、この世に蘇らせていただきたい」と提言している[138]。
事件を題材とした作品
本事件と同年の1976年(昭和51年)公開の映画『戦後猟奇犯罪史』では、本事件が題材の一つとなっている。本映画は、全3話から成るオムニバス形式の作品で、第一話が西口彰事件、第二話が本事件、第三話が大久保清事件という構成になっている[34]。克美を演じたのは、顔が似ているとして抜擢された五十嵐義弘だった[34]。
ノンフィクション作家の澤地久枝は前述の通り、同じく事件から半年後の1976年11月に『現代』へ、本事件のルポルタージュ「錬金術師にされた女」を発表。翌1977年5月、全面改稿を経て、様々な事件で話題となった女性に関するルポをまとめた『烙印の女たち』(講談社)に収録した。被害者のAは、メモ・金銭出納帳・日記などの厖大な記録を遺しており[96]、本書では克美と挙げた結婚式のフィルムも含めたそれらの遺品を仔細に分析し、Aが強引に妻の座を狙い、克美は追い詰められて事件を起こしたといった見方をした、刑事裁判の判決を批判している(詳細は上記の通り)。
劇作家の山崎哲は1979年(昭和54年)、本事件を題材とした戯曲『勝手にしやがれ――克美茂トルコ嬢殺人事件』を発表した。これは山崎による、社会的に大きな反響のあった事件を題材とする「犯罪フィールド・ノート」シリーズの一つで、他には『犬の町――警察官女子大生殺人事件』(1978年)、『子供の領分――金属バット殺人事件』(1983年)、『うお傳説――立教大助教授教え子殺人事件』(1980年)、『漂流家族――「イエスの方舟」事件』(1981年)などがある[139]。山崎は克美と同郷で、高校時代に演劇部に所属していた山崎は、克美の実家が経営する材木店へ、よく材木を買いに行っていたという[140]。
